ボラと自己満
ボランティアをやるかどうか悩んでいる、の理由のひとつが「自己満足」やら「偽善」ではないかと感じる、という言葉を聞いて、なにか白い気持ちになった。手でつかめない霧のごとし意味が感じ取れない。とはいえ同時に記憶の靄の向こうにうっすらと見える懐かしさもあった。そういえば、大昔青カン支援をする前だか、してすぐだかにそんな言葉とすれ違ったことがあった気がする。今となっては、忘却の曖昧な記憶である。
多分、震災被害のお片付けのような助けていることが物理的に目に見えるようなボランティアなら、そんな言葉はでてこないような気がする。もう少し精神的な、他者の「生きる」に近寄るようなボランティアだからそんな言葉が出たのかもしれない。現実にはワタシはその言葉に即応できなかったのだが。
まったく気づかなかったか、完全に忘れていた感覚を突然言われ首をひねる、と言った感じ。ワタシにとって青カン支援は「自己満足」以外の何者でもなかった。ついでにいうなら保育運動や9条の会のあれやこれやも自己満足でしかなく、さらには子育てや仕事でさえ自己満足でしかない。「自己満足」の何がいけないの?という感じなのである。
現実のボランティアには心底「満足」を感じることなどまったくなかったのだが、それはそれとしてボランティアなど自己のためでしかない、という感覚を「青カン支援」をするなかで知らぬうちに会得していて、「自己満足」を理由にボランティアをやるかどうか、という言葉が解らなかったのだと、と思う。
そもそもボランティアの対象は「自己」のことではない。「生きる」ことの苦悩から助かるのは、助かりたいと思う他者である、その他者にワタシ(他者にとっての他者)が何かしてあげられることはない。「何かしてあげよう」「何かしてあげられる」という勘違いが自己満足という言葉になって現れるのだろうか?他者の悩み苦悩はその本人しか解るはずがなく、解ったような気になるのは自己の経験に重ねてみたり、極力その苦悩を想像してみたりしてであって、移ろう記憶や想像で「解った」ということに至るわけがない。
もしそこで自己満足を得るというなら、自己が他者に何かをした結果、他者が救われたという勘違い故だろう。その勘違いな自己満足ならば多いに恐れ、ボランティアをやるやらないで悩むべきなのだが、そも、勘違いの自己満足で悩んでみても意味をなさない。
他者の苦悩を解ったふりは出来るだろう、「ふり」だけで苦悩する他者が癒されることはあると思うが、それにしてもその他者が「ふり」に癒されようと決心した結果なわけだ。「解ったふり」などキッカケでしかない。もっともその「きっかけ」が大切なのかもしれないが、笑。
「きっかけ」を与えることができるに至るプロセスに於いて、逆に苦悩する他者から得られることが多く、一方的な関係でなく双方向の関係となるだろう。双方向の関係にならなければ「きっかけ」を分けることも得られることもないだろう。信頼関係を築かなければ「ふり」の効用もあわわれまい。そうしたもんだと思う。
と、とりあえず、こんなことを思索していたのだが、本質はまったく違うのかもしれない、別の考えが浮かんできた。
それはボランティアの話をするワタシ自身が多数から言われる言葉なのだが「なぜそんな一銭にもならないことをするの?」というのがある。この言葉と「自己満足」「偽善」という言葉が妙に親和性があるような気がするのだ。
この世は経済が回ることで世の中が回っている、ということが多数の身に染み付いていて善なのだ。経済が回らない報酬を受け取らないような労働はすべきではなく、ましてや経済が回る歯車から欠け落ちたことに苦悩するような経済的な役立たずのために何かをするなどと、この世の原則を捻じ曲げるような動きはするべきではない。と、いうことを「自己満足」「偽善」という言葉に載せているのではないか?
「自己満足」「偽善」という言葉が気になるのは、そうした第三者多数からの目が気になっているのである。つまり、自己のなかにも同じ価値観に囚われているからこその表れだろう。
震災復興ボランティアが認知され歓迎されるのは、物理的と言う理由ではなく、一時的であり経済復興と繋がるからかもしれない。は言い過ぎだな・・・orz
経済と結びつかない社会的弱者を対象とするボランティアとは反社会的行動である。
ただ、反社会を俯瞰し、本質を浮かび上がらせる素敵な行動でもある。
なによりも「得」に繋がる。その得は自己満足であって、経済的ではないけどね、爆!!
