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zoom RSS だって人間だもの・・・「昆虫はもっとすごい」より

<<   作成日時 : 2016/02/25 16:07   >>

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だって人間だもの、ってフレーズ、あいだみつをって人だったっけ?
なんか人として「失敗」したり「弱み」をみせちゃったりしたとき、ギャグっぽく使ってもみるけど、結構多くの人の共感を得ていてシンミリするフレーズであることは違いない。
なんとなく哀愁を感じながらふと呟いてしまう、だって人間だもの・・・でもちょっと変。

ふと、このフレーズを思い出して考え込んでしまったのは、「昆虫はもっとすごい」って本を読んだから。虫屋(昆虫学者)の3人の対談集で、虫が好きで好きで仕方ない方々が語らっている本。とはいえ人間に照らし合わせて語りあうのはタイトルを見ても解る。「すごい」という評価は人間基準の表現であって、虫にとっちゃ、なんのこっちゃとなるわな。
マニアックにいろいろな昆虫の生態を紹介していて面白いのだけど、ワタシが、あぁ、あれれ??、と感じ考えてしまったところは、人間も昆虫と同じ生き物だよね、ってとこ。

【以下引用】
丸山 前作の「人間がしていることは、すべて昆虫がやっている」・・(中略)・・(昆虫は)巨大建築をつくりもするし、結婚詐欺だってするし、生活の基本は、倫理部分を除けばだいたい昆虫は人間の先を行っています。
中瀬 集団生活もするし、カーストもつくるし、子育てだってしますよね「なんでもしている」と言っても過言ではない・・(後略)
丸山 ・・(前略)昆虫をとおして生き物はこういうものなんだ、そして人間も例外ではないんだ、と知ることです。知るというか「認める」姿勢が必要なのではないか・・・
【以上引用終わり】


本で紹介されている昆虫は、抜粋の「なんでもする」例以外にも、いろいろなことをする。人間の言葉でいえば「寄生」もするし、「盗み」もするし、「強奪」もするし、「不倫」もするし、「レイプ」もするし、「殺し」もするし、「大量虐殺」もする。しかもそれに昆虫たちは、失敗とか、弱みとか、可不可だとか、気持ち良い悪いだとか、仕方ないだとか、罪とか罰とか、善悪だとかの人間らしい評価をなどしてはいない。自然の摂理やら宇宙意志やら神の意志だとかに従っているという意識もなく・・・多分なく、、人間的な価値観などどこ吹く風か、ごく自然に行っている。それを自然というのだろう。

で、上の台詞である。
人間も例外でなく「生き物である」ことを「認める」・・・
となると、生き物としてのありとあらゆる行為が自然の摂理として行っていることを「認める」ということになり、つまりは人間としてタブーとされている行為も行ってしまうのは、だって人間だもの、、ではなく
だって生き物だもの、、、、になる。
人間が指摘するところの弱さや情けなさや罪や悪や意志ではなく自然の摂理に支配だれているのだもの、だから仕方じゃないのさ、、とするのを認めるということ、、かな?。

人間が昆虫ではなく人間なのは、丸山さんも言っているのだけど「倫理を除いては」なのだ。つまり人間とは意図的な倫理や道徳によって、また法律や掟によって、生き物としての自然な行為を制限している。それが人間なんだよな。
おそらくは生き物として生まれてきて、人間になっていく。あれ、ちょっとまてよ。
生き物としては善も悪もない、人間になる過程で善、悪が教育される。しかも善を行うように育てられるならば性善説ってのはある意味当り前ではないか? 人間として育てられるんだけど、生き物としての業からは逃れられないのだろう。だから性悪説というのもある。

人の道を外したとき「てやんで、てめーなんぞ人間じゃねぇ」とか「この獣が」なんて科白が聞かれるが、人間として制限されている以外の行為をしてしまったから「人間じゃねぇ」「獣だ」は正しい。ただ、それでも「生き物」ではある。「人間」である以前に「生き物」なのだ。
「生き物」として善悪とう意識さえない自然の行為をしようとも、人間である以上はゆるされない、という矛盾を抱えることになる。
さらには、人間は生き物ではなく人間なのだ、ということがデフォになっている。
殺しをしてしまいました、だって生き物だもの、、、が許されない。生き物ではなく人間だからである。

どう考えてもやはり、人間も生き物で後天的に人間にさせられるとすると、生き物といして息苦しくなることもあるよね。だから、人間も生き物であることを知る、ではなく「認める」ということは、ある意味、人間基準でいうところの「事件」に関しても寛容になろうよ、とことでもあるのだろうか?
たとえば戦争なんかどうなんだろう? 自殺はどうなん?
増えすぎた人間を減少させているという、人間を超えた生き物として営みなのかもしれない。人間も生き物であることを「認める」というのはそうしたことなのだろうか?

