毒多の戯れ言

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zoom RSS 歌謡曲「昭和枯れすすき」のその先にあるもの

<<   作成日時 : 2016/08/25 10:36   >>

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あれから、なんとなくに呉智英やら愚慫さんのコメやらに引っ張られながら、中島みゆきを聴いている、笑。
前のエントリーでyoutubeまで引っ張ってきた「ふたりは」中島みゆきなんだけど、ふと、これとそっくりな歌謡曲が閃いた。呉智英いうところのゲマインシャフト的、村社会的、世間に合わせれば安心的な歌謡曲で大ヒット曲があったではないか。・・・とそのまえに呉智英の引用も再録しておこう。

中島みゆきの歌に書かれた愛は、自我の発現である。新興音楽(ニューミュージック)が、古い歌謡曲の伝統的様式を打ち破って無限に発現させていくように見えながら、実は市民社会という壁につきあたることによって発現させることをやめた自我を、中島はとことん発現させた。凡百の新興音楽(ニューミュージック)がともに近代がうんだはずの市民社会と近代的自我との相剋が近代そのものに亀裂をもたらすことを巧妙に回避して、古い歌謡曲とは別の様式を作ってその中に安住しているのに較べ、中島みゆきは、まず、自我を徹底的に発現させることから始めた。

で。その歌謡曲のシチュエーションは「ふたりは」と似ている。あのさくらと一郎歌うところの昭和の名曲「昭和枯れすすき」である。(ん?またyoutubeをもってくるか?どうしたもんだろう、まあいいか。)
♪貧しさに負けた、いえ、世間に負けた、この町もおわれた・・・♪ではじまる呪縛の歌である。
最後まで解呪はない。世間の価値観がすなわちオノレの価値観、世間に歩調をあわせ、出る杭にならず、さりとて漏れることなく、某元小泉首相絶賛の自己責任を地でいく歌なのだ。
♪いっそ綺麗に死のうか〜♪と続いてしまう。たしかに、ここに共感するのは個なのだが、その動機がいかにも他律基準なのだ。ゲマインシャフトから抜け出すことができず埋没し、世間は冷たいと恨みつらみを漏らし、そこで生きられなければ死を選ぶ、、、これだから、歌謡曲は嫌いだ、、と呉智英は思ったかどうかしらないが、そんなとこだろう?
「昭和枯れすすき」の歌詞をググるにあたり、yahoo質問箱に♪いっそ綺麗に死のうか〜♪とはどういうことですか?とネタではなさそうな質問を発見した。答えるほうも真面目に答えている。いまどきは既に共通感覚がかわっていて、すでにゲマインシャフトがどうのこうのなど古そうだな。ただ、一方でお国に寄り添う若者も多くいるのは、一周まわって回帰しているのかも。♪まわる、まわるよ時代はまわる♪(by中島みゆき)といったところだろうか。笑。

話はもどって歌謡曲から抜け出た新興音楽(ニューミュージック)は、というと、同じシチュエーションの歌が閃かない、笑。ちょっとエントリーのために無理矢理引き合いにだすなら、かぐや姫の「マキシーのために」といったところか。多少無理矢理すぎるがまあいい。
世間からはぐれたマキシーが主人公なのだが、世間への怨みツラミなどない。世間の呪いに縛られることなく、自我を発芽させようとしている、ように感じる。が、まだ今ひとつ抜け切れず、睡眠薬を100錠も飲み自殺をしてしまう。ただ、周囲に仲間がいて世間価値に縛られない「おかしな連中あつめて自由なお城をつくろう」と夢を語る。
でもさ、「青山に」「でっかいビルを建てて」なのである。ゲマインシャフトとは違うが、新しい世俗的、他律的な価値にやはり引っ張られてしまうのだ、と呉智英の解釈はこんな感じで受け止める。

で、中島みゆき「ふたりは」に戻るのだが、「昭和枯れすすき」と同じシチュエーションではあるのだが、最後に緑為す春の夜にたどりつく、、のは、やはり解呪だと思う。
しかも、これね、歌謡曲「昭和枯れすすき」、ニューミュージック「マキシーのために」に共感したものにある解呪のチャンスではないか? 「きれいに死のうか、ってどういうことですか?」という感性では得られない。苦しみ悩んだものだけが乗り越えることができる。それがあって道を説くアドラーだ(正確には「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」なのだが(以後同)、、爆!!)。
最初からアドラーであれば、また悩み苦しみなどなければ、アドラーなど必要ない。きれいに死ぬか、睡眠薬を100錠も飲んで死ぬかとう悩み苦しみを乗り越えるときにアドラーは呼ばれるのだろう。
おそらくは一人では無理だ、ここが不条理なのだが人間はどこまでも社会的な動物なのだから。
だから、凍えきって「めぐり会った」、となる。

【健全】な働き者のためにある町の一員として、悩みも苦しみもなく生活しつづけることが出来るのは幸せかもしれないが、悩み苦しまなければ辿り着けない幸せもある。
どちらがいいかは個々なんだろうね。

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コメント(63件)

内 容 ニックネーム/日時
ニューミュージックですが、これなどは?

https://www.youtube.com/watch?v=gj5Nu6feFTQ

出発点は同じであったとしても、ベクトルは違いますけどね。
愚慫
2016/08/25 14:58
ミスチルですね、と言ってもワタシはミスチルはんバンド名とこの略名しかしりません(笑)
ですので、この歌も知りませんでした。
ライブ映像を見ると盛り上がってますね。共感の嵐でしょうか?
歌詞が聞き取りにくいので、別ウインドで歌詞をググって、テキストで眺めています。

歌詞をみつめていると「ふたりは」や「昭和枯れすすき」ほど追い詰められた感がありませんね。ちょうどワタシ程度のライトな葛藤と苛立ちでしょうか?
なんだか難しい歌詞ですね。薄ぺっぺラなのか?深いのか?
ゲマインシャフトというかもっと狭い周囲とか仲間たちから縛りを解こうとしているような気がしますが、結局どうしたらいいのか解っていない、中途半端という感じ。というかよく解らない。決心しては流されて、また悟っては戻って?
むしろ中途半端でしかありえないからそれでいいじゃないのさ、とさえ聞こえる。

もしかすると、yahoo質問箱の「きれいに死ぬってどういうことですか?」的な解らなさがワタシにはあるのだろうか?
「あるがままの心で生きる」ってどういうことですか?みたいな。
とりあえず、この歌の主人公に「嫌われる勇気」を贈りたいww、あ、だから「ニューミュージック」カテゴリーなのか。納得。

それにしても、なんでライブ映像ほど人気(共感される感)があるのだろう?
毒多
2016/08/26 09:12
大反則。ぜひ紹介したい歌があるので。

その前に、確か小田島久恵さんだったと思いますけど、中島みゆきさんにインタビューした際に何をどう質問しても中島さんは自分が作った物語の中から出て来なかったそうです。
肝心のインタビューを読んでおらず中島さんの回答がどのようなものだったのか判然としませんが「自我=自己都合で統合された物語」と見做すならば、物語を録音してステージで再現する暮らしをしている人の言動そのものが物語に呑み込まれていくというのはさほど不思議なものでもないのかも知れません。

私は中島さんの歌に特に関心はありません。感情を操作する歌を作るのが巧い人だなとは思いますが、操作された感が後からやってきて何だか騙されたような気分になります。

では本題のご紹介。
https://www.youtube.com/watch?v=2RwSGuVOFzQ

〜ただし!
狩に行く前に
自分は頭がいいという
証拠を提示してください
君たちが
まわりのくだらない人たちとは
自分はちがうというのならば
その証拠を見せてください

証拠なきものは
犬人間とみなし
狩られる側にまわってもらいます
君たちが
くだらないかそうでないかを決める
素敵な審査員の皆さんを御紹介します〜

……自我の極北であると思います。ここにはナルシシズムもセンチメンタリズムもない。逃げ場もない。
反則おわり。
calibre 111
2016/08/26 11:02
calibre111様 初めまして。
コメントありがとうございます。また
歌の紹介ありがとうございます。
始めて聴きました。理解が困難な歌ですね。
理解のできないアタマの悪いワタシは狩られる側ということでしょうか?
おそらく呉智英の論では包括できないと思います。
そのあたりが反則と判断されているのでしょうか?

