毒多の戯れ言

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zoom RSS 「自助」か「共助」か

<<   作成日時 : 2016/07/06 08:56   >>

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今朝の新聞に載っていたタイトル。
下界では相変わらず陳腐な物語が繰り広げられていなぁ、と目を落とす。
あらら相変わらず、否だ、が喋っているのか。もとい稲田だった。
喋っている内容も相変わらずだなぁ、と思うとなんとも懐かしい。
そういえばブログで政治ネタを書くのは久しぶりだなぁ、笑

昔なら、このアホ自民がぁ、アホ稲田が、キィキィと条件反射でなっていたところだが、若い肌感覚での条件反射というのも元気ばかりが先走ることもあるな、と歳をとると感じる。

で、今はどうなんだ、と問われれば、
まあ「自助」が正解なんだろうな、と感じる。
もちろん自民や稲田がいう「自助」とは違う。
彼ら、彼女らがいう「自助」とは過去の首相がいうところの「自己責任」とつながるのではないだろうか?
「自分(独力)でなんとかせい」である。
人間は社会的動物でしか無い限り、これは無理である。
人間は「共助」でしかありえない。
そも「自助」か「共助」か、という選択肢そのものが間違いなのだ。

では、なぜワタシは「自助」が正解だと感じるのか?
「共助」を信じて、「共助」に頼ることができるのは「自分」である。
二択という選択肢のなかで、「共助」ではなく「自助」を選ぶのではなく、「共助」を信じ「共助」を求めて「自分」を助けることが「自助」なのである。
という意味で「自助」が正解なのだ。

「自」らが他者に「助」けを求める。言葉の通りだ。

「自助」を完全に放棄して、政策や法律で雁字搦めにした「共助」「共生」を押し付けることにどれだけの意味があるのだろう。という意味では野党も・・・
ただ、これだけ「自助」が虐げられ「自己責任」が横行する社会である。政策や法律で個々の「自助」を手助けをすることはできる。
あくまで手助けである。
最後には自分で信じて助けを求める力が必要。

もちろん自民や稲田も、そうした意味で言ったのだ、と言うかもしれない。
ふん、こんなことを政治家や政党が言ってはいけない。言うことではない。
政治家がいったとたんに「自分でやれ」というメッセージが帯びてくる。
政治家がいえば立法と関連して、義務やら責任、権利にすり替わるのだから。

強要された「自助」などなんの意味をなさないのだ。

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コメント(17件)

内 容 ニックネーム/日時
「理想的な非暴力国家は秩序ある無政府状態になるだろう」とガンジーは言ったそうです。

毒多さんのいう〈自助〉があまねく機能すれば、政府を必要とするような秩序は必要なくなる、ということですよね。

そしてそれは、自由主義がめざすところでもあります。政府による規制を緩和し、自由な競争よる自生的な秩序をよしとします。

毒多さんは、右側へ転向することにしたのですか?
愚慫
2016/07/07 07:31
はいな。転向です、、、、ってね 笑

正直いえば、政治についても右・左についてもよく解りません。不勉強です。かといって勉強する気もありません。
なんだろう? その昔、左だったのも、たまたま昔の「好み」が世間的に左と呼ばれていただけで、今、言っていることがが「右」と言われるのならそうなのかもしれません。
オノレの好みの全てを、左、右、と括れるものですか?
「自助」以外についてもすべて「右」なのか?と言えばどうなんでしょう?・・・逆にこれが右なんだから、別の課題についても右なんだよね、と言われてもそれは解りません。この課題についてはこう思う、別の課題については、どう、としか言いようがない。
ワタシ自身は、どっちに振り分けられてもいいです。その振り分けがどうでもよくなりました。

この話題について言えば、全ての人が自発的な自助を発揮することは、やはり困難だと思います。個々の力不足もあるでしょうし、それこそ社会のせいかもしれない。社会のせいであるとするなら、その部分を何とかするのが政治だと考えます。政治家が「自力でなんとかせい」というのは、政治放棄でしかいない。だから風情です。

愚慫さんの説明における自由主義というものの「違う」と感じるところは「競争」かな。・・・競争でもいいのか、、、負けて初めて見えるものもあるしなぁ、、、勝ったやつが不幸ってのは、、、とはいえ、人間は競争なしでいられるのかなぁ? きっと競争が大好きなんだろうし、、、
毒多
2016/07/07 14:39
すべて、すなわち100パーセントのヒトが内発的な〈自助〉を発揮することは無理だろうと僕も思います。でも、大多数のヒトは。内発性を発揮できるはず。