とはいえ「人間」であるがゆえの「生き物」を外れた行為ってのもあるような気もするのだが。

いずれにしろ、人間という枷から外れて、だって生き物だもの、って呟いてみると少し気が楽になる。気が楽になるというのは人間だからか、、と苦笑いをしつつ。

続きはないよ^^;

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コメント(41件)

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こんにちは。

仰るとおり、僕ら人間は「自然の軸」と「人間社会の軸」との二つの地平に片足づつ突っ込んで生きている存在だと思います。

その按配をどうするか、それがそれぞれの人間に問われるのだと思います。
アキラ
2016/02/26 00:26
アキラさん、おはようさんです、お久しぶりです。FB勝手に葬って申し訳ありませんでした。

どうもアタシはネグラ(人間的評価)なので、「盗み」やら「殺す」などマイナス面(人間的評価)に目がいってしまい暗い(人間的評価)エントリーになってしまったでやんす^^;

アキラさんがいう、風邪などをクスリで治すとう人間的な方法ではなく、生き物として持てる自然の力があることを思い起こせ、というか知るというか、認めよう、といったことも「生き物」である自覚になるのですよね^^
毒多
2016/02/26 08:48
はい、そこがないと そもそも生きてませんからね。 (^o^)

育児や子どものことに関わることが多くて、最近よく思うんですけど、生命力の発現・噴出?って、生きている以上 活溌に行なわれるわけじゃないですか。

人間として育つということは、それを「コントロールする」ことが育っていく(体の発育自体もそうですが、躾や教育もまた然り)ということなんだな・・と感じます。
他の動物や生物のように、大きくなってくると本能的行動で固められていく・・ということが、人間の場合はありませんしね。
アキラ
2016/02/26 20:53
育児や子どもとの関わりは以前きいた理事さんとしてのお仕事ですね。お疲れ様です。
じつはアタシも同じような立場になる可能性がでてきて、そうなったら人間的な具体的な話もできるかもしれませんね^^

今回、本から考えさせられたのは、もう少し弾けてしまった馬鹿らしい(いつものことです)根源的な部分のどうでもいい思索なんです。
例えば、結構放置主義の親っているじゃないですか。あまり何も言わない。子どもも自由きままに育つ。結果いわゆる「お行儀が悪い」「時間にルーズ」「ワガママ」みたいに表現されますが、でもそういう子どもは身体の要求のままに身体が動くことをしているのではないか。それを人間的には人間じゃないという育てられ方がされている。
「コントロールする」こと「お行儀」とか「お約束」とかは、本来的な生き物的であるのだろうか? 身体がリラックスを要求していてもじっと静かに動かずにいなさい。ってな場面。つまり人間的であることは生き物的と矛盾するのではないか、という思索です。

アタシの何がバカかとういうと、現実として人間なのだから人間的に躾、教育されるのが当然で、人間的でない生き物は人間ではない、となります。人間が人間的なのはあたりまえ、考える以前の問題なのでしょう。
でもそれがデフォになると生き物であることが置き去りにされ、なにかしら不具がおきるに違いない。実際おきている。
バランスやコントロール、按配、って言葉で説明するなら、その通りなんですが、、、、ね。

ちょっと話は変わり、また戻りますが、徳江さんが最後に到達したのは「生き物」的に自然に溶け込んだ風景かなぁ、と今浮かびました。
毒多
2016/02/27 10:50
久しぶりの記事ですね。お疲れ様です。

>人間として育つということは、それを「コントロールする」ことが育っていくということ

微妙な言い回し、ですね。

人間として育つ、問題提起においてよくあげられる顕著な例は、「オオカミ少女」でしょうか。この場合、ヒトはオオカミによってコントロールされて、人間ではなく「オオカミ人」に育ってしまった。これって、ヒトがそれだけの可塑性を持っているということですよね。

