毒多の戯れ言

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zoom RSS 濁流のなかのホームレスはなぜ救助を拒否したか?(再掲)

<<   作成日時 : 2018/04/19 14:14   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 4

10年前(2007年9月)のエントリーです。ワタシ自身忘れていましたが某所で思い出させてもらいました。今、自分で読み直してみても、イメージはあまり変わっていません。過日「野垂れ死に」のことを語りあったりしたこともあり、興味のある方に読んでいただけたらと思い加筆再掲することにしました、笑。


台風9号はすっかり消去ったけど、ワタシのなかでフラッシュバックする画像がある。
テレビで生中継された、濁流の多摩川の中洲に取り残されたホームレスの姿である。
そのホームレスはヘリコプターでの救助を頑なに拒否していた。
「普通」は救助を求める状況なのに、迷うことなく拒否していたのだ。
濁流にながされ死ぬかもしれないのに拒否した。
実際に周りにいた濁流に呑まれた3人は命を落としたのだろう。
そんな危険にもかかわらず救出を拒否していたのだ。
テレビでは理由はいろいろ言っていた。
家財道具が大切だったから、
一旦離れるとその場所をとられるから、
ネコがいたから、
いずれの理由も普通じゃ考えられない。
「普通の社会」の常識ではなかった。

でも、本当の理由はこんなことだろうか?

救出を拒否していたホームレスが罵倒される。
世間からは、「普通」の感情が吐き捨てられる。
「バッカじゃないのぉ〜」、
「死にたきゃ、死ねよ」、
「役立たずは死ねばいい」、
「税金がもったいないからヘリ飛ばすなよ」、
「『ゴミ』が一掃されてちょうどいいんじゃないの」。
これが「普通の社会」からの声である。

ふと記憶の断片が甦った。

ずっと昔、ある夜の出来事である。
ホームレス支援をしていたときのこと。
もうどうにも生命がヤバそうなオッサンに出くわした。
地下道に倒れ、立ち上がることもできない。
顔に近づき話しかけても返事はなく、目も虚ろだった。
放置すれば死ぬだろうと、素人目にも感じた。
119をコールし救急搬送を依頼した。
すぐに救急車が到着した。いざ救急搬送しようとすると、
「ほっといてほしい」
オッサンはか細い声で拒否したのだ。
この日の救急隊員は珍しくホームレスであっても優しく対応する人だった。
「病院へ行こう」と、心からの説得をする。
救急隊員は、いつまでも誠意をもって切実にオッサンに話しかけた。
でも、この青カンは道に倒れたまま頑なに拒否したのだ。
救急隊員の横でワタシも呼び掛けた。
支援という立場をのりこえ心より呼びかけたのだが、拒否された。
でもワタシにはオッサンが何故拒否するかうっすらと解っていた。
これは、この社会の拒否なのだ。
この社会にいるワタシの拒否なのだ、と……。
あんた達とはもうかかわりたくない、ほっといてくれよ、って言っているのだ。
ワタシには「もういいから、そっちの社会に連れ戻さないでくれよ」と聞こえた。

そのオッサンは既に一度、「普通の社会」の濁流にのまれて死んでいた。
必死にあがいて、社会の切れ端にしがみつこうとしたが、その手をも踏まれた。
そのまま流され、社会の底のドブ板の下に隠される濁った流れに呑まれて死んだんだ。
同じように手を踏みにじられ、濁流に呑まれ死んだオッサンは多い。
そんな風に一度は殺されたオッサンらが集まってコミュニティを作っていた。
濁流の果の箱がけの村である。
その村のオッサンらはこのうえもなく貧乏だった。
「普通の社会」では考えられないような貧乏だった。
仕事もたまにしかなく、時間はあったが、
みなが喰うに困る生活だった。
でも、助け合って生きていた。
ぎりぎりのところで、物だけでなく、多くを分け合って生きていた。

いつかワタシはそんなオッサンらの村をみていた。
その村をいいなぁと思い見つめていた。
「普通の社会」で捨てられた物で食いつなぎ、
生きている村があってもいいじゃないか、と思った。
最悪の環境のなかでも助け合う村があってもいいと思った。
ただワタシには「普通の社会」で自殺してその村で暮らすことはできなかった。
それでもその村は、ワタシにとっても存在意義があったのだ。
でもワタシが捨てきれないでいる「普通の社会」はその村の存在を許さなかった。
ワタシのいる「普通の社会」は、村を疎み、破壊していった。
村の存在を許さず、否定した。
ワタシはそんな「普通の社会」が厭になった。
でも、そこから出て行く勇気は未だにない。

多摩川のことは、報道が言っていた理由、
家財道具が理由でなく、場所取りが理由でなく、ネコが理由でなく、
多摩川のホームレスは「普通の社会」との関わりを拒否した気がしている。
「普通の社会」が自分たちの村に介入してくることを拒んだ気がしている。
村を疎み、破壊を企てる「普通」を拒否したのだ。
え、救助だって、冗談じゃない。
一旦殺された「普通」に引きづり戻されても、また殺される。
もういいよ、ほっといてくれ。