ナルシシズムとかセンチメンタルとか逃げ場のまえに理解がない、という感じです。

そも「くだらない人間」を「狩りたてる」のは何のためでしょうか?
何かのメタファなのかなぁ?
わからない。
毒多
2016/08/26 14:36
>毒多さん

反則というのは、自らに課したルールに背いて、こうしてコメントをしていることに対してです。まあイレギュラーです。
戻ってきたわけではない。

私は答え合わせには基本興味がないのと、歌は聴き手各自の解釈に依存するものと認識しているので歌が提示している「テーマ」について色々言うのは避けています。Beatlesの“Magical Mystery Tour”に霊感を受けたチャールズ・マンソンと彼の信奉者たちが最終的に何をしたのかは毒多さんもご存じでしょう。

以下は私の前コメントに対する一種の責任を果たすためのものです。書いた以上は補足くらいすべきでしょうから。
紹介した“飼い犬が手を噛むので”は、筋少のコンセプトアルバム“レティクル座妄想”のラストに配置された曲です。レティクル座とは何なのかは、ネットで検索すれば解ります。UFOアブダクション(ヒル夫妻誘拐事件)で知られるようになりました。

このアルバムのtrack2には“蜘蛛の糸” 、track6には“ノゾミ・カナエ・タマエ”という曲が配されています。これらを曲順に聴いてから“飼い犬に手を噛まれて”を聴くと、詩の中で語られる「くだらない」「つまらない」人たちがどういう層の人たちを指すのかが浮かんでくると思います。

“蜘蛛の糸”
https://www.youtube.com/watch?v=1G4kC3i41_A

“ノゾミ・カナエ・タマエ”
https://www.youtube.com/watch?v=xPxmbqYwgrc
calibre 111
2016/08/28 06:37
“ノゾミ・カナエ・タマエ”の歌詞にある「インチキの涙流す」人たちというのは、すなわち平穏な市民生活に順応して社会のアウトサイダーを排除する側に体良く収まっているけれども中島みゆきの歌に「感動」して、「涙を流す自分に酔ってしまえる」ような人たちと概ね重なっているであろうことは、それほど想像に難くないでしょう。

歌(音楽)ってのは悪魔的なものですから、どこをどう見ても加害者サイド・排除者サイドにいる人が被差別者や疎外された人の切なさ・アウトサイダーが痛みと共に得られるような一縷の救済を謳っている歌に対して「臆面もなく乗っかって」心を揺さぶられるよう導く力を持ってるんですね。
呉智英さんの認識は、わりと甘いと思いますよ。

“飼い犬に手を噛まれて”の「自分は頭がいい」は、詩の中で列挙される審査員の面々を見れば世俗的な意味でのインテリから基準がずれているのが解ると思います。ケネス・アーノルド、トーマス・F・マンテル、ウィルヘルム・ライヒ。実生活ではペドフィリアだったと言われるルイス・キャロル、『河童』を書き、希死念慮の挙句自殺した芥川。

詩の中の「まわりのくだらない人たちとは自分はちがう」とは、自我の到達点です。頭がいい=私は特別だ、ということでしょう。
中島みゆきさんの曲はご紹介のものも含め、私の知る限りこの到達点で止まってしまう。まっとうな市民社会・大衆・世間と呼ばれるものから疎外される“私/あなた”が真実に肉薄しているという物語。これを自己愛と感傷でドラマ仕上てに構成するイメージ。でもこれはこれで自我の発現です。
calibre 111
2016/08/28 07:02
『レティクル座妄想』は、「私は特別だ」「自分は(他人とは)違う」に到達せざるを得なかった人たちの恨みや復讐心を歌っていると言い得るでしょう。

筋少が中島さんと異なるのは、この復讐心や恨みをセンチメントでコーティングしないところです。
しかも、更にその先があります。
お前の「私は特別だ」は果たして真実なの?(自分自身に)証明できるの?という厳しい問いを己に厳しく突き付けている。これは自我がその到達点を懐疑し、否定するという審理であり裁きです。
自分を裁く自分を見出したら、もう逃げられないでしょう。自分から逃げることは出来ない。

作詞者・フロントマンの大槻ケンヂさんは、こういう心理的過負荷作業を自分に強いていたのもあってでしょう。不安神経症になってしまうんですけど。

締めに“ソウルコックリさん”を置いておきますね。
https://www.youtube.com/watch?v=q5CI9wTAfxg

〜調子のいいこと
言っておくれよ
教えてくれるか
コックリさん〜
calibre 111
2016/08/28 07:24
caliber111さん

やはりアナタでしたか。可能性は感じましたが見知らぬHNでしたので解りませんでした。反則・イレギュラーというのも、ワタシの規則ではなく、またcaliber111さんの規則の番人でもないので「反則」というワードでcaliber111さんとは繋がりません。

「歌」または「小説」でも、その他の表現にしても答えがないということ、個々が解釈することには同意します。ただ個々が考えを宣べるのは自由ですし、影響されるのもの自由、反論するのも自由だと思っています。同意を目的とする必要はないですね。
創作表現へののめり込みで「社会的な」負の影響としての極端な例としてのマンソンもありますが、「社会的な」正に向かう個もいる気はしています。(マンソンの自我がどうの?という話題はいまできるだけの知識はありません)

で、どうしましょう。ワタシとしては補足があって考えたことはあり、紹介、補足ともに感謝はしているのですが、それをレスとして書いたほうがいいのかなぁ。ほぼ自己宛になるものだしなぁ。まあいいか。
毒多
2016/08/29 13:44
島みゆきの「ふたりは」については、別snsで「聴き手は誰に感情移入するのだろう。健全な町の住民だろうか?」という皮肉をこめて短い文を添えましたが(不評でしたww)、例えハグレモノ側に感情移入したとこで、「そちらに感情移入した自分に酔っている」と言えなくはないでしょう。アタシの場合は過去の青カンと接した経験から、ハグレモノにも感情移入できずに、どちらかといえば健全な町の住民であるのだが、そこで安定したいとは思わない、、という自覚だけではな何も解放されない、では、踏み出せるのか、というと、躊躇しているわけで、、、結局はどこにも至らない自分を知っています。

ご紹介の歌歌は、正直にいえば、ワタシにとってはキツイ歌だな。という印象です。まるでワタシが名指しで責められているという感じです。中島みゆきの「ふたりは」は他者の物語として捉えていました、感動するとか淚を流すことはなかったものの、やはり結構好きです。優しいからね。
紹介の歌は本能的に「わかりたくない」としたのかもしれません。厳しさゆえかもしれませんね。
これらのことを考えると、呉智英の論のさらの先へむかう歌ではあるのかもしれません。
毒多
2016/08/29 13:45
ご紹介の歌歌が他者を責めるように歌うのが引っかかるのですが、ワタシのようなヤツに響かせるためかもしれません? 結局は、自己への問いのわけで、他者を責めて安心することの愚、他者を責めることの愚、他者と比較することの愚、はある。まあ作詞者は自己が解っているからの不安神経症なのか?
とはいえ、結局は歌では歌ってはみたもののオノレの解呪はできてない、とは言えませんか? まあ、それはワタシが言うことではなくオーケン自身の課題なのでしょうが。

いずれにしろ、ワタシは歌に入れ込んでどうこなることはない気はしています。(じゃあ、なんで歌のエントリーなんかするんだよ、と言われるかな?すみません)
でもね、ちょっと紹介のアルバムは通して聴いてみようなかな、とは思っていますよ。
毒多
2016/08/29 13:45
>毒多さん

>「そちらに感情移入した自分に酔っている」と言えなくはないでしょう

“と言えなくはない”だと二重否定になってしまうので文脈的には“とは言い切れない/とは必ずしも言えない”という意味に解釈しますね。
“「涙を流す自分に酔ってしまえるような人たち”というのは、これは私自身のことですよ。こういうのを心理学の用語で「投影」と言います。自分自身の嫌な面を他人に移すんですね。

実際私は中島さんの“荒野より”とか偶々聴いて、涙腺が緩んだことありますよ。でもそれって私にとっては、心を揺さぶられた自分に酔ってるだけなんですよ。内省するとそういう結論が出る。だって自分にとって何一つ切実なメッセージがその歌には無いもの。切実でも何でもないおのに心を揺さぶられて涙する。その臆面の無さを嫌悪するから他者になすり付ける。

但しかかる臆面の無い感情の発露は、中島さんの歌に責任があるわけではない。歌(音楽)には元々そういう機能があるんです。

でもって投影というものは、それを行う個人の妄想に大きく影響するんですよ。他人の心中は実際は見ることが出来ないのにも関わらず、他者に投影を行った上で、今度はその他者を嫌悪したり自分とは違うと切断したりする。自我がそういう他者の像を作るんですね。

もちろん現実社会では他者からの加害や疎外が存在します。しかしながら中島さんにせよ大槻さんにせよ、歌詞の中で彼らをどこの誰と名指しているわけではありません。

全部受け取る側の妄想なんです。
有名な“ファイト”という曲の「闘わない奴等が笑うだろう」の「闘わない奴等」も同じです。
中島さんが誰かを吊し上げているわけではない。
聴き手が自分で作りだすんですよ。自分で自分が嫌いな他者に投影する。
calibre 111
2016/08/29 20:07
切実でも何でもないおの→切実でも何でもないもの

誤字を訂正しますね。

さて。
“飼い犬に手を噛まれて”の詞に語られる「つまらない」「くだらない」人たちについても。
現実に「つまらない」「くだらない」人たちが存在するであろう可能性とは基本的に関係ありません。
何故そう言い切れるかというと『レティクル座妄想』のtrack1“レティクル座行超特急”にご丁寧に「妄想だよ」「妄想だよ」「妄想だよ」との囁きが入っています。でもって“ジム・モリソンが私たちのために『水晶の舟』を歌って歓迎してくれるの”と歌われます。“飼い犬に手を噛まれて”の審査員の一人がジム・モリソンであり、曲中に“『水晶の舟』を歌って……”という声が挿入されていることから判るように、世界がまっすぐ繋がっているのですよ。

