毒多の戯れ言

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<<   作成日時 : 2017/10/13 10:38  

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よくよく考えればワタシはあまり悩んだことがない。アタマが悪いか、感性が鈍いせいかもしれない。
はたして良いことなのか、残念なことなのか、良いとか残念とかでない他のなにかなのか、解らない。
イメージとしては流されるままにきたという感じ。
何かをやりたいということもなく、だらだらと学校へいき、成り行きで就職し辞職し、自分で金をかせぎはじめ、なんとなく青カン支援なんかをやっちゃったり、決意することもなく結婚したり、いつのまにか子どもがいたり、悩む要素がないのか、悩む感性がないのか、、、、あ、そういえば若かりし頃は好きな娘から恋されず悩んだっけ? そうそう寄せ場運動の最期に激しくやりあって気が狂うほどの苦悩したし、ネット上のやりとりで怒り狂ったことも何度かあったし、、、それらが「悩み」とえいば悩みといえるかもしれないが、すでにもうなんでそれ程、苦悩したのか怒り倒したのか忘れてしまった。
それが歳をとるということだろうか?
商売が立ち行かなくなりそうな今の状況も悩んで良さそうなものだけど、なんとなく成り行きに流されてもいいか、と感じている。
この先、嫁や子どもに先立たれたら苦しく感じるだろうとは想像するものの、悩むことはない気がしている。人はいずれ死ぬ。

だいたい自らの「悩んだよなぁ」ってことを思い出してみても「他者との関係」ばかりだな。しかも「気持ちが通じない」「意見があわない」「解ってもらえない」程度のことだ。他者の悩みを聞いてみても似たようなものか、「社会制度の矛盾」に苦しめられているぐらいだろう。それはそれにしても「社会制度の矛盾」を是として「矛盾を矛盾」としない人との人間関係に悩んでいる場合が多いのではないか?
他者の態度に悩んでみても仕方ないんだろうなぁ、と思う。例えば「矛盾を矛盾としない」という他者の態度に悩んでみても仕方ないのだ。その他者がそうした自己に悩んでいない以上、その他者の課題にもなっていない。

「悩み」とは自己の裡のものである。

仮に「矛盾を矛盾としない」他者が身内にいたり会社の上司やら同僚だったりして、「許しがたい」他者が身近にいるという悩みも、そう感じている自己の悩みだろう。「許しがたい」は他者ではなく、自己の裡にある。
さて「悩み」は解決したほうがいいかどうか?という問題もあるが、まぁ解決したほうが楽だと思うし、楽な方が楽しい。
「悩む」ことを楽しむという言い回しがあるかもしれないが、仮にそうしたことが出来たとして楽しんでいることで「悩み」ではなくなっていて解決していると言える。
「矛盾を矛盾とせずに是としている許しがたい」他者に「矛盾を矛盾とせずに是としている自己」に悩んでもらう、というのも解決のひとつで、何か働きかけることで上手くいけばいいのだが、いかないから「悩んでいる」ことが多いだろう。繰り返すが他者の問題で自己の悩みからは離れてしまう。
まあ、そんな他者から離れるか、人間はいろいろだと割り切るか、キチガイとレッテルをはり観察するか、笑、、、、解決はそんなとこだと思うが、なぜ「間違っている」あいつが、いまのポジションのままで「正しい」自分のほうが身を引かなければならないんだとか、新たな悩みがでてきそうであるが、いずれにしろ、その悩みは自己のものであり、自己にしか解決できないことには違いはない。

自己の「悩み」は自己にしか解決できない。

ということが解らないうちは、新たな悩みが尽きないだろう。
「許しがたいあいつ」さえいなくなればワタシの「悩み」はなくなるんだ、と「悩み」を自己の裡ではなく、他者に反映させているうちは、「悩み」から解放されない。「許しがたいあいつ」がいなくなっても、自分と違う他者はわんさかいる、というよりも、自分と同じ他者はいない。そんな他者に「悩み」を反映させているのでは、悩みが尽きるはずもない。
逆に「悩み」は自己の裡にある、ということが自覚できれば「悩み」が「悩み」として感じられないかもしれない。
という意味で、「子は親を救うために「心の病」になる」に書かれていた、「カウンセリングは聴くことである(傾聴)」というのはそうなんだろうと思う。他者からの「アドバイス」は他者の解決にほかならない。
他者に悩みを話すことは、話すことで自己の裡にあるものの整理や発見をすることで「悩み」を相対化することになり、俯瞰することになる気がする。

いずれにしろ多くの普通の「悩み」は俗世的な悩みで虚構のなかのできごとに他ならない。

とここまで書いたとこで野坂昭如のCMを思い出した。
♪ソソソクラテスかプラトンか、二二ニーチェかサルトルか、みんな「悩んで」大きくなった……♪
こいつらの存在そのものの悩みとワタシらの社会前提のなかの悩みは質が違う、、のかな?