「バッカじゃないのぉ〜」、
「死にたきゃ、死ねよ」、
「役立たずは死ねばいい」、
「税金がもったいないからヘリ飛ばすなよ」、
「『ゴミ』が一掃されてちょうどいいんじゃないの」。

なんとでも言えよ。
もうお前らのいる「普通」には愛想つかしたんだから……、
あの濁流のなかのオッサンたちをみながら、
そう、言っているように聞こえた。

これは「普通」を捨てられないワタシの妄想なのだろうか?
オッサンらにも解らないかもしれない。

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おはよう、今日も生きているわ(^ ^)

>これは「普通」を捨てられないワタシの妄想なのだろうか?

「普通の社会」を捨てたくて拒否したとしても、すぐに戻されてしまうような気がしてなりません。「普通の社会」は、異物をほっとかないように思います。排除してみたり、呼び寄せて縛ってみたり、色々して、結局自分の枠の中にかこって、社会に馴染ませて利用したいのか、そういう力が働いてるような気がするのは、被害妄想でしょうか。
同居人の相方によると、被害妄想は私の十八番らしいです。笑
同居人のもうひとりは、「普通の社会」を拒否してる最中、彼に聞きました。「働かないで生きるのはいいけど、私たち(親)が死んだ後、お金も底をついてしまったら、どうするの?」って。

彼応えて、「住めなくなったら、出て行く。食えなくなったら食わない。生きられなくなったらそれは逝く時。それだけだよ、折り合えないから、何か問題ある?」って。
妙に納得しました。よく親は引きこもったりしてる子どもたちに、私たちが居なくなった後が心配だから自立させなきゃって言いますが、この時から私は「自立信仰」をやめました。今は「野垂れ死に信仰?」かしら 笑。

これだと先がない暗い毎日かと思うでしょう、でもね、それが意外と充実しているみたいなのです。話をすると、希望とかなくてどちらかと言うと絶望的なんだけど、暮らしぶりは明るいし前向きなのが不思議です。
冬穂
2018/04/20 08:29
つづきです。

昨日まで読んでた本の中に書いてあったんですが、津波で家を流されてしまった小学5年生の男の子と、何も無くなってしまった彼の家の跡地をみながら、「生きるってどう言う事だと思う?」って聞いたら、「朝、起きる事かなっ、3月11日は生きてる気がしなかったけど、朝起きたら、生きてるなって思ったよ」と話してくれたそうです。

色々考えると、朝の目覚め、精一杯の今日1日があって明日が来る、只それだけの繰り返しの中に、真の喜びとか幸せとか生まれてくるのかもしれないなと。思い返せば、不眠症の時は、明日が来るってのが怖くて怖くてしょうがなかったなぁ…。(^_^;
冬穂
2018/04/20 08:31
おはようございます。ボクも生きてます\(^o^)/

「普通の社会」とそこの住人は異端者を許しませんよね、笑。
きっと恐れているのだと思います。
自分が否定されているような、自分が言えないことを言っている異端者に対する畏怖。でも、どこかでそんな異端者を畏敬している自分を隠蔽するための否定。転じて攻撃。
普通は「制度」のうちに納まっておけばちょっと権利を与えるよ、という囲い込む。
多数は魂を売り囲い込まれ普通になる。そのように教育され、納まらない者にはハラスメントを仕掛ける。「被害妄想」とか言ったりしてさ、、、^^;
たとえば、ある子どもがハラスメントによって声を発することができないほど叩きのめされても、「自分が悪い」と言ってしまう、これが普通……そうじゃないのに。

とはいえ、そうした社会でとりあえず、今は生活している、ということは否定できません。エントリーにあるホームレスの村にしても、「社会」があって成立しています。
そこでは折り合っているのでしょう。
冬穂さんももう一人の同居人も、ワタシも、、
普通に折り合う私がいて、魂を売りたくなワタシがいる、この二人の私とワタシは心の裡で対話をしています。対話をしたのち、「ある部分だけ折り合う」ことにしようか、となるのでしょう。
毒多
2018/04/20 09:27
でも普通の社会は、「ある部分だけ折り合う」では駄目だ、と言ってきます。全て折り合えと。いいとこ取りは許さない。全ての魂を普通に合わせろ、とね。最近では国家ぐるみで仕掛けてきますね、トホホ。
そこで、「野垂れ死に信仰」(笑)がでてくるわけですね。魂を売るぐらいな野垂れ死にます、ってね^^
これは、ちょっと違うかな、「普通」に抵抗して野垂れ死にを選ぶわけではなく、マジで土に還りたいって感じだものねぇ、、、テヘペロ

>生きるとは「朝起きること」
いいですねぇ。日々を生きる、って。ボクももう明日のことを思い煩いません(^^)v 野垂れ死ぬまで生きていきます。

不眠症のときの明日恐怖症も、笑って話せるのは素敵ですね。
毒多
2018/04/20 09:27

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