全部、妄想なんです。
小人も。くだらない人も。つまらない人も。勝訴も。狩りも。
全部。全部。全部。妄想。

大槻さん(とバンドメンバーの皆さん)は恐らく、自我が妄想によりキリキリキリと締めあげられる世界を描いたんですね。

で、私が面白いと思ったのは、毒多さんが
>ワタシが名指しで責められている
>ワタシのようなヤツに響かせるためかもしれません
…と感じたことです。
この感想は毒多さん自身のものです。
私はこの毒多さんの受けた印象に対して、どうこう言うことはしません。

ただ、何故そう感じたのかを内省してみる意味はあるかも知れません。
それと私は当該のアルバムを販促するために紹介したのではなく、「自我」の発現を描写した好例として挙げたのみです。
『レティクル座妄想』は、毒多さんにはハッキリ言って向いてないと思います。止めておいた方が良いです。それでも関心があるなら、まずamazonのレビューに一通り目を通してみると良いですよ。
calibre 111
2016/08/29 20:47
追記します。

市民社会と相克する自我の発現に話を戻すと、現実の市民社会の形と自我が形成する妄想には相関関係が見られるようです。
自他の関係性が両者を包含する社会の形から影響を受けるのは当然でしょうから、妄想の中の他者と現実に存在する他者の像がある程度相似形を示すのは不思議なことではないですよね。

呉智英さんはあくまで中島みゆきさんの詞と現実の市民社会を向き合わせた上で自我について語っていると思われますが、詞は創作者の人格そのものではないですから、本来対峙させるべきは詞の中に立ち現れる虚構の(仮構された)市民社会でなければならないような気がしています。
所謂カテゴリとしての「メッセージソング」のように現実社会に向けてダイレクトに主張を発信する歌であれば、現実の市民社会と1セットで捉えることは妥当でしょう。でも物語はね。聴き手によって解釈が変わるわけですから。
とは言えここのところをゴリゴリ掘り過ぎると、創作された世界は何もかも妄想という極論になりかねないんですよね。私が言っているのはそういうことではありません。念のため。
calibre 111
2016/08/29 21:46
calibre111さん

現状のワタシの物語ですが、
まだ「言ってはいけない」(遺伝子の影響)の記憶が遺っているなか、別SNSで愚慫さんと周囲が話題にしていた「仏教思想のゼロポイント」(ブッダの原点を探るみたいな本:社会つまり生産、生殖からの離脱しか救われないのだ・・・自我などイドからの他律だww)を読みながら紹介の歌「飼い犬が手を噛むので」(社会ベースの創作)を聴いたものですから、かなり情緒不安定になっています。(情緒不安定になっている自分を嗤っている超自我もいるのでややこしいw)
毒多
2016/08/30 15:13
>「そちらに感情移入した自分に酔っている」と言えなくはないでしょう

変な書き方をしてしまいましたね。
中島みゆきの「ふたりは」について【健全】な町の一般正直者、か、他律を乗り越えたハグレモノのいずれかに感情移入しても、それにリアルな切実さが伴わなければ「感情移入した自分に酔っている」と言える、という意味です。「投影」したことでそのこと自体を満足している、ということです。

>妄想  とは、個々が個別に感じるものである、といのはそうでしょうね。自分の嫌いな「他者」に投影する、もわかります。
ワタシがsnsで書いた「誰に感情移入するんだ」(おまえらみんな【健全】な一般の普通の市民だろうが!!)も恐らくワタシは嫌っている他者多数への投影だと思います。が、そこから進んで、でもオマエもおなじだろ、とオーケンは言ってくるわけです。そこが責められている気がすると感じているところでしょう。
他者に投影で誤魔化せるならいいのですが(ホントはよくない)、くだらない、つまらないが「自分(の一部)」だと感じると面倒です。「わからない」といって逃げるか、向き合って自傷するか。完全に乗り越えるか。
毒多
2016/08/30 15:14
コメを読みながら考えていたのですが、呉智英の論は、呉智英自身の自我を基準にしている、と言えるのでしょう。中島みゆきの創作からオノレ、自我を切開しやすい、合っている、ということなのかもしれません。中島みゆきを語っているのではなく、中島みゆきの創作を通しての自我を語っている、と言えるのかもしれません。
毒多
2016/08/30 15:14
今回、中島みゆきさんと市民社会⇔自我の発現という話題に私が興味を引かれたのは、実はこのツイートをリオ五輪閉幕時に目にしたからです。

>4年後の東京大会。私だったら音楽監督は中島みゆきを使うな
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/767652826625347584

この発言者は、STOP THE KOIZUMI推進者の一人だったテサロニケさんですね。本名は田中宏和さんとおっしゃる方。田中さんは以前からの中島みゆきファンらしいです。
彼は他のツイートで「椎名林檎は日本の文化を理解していない。浅薄で粗悪」とも主張しています。
私はリオ五輪を殆ど観ておらず、開会式も閉会式もどのようなもであったか知りません。イシンバエワの出ていない女子棒高跳びを観たくらい。

呉智英さん仰るところの市民社会に対して発現する自我という構図は、私も肯ずるところです。
一方で、そうした「自我の発現」もその顕れ方次第では“健全な”市民社会側にいとも容易く吸収されてしまうのだなあと。田中さんの受容の仕方は正にそういう類のものです。臆面もないどころの話ではないですよね。
彼が「自我の発現」という意味では同じでも、大槻ケンヂさんを音楽監督にしたいと欲するとは考え難い。
開会・閉会式の音楽が「オリンピックの精神もスポーツによる平和的交流も、妄想だよ!妄想!」なんてやられたら、堪らんでしょうから。

まあ個人的には、妄想でしかないと思っています。

大槻さんだったら式典に矮人のボードヴィリアンなど出して「萬国より集いし筋肉フリークスの絢爛たる見世物小屋〜開幕に御座います〜」なんて講釈させるかもしれませんがね。。
calibre 111
2016/08/30 19:47
脱線ついでに書くと、リオ五輪開会式の監督はフェルナンド・メイレレスが務めたそうです。彼は『シティ・オブ・ゴッド』『ブラインドネス』などの映画を監督した方で、監督としての力量には確かなものがあります。どちらも面白い映画ですよ。扱っているテーマも含め。特に『ブラインドネス』は毒多さん向きかも。

それと、開会式ではカエターノ・ヴェローゾが歌ったそうです。
人選的にはかなり渋好みなところを選んだものだなあと感心しました。

しかしながら。
私はこの二人がリオ五輪に関わったということに対して、結構がっかりしましたよ。この人たちは五輪のような市民社会が要求する「大きな妄想」から距離を置く人たちだと思っていましたからね。

私は自我というものは妄想と縁切りすることは出来ないものだと見ています。というより、常に妄想を生み出してしまうのが自我。特に仮想世界の領域が拡大する一方の社会では、妄想も現実社会の方向性と軌を一にして拡張するのが当たり前だと思います。

だからこそ、個人がその人固有の妄想と静かに向き合う必要があると思っています。

自分の中に“手を噛んでくれる飼い犬”を育てること。

「大きな妄想」に呑み込まれて自我を取り込まれてしまわないように。ま、間違った思想かも知れませんけど、それで誰が困るわけでもありませんから。全体主義者から嫌われるくらいで。
calibre 111
2016/08/30 20:10
calibre111さん

テサロニケ氏といえば「世に倦む日々」ですね。
ワタシがブログを始めた当初、当時の周辺ブログ、つまり護憲リベラル系左派政治ブログの諸氏から相当バッシングを受けていたという「印象」がありますが、揉めたのはワタシがブログを始める前なので「印象」しか遺っていません。何やら「アタマ」がよい人とかどうとか。でもさ、
中島みゆき以前に「東京」大会やら「音楽監督」(=演出)を興味の対象として言及するのは、ワタシとは根本が違う気がします。

>“健全な”市民社会側にいとも容易く吸収されてしまうのだなあと。田中さんの受容の仕方は正にそういう類

はい、仰るとおり、受け取る個々によってどうとでもなる例ですね。こうした解も否定するわけにはいかない。ワタシはアホじゃないの、とは思うけど。中島みゆきは何も言わないでしょう。
毒多
2016/08/31 14:01
後段、登場人物はほとんど知らないのですが「シティ・オブ・ゴッド」だけは観て知っていました。ただ、監督はなんとなく、スパイク・リーだと勘違いしていましたがorz
「シティ・オブ・ゴッド」でしかリオの印象がなかったので、オリンピックで何かトラブルが起きる心配をしていましたが、何事もなかったようです。現実の問題として人々が殺されたり、傷つかないほうがいいと思っています。

オリンピックが妄想というのはそうかもしれませんね。誰かが「国家」は共同幻想と言ったそうですが、その「国家」対抗運動会は幻想の上塗りで妄想である、ってのは少し笑えます。
自我が妄想と縁切りできない、というのは、人間は社会的動物でしかあり得ない、と繋がってくる気がします。他律的自我ですね。繰り返しになりますが、いったん社会の妄想と絶縁しないと自律的自我は芽生えない、ということを呉智英は言いたかったでしょうが、その自律的自我でさえ、実はイドに対する他律だ、ってブッダは言っちゃうのですから、凡夫にはお手上げです、笑。

「大きな妄想」、ワタシは社会だと思っていますが、自我が取り込まれないようにすることは、ワタシは間違いだとは思っていません。
毒多
2016/08/31 14:01
calibre 111さん

>私は自我というものは妄想と縁切りすることは出来ないものだと見ています。というより、常に妄想を生み出してしまうのが自我。
<
>だからこそ、個人がその人固有の妄想と静かに向き合う必要があると思っています。
<
>自分の中に“手を噛んでくれる飼い犬”を育てること。
<

すごく響きました。
アキラ
2016/09/02 00:18
お、アキラさん、お久しぶり、おはようございます。
元気そうでなによりです。^^
毒多
2016/09/02 08:30
その人固有の妄想と向き合う必要があることには共感できるんですが、「静かに」と条件がつくのは、なぜ? と思ってしまいます。

いえ、それよりも、「静かに」とは、どういうことなのか? 

