「死刑制度反対の理由」…本質的な生を考えるために

 ワタシの巡回する幾つかのブログのうち、2つのブロガーが新年そうそう「死刑制度」について取り上げた。うち一方はお玉さんのブログで、喧々諤々の論争がされていて読み入ってしまった。
 おかげでということではないが、初夢(1、2日は夢の記憶がないので3日の夜なのだが)は辺野古のTが公開処刑される夢。旧知であるがこれまでTがワタシの夢に出てきた事はないはずである。初登場でいきなり死刑になり死んでしまった。ワタシはオイオイと泣いていた(もちろん夢のなかで…)。縁起でもない。謝ることでもないが、なんとなく謝りたい気分である。すみません。
 ユングでも勉強していれば、オノレの深層心理をしるかもしれないが無学ゆえに解らない。辺野古に対して何もできていないことの後ろめたさかもしれない。それとも将来の日本に、冤罪ですらない戒厳下の思想統制下の死刑を予知したのだろうか? くわばらくわばら。

 さて、このブログでは2度ほど「死刑制度」について書いた。前からの読者であればワタシが「死刑制度反対」であることを知っているだろう。一本目のものは最近再掲載しているので読まれた方もいるかもしれない。
 ほとんど繰り返しになるが、再度死刑反対の理由を書いてみよう。
 簡単にいうと、殺してどうなるの? という理由である。
 え、話しにならないって? バカでしょ、バカ意見だからお玉さんのブログで現実的な論争に参加できないのである。
 それで、バカを書いても許してくれそうな、もう一つのブログでコメントしてみたのだが、もう少し書いてみたくなったので自分のブログで書いてみる。(ただしFC2のお玉さんのとこにも、もうひとつうのアメブロのjijen-bakadanさんのとこにもTBが通らない、鬱)
 殺してどうなるかというと「死ぬ」のである。死刑制度に賛成にしろ、反対にしろ、ほとんど人は「死」が最大の罰ということを自明として語っている。それは「極刑」という言葉にも表れる。では、自明としている「死」が何か?と答えられる人はいるのだろうか? いないでしょ。何故かって「生」きているからである。「死」を経験した事ない「生」きている人間に「死」が何ものか?なんて答えられない。一方「死」んでいる人にも答えられない。死人に口なしだね。あ、これはちがうか? いずれにせよ「死」が何かなんて誰にも解らないはずである。ね、なんで、なにものか解らない「死」に追いやることで、解決できるのだろうか? できません。
 「生」きている人間にとっての解決は、「生」でしか得られない。
 これ以上明快な答えはない気がするんだけどダメかな?

 それにしても、遺族は悔しいだろうな。耐えられないに違いないよね。苦しくて哀しくて怒りの持って行き場がなくて、大切な人を殺した犯人には「とりあえず」死んで欲しいと思うのだろうな。
 きっと、そんな遺族に、「あなたの解らない『死』に『とりあえず』追いやってしまっていいのですか?」と言っても「感情」を逆撫でするだけだよな。だって「死」が、恐ろし、不気味なものである思い込みは疑こともなく、検討の価値という発想さえないものだもの。それとも「生」での「解決」なんて望んでない、と言われるかもしれないな。
 「解決なんてしなくていい、死がどうかなんて、どうでもいい、ただ死んでほしいだけだ」
 何といっても「感情」のまえには他の言葉など聞こえないだろうし。今迄「死」はなんなのだ?なんて教育受けた事ないだろうし、教育を受けても解らないことは解らないし。もちろん思索もしたことはないだろう。宗教なんかで「死」を考えたことがある人は、「生」と「死」という観点での「死刑」をどう考えているか聞いてみたい気がするけど……。
 もしかして、罰としての「死」を望む人は、無宗教のワタシでも聞いたことのある「悪いことをすると死んでから地獄へおちる」ことを信じているのかな。でも、冷静に考えてみると根拠はないだろう。心の底から地獄を信じるのもなかなか困難じゃないのだろうか? 地獄なんてないよ、って呟くだけで怒られそうである。
 結局は「死」が何なのかなんて関係ない。とにかく「死んで」欲しい。理屈じゃないんだよ感情でいいんだよ!! ってね。でもね「生きている」人には経験があると思うのだけど「負の感情」で勢いよく行動したことの多くは「後悔」するんだよね。だからね、せめて冷静に考えられるまで「死刑」にしないってのはどうだろう? こんな事書くと光市母子殺人事件のMさんは冷静だろっ、って言われるんだろうなぁ。でもね、Mさんは本当に冷静なのか疑問だな。なんとなくだけど、犯人が死刑されたあとのMさんは「大丈夫だろうか?」と思えて仕方ない。

 逆に「生」を考えてみる。生きているから「生」は考えられるだろう、と思うのだが、確かに「考える」ことはできる。なかなか「本質的な生」が何かという答えはでないのだけど。
 と、この辺から「死刑反対」の意思が揺らぎ始める。
 人間ってのは、ただ息をして血が流れているだけで「生きている」のだろうか? ってことを拙ブログでもよく書いている。いつぞや書いた「身体の死は死体であって『死』ではない」ってやつの裏返しである。「身体の生は生体であって『生』ではない」とも言えそうだ。ここで「本質的に生きて」いないやつは死んでいるのだから「死刑」で死のうが、「死刑反対」で生きようが、死んでいるのではないか? って揺らぎである。あらら、「死刑反対」が「死刑容認」に変わりそうだな。でもやはり「死刑反対」は変わらない。
 いくら、身体が生きながら死んでいるヤツでも、この世界で「本質的な生」を思索し求めることは、この世で身体が生きていなければ出来ないからだ。存在の意味もしかりである。
 これは犯人はもとより、遺族にもいえると思う。「憎き犯人が地獄で苦しんでいるのだ」と自分だけで信じ込んで生きていくことが、真に生きている、と言えるのだろうか? これではあまりに悲劇である。真に遺族のことを考えるならば「本質的な生」を考える道を残すべきで、それは、遺族の生のためにも犯人が「本質的な生」に気づくことが大切なのかもしれない。

 ある統計によると7割以上の人が死刑存置に賛成で、3割以下の人が死刑廃止を望んでいるらしい。これは、一人の人間に置き換えることができるのかもしれない。人間は7割以上が感情に支配されており、理性が発動できるのは3割以下と。その割合でいけば7割以上という圧倒的な感情に支配されるのが人間かもしれないが、3割以下でも理性はあるのだ。「死刑廃止」を望むものが本当に対峙しなければならないのは、7割の感情に支配される人々ではなく、自分のなかにある7割の感情なのかもしれない。

 それでも、感情は時間とともに薄らぐが理性は時間とともに厚くなる、気がしている。または、感情に永続性はないけど理性なら永続性はある、でもいい。






 以前にも書いたが、「死刑」に変わる刑罰として、
 犯人には終身刑を適用する。犯人は牢獄で「生」と「死」についてとことん向き合う。ただし、遺族が犯人を許したときに刑は終了する。遺族も「生」と「死」について理性で向き合い、真に生きることを感じ取れば、犯人という人間を許すこともあるかもしれない。もちろん犯人はオノレの意思によって刑を続けてもかまわない。






追記:
このエントリーはブログ「村野瀬玲奈の秘書課広報室」様の 死刑FAQ のコメント欄にてTBしました。
が、当該Qがありませんでした(爆)



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