人間の人間たる所以は「社会を営む」の一言に尽きます。可塑性の高いヒトが営む社会は、当然のことながら(本来は)多様性が高い。

ただ、多様性と無秩序は違います。多様性を担保するにはそれなりの「プロトコル代表例は言語)(」が必要。オオカミ少女が“人間”になれなかったのは、適切な時期にこの「プロトコル」の学習が出来なかったからでしょう。

その意味で、「プロトコル」を学習することは「コントロール」と言える。ただ、これは学習“させる”必要はない。そういう環境で育てれば、自然に学習していくものですね。
愚慫
2016/02/27 15:12
ヒトと昆虫の違いを多様性という観点から言えば、個体として持っている多様性の高さでしょう。昆虫の「世界」はなるほど、驚くほどに多様ですが、個体としてみた場合、ヒトとくらべてその多様性の程度には圧倒的な差があります。

そういうヒトの生命力の発現は、当然のことながら多様です。しかも、その多様性は社会の多様性を凌ぐ。社会より個人の方が、ずっと多様です。

ヒトの多様性とは、個人で言えば「個性」ということになるでしょう。
 
ここでコントロールの孕む問題が出てくることになります。社会の多様性より個人の多様性の方が高い以上、個人の多様性を社会に合わせて減縮させる必要が出てくる。そうしないと、社会は秩序を失います。この減縮を「倫理」というんでしょう。あるいは「道徳」。

ヒトが社会を営む人間である以上、「倫理」は必要です。が、これがあまりに強すぎると、ヒトの持つ生命力の発現をも減縮させてしまう。

「倫理」の強すぎる社会とは、単純な社会。現下の人類社会はどんどん“フラット”になりつつあるといわれていますが、“フラット”って“単純”のことです。だから、社会から【コントロール】されて生命力の発現を抑圧されてしまうヒトが増加します。

ですから、案配というのは、「倫理」の方、すなわち社会の方にも必要です。個人に厳しく案配を問う社会は、それだけ案配の欠いた社会だということです。
愚慫
2016/02/27 15:27
付け足し。

徳江さんを例にとってこの「案配の案配」をみてみますと、

 社会⇒最小/個人⇒最大

ということになるかと思います。社会が何の案配もしてくれなかったので、個人で案配を行った。

まあ、けれどこれは、ご存知のようにフィクションな
わけです。

愚慫
2016/02/27 15:34
愚慫さん、そうです、「微妙な言い回し」です。 (^o^)
「人間の人間たる所以は「社会を営む」の一言に尽きます。」だからです。

もう少しキーワードを。
人間は放置していても育ちません。
例えば 赤ちゃん。
放置していても育つでしょうか?
育ちません。
保護と世話が必要です。

そうして、その「保護と世話」を獲得するために、赤ちゃんの方では「注意を惹く」という行動を無自覚に行ないます。
これらの相補的な関係が、人間が育っていくときの基盤となっているので、「放っておいても育つ」ということは、実際にはあり得ないんです。 (^_^;)
アキラ
2016/02/28 00:19
あ、「もう少しキーワードを」は 毒多さん宛てです。 (^^)
アキラ
2016/02/28 00:20
「放っておいても育つ」ということが、実際にはない。ということは、

人間社会はヒトの胎盤としての機能も担っている

ということですよね。文学的な比喩としてではなく、生物学的な実際として。
愚慫
2016/02/28 10:43
間違えました。

人間社会は人間の胎盤としての機能も担っている

がホント。

ヒトとしてでは、母親の胎内から出てきた時点で一応は完結です。けれど、ヒトは未完成な人間でしかない。

生物学的には「人間」という種はありませんけど、実際は、産まれたばかりでまだ社会という胎盤に育まれていないヒトは、生物学的に未完成な人間でしかない、ということでしょう。
愚慫
2016/02/28 11:12
愚慫さん、お久しぶりです。
それにしても春ですねぇ〜、春は山菜が食べられるので好きです^^