〈いのち〉というのは、結構、騒々しいものだと思います。騒々しくても、その芯が「静か」というのはわかりますが、それは騒々しくしてはだめ、ということではないですよね。

また、大槻ケンヂさんの手を噛む飼い犬の歌は、芯もまた騒々しいと思いますけど...
愚慫
2016/09/02 12:21
毒多さん

遅レスですが。

>「ふたりは」や「昭和枯れすすき」ほど追い詰められた感がありませんね。

そう感じますか? その感じは共感できますが、たぶん、理解の仕方が僕とは異なります。『名もなき詩』の“余裕”は「まだ追い詰められていないから」ではなくて、「追い詰められたところからの回帰」だから――というのが僕の理解です。

この歌には、もはやゲマインシャフト的な色合いはありません。個々が独立している。その上で「汚れ物を喰ってやる」と言う。「ちょっとぐらい」と保留が付くところがそれらしい。

また、「あるがままの心で生きられない弱さ」を「僕だってそうなんだ」と言いつつ、でも、そこに留まろうとは思っていませんよね。弱さに負けていません。傷ついていくことも肯定します。

『昭和枯れススキ』なら、「アンタも私も弱い」くて、だから「いっそキレイに死のうか」になる。負けている。

負けている、負けていない、は大きなベクトルの違いです。その点が「余裕」の差になっている。だけど、どちらもともに共同性を目指していることは同じだと思うんです。

自我から出発する共同性への歌と、共同性に埋没しようとして自我を否定する歌と。どちらにせよ、共同性が大前提になっていることに変わりはない。
愚慫
2016/09/02 13:29

もっとも『枯れススキ』が「キレイに死のうか」とキレイゴトを言うのと同じく、『名もなき詩』の方もキレイゴトの印象はぬぐえません。個々が独立する市民社会から生まれるべき「理想」です。理想の消費です。

現実の市民社会は、そんなキレイゴトでは完結していない。その点、大槻ケンヂは鋭いですね。
愚慫
2016/09/02 13:31
愚慫さんのブログエントリ(まさか関連エントリが立つとは予想外でした)も踏まえて、書きますね。

「自己の生存にとって都合がよかった」だけでは満足できない/足りないのが自我というもので、自分自身がそうだったんですけど、幼少時から暮らしが快適だろうが幸福だろうがどんどん妄想を産生するのですよ。
その中には、自分にとって善いものもあれば、悪いものもある。
経験の中から、悪いのをひとつだけ書きましょうか。小学校四年くらいの時でしたかね…夢を見ました。内容は概ねこんなものです。

学校から当時住んでいた集合住宅の自宅に帰って来ると、自宅に通じる階段の形が妙に違っている。おかしいなと思いつつ階段を上り玄関のドアを開けようとするのだけれども、鍵が合わない。ブザーを押しても誰も出て来ない。
訝しんでいると、ドアの向こうから何か豚が呻くような、奇妙な悲鳴のようなものが聴こえる。怖くなって向かいの部屋のブザーを押すと、見たことが無い人が出て来る。
自宅を指さして、この家の人たちは一体どうしたの?と尋ねると

「ああ。そこの家族はみんな発狂してしまって、部屋に閉じこめられているの」

ひょっとして棟を間違えたのかと思い外へ出て確認するも、やはり自分が住んでいる棟に間違いはない。もしかしたら何か悪い夢でも見ているのかと、泣きながら何度も繰り返し繰り返し棟の外へ出てぐるぐると辺りを回ってから部屋に戻るが、やはり階段の形は奇妙で、ドアの向こうからは豚の悲鳴のようなものが聴こえる……。今でもその断片をリアルに思い出すことが出来る。
でも、隣人の貌だけが思い出せない……。
calibre 111
2016/09/02 18:35
この夢を見る切っ掛けとして思い当たるものは皆無で、けれども以降自分は一種の発狂妄想みたいなものを抱えるようになりました。自分が発狂するのではないかという妄想。ただ、日々の社会生活は他人同様ごく普通にしている。

夢は意識下の世界からやってくる。そして妄想は自我が作る。
統合された物語が瓦解することが恐ろしいから。
恐ろしいと思っていられる間は、まだ自我は崩れていないだろうから。ところが「恐ろしい」が大きくなり過ぎれば、今度はその恐ろしさに自我が潰されてしまう。

妄想が強くなり過ぎないよう、妄想を妄想と認識するために控えているのが「飼い犬」。イメージとしては自我のモジュール/サブユニットかな。力関係は自我>飼い犬だけれども、噛んでサインを出すくらいの力はある。
「静かに」というのは、飼い犬の力はそんなに強くないから。
興奮や熱狂の中では噛まれても気付けない。

自我は自ら作り出した妄想に喰われてしまうことがある。
その自我が、自己の生存にとって都合が良い/悪いのどちらのプロセスから形成されたものであれ、さしあたり自前の自我でやっていくしかない。
である以上自我を最終的な瓦解から守る安全装置が必要になる。

市民社会の要求する妄想とは経路/毛色の異なる病理的な妄想の話になってしまったものの、前者は前者で他者と交換可能な妄想であるが故に数の力をもって影響を与えてきます。
恐怖感のような強い感情を伴わない分厄介かもね。

ところで、個人的な発狂妄想は成人してから殆ど収まりました。
それでも元々体質的に「統合」が緩いタイプらしく、たまにもの凄くリアルな幻聴などが起きると「そのうち狂うかもなあ」と感じることがあります。
calibre 111
2016/09/02 18:59
calibre 111さんが体質的に「統合」が緩いというのは、なんだか腑に落ちます。僕は逆に強すぎるのかも。(^_^;)

お話しを伺いながら思ったのは、その「妄想」こそ、「統合」なんだろうということです。

通常の人間は、そうした「統合」は寝ている間、精確にはレム睡眠の間、「夢を見る」という形で行われるものではないかと思うんですが、いかがでしょう? 覚醒している間に身体が得た情報を“都合良く”統合する過程で見えてしまう心象風景。

アナロジーで語ると、コンピュータのHDの断片化の解消というのがありますよね。本来、ひとまとまりになっているデータ群が、“HDの都合”で細分化されて記録されてしまう。そのデータを整理することで、効率よくデータにアクセスできるようにする。

そういうソフトウェアがあって、断片化の過程を視覚化してくれるじゃないですか。夢は、そのアレでは、と常々思っています。

そうした「統合」が、「夢」という場所(?)時間(?)でおこるなら、自制が働く。映画がどれほど実感のあるものだろうと、映画だという意識があれば自制が働くように。ところが覚醒最中に「統合」が行われてしまうと、そうした自制が機能し得ませんよね。

そういうことが起ったのかな、と。勝手な推測ですが。
愚慫
2016/09/03 08:16
僕が言いたいところの「物語」は、上記推測に基づくなら、「統合」後の、都合良く編集されたもののことです。

「統合」もまた生存にとって必要なことでしょうから、情報がどのような形で編集されるにせよ必ず起る、いわば生理的現象なのでは、と。
愚慫
2016/09/03 08:20
愚慫さん、おはようございます。

cabire111さんとの対話は興味深く拝読させていただいています。

ワタシへの「ミスチル」の解説レスは、「なるほど」という感じです。初見のワタシの理解は書かれたところまで至りませんでしたが・・・。
ただ、「ふたりは」にしても「昭和枯れすすき」にしても、そして「名もなき詩」にしても、創作を鑑賞するように余裕をもって見つめることができました。「上から」ですw。