多分、震災被害のお片付けのような助けていることが物理的に目に見えるようなボランティアなら、そんな言葉はでてこないような気がする。もう少し精神的な、他者の「生きる」に近寄るようなボランティアだからそんな言葉が出たのかもしれない。現実にはワタシはその言葉に即応できなかったのだが。
まったく気づかなかったか、完全に忘れていた感覚を突然言われ首をひねる、と言った感じ。ワタシにとって青カン支援は「自己満足」以外の何者でもなかった。ついでにいうなら保育運動や9条の会のあれやこれやも自己満足でしかなく、さらには子育てや仕事でさえ自己満足でしかない。「自己満足」の何がいけないの?という感じなのである。
現実のボランティアには心底「満足」を感じることなどまったくなかったのだが、それはそれとしてボランティアなど自己のためでしかない、という感覚を「青カン支援」をするなかで知らぬうちに会得していて、「自己満足」を理由にボランティアをやるかどうか、という言葉が解らなかったのだと、と思う。
そもそもボランティアの対象は「自己」のことではない。「生きる」ことの苦悩から助かるのは、助かりたいと思う他者である、その他者にワタシ(他者にとっての他者)が何かしてあげられることはない。「何かしてあげよう」「何かしてあげられる」という勘違いが自己満足という言葉になって現れるのだろうか?他者の悩み苦悩はその本人しか解るはずがなく、解ったような気になるのは自己の経験に重ねてみたり、極力その苦悩を想像してみたりしてであって、移ろう記憶や想像で「解った」ということに至るわけがない。
もしそこで自己満足を得るというなら、自己が他者に何かをした結果、他者が救われたという勘違い故だろう。その勘違いな自己満足ならば多いに恐れ、ボランティアをやるやらないで悩むべきなのだが、そも、勘違いの自己満足で悩んでみても意味をなさない。
他者の苦悩を解ったふりは出来るだろう、「ふり」だけで苦悩する他者が癒されることはあると思うが、それにしてもその他者が「ふり」に癒されようと決心した結果なわけだ。「解ったふり」などキッカケでしかない。もっともその「きっかけ」が大切なのかもしれないが、笑。
「きっかけ」を与えることができるに至るプロセスに於いて、逆に苦悩する他者から得られることが多く、一方的な関係でなく双方向の関係となるだろう。双方向の関係にならなければ「きっかけ」を分けることも得られることもないだろう。信頼関係を築かなければ「ふり」の効用もあわわれまい。そうしたもんだと思う。
と、とりあえず、こんなことを思索していたのだが、本質はまったく違うのかもしれない、別の考えが浮かんできた。
それはボランティアの話をするワタシ自身が多数から言われる言葉なのだが「なぜそんな一銭にもならないことをするの?」というのがある。この言葉と「自己満足」「偽善」という言葉が妙に親和性があるような気がするのだ。
この世は経済が回ることで世の中が回っている、ということが多数の身に染み付いていて善なのだ。経済が回らない報酬を受け取らないような労働はすべきではなく、ましてや経済が回る歯車から欠け落ちたことに苦悩するような経済的な役立たずのために何かをするなどと、この世の原則を捻じ曲げるような動きはするべきではない。と、いうことを「自己満足」「偽善」という言葉に載せているのではないか?
「自己満足」「偽善」という言葉が気になるのは、そうした第三者多数からの目が気になっているのである。つまり、自己のなかにも同じ価値観に囚われているからこその表れだろう。
震災復興ボランティアが認知され歓迎されるのは、物理的と言う理由ではなく、一時的であり経済復興と繋がるからかもしれない。は言い過ぎだな・・・orz
経済と結びつかない社会的弱者を対象とするボランティアとは反社会的行動である。
ただ、反社会を俯瞰し、本質を浮かび上がらせる素敵な行動でもある。
なによりも「得」に繋がる。その得は自己満足であって、経済的ではないけどね、爆!!
