『「みんなの学校」が教えてくれたこと(木村泰子著)』から「折り合い」を考える

 まだ読書途中です。なかなか読み進めることができません。
 容易な文章でつづられていてさほど分量もないので、その気になれば2〜3時間で読み終わりそうな本です。でも、ページごとで立ち止まってしまうから進まない。つまりいい本です。エピソードごとで立ち止まって考え込んでしまうのは……
 やはり「折り合い」のこと。
 もしこの本を読みながらか、または読み終えてから「社会は折り合って生きていくもの」という言葉を聞いたなら、まるで違った言葉に聞こえていたに違いありません。
 ところが、ボクは「社会は折り合って生きていくもの」という言葉を聞いたときに、社会側に「折られて合わせられるもの」と聞こえてしまったわけです。
 「みんなの学校」のエピソードにでてくる子どもは、かなり個性の強い子どもたち。それぞれの強い思いがあり、主張があり、学校を脱走したり、登校拒否をしたり、暴力をふるったりします。それらは集団(社会)では受け入れられないことで、そうした子どもたちは「普通の学校」では、集団のルールや学校の方針を言い言いくるめられ従わさせられる。どんなにいい先生であっても、優しく指導して「既成の決まった方向」へ導くぐらいでしょう。それに従うことができなければ学校から拒否されるか、自ら拒む登校拒否するしかない。これが大多数の「普通の学校」であり、そして普通の「社会」なのでしょう。
 ボクのなかの「折り合い」は、社会という他者からの押し付けであり強要なのです。「みんな一緒」と言う名の服従なのです。そしていつも「折られて合わせられる」のはマイノリティなのです。

 と、こなんことを感じるボクはこの社会ではマイノリティではなく、実は他者を「折り合わせる」側の人間です。ボク自身まったく「折り合い」を意識しなくても苦しまずにやっていけます。それはボクがマジョリティのなかにいる人間だから、つまり、定型発達(ニューロティピカル)であり日本国籍であり大和人であり大人でありLGBTでなく被差別部落出身でもなく在日外国人でもなく住む家があり生活できるぐらいの金があり(男であり)etc…こうしたボクは敢えて「意識」しなければ「折られ合わせられる」人々のことを知らないままでやっていけました。このあたりのことは本にも書いてありますが、、、、

>「木村さん、暗いところにおると、明るいところはよう見えるやろ。でもな、明るいところにおったら、暗いところは全然見えへん。明るいところにおって、暗いところを見ようと思ったら『見よう』と思わな。見えへんのや」

 人生のある頃より「暗い」ところが見えてない自分が嫌になり、暗いサイドにたって社会をみてみました。そこでの人々は「折られ合わせられる」されていると感じました。いつしかそうしたサイドからの目線で見る癖がついてしまったようです。これがボクのベースとりました。もちろんそのベースは似非であり、おこがましいことも解っています。でも「社会は折り合って生きている」と言われれば脊髄反射として反発してしまうぐらいには染み付いています。
 例えば金で頬を叩きながら「折り合え」と脅される辺野古の民を見ていますと、(あるいは原発の押し付けられる町)どうしても浜で座り込み「折り合いたくない」と涙する側に自分をおいてしまうわけです。

 こんなボクに「社会は折り合っていきていくもの」という言葉を心地よく響かせてくれたのが、この本『「みんなの学校」が教えてくれたこと』です。まだ途中読みですけど、笑。
 この学校の唯一のルールは「自分がされていやなことを人にしない。言わない」だけです。それでも個性豊かな子どもたちは、感性のままに行動し発話するために、「他者がされて嫌のこと」を結果的にしてしまいます。そんなときは、校長が「傾聴者」となって話をききます。校長は絶対に子ども(の話し)を否定しない。認める。話しを聴く。普通の学校のように目標をきめたり指導をしません。子どもたちは自らの言葉で話すことで気づき、考え、さらに人に伝える言葉をもつ。主体性が育つなかでおのずから「折り合い」ができてきます。その「折り合い」はルールや空気や先生から「させられてる」ものではなく、双方が自ら納得のうえにあらわれる「折り合い」なのです。

>自分で気づく、考える、人に伝える。
>この力の源は主体性です。
>この子たちは自分の言葉をもっています。

 
 主体性こそが真に「折り合う」ことのできる条件なのでしょう。既存の価値観の押し付けである「方向付け」も「アドバイス」もしません。これは「折らされ合わせられる」に繋がります。ただ傾聴して主体性を育てます。これは「学校」のなかで子どもたちの育ちだけの話しではないですね。大人だって環境に「折り合わせられる」ことに耐えられなくなり苦悩することもあるでしょう。そんなとき、ただ話しを聴いて貰える相手がいたなら、、、、苦悩の先に自主性が育ち真の「折り合い」ができるかもしれません。アドバイスは必要ないというか害悪と言われるのはこういうことでしょうね^^
 そして何といっても「折り合わせられる」ことに苦悩を感じた人は幸いです。
 意識せずに既存の社会ルールに「折り合っ」ていられるならば、決して育つことのない自主性が育つチャンスなのだから。
 本のなかにでてくる「問題児」の自主性が育ったあとの感じがとても魅力的なのです。
 だから「みんなの学校」のような環境が社会のなかにも育てば楽しいと感じるのです。

さて続きが楽しみだな……\(^o^)/
 
 

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