「飼い犬」はダメだった。恐らく自我以下のエスがヤバイと感じたのでしょう。「わからない」と断ち切ろうとしました。また正体の解らなかった紹介者に敵意さえ持ちました。過去の負の対峙した者への妄想に自我が囚われそうになりました。(calibre111さんの正体が解りホッとしたわけですが、繰り返しますが紹介に感謝しています、、)
ワタシのエス、身体、妄想はあの過去のあの経験(寄せ場末期)という「忘れようとすることで蓋をした」トラウマが呼び起こされると感じたのでしょう。
今は、「わからない」としようとしたことが、面白いと感じるぐらいの余裕があると思いますが、、、思っているんだけどなぁ、きっとそうに違いない。はたして統合されきっているのかどうか、、、それとも、まだ、ありのままではないのか、、、
毒多
2016/09/03 08:54
>愚慫さん

仰ることは概ね了解できます。特に「物語」についての解釈はそれほど私と違わないと感じます。

>覚醒している間に身体が得た情報を“都合良く”統合する過程で見えてしまう心象風景。

これは理屈としては理解できるものの、実感としては何とも言い難いですね。個人的な感覚では、夢を見ている時は統合が極端に緩んでいる状態で、夢そのものも筋のあるエピソードどして語れるようなものではとてもないですからねえ、大概は。支離滅裂な内容の上に、知らない人が沢山出て来る。ただ、この「知らない人」というのは街ですれ違った人とかTVで一瞬目に映った人なのかも知れません。
夢を見ている時は、自我が幾つかに株分かれしている印象はありますね。
「幻聴」は夢を見る時よりは覚醒状態にずっと近い時に起こるもので、極めて現実感がありながらも、これも全く意味内容を持たないものばかりです。

>毒多さん

毒多さんはわりと精神状態が文章に出やすいので、ああこれは「攻撃された」と感じているなあと推測して、補足をした次第です。
あれだけ、自我の切り立った状態を直截に描写した歌が「わからない」ことはまずないだろうと。特に毒多さんのように思索を試行し続けている人にとっては。
「責任」を感じたのはその辺のことがあってです。
calibre 111
2016/09/03 11:29
>calibreさん

あくまでリクツですが、「夢を見ている時は統合が極端に緩んでいる状態」は、そうだと思いますよ。「統合」というのは、後から表われるものでしょうから。それも、以前からそこにあったような顔をして。

その点、言葉と同じ性質を持っています。言葉も「後から出てくるもの」なのに、あたかも「前からそこに居た」化のような顔をする。その顔を眺めて、「ああ、オレはこんなことを考えていたんだ」と気がつく。


「統合」も同じですよね。「統合」されて始めて、「ああ、オレはこんな人間なんだ」と気がつく。

ふつう、人間は「言葉以前の状態」を想像してみようとしませんし、もとより不可能ですし、同様に「統合」以前の状態を考えてみようともしない。だけど、何らかの原因で統合以前の状態が見えてしまうことがあると、自我がゲシュタルト崩壊してしまう。全部ではないにせよ。そうなると、不安ですよね――というのも、僕の想像ですが。
愚慫
2016/09/04 08:12
>精神状態が文章(言葉)に出やすい

笑。ありのままの自分っぽくていいのか、社会性が貧困で生活しにくいのか?笑・・・
振り返ると結構不思議な感覚です。
最初は、本当に「わからない」でした。今考えると、「わからない」ではなく、「わかりたくない」「わかってはいけない」という自我以前の司令だと思います。統合以前を後から感じたとなるのか?
こういう解釈も、後で言葉にした物語かもしれませんが。
はたして自我以前が、経験からのものか遺伝か、輪廻か、業か、固有なのか、共有なのか、妄想なのか、ワタシ(自我)には何も解ってはいませんが。
毒多
2016/09/04 08:42
先刻、転寝していたら夢を見ました。
10〜20代にはかなり親しかったのだけれど、今では全く交流の無い友人が脈絡なく現れて「前に(二人で)話した、カーネル・サンダースしよう」と私の腕を取って言ってくる。
夢の中の私は「カーネル・サンダース」の意味が解っている“ようで”「10月になったら落ち着くから、その時」と答える。

目が醒めると私には「カーネル・サンダース」の意味が全く解らない。一般にはKFCの創業者(像)を指す言葉だけれども、当該の夢ではこれを指していない。そして現実社会の中で、友人と私の間にはカーネル・サンダースを何らかの隠語として設定するコミュニケーションが一切存在しない。

もう少し細かく見ると、夢の中で友人と会話している私はあくまで主体的にそれを認識していて、友人の「カーネル・サンダースしよう」に対しては都合の良い時期を考えて答えている。ところが「カーネル・サンダース」については理解だけがあって、「具体的な」内容への認知が無効になっている。その具体的な内容が無いことを、外部から別の私が「友人と話している私は意味が解っている“ようだ”」と認識している。こちらの私は(話中における)カーネル・サンダースの意味を解らないと自認している。

こういう現象?を「統合へのプロセス」と捉えるのが、自分には難しいのですよ。変性された意識下で、現実の言葉が他の意味を付与されていてしかもその意味内容そのものは何か解らない。そして会話している私とそれを見ている私とでは、認知のレベルが異なっている。

言葉と意味内容の分離みたいな作業を脳内でしているのかも知れませんが、それが何故「カーネル・サンダース」なのかも解りません。
calibre 111
2016/09/05 01:10
話が自我の統合の方へ寄ってしまったので私の最初のコメントを呼び返すと、「中島みゆきさんにインタビューした際に何をどう質問しても中島さんは自分が作った物語の中から出て来なかった」という小田島久恵さんの回想から私が感じたのは、中島さんの歌って(私から見て)非常に閉じているというか気密性の高い印象があって、なるほど私の印象通りの人だなあというものでした。

中島さんの歌を幅広く聴いているわけでもなく、聴いた範囲だけで判断するのは軽率かもしれないものの、彼女の歌を聴いていて「認知の扉」のようなものが不意に開き、扉の向こうから得体の知れないもののシルエットが覗いて見える…というような体験が私には無かったんですね。聴いていて不安やアンバランスを感じさせるところが無い。
単に詞の問題ではなく、音の鳴りについても同様です。自分にとっては後者の方が大きいかも。呉智英さんの仰るように中島さんの歌には自我の発現が見られると思いますが、彼女の歌は(描いている内容の)辻褄が合い過ぎているのです。考えてみれば、センチメントと不安とは互いに相性悪すぎますからね。両立させるのは難しい。
calibre 111
2016/09/05 01:49
おまけ。
結構政治的な内容の歌を歌うバンドなんですけど「赤ずきん」と名付けられたこんな曲を作っています。曲によって使用言語が異なり、この曲は言葉の壁があって何を歌っているのか解らない。でも音によって伝わる何かがあります。

私は、自我が非言語的な部分に強く顕れるものだと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=P7GyC7WMXOs
calibre 111
2016/09/05 02:24
毒多さん

いつものように調子に乗って、話をつづけますね。

『名もなき詩』が「負けていない曲」で『枯れススキ』が「負けている曲」という対立構図は、これを社会に当てはめると逆転すると思うんです。

『名もなき詩』は名曲だと思います。個人的にですが。その点『枯れススキ』は微妙ですが、どちらも広く社会に受容された流行歌であることには違いない。

僕の中の『枯れススキ』の受容は、ガチではなく、むしろネタに近いものだったということです。流行ったのは子どもの頃でしたが、子供心にも『枯れススキ』はネタだということは知っていた。

いえ、現実、そうしたことがあることも知ってはいました。『枯れススキ』は、ピンク・レディーの前、小学生低学年の頃かもう少し前だと記憶しますが、そのころは、友だちのなかには、いつも汚い服を着て、がりがりで、給食を貪るように食べるクラスメートやら、突然、理由も告げず転校していって、先生に転校先を訪ねても、困惑した反応しか返ってこないというような出来事はありましたからね。

だけど、そういうことも含めて、深刻に受けとめていなかった。子供だからというのを差し引いても、大人自体がそういう事態を、拒絶ではなく、距離を置いて受けとめていたような印象があって、そのことが『枯れススキ』をネタとして、つまり余裕を持って受けとめることを支えていた、そんな印象があるんです。
愚慫
2016/09/05 11:18
ところが『名もなき詩』になると、そうした余裕のある受容のイメージがありません。歌のメッセージは余裕のあるものですけど、それが受容されるのは、むしろ受容する側に余裕がないからであるような気がしてならない。

余裕のある人間からしてみれば、『名もなき詩』は結構、うざったいんですよ。なにを当たり前のことを――、という感じかな。そういう人間にしてみれば、『枯れススキ』のような歌の方が心地がいい。オレは余裕あるんだよね――と、自尊心をくすぐってくれるようなところがある。自分自身への自身を前景化させてくれるとでも言えばいいのか。

みゆきさんは、時系列的には『枯れススキ』と『名もなき詩』の間ですよね。この間に、日本も近代市民社会なるものが浸透した。『枯れススキ』のゲマインシャフト的なものから、市民社会のゲゼルシャフト的なものへと社会のシステムが変わった――

――と、ここからはみゆきさんの歌の解釈に進むのが順当なんでしょうけど、まだうまく言語化されていないし、特にする必要も感じないので、切り上げます。興味があれば、続けてください(と放り投げるw)
愚慫
2016/09/05 11:27
calibre 111さん

calibreさんが、「統合として難しい」と感じるのは、ごく自然なことだと思います。

それが「統合の過程として見える」のは、あくまで僕が観察者だからなんです。僕の方のコメント欄で「観察者/当事者」という問題提起をしましたが、まったく同じことがここでもあって、当事者から見える風景と観察者から見える風景は、おそらく違う。