そうでなければ、今頃ヒトは絶滅しているはずですから。

ヒトが絶滅せずいて、大半の人間が内発的な〈自助〉を発動できない状況にあるとするなら、そこに至る過程になにか原因があったはずでしょう。

その原因が【社会】であり、その【社会】の顕れのひとつが「政治」なんだろうと思います。

ヒトは別に競争は好きなわけではないでしょう。資源が有限だから競争しなければならないだけで。

個の生存には十分な資源はすでに確保しているにもかかわらず、さらに競争をしようとする心性は、どこか歪んでいるんだろうと思います。
愚慫
2016/07/07 16:28
大多数のヒトは内発性を発揮できる「はず」だから、絶滅せずにすんでいる。

これはそうかもしれません。もともと内発性を発揮できた、ところが発揮を阻害する何かが出てきた。または阻害されるように変わってきた。だから「はず」になった。
阻害しているのが【社会】であり、そのように変えた【政治】であるなら、そこを是正したほうが生きやすい、となり、ではどのような〈政治〉によって作られる〈社会〉がいいのか?という課題になる。・・・という整理でいいのかな?

とはいえ、政治や社会がどうあろうと〈自助〉を発揮できている人はいる。では、何故、全ての人が発揮できないのか。自らの発揮を放棄し、他者や環境(【社会】【政治】)のせいにしている。、、となってくとアドラーですね。アドラーも「自己責任」主義者だ。笑。アドラーが政治家ならやはり嫌悪感はあります、と言うと繰り返しになっていきそう。
毒多
2016/07/08 08:40
>人は別に競争は好きじゃない

これは考えてしまいます。生存資源からの生存競争は好き嫌いでなく必要だった。それがなくなったとしても競争が絶えることはない。スポーツやゲームまで含めて喜々として行われている。結構普遍的だとさえ感じる。歪みかもしれないが、歪みがデフォとなれば歪みではなくなる。・・・と感じている感性そのものが、すでに歪んだ何かの影響下にあり、当たり前過ぎて疑って感じられない歪みである。という可能性は否定しませんが、、、
毒多
2016/07/08 08:41
遊びでやる競争と生存競争では、外形や言葉が同じでも、意味が違います。

「自助」「共助」の文脈で使われている「競争」は、命掛けの生存競争の方だと解釈しましたが、違っていますか?
愚慫
2016/07/08 10:52
アドラーは自己責任の方向からアプローチして、「共同体感覚」というところに至っているようです。

共同体感覚なき自己責任は【自己責任】でしょう。毒多さんが嫌いなヤツ。もちろん僕も嫌いです。


『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』は良著だと思いますが、読み方によっては単なる【自己責任】本になってしまいます。

残念に思うのは、著者自らがアドラーを【自己責任】として捉えているらしいことです。アドラーの実践者として堀江氏あたりを持ち上げているのを知って、ガッカリしてしまいました。
愚慫
2016/07/08 11:01
>競争・・・意味が違います。
うーん、たしかにエントリーからは離れますかな、、、、、?、。
ちょっと少しばかり妄想が広がりすぎなのかな。
アタシの妄想としてもう少しあたためてみます。

>著者自らがアドラーを【自己責任】として捉えている
 とすると、それは根本的な大きな問題じゃないですか。
堀江氏とはホリエモンのことでしょうか?
その著者とは、ライターさんのことですか?
まさか元の学者さんのことですか?
後者であれば、相当ガッカリですね。
ネタ元がわかれば、ちょい読んでみたい気分です。
毒多
2016/07/08 11:57
学者さんです。

cakesに堀江氏と『嫌われる勇気』著者たちの鼎談があります。https://cakes.mu/posts/6537
愚慫
2016/07/08 14:33
競争の意味違いのことです。

“思索”を志すなら、ここはとても大切なところです。「言葉が同じだから考える」では、“思考”であり言葉の操作でしかありません。

動物は遊びが大好きです。ことに子どもの個体はそうですよね。

遊びは生存競争のための技術修練という側面もあります。技術修練が他の個体との競争になっているということもよくあります。

しかし、遊びによって獲得した技術を生存競争の場で嬉々として発揮するかというと、話は少し違います。
生存に十分なだけ獲得すれば、技術の披露は控えるのが自然というものだと思います。