お二人ともおバカな戯れ言に付き合ってもらってすみません、ではなく、ありがとう。なんとなく人間は「社会的」「可塑的」「多様性」あたりでかなりスッキリしています。
紹介の本のなかでも書かれていますが、昆虫は子孫を残すとためだけ(本能)に生きている(ようです)。なので単純明快です。他の「生き物」もまあそうでしょう(多分)。人間が生きているのはそれだけでは全く語れない。仰るように多様です。加えるなら各自が自然以上の意志を持つことかもしれません。
多様な行き方をするのが人間で、その多様をどこまで包括できるか否かが社会の器もその通りですね(これ大きく納得)。

アキラさんに新たなキーワードというか事例を頂いたので。
おそらく赤ちゃんは生物的であると思います。親は生物的(本能として育てる)且つ人間的(意志をもって育てる)になります。で、
人間はときに育児放棄ということが行われますが、これは「生物的」なのでしょうか?「人間的」なのでしょうか?
放棄は、子育てをする昆虫にはないが、哺乳類にはありますね。特に動物園では多いのかな。天然の早産だろうが違うのだろうが、おそらく子育てしなければならない状況、存在であるかぎり親は自然の本能で子育てをすることになるのでしょうが、ときにそれを逸する。人間の多様性が要因か、社会の器が要因か、それとも自然の本能のなかにそうした因子があるのか?

これは最初の「人間とて生き物」である、、のときに浮かんだ疑問に含まれます。
毒多
2016/02/28 16:57
具体的な例を挙げましたが、育児放棄によって子が死したというニュースを聞いた時、人は好き勝手にいろいろな事をいいます。「人間の業じゃねぇ」「親として未熟」「育てられないなら産むな」「子育てができる社会じゃないから」etcetc・・・多くは「人間的要因」もしくは「社会的なそれ」をいいますが、「生物的」が加味されるとどうなるのだろう、という疑問をもちます。
「育てられなくても産む」のは生物的だよなぁ、、とか、もしかして「育てられない」のも生物的な何かあるのか?、、みたいな疑問です。
毒多
2016/02/28 17:06
一定程度のパーセンテージの「エラー」として、生物的に「放棄してしまう」ということは、出てくると思いますよ。
思いますが、「そうである」と証明する手だてがあるのかどうか。。。
アキラ
2016/02/28 20:32
・毒多さん

『サラエボの涙』という映画を憶えていますか?

・アキラさん

エラーとして放棄してしまう、ということはあるでしょう。
育児に関わる「スイッチ」が入らない。あるいはもとより欠落してる、など。ただ、すべての育児放棄が生物的なエラーによるものであるなら、その確率は社会的な状況と関係なく一定だと予測されますよね?

けれど、現実は違うと思います。ここで明確なエビデンスを示すことは出来ませんけど。

だとすれば、生物的な要因の他に何か別の要因が加わると考えるのが合理的だということになります。
愚慫
2016/02/28 22:32
おはようございます。

「サラエボの“花”」ですね(笑)
忘れていました。過去の自己スレを再読して思い出しました。ところが過去に自分で書いた言葉が意味不明。なぜ心が虚構だと書いているか?orz。本題ではないので、まあいいか^^
人間的アレコレの要素が詰まった映画だったようです。が、ここで「憶えてますか」と問われる部分は、それでもやはり育ててしまう
人間的要素<生物的要素
ですね。生物的要素が人間的要素に勝る。もしかしたら人間的正の要素が人間的負の要素に打ち勝つのか?
人間的正の要素は生物的要素に含まれるのかもしれません。

アキラさんが仰る「エラー」はあると思います。が、アタシのなかにはそれだけではない疑惑があって、人間的要素は生物的要素を阻害するのではないか、です。(これはむしろアキラさんの専門分野のような気がしますが……)
極端にいってしまえば、ネグレクトパチンコ両親、「てめえら人間じゃねぇ」ではなくて、むしろ人間的要素が強すぎるのではないか?という仮説。生物性の阻害。コントロールの失敗。按配の雪崩。
毒多
2016/02/29 08:38
ああ、そうでした、『サラエボの花』でしたね (^_^)

今、『サラエボの花』について記した毒多さんの記事を再読してきましたが、この記事の前段で話題になっていたのは「「牧歌的」という言葉でした。

ここでその話を蒸し返してみます。なにがどう「牧歌的」なのか? それは、ここでいう「生物的」という意味です。

ですが、「生物的」と「牧歌的」で言葉のイメージがずいぶん遠い。前者は冷静・客観的なのに対して、後者は感情的主観的です。この間隙を埋めるのは何なのか?