この記事へのコメント
ボランティアとそうでない労働の差は何処にあるのか?と言換えてもいいでしょうね。
一般的解釈で言うならば、労働に対して報酬をもらうか田舎がボランティアか否かな線引きになると思います。
けれど、ぼくはその線引きに納得いっていないんです。
それはあくまで虚構上の線引き。
まあ、線引きというのが虚構上のものではあるんですが。
虚構上のものだということは、別の線引きもできるということでもあります。
たとえば、マルクスは「労働の再生産」ということを言いました。
労働して賃金を得る。
その賃金が、労働者が行っている労働を再生産するのにたるだけのものなのかどうか。
資本が利潤を上げようとするならば労働者から搾取しなければならないが、その搾取とは、労働者が労働を再生産するには足らない賃金で労働をさせること。
実はぼくは、自分はボランティアをしていると思っているんです。もちろん、賃金はもらっていますけれど。
でも、それは、「労働の再生産」に足るものではない。
経済的には足りているんですけどね。
だが、ヒトは経済だけで生きているわけではない。
ボランティアを経済的側面で捉える。
あるいは、マルクス的な労働価値説にもとづいて捉える。
どちらもそれなりに【真実】ではあります。
どういった虚構を選択するかで異なる【真実】。
僭越ながら申し上げたいのは、【真実】たちの狭間にこそ〈真実〉はあるということです。
身体的な〈真実〉です。
身体的な〈真実〉は、反社会的なものではないとぼくは思います。
自ら行うボランティアを反社会的だと自認して、それを為しても「真実」は見かるとは思います。でも、それはやはり【真実】たちのなかの一つに過ぎないと思う。
それを見つけても、やはり自己満足でしかないと思います。
〔社会〕の中に入り込んで労働をし、労働の再生産をする。
そうすれば、何が足らないか、【システム】は何を奪っていくのかが「我がこと」として感じられるようなるはず。そして、大多数の者が同様に「我がこと」としていること、にもかかわらず、自ら進んで分断の道を選んでいること。分断の道を選ばざるを得ないこと。
これは自己満足では決して見えてこないことです。
毒多さんは虚構のなんたるかを「我がこと」とした、あるいはしようとしているのだと思います。思索が道楽ではなくなったというのは、そういう意味だと解釈します。
だったらば、その先へ、是非とも。
今まで必死で抗ってきたであろう【虚構】に身を晒してみてください。そうしてみれば、森へ溶け込んでいこうとする〈身体〉と、【虚構】に抗おうとする【身体】が同じものだということがよくわかるようになります。それがわかれば【システム】に奪われるものが何かもわかります。
森へ溶け込んでいこうとする〈身体〉と、【虚構】に抗おうとする【身体】が同じものだということは、毒多さんの〈からだ〉はすでに識っているとぼくは思っています。
それは『歌ノ葉』を観ればわかります。
もうすでに〈身体〉と【身体】が同じ土俵に乗っかっている。
でも、乗っかっているだけではありますね。
まだ有機的につながっていない。
それが写真と言葉のギャップになって表れていると感じます。
まあ、ぼくの偏見ですけどね。
それにしてもはたして、ワタシは「虚構のなんたるかを我がこと」にしたのだろうか?という疑問はあります。
【虚構】にはいままでも身を晒してきました、というよりそれから捨てられないようにしがみついてきた、という感じですね。
一旦こちらから捨ててあげたらちょっと違うフィーリングを感じているので、ここから【虚構】身を晒すのはこれまと違った世界が見えるのかもしれませんね。いずれにしろ【虚構】に身を晒さないことのほうが困難です。内面の持ち方でしょう。内面が変わると晒し方が変わるのかもしれない。
ただ、いまはまだ愚慫さんの言わんとしてる「狭間にある〈真実〉」がどんな感じかどんなことかは、解りません。
ボラが自己満足のような気が・・・という話をしていた方に、「自己満足」でしかないと思う、と話したとき、呆けに取られたようなまったく解らないという顔をしていました。
ワタシがかなり永い時間をかけて青カンのなかで会得したイメージなので解らないのは当然かもしれません。と、同様に今ワタシにも愚慫さんがいわんとしていることが、いつか、言葉ではなく感覚で解るときがあるのかもしれません。
いずれにしろ、それを感得しようと必死になることは今のワタシにはなさそうです。けっこうゆったりした気分になっています、笑
なるほど、でも、考えてみてください。
虚構が虚構として作用するのは、実はそれを「我がこと」として(実は)受け入れてしまっているからに他なりません。そうでないと虚構は作用するはずがない。
虚構が作用しない人間。作用しづらい〔ヒト〕もいます。
E.Tです。作用しづらいがゆえに、E.T.はN.T.から迫害を受けることになる。すでにご存知のように。
毒多さんは迫害を受けた側ではないでしょう。かといって、迫害をする側にも回っていない。距離を置いていたのでしょう。その距離が「道楽」という言葉に表れていたのだと思います。
虚構は〔人間〕に染みついたものです。そう簡単に自覚できるものではない。自分の体臭を自覚するのが難しいように。
毒多さんに染みついている虚構は、なんだかんだ、やはり左翼(反社会)というもののように見受けます。
「経済と結びつかない社会的弱者を対象とするボランティアとは反社会的行動である」
この一文を読んでそう思いました。
だから、「毒多さん自身が社会的弱者になりましょう」と提案したわけです。ボランティア精神で。
青カンにまで行かなくていいと思います。社会的弱者と同じ苦しみを味わってくればいい。
すでに味わっていると言いたいのかもしれませんが、だとすると、上記の言葉は出てこないと思うんですよね...