身も蓋もありませんが、「統合に見える」のは、それが僕自身の「統合」には何の影響もないからでしょうね。仮に僕にテレパシーのような特殊能力があって、calibreさんの「統合」に影響されてしまったら、そのように見えなかっただろうと想像します。

あくまで想像ですけどね。

その点、僕は逆で、夢を見ているという自覚はあるんですが、何を見ているか、ほとんど思い出せません。僕は常に何かを考えているような人間ですが、それが佳境に入ったと思うと、夢を見る。普段から夢は見ているに違いないんでしょうけど、そういう時は、目覚めたときに「夢を見た」という自覚があるんです。だけど、憶えていない。憶えていなくて、考えていたことが言語化されている。

たぶんですが、夢が見えてしまうと言語化が妨げられるんでしょうね。だから、無意識が夢を排除しているのでは、と思ったりします。「排除」が「自覚」として意識上に立ち現れるのかな? と。
愚慫
2016/09/05 11:47
文章の意味が曖昧なので、修正です。

calibreさんの「統合」に影響されてしまったら、「統合」だとは感じなかったでしょうね。



改めて続けますが、「統合」は「排除」とセットなんだろうと思います。だから「排除」がうまく行かないと、「統合」も上手くいかない。

それからすると、白昼夢すら見てしまう(でいいですか?)calibreさんは、「排除」機能が弱い「統合不全」だと観察者からは診断することができて、そこから順当に推奨へと進むのなら、「排除」をするように心掛けましょうとなります。

だけど、当事者にしてみれば、心掛けと言われても、ピンと来ませんよね。

「統合不全」であったとしても、「統合」が為されていることには違いないわけで。強い、弱いの差はあっても。

弱いことに何か不都合があるならば、「不全」という診断は合っていることになるんでしょう。そうでなけば個性の範疇ということでいいんじゃないでしょうか? 改めていう必要は無いことですけど。

「統合」問題もあくまで個性の差として捉えることができるなら、純粋に興味深い話になると思います。
愚慫
2016/09/05 12:03
『赤ずきん』とやらを視聴してみましたが、これはダメでした。受け付けられず、途中で視聴を中断しました。

なお、自我は非言語的な部分に強く表われるという指摘には強く同意します。これも僕自身の自覚なんですが、普段から西洋クラシックという「強統合」の音楽に親しんでいることと、自身の「強統合」とは、相互に関連していると思っています。

そんな僕には『赤ずきん』は、支離滅裂に響いてしまって受容することが難しい。なにかが壊されるような感覚になってしまいます。

まあ、それはそれで、なにかが伝わっているからなんでしょうけど。
愚慫
2016/09/05 12:17
では、アタシももう少し、自我以前に正直に何かしら物語を創らないように文字にしてみますと、、、w

まあ「余裕」というのがどういうたぐいのものか、分かり難いのですが、自我がいうところの「余裕」にホントに余裕があるのか、何かを隠匿するための物語としての余裕なのか。

素の印象(ほんとのところ)では、「枯れすすき」は三文芝居を観ているような感じがします。正直にいえば中島みゆきにもそうした感じがあります。中島みゆきのほうは少し洗練された芝居。正直リアリティがありません。このあたりは、cablie111さんのインタビューのエピソードは解ります。
なんだろうなぁ、支援時代の青カンでさえ、本当にリアリティがあったかというと、やはり芝居のような気さえするというのが素です。全て芝居をみている気さえする。ところが、繰り返しになりますが、「飼い犬・・」はヤバイ。芝居ではなくリアルです。
話はとびますが、尾崎豊はリアリティを感じたな「昔は」ですが、、。芝居っぽくなかった、と感じた。いまは「じれったい」ですが。
呉智英的には尾崎豊はどのあたりに位置するのか?新興音楽的になるのかなぁ、もう少し違う何かは感じるのだが。「名もなき詩」のほうがワタシには分かり難くかったけど、尾崎豊的な「じれったさ」は感じた。が、やはり違うかな。
毒多
2016/09/05 17:06
「名もなき詩」は、
自然な自分と社会的な自分の狭間、、、とか
本能(意識下)と自我との対峙、、、とか
歌いたいのだろうか?
てなことを言うと、また、アタマデッカチとか言われるのだろうなぁ、、、笑

♪あるがままの心で生きようと願うから
人はまた傷ついてゆく
知らぬ間に築いていた
自分らしい檻の中で
もがいていいるなら誰だってそう・・・♪

「あるがままの心」自我以前・自然
「傷ついていく」「知らぬ間に築いていた檻」自我・社会
みたいな、、面白さはあるかもしれません。
面白さはあるかもしれません、、、という「言い回し」が観察者っぽいなぁ。自我っぽいというか、意識下の何かを隠匿しようとしているのだろうか? 

ただ、やはりあまり響いてこないというのが素のところです。
毒多
2016/09/05 17:07
>愚慫さん

書き方が良くなかったかも知れないので補足すると、私には白昼夢と覚醒時の幻聴、この二つの経験はありません。
稀に「見える」「聞こえる」ことはあります。しかしこれは自我の統合が緩んで起きるわけではない。
オカルト系の「聞こえる」は第三者が傍にいればその人にもやはり聞こえているんですよ。私から聞こえると指摘しなくても。

それと、自我が緩むことは自分にとって不快なことではありません。省みると、絵画/音楽/映画…いずれも自我を緩ませる類のものに魅力を感じるんですね。ところが、自我を緩ませる働きを持つものは少なからず自我の力によって作り出されている。ソフトウェア・シンセのバッチが自動生成する音楽なんかもありますけど、バッチ自体は人力で設計しているものですしね。

紹介した「赤ずきん」も、サンプリングやコラージュが緻密に配され、組み立てられています。決して無秩序ではありません。この曲の、不安を引き出す力は意図的にデザインされたもの。自我から作り出されたものと言えるでしょうが、曲にうまく同調すれば不定形のイメージがもくもくと湧いてきます。
calibre 111
2016/09/05 20:33
>毒多さん

“飼い犬に手を噛まれて”を「芝居ではなくリアル」と感じるのは、恐らく大槻さん自身にとってこの妄想が洒落になっていないからでしょうね。02:01辺りの「さあ、狩に出かけましょう!」と促す下りに物凄く邪悪なトーンがあって素晴らしいのですけれど、これ大槻さんが本気で邪悪な気持ちを込めているのだろうなと私は感じます。
声と演奏の力で感覚が開いて、邪悪なものに触れることが出来る。一瞬ね。

単に悪意が垂れ流しになっているのでなく、無駄なくシェイプされています。そこに一切ナルシシズムやセンチメンタリズムが入り込んでいないところ、弾丸が正確に的のど真ん中を射抜くような美しさがあります。
異形の美しさ。
calibre 111
2016/09/05 20:57
追記しますか。

>感情を操作する歌を作るのが巧い人だなとは思いますが、操作された感が後からやってきて何だか騙されたような気分になります

自分で書いていて可笑しな話ですね。センチメントを操作されると「騙されたような」気分になり、不安や悪意を操作されることには一種の魅力のようなものを自分は感じている。
「市民社会」を巧いことかませて仕分けることは可能なものの、辻褄合わせになってしまいそうです。

切り口を変えると、恐らく自分にとっては不安や悪意には感覚を開かせる力があるんですね、感覚が開くことと自我が緩むことは相互に近いところにあるらしい。ほら、自我を持たないとされる生物にも不安や恐怖の感覚はあるじゃないですか。昆虫だって不安になると転移行動を起こしますよね。

自ら歩み寄って断崖の縁に立ち、崖下を見下ろすのに似た感覚。自ら敢えて精神の不均衡に踏み込もうとする行為。スリルを求める感覚と似ているように思います。
calibre 111
2016/09/06 02:07
すみません、レスにもなににもなってませんが。

ちょっとというか、だいぶ戻るかもしれませんが、自己確認みたいなものも含めて、、何度も行ったり来たりしている気もするけど。

自我と自我以前(これ「言葉」ではなんていうの? 無意識、イド、エス、身体、本能、意識下、何か、遺伝?、本能、裡なる要求)の統合、ってやはりよく解りません。
たとえば或る日とつぜん無性に走りたくなって実際に走ったら気分が非常によくなった、、、というのは、統合といえるのでしょうか?
また、今なぜだか、あの楽曲が非常に聴きたくなって実際に聞いたら頭から内蔵から足の先まで全身が揺さぶられた、というのが統合になるのでしょうか?
食べたい、寝たい、掻きたい、排泄したい、でそれに従うのは、統合されていると言えませんか?