それは、徹底的に主観的なものです。“生命の有り様”とでも言いましょうか。アキラさんが『しーんとした静けさ』と表現している「何ものか」。

その「何ものか」のバリエーション。

どのように厳しい状況であっても、その「何ものか」から立ち上がってくる鼓動です。その鼓動が僕には、とても牧歌的なものに感じられる。静かで、懐かしくて、けれど、とても力強いんです。

『サラエボの花』の、あの母親から感じられるのは、この「静けさ」「懐かしさ」「力強さ」。そして、それは『カンタ・ティモール』にも溢れていたものです。描かれかたは正反対ですけどね。
愚慫
2016/02/29 11:36
アキラさんが「育たない」と指摘された部分に関連して。

『サラエボの花』は、ある意味“奇跡的に”生物的要素が開花した、ノンフィクションの物語でした。そして、その背後には、人間としては、これまたある意味“自然に”育児放棄が行われていました。

その、ネグレクトされた赤ん坊たちを育てるという取り組みをしている組織の活動を取り上げたドキュメントを見たことがあります。たぶん、NHKだったと思います。

そこで紹介されたいた赤ん坊たちの様子は、よく憶えています。ヒトというものが、如何に社会的な生物であるかを、反面的に、如実に示していました。

ネグレクトされた赤ん坊たちは、“自然に”成長していこうとする身体に反抗するかのようでした。「生きる」ことを拒絶していた。まだ、確固たる意志を持つなどといったことが出来るはずのない赤ん坊が、です。

人間的というなら、これ以上に人間的なものはないかもしれません。社会から放棄され、社会という胎盤で人間として育っていけないのなら、ヒトとしての身体に反抗することを選択する。これは本能的と行っていいのだろうと思います。
愚慫
2016/02/29 11:52
ヒトにおいて、人間的要素が生物的要素を阻害することはありえるか? 答えは、上記の赤ん坊が示していると思います。

人間という生き物の最大の難点は、「自己欺瞞」というやつです。これは端的に言うなら、生物的要素と人間的(社会的)要素の齟齬です。ヒトは社会的な生物でありながら、その齟齬を避けることができない。だから「案配」が必要になってくる。そういう意味では、哀しい存在です。

あいだみつおがいう「人間だもの...」は、この哀しさを言い表しているのだと思います。「哀しさ」を表現することで「悲」へと昇華せしめようとする営み、と言えばいいでしょうか?

「生きる」ことを拒絶する赤ん坊が存在しうるということは、ヒトという生き物においては、人間的要素が生物的要素を阻害するということが、デフォルトとしてあり得るということを示すものです。

(そうなると、僕が主張する「人間性善説」は怪しくなってきますね。ですけれど、僕はそこを踏まえても、なお、人間は性善であると考えています。そのあたりの理路は、また、追々と。)
愚慫
2016/02/29 12:03
あらら、「育つ」について、アタシは何やら勘違いをしていたようです。
親が子を育てるときに、子は生物的に育つ、と、人間的に育つの両面があり、人間的にはともかく、そこまでどんな環境だったとしても誰のどんな子育てだろうが生物的には「育つ」「育とうとする」のだろうと思っていました。アタシの考えでは、生物=人間は「育とうとする」がデフォでした。
それが、まさか
>意志のない赤ん坊が身体的に育つことを拒否しているよう…
とは、びっくりぽんや、オドロキです。言葉は悪いのですがシュールです。
誰が育てようと育つのは間違いないので、「ネグレクト」という体験が意志のない本能にも作用しているのでしょうね。

上のほうのコメに書いた、「生物で産まれてきて人間に成長する」も違うのか!? 人は産まれたてから人間的である、でしょうか。
サラエボでなくとも、今日本でのネグレクトで死なずに育った子はテレビなんかでたまに見たり様子を聞いたりしますが、身体的成長も乏しい。ワタシは単にネグレクト故の栄養不足が原因と思い込んでいましたが、人間的な(裏返しの)部分が生物的な身体の成長をも拒んでいるのかもしれない。