いつも以上に偉そうでスミマセンm(_ _)m
えっと省略しましたが、、
>「経済と結びつかない【社会】的弱者を対象とするボランティアは反【社会】的行動である」
です。ワタシとしては、かなり肯定的な感じなんです。もうサヨっち的なテイストは自分ではかなりなくなってきている気がしますが、やはり滲みでているのかな??。
【社会】的弱者の苦しみ(喜び)の質を味わってみるのは、いくら思索したところで体感できないですね。そうならなければ。現状ワタシは【社会】的弱者までにはなっていません。つまり味わっていません。一旦覚悟して腹をくくるとなんとかなってしまう。覚悟はしたところで踏みとどまるというか足踏みしているというか、笑、NTです。、、、提案は提案としてお聞きしておきます。が、残念ながら別のことをいくつか計画しているので今自ら青カン(類する者)になることはないと思います。もっとも、自ら望む望まないにかかわらず、なる可能性はリアルに受け止めていますが……。(反【社会】的計画なぞすすめようならリアル度は深まるかもしれません。お望みのようにね。しかし他者に望んでどうしたいのかが、よく分からない)
毒多さんが毒多さんの思案があるなら、というよりあった上でのこのエントリーなんでしょうけれど、そこに異論を差し挟むつもりはありません。
ただ、なんというか「ぶつけてみたい」だけ、です。
マジで「ぶつける」には提案といったようなやり方しか思いつかなくて、みたいな感じと言えばいいか。
そこから毒多さんの思惑が表に表れてくれば、ぼくとしては「ぶつけた甲斐がある」ということになります。
そういう理解でヨロシクです。 (^o^)
>「ぶつけたい」
分かりました。
ある意味、エントリーを上げるということは不特定多数に「ぶつけてみたい」ということなので、そこはお互い様です。
異論を闘わせるのも、何を言いたいのか深く探るのも歓迎です。
ただ、ご存知のようにワタシはNTにしては察しが悪い。察しが悪いくせに邪推してしまう。物分りが悪い。
長い付き合いなのでこのあたりは解っていただき、解りやすくストレートに言ってもらったほうがありがたいです。
ということで、
>思惑を表に出させたい
ということも了解です。
正直にいえば、はたして何らかの明確な思惑があるのか解りません。思惑があるのか?というよりも目標があるのか?かもしれません。このあたりはNTの特性かどうか知りませんが。
思惑といえば、自分が何者なのか知りたい、ぐらいです。
で?・・・・そのぐらいしか思い当たりません。
その方策のひとつが、愚慫さんの提案、だとは思いました。
もちろんそれは、ワタシが自ら考えた方策のひとつでもありましたが、「今は」なんとなくその気になれない。楽しめない気がする。しかも自らその立場になることでホントの苦悩を味わえるのか?【社会】に価値を見出しているところから、【社会】に見放され突き落とされなければホントのことは解らいのではないか?という疑問もあります。(【社会】を懐疑している時点で資格がないのかも、とか)。
おそらくETが NT【社会】から受けるストレスの比ではないでしょうが、NTが普通だとしていてその社会にいる分NT個体がうけるものも負けていません。ワタシは残念ながらNTなので、やはりストレスを感じています。青カン多数から受けるストレスは経験済みなので、耐性はありますが、笑。
自覚です。NTであることを自覚し、自覚した上で受けるマイノリティからのストレスを俯瞰し、ワタシ自身を知る。NT多数のひとりであるワタシがマイノリティのふりをしてみても仕方ない。
ワタシはNTです。から始めます。
言うまでもありませんが、
愚慫さんのNT口撃は、ワタシは楽しんでいますよ。
念のためにお断り^^
>この言葉と「自己満足」「偽善」という言葉が妙に親和性がある
経済はエコノミー。環境はエコロジー。
どちらも「エコ」で、元来は同じものです。
なのに、今は、両者は対立するもの。
――でも、仕方がない。そうしないと社会は成立しない。
なんて「エゴ」なんだろうと思います。
N.T.の人たちにとってはこの「エゴ」がデフォルトなんですね。でも、E.T.はそうじゃない。
それで、「それはエゴだ!」とE.T.が指摘すると、エゴがデフォのN.T.には、そういう指摘が「エゴ」に感じられてしまう。
>愚慫さんのNT口撃は、ワタシは楽しんでいますよ。
毒多さんは「エゴ」が希薄なのかもしれないですね。
NTのなかにあっては「自分のNT部分」は解りません。ETである愚慫さんのNT指摘は大切です。
愚慫さんは数少ない貴重な友人です。
「覚悟」を決めて以降無理してNTデフォに付き合うのはやめています。
機械的ではなく自然に生きようと・・・
そうしていると、、、NT友人たちと距離がではじめました、笑。