そうだとするなら、子どもが遊びで競争することが好きなように、生存競争を好きだとは言えないと考えるわけです。

生存競争は、無邪気に好き/嫌いで分けられるような単純なものではありません。だけど、生存競争のための技術修得は、無邪気に好きであってくれた方が好ましい。それがたとえ競争の形を取っていたとしても。
愚慫
2016/07/08 14:48
リンクURLは間違いでした。

失望したのはこちら。
https://cakes.mu/posts/6539

最後は有料だったかもですが、最後まで読む必要はありません。
愚慫
2016/07/08 15:42
リンク紹介ありがとうございました。

ワタシにとっては、ライブドア当時からの(マスコミ経由の)言動、リンク先の発言ぐらいで、堀江氏の全てを知っているわけではないので「失望」が妥当かどうか判断しませんが、確かに堀江氏に「共同体感覚」はあまり感じず、某政治家のいう「自己責任」の意味合いを強く感じますので、(失望とはいいませんが)かなり疑ってしまします。

仮に学者さんがアドラーを【自己責任】の哲学として書いた本だとしても、学者の意図とは違った(学者にとっては)誤読がされることの面白さは感じますね。本が別人格をもった、という面白さです。
という意味で、著者への失望=本への失望ではない、ですよね?
毒多
2016/07/09 09:08
幼い動物が生存競争の訓練のために、競争的な技術向上を嬉々として行っている。大人になり技術があがれば、必要以上の競争は行わず、ましてや嬉々として行わない。ですね。ヒントをありがとうございます。

ワタシが考えたのは、
人間は、幼い動物が生存競争の訓練のために喜々として行うような競争を、大人になっても喜々として行っている。
ただ、そこに生存競争のためという意味合いはない。競争技術向上しても動物にたいして使われるような死ぬか生きるか、という生存の左右はない。

幼い動物がおこなう嬉々とした競争と人間が大人になっても行う競争の「競争」そのものは同じではないか?という疑問。

幼い動物が本能で行うだろう「競争」を、人間も本能でし続けているのではないか?という疑問。

たんに歪みでいいかな?という疑問。

動物のような生存競争がなくなった人間にとって、幼い動物が卒業するような競争を、人間は卒業できないのではないか。それは動物のような生存競争がないため、卒業できない。
この卒業できないことが重要で、生存競争というは程遠い戦争が行われるのもこのあたりが原因ではないか、という疑問はなりたつのだろうか?という妄想の意味。

アタシは思索でも思考でもどちらでもいいです。
毒多
2016/07/09 09:10
学者さんは学問的には理解しているのでしょう。ただ、学問的理解と実践的理解が異なるということなのでしょうね。

『カモメのジョナサン』の未発表だった第4部で描かれていたこと。それが現実として起こっていると言うことでしょう。すなわちアドラーは偶像化されている。偶像としてのアドラは学者として学未発表だった第四部で描かれていたこと。それが現実として起こっているということでしょう。

すなわちアドラーは偶像化されている。偶像としてのアドラーを学者は理解はしている。しかし、「飛翔」の実践者としてのアドラーは理解できていないのでしょう。おそらく、心の中では「共同体感覚」などというものは信じていないのでしょうね。
愚慫
2016/07/09 14:22
上のコメントは文章が被って変になってしまいました。申し訳ありません。
愚慫
2016/07/09 14:24
生存競争という感覚を失われるということが、とりもなおさず「共同体感覚」の喪失ということでしょう。

戦争も生存競争ではあります。ただ、生身の生命の競争ではないんですね。概念の競争、「正しさ」の競争です。

なので、生身の人間であるならば働くはずの感覚か働かない。組織に所属することによって「正しさ」の虜になり、「共同体感覚」を喪失してしまう。

アドラーの最初の断言は「すべての悩みは人間関係である」とうものでした。しかし、これはおかしいですよね。最も根源的な悩みは「食べる」ことのはずです。動物なんだから。

人間は動物である以上に人間になってしまっている。そのことが「共同体感覚」喪失の原因だと僕は思っています。
愚慫
2016/07/09 14:34
頂いたコメントと、根源的な悩みは「食」ということと、「共同体感覚」という言葉、また「自助」「共助」から「青カン支援」時代を思い出しました。
まとまればまたエントリーするかもしれません。
毒多
2016/07/09 15:22

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