だとしたら、やはりオドロキです。
毒多
2016/02/29 14:35
あの〜、僕は「すべての育児放棄が生物的なエラーによるものである」とは言ってないです。。。 (^_^;)

中にはそういうケースもあるでしょうよ・・という意味で、ですから『「そうである」と証明する手だてがあるのかどうか。。。』とコメントしたわけで。

「生きる」ことを拒絶したら死にます。
ですから、死なずに生きている以上は『「生きる」ことを拒絶』はしていない。
別の局面の話がそこにはあると思いますよ。
アキラ
2016/03/02 18:41
追記です。

上のコメントの意味合いは、『「生物的に生きる」ことを拒絶したら死にます』ということです。
ですから、『「社会的に生きる」ということを拒絶する』ということはあるだろう、ということを含みます。

人間が「生物的に育つ」ということは、その育つ環境が人間社会である以上、イコール「社会的に育つ」ということです。
この育つ環境がどのようなものかということと、そこから受ける潜在意識的な傷(これはどういう環境でも どういう人でも必ず受けるものですね)の蓄積のしかたによって、『「社会的に生きる」ということを拒絶する』ということは起こる可能性があると思います。
その子に自我的意識があろうとなかろうと。
アキラ@追記です
2016/03/02 19:12
>『「社会的に生きる」ということを拒絶する』ということは起こる可能性があると思います。

「ひきこもり」は生物学的に生きていて(時には社会的に消えたいと思う自分と格闘しつつ)、時にはいきいきと、でも、社会的には生きるのを拒絶している状態です。

教師として短くない期間生きてきた私は、人間の心のこの深刻な問題について思うとき、「虫とか至高の善の追求とかどうでもいいんだけどな」と思います。

いや虫も星も数字も研究や興味の対象としてなら素晴らしいのですけれども

なぜ目の前の問題に耳を傾けないのですか?

ごん
2016/03/03 20:41
虐待にしても引きこもりにしてもそして自殺にしても、その人間らしい、(おそらくほとんどが人間性に還元される)人間ゆえの問題を置き去りにして昆虫を語ってもどうしようもないのだと思います。(これはこのことを伝えるための私なりの最小限の言及です)育児にしても。

子どもを産んだばかりの母親が祝福している大人たちに向かって「かわいくないしいらない。あげます。そういうシステムあるんですよね」と言う現場。知ってますよね。

陳腐ですか?

このこと陳腐だと感じるならすでにこわれています。生物学的にはどうかわかりませんが、人間的には

ごん
2016/03/03 20:59
おはようございます。

アキラさん、安心してください解っております^^
ただ敢えてコメントを引き合いにして書いたのは「何かしらレスしたほうがいい」みたいなのがあることと、多分、心理としては、
そのコメントが、>エラー のことだけだったのでアキラさんのコメントとしては不満だったのかもしれません^^;
とはいえ、「人間的」「生物的」とは、結局はとても当り前のことを確認しているだけなんですよね。ついアタリマエのこととしていたワタシには、本により疑問を感じたことの確認がしたかった。確認したら当り前のことだった。解っている人には疑問じゃないんだよね。いつも付き合って頂きありがとう、助かります、感謝。
毒多
2016/03/04 10:05
ごんさん、いつぞやは失礼^^

まだその時感じた「みぞ」についてエントリーしてないな、でも考えてはいます。思索のなかで迷路にハマってしまっているので無期延期です。期待もされてないでしょうが。

昆虫が引き合いにでているのは、元の疑問が昆虫の本から生まれたからなので仕方ありません。そんなとこから疑問を持つんじゃない、とは言いいませんよね(笑。

でもまあ、ごんさんの苛立ち・ご不満(?)は解らないでもないです。
最近「みんななかよく」に「保育園問題」でコメントしてしまったのですが、その苛立ちと類似のものでしょう。何を机上の箱でネタ化しているの?という。「保育園問題」に多少リアリティのあるワタシが、それを感じさせないkuronekoさんのエントリーに対する不満と似ているのかな。
毒多
2016/03/04 10:16
>なぜ目の前の問題に耳を傾けないのですか?