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コメント(11件)

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コチラにはまた別の角度からコメントを。

「悩み」とは自己の裡のものである。

ここに至れば、もはや達観と言っていいのかもしれません。
自分は自分として、なにものにも依存せずに自立していると言えると思います。

ですけど、サピエンスはそのようには生まれてこないんですよね。

サピエンスは、成熟したサピエンスに自らの生存を全面的に依存しなければならない存在として、この世界に出てくる。

子どもが母親の心理システムをコピーするのも、全面的に依存しなければならない存在ということからすれば不思議なことではありません。かのコンラート・ローレンツは「インプリンティング」という現象を“発見”しましたが、サピエンスにも同じことがある。

その「インプリンティング」から脱するにはどうしたらいいか。

他者の支援は別の依存を生み出す。
努力して虚構を獲得しても、その努力ゆえ、虚構に依存せざるを得ません。
愚慫
2017/10/13 19:12
今は自ら課したバタバタを楽しんでいます^^

“「悩み」は自己の裡のもの”に「至れば」達観といっていいのでしょうかね?
どうも、ワタシ自身がそうした「域」に憧れているようなので“「悩み」は自己の裡のもの”みたいなことを言ってしまうのかもしれませんが、果たして、憧れているから至りたいと思っているのかどうかは解りません。
「達観」がどういう状態にあるのか実感できていませんし、笑

例えば「子は親を救うために「心の病」になる」に書かれている「宇宙期」、例えばマズローの言うところの「自己実現」、例えばアドラーが言うところの・・・(何かいっていたっけ?)のような状況が「達観」というのかどうかわかりませんが、人はたとえ“「悩み」は自己の裡のもの”と解っていてもオノレのみの力によって「悩み」を解決できない。このあたりが人の宿命なのかもしれません。
解っている人もまた、自己での解決能力を他者に引き出してもらう。カウンセラーもまたカウンセリングを受けます。
安富さんの言う「自立は他者に頼ること」(だったっけ?)というのはこういうことのような気がしています。
毒多
2017/10/15 11:04
「インプリンティング」から脱するには、他者によって自らの脱する能力を引き出してもらう。ということが「傾聴」なのでしょう。他者の傾聴という「支援」は、自己の能力を努力して獲得するものではなく、ジワジワと訪れるもの。それが「宇宙期」であり「自己実現byマズロー」ではないでしょうか?

今のところ「アタマ」で都合よく解釈したにすぎませんが、爆!!

毒多
2017/10/15 11:05
おはようございます。

傾聴といったようなことを意識的にしたことがないし、ぼくは体質的には向いていない人間だと思っているので、本当にアタマだけのレスですが(^_^;)

>他者によって自らの脱する能力を引き出してもらう

そのような力が傾聴にはあるのかもしれません。
ただ、ぼくはちょっとそれが想像がつきません。

「脱する能力」は、そもそも、それぞれにある。
それを傾聴する者が「引き出す」。
「引き出す」能力が傾聴者にはあるのだ、と。

わかりません。
ぼくがイメージできるのは、「脱する能力」を封印している【蓋】への気づき、まで。

ほら、ここがかたまっているよね?

という感じかな。
愚慫
2017/10/16 07:09
おはようございます。

>「傾聴」に「そういう」力がある

ワタシにも実感がないし、今のとこ単なる「指標」です。
ここのところたまたま偶然、臨床心理士やカウンセラーから話を聴く機会があり、そろって「そういう」力があると言うし、さらには「子は親を救う・・」の著者である高橋さんも「カウンセラーは聴くこと」だとを書いている。

と、そこそこの経験者から聞いたことや読んだことであり、ワタシ自身に実感や確信があるわけではありません。またワタシが傾聴する者に向いているかどうかというと、正直に自己をみれば、どうも向いてなさそうでもあります、爆。