逆に、たとえば情報によって意識が先行しているものは、どうやっても統合しえない。
健康のために走るのがいいと言われて、知ったため、身体の要求にかかわらず毎日、時間をとって走る。精神安定のために品のいい音楽を毎日聴くのがいいから聴く。・・・というのが身体、イド、意識下と統合するとは思えません。
統合があり得るのは、いくつかの情報が意識下にのこされていて、自我が忘れたころにふと発芽する、でやってみる、・・・とうことではないか。
毒多
2016/09/06 14:56
たとえば、呉智英の論を知り、ネタとしてエントリーしたのは、アタマ(意識)でしていることですよね。それとも、それが何かを知りたいという身体の要求に応え統合しようとしているのか? ワタシの意識はネタとして軽く楽しめればそれでいい、が動機になっていますが、それより以前の意識下からの欲求があったのか?

「名もない詩」の意味あいの説明を知り、認識できたけど、身体がさほど震えていない、のは統合を欲求していない、となるのか。今はなんとも感じないがいつか時間がたったとき、ふと耳にして揺さぶられるということはあるかもしれないのか。それは例えば意味合いの説明を聞いたという経験の蓄積と他の経験の合致によって意識まで浮上してくるのか?

センチメンタルを醸し出す他者のマジックに乗って、淚するのは自己の意識下の欲求とどうかかわるのか? 他者のマジックに乗りたい意識下の欲求とうのは自己のものか他者のものか? そもそのマジックをする者は他者の意識下の欲求を引き出す目的にしているのか? 自己の意識下を観察して詩にしたら他者の意識下も引き出してる、ということになり、実は人間の身体の欲求など誰も彼も似たり寄ったりだと言えるのか?
毒多
2016/09/06 14:57
オーケンの自己の意識下の叫びとドクタの意識下の隠匿はじつは同じで、とすると意識下の領域では、自己とか他者とかないのか。それによって左右される自我とはなんなんだ、、。よくわらかないが意識下が同じでも左右される自我の現れ方は違ってくる、、これを自己と他者というのか。

さてそもそも自我とそいつの統合とはなんなんだ?

やっぱり、よくわからないな。笑
まあ、自我がすべてで、自我によって自己が左右すると勘違いしない、というだけでいいのかもしれないな。
このコメを書いたのは自我の仕業なのか、ヤツの欲求に自我が操られたのか???ちょっと楽しい気分でコメ書いているんだけど、、、、

ちょっと走ってこよ、っと。ヤツが今、めちゃ走りたがっているwww
毒多
2016/09/06 14:58
僕にとっても、自我の崩壊は不快なことではありません。そもそも〈学習〉という行為が自我の崩壊・再構築ですから。自我の崩壊を恐れていては、〈学習〉へは踏み込めません。

だからといって、自我の弛緩が快感かというと、そうではないなぁ。たとえば酒を飲んでも、酔うのは嫌いなんです。嫌いと言っても体質的に強くないので飲めば酔うんですけど、無意識のどこかで酔いに歯止めをかけようとしているらしい。酔っていても、その場で交した会話などはキッチリ憶えている。むしろ酔っているときの方が明確に憶えていたりするんです。

自我の弛緩を無意識的に怯えているんでしょうね。そして、それはおそらく、僕の深層にある「物語」が関与している。自我をキープしておかなければならない状況を強いられた経験は確かにありますから。



その推測があたっているとするなら、calibreさんの弛緩への嗜好にも、calibreさんの「物語」があると考えられます。自我を弛緩させることを強いられる経験、ですね。

>恐らく自分にとっては不安や悪意には感覚を開かせる力

自我を弛緩させることを強いられることで生まれた「物語」と、整合性があるような気がします。
愚慫
2016/09/06 15:07
>紹介した「赤ずきん」も、サンプリングやコラージュが緻密に配され、組み立てられています。

だろうと思います。そしておそらくそうした配置は、「言語化された(後の)もの」だという気がするんですけど、いかがでしょう?

言い換えれば、作者にとっては言語で説明可能なもの、ということです。


そういった類いの作品には、騙されたような後味が残るというのが僕の僕の経験則です。

そういう意味では、ミスチルの曲、というより紹介したライブ映像などは、「すでに完成されたもの(言語化可能なもの)の再上映(≠再創造)」に過ぎず「騙されている」ことを集団に埋没することで騙しているという印象を持つ。

「再創造」だと、人間は飲まれて騒ぐことなどできないものです。無言になって、ハッと我に帰ってから騒ぐということになる。

「言語化されたもの」に敢えて「騙される」というのは、すでにこのこと自体の中に何か邪悪なものがあるような気がしないでもありません。

――というのは、毒多さんのレスへの答えにもなっているような。


なお、「再創造」というのは、「統合の過程に巻き込まれる」ということですから、その過程自体は言語化不能です。
愚慫
2016/09/06 15:19
ここで話題に上っている「統合」は精神的な作用のことですけど、アキラさんの野口整体には、身体上のことであるけれども、「統合」を実際に体感できる技法があります(と、僕は思っています)。

それは、活元運動(自働運動)というもの。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/8427381.html

ヒトというのは、当たり前ですけど、身体も無意識のうちに「統合」されています。それをわざと外してやることで、身体をリセットしようというのが活元運動ですね。

以前、アキラさんから教わって、一時期ハマって、今でも時々やっています。「活元運動」という言葉を思い浮かべると反射的にあくびが出るくらいw(統合解凍のサインがあくびなんです)。

面白いですよ。身体がバラバラに動くという状態は。身体のことですから、実際に体感がある。バラバラになるという感触があると、「統合」されているという感覚もまた生まれてくるものです。

その感触があれば、自分が統合を欲している、あるいは欲していないということも、感覚として派生してくるものだと思うんですが...。


また、精神の方でそうした感覚を追及するならば、やはり「再創造」に巻き込まれた経験の再確認でしょうね。「再創造」がどういう事態を指し示しているかは察してもらうしかありませんが、毒多さんにもそういう経験はあるはずなんです。

手前味噌で言うならば、これなどがそうです。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-824.html
愚慫
2016/09/06 16:02
>毒多さん

自分が使っている「統合」「意識下」という術語は心理学からそのまま持ってきたものですよ。統合が緩んだ状態というのは、覚醒状態とレム睡眠の中間くらいの状態の時に意識しやすいですね。
愚慫さんは(自我の)統合⇔排除とか、(自我の)統合⇔崩壊という関係性で統合を捉えているようですけれども、自分の場合は全く異なります。

(自我の)統合⇔分離/遊離
統合状態から紐がほどけるようにパラパラと小さなアセンブリになって遊離していく感じですね。こういう状態の時に幻視や幻聴が起きやすいです。幻触?とでもいうのでしょうか、ひと頃は触覚だけが現実には存在しないものを捉える時もありました。

心理学といっても自分の場合20代頭の頃にユングやフロイトの著書を幾らか読んだくらいで内容は殆ど忘却しています。
calibre 111
2016/09/06 19:32
>愚慫さん

>自我を弛緩させることを強いられる経験

他の人間や社会から強いられるという意味でなら、こういう経験は無いですね。ありません。
様々な恐怖症があるじゃないですか。例えば私の場合軽いトライポフォビアです。でも、見ますよ。ピパの背中から幼体がぷちぷち飛び出て来る動画とか。見たくなるから。
ヤママユガやスズメガの眼状紋もかなり苦手なんですが、生体だろうが写真だろうが見つければ凝視します。見たくなるから。
昔読んだカラスについての本に、焚火の炎ににじり寄って来るカラスの観察報告が載っていました。そのカラスは炎が怖くて腰を抜かしつつも、這いずって積極的に炎に近づいてきたそうです。

怖いもの・不安なものって「凄く面白い」じゃないですか。統合されている状態では大人しく居眠りしている感覚が呼び覚まされるというか。

不思議ですね。愚慫さんには何ていうか…「強いられる」ということに対するちょっと病的な拘泥があるように感じられます。

眼状紋が苦手なのやトライポフォビアは、他の何かしら強いられた経験による心的外傷から転化されたものではないですからね。
蜘蛛マニアの私には関係ないアラクノフォビアも、精神分析で治るわけではなく治療には標本の蜘蛛や生体を用いて「慣らしていく」メソッドを用いるそうです。森田療法に類似していますね。
重度のアラクノフォビアは蜘蛛が出た部屋に入れなくなったり、spiderという文字列に拒絶反応を起こすとのこと。
でもアラクノフォビアの殆どは、毒蜘蛛の咬傷被害とは無関係なんです。蜘蛛が何かを強いたわけではない。
人の感覚がそのように開いてしまうことがあるのでしょう。
calibre 111
2016/09/06 20:05
>言い換えれば、作者にとっては言語で説明可能なもの、ということ

>そういった類いの作品には、騙されたような後味が残るというのが僕の経験則

でしたら、愚慫さんが西洋古典音楽を愛好する理由が私には良く解りません。西洋古典音楽は、旋法にせよ和声構造にせよ調性にせよ、音楽言語の集大成ではないですか。演奏家も聴者の感情を操作する技量を身に付けるために血の滲むような訓練を積むわけで……。
拙い管楽器の演奏者であった自らの過去を省みても、五線譜に記入された様々の音楽記号や指揮者の解釈はほぼ聴者の感情を操作するためのものですよ。
とりわけ合奏は個々の奏者が自己表現として気ままに演奏していたら楽曲として成立しませんからね。聴者の感情を操作するために、指揮者が奏者を操作せざるを得ないとも言えます。

