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zoom RSS 「逝きし世」のDNA

<<   作成日時 : 2016/12/25 17:13   >>

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 まだ「逝きし世の面影」読了の余韻に浸っている。というか洗脳されている。
 とはいえ、「逝きし世」で暮らす自信はない。インフラは整備されてなく、プライバシーはない。ネズミと蚊と蝿とイタチとヘビと野良犬があふれている。いわゆる村社会であり、不便というめんでは、不便この上ない。
 ただ、逝きし世の社会は、真理のようなものは知っている気がする。人間だって世を構成する生物のひとつにすぎないし、人間だけが偉いわけではない。だから他者、他生物の「命」を無碍にしないし、助け合い共に生活しなければ生きていけないし、何も苦悩することなどなく笑って興味をもって驚きの目で出会いを楽しみ、物をもたないから隠さなくともいい。粗食で不便で自ら動くしかないので肥満や成人病の悩みなんて考えなくてもいいし、かといって「やらなければならない」という縛りなどないし、誇りをもって仕事をする余裕があるし、、、、楽しく笑いをもってただ生きるが当たり前すぎて、それをアタマであえて考えることもないし。死が間近で生も間近である。
 それが文明や技術革新、損得や勝ち負けや造られた倫理や道徳で奪われてしまった。不浄は隠匿され現実感はなくなった。
 便利で動かなくていいという、進歩が当たり前になり、個人の尊厳やプライバシーや人権が明文化されなければならなくなり、ことさら助け合いましょうと言わなければならなくなった。お上品であるようで品のない社会になった。
 それでは「逝きし世」は完全に死に、面影もなくなってしまったのか?
 そうでもないだろう。どこかに「逝きし世」のDNAが遺ってはいないだろうか?
 「逝きし世」を新たに知り漠然と「いいなぁ」と感じる人、懐かしさを感じる人は多いのではないだろうか。それはDNAがどこかに流れているからのような気がする。
 今の社会を生きていて、いまの常識では従うしかないあれやこれやが、「何か違う」と感じることは多々ある。現行の「システム」がこうなんだから仕方ないでは納得できない、言葉にできない何か?を感じるのは、「逝きし世」のDNAがホソボソと生き残っているからではないだろうか?
 格差があるのはいけない、勝ち負けをつくってはいけない、苦悩して病んではいけない、他者を貶めてはいけない、文明にオンブにダッコで便りすぎてはいけない、など。今はいちいち言葉による説明が必要とされたり、法律のジャッジを要求されるのだが、そうじゃなくて、もう言葉じゃなくて、法律じゃなくていけないものはいけない、だって「逝きし世」のDNAがそう感じさせるのだから、、でいいような気がする。

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