ただ、今の時点では、臨床心理士やカウンセラーが口を揃えて、傾聴とは聴くだけでいい、つまり肝心なのは他者のアドバイスではなく自らの気付きだよね、と言っているようにワタシには聴こえるところから、今回のエントリーに至りました。
他者からの言葉に聴く耳をもてたしても、【蓋】に気づくのも【蓋】をどうするか、どうにかするのも、最終的には自己の能力であり、それが【蓋】なのか【隠匿】なのか【略奪されている】のか、解りませんが、もともとどうにかする「能力」はあると信じたいところですし、取り戻せると信じたいところです。
毒多
2017/10/16 08:45
向こうのやりとりとこちらのやりとりと合わせて、「悩みは自己の裡にある」ものではあるけど、だから一から十まで「自己の力」のみによって「解決」しようと言っているわけではなく、たとえば「傾聴」という他者の能力によって、「きっかけ」や「引き出す」ことがむしろ必要なのは、人間の宿命だろうなぁ、と考えています。

傾聴はワタシには完全に不向きだとは感じていますが、「不向き」だからこそ、もし日常のなかでそれをする機会があるなら、聴くことで他者、自己に変化を実感できるなら、面白いなぁと思っています。
毒多
2017/10/16 08:45
なるほど、了解しました。

「傾聴」すると「そういうこと」が起きるのは事実だと思います。

では、「そういうこと」は「傾聴」によって起きるのか。

自身の気づきが引き起こすなら、「傾聴」はきっかけではあっても、「そういうこと」そのものの原動力ではありませんよね?

どうしても傾聴と愉氣とを重ねてしまうし、重ねて間違いはないとも思うのですが、それからすれば、「そういうこと」はふたりの生命力の相互作用によって起きるのだと思っています。

傾聴者には相互作用を起動させる力があるのは事実。
でも、それを「そういうこと」そのものの力だと考えるには危ないなぁ、と感触がぼくにはあったりします。
愚慫
2017/10/16 12:30
追記をしますと。

傾聴する力を「そういうこと」そのものとは考えないで、少し突き放して眺める視点。

この視点が、

「悩み」とは自己の裡のものである

という視点と一致するのではと思っています。
愚慫
2017/10/16 12:33
>愉氣

愉氣はアキラさんがたまに書いているところのものですね。実はコメントを書きながらアキラさんのテキストを思い出し思考のなかを過ぎりました。とはいえ流石に全く知らない愉氣との相似は、ワタシには恐れ多くて「過ぎった」とさえ言えませんが、笑。

同様に繰り返しになりますが、「傾聴」についても何か言えるほど分かっているわけではありません。最近の経験からなにか感じたところを忘備録的に書いているにすぎません。

なので今は直感的ではありますが、おっしゃるように「相互作用を起動させる」は、そういう気がしています。悩む人に変化があるならば、同様に傾聴者側にも変化があるでしょう。
で、まちがって変化がマイナスの変化であっても悩む人の側にひっぱられる可能性もある。と言う意味で「あぶないなぁ」でしょうか?ちょっと違うかな?

>“「悩み」とは自己の裡のものである”という視点

おっしゃる通りですね。最初に書いたときよりも、深まった気がします。どうもありがとう。
毒多
2017/10/16 13:38
「あぶない」はぼくの主観が入りすぎているのかもしれません。ただ、自分はそっちへは行きたくないのだけど、どうしても引き寄せられるものがあるので、「あぶない」という感じです。

これは、『子どもは...』に記述のあった「オプション」に関連することなのですが、まあ、そこは、また機会を改めて。
愚慫
2017/10/16 17:22
>また機会を改めて。

了解です。ただ、「あぶない」が、やはりちょっと気になったのでコメします。
ここのコメ欄を読んで「傾聴」をしたいなんて思う人はいないと思いますが、素人が他者の悩みを「傾聴」しようというのはやはり「あぶない」ですね。
もし聴く相手がパラノイアとか、ボーダーとか、サイコパスであれば即あぶない、かなりあぶない。
そうでなくてもプロのカウンセラーでも、自らもカウンセリングを受けるのは、相談をする他者にひっぱられていて「あぶない」状況といえるのかもしれませんね。
ワタシもここのところ傾聴に多少興味はありますが、なんの防御策もなく知らない人(薄く知っている人もしかり)の悩みは聴きません。傾聴はしません。
毒多
2017/10/16 18:19

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