愚慫さんはオリヴェロスやフランソワ・ベイルのような調性や主題、展開、つまり楽理や定型的な作為をほぼ放棄した「現代音楽」を好まないですよね。
calibre 111
2016/09/06 20:27
YouTubeのリンクアドレスをべたべた貼るのも頭が悪そうなのでこれで「切り」にします。

https://www.youtube.com/watch?v=JCUPc9zVfyo
https://www.youtube.com/watch?v=r9_yFn4AZe0

音楽から感情(の操作)を完全に抹消してしまえば、例えばこういうものになります。個人的に最も好むタイプの音楽はこういうものかも知れません。
ただ、こういう還元的欲求を追求した音楽もやはり自我の発現としか言いようがないのであって、そもそも還元的欲求とは自我の産物に他ならないでしょう。
そして、かかる音楽の出現は市民社会(に定着した既存の音楽)からの分離の意志が働いていると考えます。この手の音も登場から20年〜四半世紀を越えて、それなりに市民社会に吸収されていますけれどね。
calibre 111
2016/09/07 07:26
ええ、僕は「強いられること」に強い関心を持っています。『アンチ・オイディプス』(←ググってください)の視点です。

僕が病んでいる可能性はもちろん否定できませんし、自分でも否定するつもりはありません。で、もし病を得ているとするならば、「強すぎる統合」のためだろうと思っている。病んでいる社会(これは明らかです)を、病んでいるからといって排除できずにいる――。まあ、これとて想像ですが。
愚慫
2016/09/07 08:55
>西洋古典音楽を愛好する理由が

おお、その疑問を突きつけてきますか。(^o^) そこのところは、上のコメントを書きつつ浮かんできた(けれど、書く必要はないと判断した)思索が答えになります。

西洋音楽が「集大成」というのはその通りです。この「集大成」というのは、言語が音楽へも侵入してきた結果として、「集大成」されることが可能になったという性質ものもだと思うわけです。

操作する云々という感触も、それは音楽を奏でるという行為の中に言語が侵入してきたからこそ生まれる感触で、それ以前は、音楽は没頭するもの、自我を埋没させるもの、「祈り」のようなもの。だからこそ、西洋においてだけでなく、音楽は宗教に欠かせないものなんでしょう。

ところが、神が死んで社会が人間化していった西洋では、音楽にも「人間の言葉」が侵入していった。モーツァルトの頃くらいまでの作曲家は多作でした。モーツァルトは35年の生涯で600曲以上を残した。ベートーヴェンになると、50年以上生きて150に満たない。

なぜこのようなことになったかというと、作曲に当たって「考える」ようになったからです。それを始めたのはベートーヴェンで、それ以前は、楽譜は「考えて作るもの」ではなく「感じたままを書き留めるもの」でしかなかった。
愚慫
2016/09/07 09:07
現代でも、ポップス系の作曲は「考えるもの」より「感じたままのもの」でしょう。音楽系の大学は数多ありますが、なぜかポップス系の人には音楽大学卒業者は少ない。「考えること」を叩き込まれてしまうと、「感じること」が上手く行かなくなるからなんでしょうね。

(そうしたジレンマを、例のゴーストライターは感じていたのだろうということは、以前、記しました。)

さて、では、考えることで何が起きたかというと、(僕の言葉で言う)「統合」の完成です。「考えて」作曲した者にとっては、作品はすでに完成品。完成品であるという立場から聴衆に向かえば、仰るようにそれは「操作」になる。

カラヤンがまさにそうなんですよ。彼自身は「操作」とは思っていなかったでしょうけれど、目を閉じて、自分だけの「完成された音」を求め、提示した。すると、「完成された音」に酔うことはできるかもしれませんが、聴き手はそこから何も得ることが出来ない。すると、酔った聴き手に残るのは「操作された感」になる。

カラヤンと比較の対象になるのはフルトヴェングラーですが、彼の方は、音楽は「演奏という行為を持って完成させるもの」だと考えていた。そして、オーケストラを指揮するという行為は、「完成のためのコミュニケーション」であって、楽譜は「コミュニケーションのための叩き台」に過ぎない。

「過ぎない」と言いましたが、それは偉大なものだと崇敬している。だから、そのコミュニケーションは、自身を未完成なものだとみなして、作品(楽譜)というものへむかっての「統合」過程になるわけです。すると、聴き手もそこへ巻き込まれてしまう。「統合」過程に巻き込まれると、“何か”が聴き手に残る。
愚慫
2016/09/07 09:25
作曲者の「統合」、作品としての「完成」が聴衆に向かっては閉じたものになってしまう――このことに気がついたのは、ワーグナーです。彼は、緻密に作りあげた、操作てんこ盛りの作品を上演するに当たって、自身が指揮したのではダメだと感じた。そこで、楽団の指揮を専門とする指揮者を生みだした。ハンス・フォン・ビューローという人なんだそうですけどね。それ以前は、専門の指揮者というのはいなかったんです。

これ以降、指揮者は西洋音楽の花形になっていきます。それでは、花形はソリストだったんです。歌手、あるいは楽器の名手。そういう人は、ライブこそ至上ですから、音楽とはそもそも「演奏という行為でもって完成させるもの」。楽譜があったとしても、叩き台に過ぎないというのは、考えるまでもないことだったんです。

僕が現代音楽を好まない理由は、「考えること」があまりにも介入しすぎていると感じるからかもしれません。このジャンルになると、聴き手ですら「考えること」を強いられてしまう感がある。

演奏者たちの「統合」に巻き込まれて「内発的に考える」のと、「考えなければ理解できない(楽しめない)から考える」のとでは、まったく異なるんです。後者には、それこそ強い捜査感を感じる。なにか、無理矢理に良い姿勢を強要されている感じ。それが確かに良い姿勢であったとしても、当人にとっては苦痛です。
愚慫
2016/09/07 09:36
おはようございます。

「枯れすすき」からクラッシックまで行ってしまいましたね。
もうワタシには「おお、そうなんだ」と読むことしかできません。ただ、

>「統合」に巻き込まれて「内発的に考える」のと、「考えなければ理解できない(楽しめない)から考える」のとでは、まったく異なる

という感触は解ります。
これって、音楽の楽曲だけなのかな? と考えてしまいました。
「考えなければ楽しめないから考える」ということは基礎知識や経験や思索経験の不足などによってチョクチョク対面します。例えば野口整体の例をだされても、考えてしか楽しめない部分は致し方無いし、その楽しみ方では分かり得ぬということも解っています。
ただ、「楽しめない」の裏「楽しみたい」という部分は、意識下より内発的に発した部分ですので、完全に意識先行ということでもないと思っています。

音楽の楽曲だけかな、はたして思索というのは、考えることを強いるものであるのか、内発的発芽欲求によって行われるものか、とうぜん後者だとは感じますが、ときおり前者に嵌まることもあるというのが実感です。
毒多
2016/09/08 09:46
すみません。西洋音楽への嗜好は「僕の大切なところ」なので、いつも以上に暴走してしまいました...(^_^;)

>これって、音楽の楽曲だけなのかな?

そんなわけありませんよね。

ここは

学んで思わざれば則ち罔し。
思うて学ばざれば則ち殆し。

が適切な言葉だろうと思います。

〈学習〉という行為はそも内発ですが、内発をより高める知識というは確かにある。内発を抑圧する知識も、また。

クラシック音楽の例を引き続き使うなら、calibreさんが指摘したように、「他者の感情を操作する技法」は高度に取得しなければならない。これはつまり知識です。だけど、それだけでは内発が起るわけではない。内発を起こす「何」かあるんですね。

哲学でもそうです。よく、「哲学(史)を学ぶ」ことと「哲学する」ことは違うといいますが、ここもまた内発の生むの差です。「哲学する」のに「哲学を学ぶ」ことは有用ではあるけれど、必須ではない。ただ、「哲学する」だれかと有意義なコミュニケーションを交したいのなら、つまり「内発的統合」に巻き込まれたいのなら、「哲学を学ぶ」ことは、ほぼ必須でしょう。

そうすると「巻き込まれたい」から「学ぶ」という動機付けが起きる。「わからない」から「巻き込まれてくいいや」であるなら、まあ、その程度の関心でしかないというだけのこと。でも、「ここになら巻き込まれたい」というのは、あるでしょう。「巻き込まれたい」と思っていれば、いつかは出会うはず。

こういうのって、子どもに言って聞かせる類いのものじゃないですか(笑) ただ、大人は言うだけではないということは示さないと。「オレはこんなふうに巻き込まれたんだ」と言いたいでしょ? それは、大人同士でも同じで。

ただ、それだけってことでいいんじゃないでしょうか?
愚慫
2016/09/08 10:54
あ、誤変換。

「内発の生む」ではなく、「内発の有無」でした (^_^;)
愚慫
2016/09/08 10:56

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歌謡曲「昭和枯れすすき」のその先にあるもの 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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