リアリティなんです。ごんさんにはあって、ワタシにはない、ということでしょう。「リアリティがない」という自分はなんだろう?とは思いますが、思ってはいてもそうなのだから仕方ない。

教師として短くない時期を生きてきたあなたには、目の前の問題がリアリティをもって次から次へと訪れます。耳を傾けないわけにはいかない。そういう立場でしょう。それは「大変」ではあるでしょうが、結構幸せな立場かもしれない、とワタシは少し羨ましく思っています。

もちろんワタシの周囲にも「耳を傾けるべき問題」は多々あるでしょう。そこに出向いて、しゃしゃりでればいいのかもしれないし、これまではしてきた。ただどこまでも当事者のリアリティであり、出向いたワタシのリアリティではなかった。そしてそれについても思索してしまう。そういう性分だと思います。それはそこで永年苦労されている人には「真剣に向き合っていない」のでしょうし、言葉遊びだと言われる。まあそうなのかもしれませんが。

とは書いているのが、すべて人間的側面の問題だよな、と思考してまう性質。もともとの疑問に思ったのは、それがデフォとしたうえでの生物的側面なのに、、、と言い出すとこれまでの繰り返しになっちゃうんだよな。

まあ、思索するとか言葉にするってのが人間的なんだけどね。

人間的側面をデフォとたうえでの、リアリティに関する思索はしたいな。
毒多
2016/03/04 10:16
コメントした後、すごく不安になりました。で、その不安というか恐怖感を引きずりながら今日始めてレスを見ました。

私はドクタさんの「うらやましい」と仰る自身の立場に疲れているのかもしれません。

これはドクタさんも心中よくご包含のことと思いますが、苦労しているという自覚はないのですね。こういうふうに労ってもらえるまでは。殊に自分自身でやるべきだと思うことをしている時には

こういう振り返りができるのも、上記のドクタさんのレスのおかげなのですが、やはりもう一度くりかえさせてください。

あんなにかわいい子猫を誰かが「可愛くない」というのはわかります。「人間だから」。

なら「自分で産んだ子を可愛くない」というのはどうでしょうか?

わかりますよね。人間だから。昆虫じゃないと思うんです。その場合。人間だからの自分に向き合わないといけないと思うのです。

ごん
2016/03/07 21:39
わかる、けどやらない。わからない、けどしてしまう。これが人間だと思うのです。

自然が善なら郭公の托卵も善です。こういうと違和感あるけど、でも「郭公は悪か」と問うてみたらどうですか?

悪である、とは誰も言いません。思いません。もし、「ひどいな郭公は」という人がいれば、その人は「純」な人です。愛すべき人物です。人として。

なら、愛せますか?

ごん
2016/03/07 21:53
「郭公は悪だ」という人間は愛すべき相手だとは思いません。僕は。

愛せるかもしれませんが愛すべき相手だとは思わないのです。そういう人間は安心できない。心を許すことができない。

なら愛するパートナーが、

「托卵オッケーじゃない?可愛ければ?不細工でも金さえあれば人生広がるし。子育てってそういうもんだし?そうやってるうちに真実の愛が芽生えるかもしれないしね?」

みたいなことを言ったらどうか。不安にならないか。どうですか?

郭公の生き方みたいな、そんなところに答えはないでしょう。どっちにしろ好きにすればいい。そこに人生を応用できるような人間は。

生きることに勝利するためには昆虫は勉強になります。でも、人はパンのみに生きるにあらずですよね。人は生きるために生きてるのではない。これが前提です、よね。

それを「考えて」いるのですよね?

それとも昆虫学者がそういうのを裏側から壊してくれるのを待っているのですか?映画が?宗教家が?

誰かが堕胎を悪だと言ってくれる世界を待っているのですか?


ごん
2016/03/07 22:16
有袋類は種として生き残るために胎児を外に放り出すという方法を取りました。

砂漠で水食料が枯渇しやすく、最も身近な天敵が同種の生物だという、つまりは生きるために「身重は不利」という状況だからですよね?

堕胎して、それで生きろ、と。

それもこれも種の存続のためには仕方がない、と。

生物の本質はこういうものです。


ごん
2016/03/07 23:24
横から失礼します。
ごめんなさい。

僕はごんさんが なぜに毒多さんをこのようにいたぶるのか分かりません。
毒多さんは「自然は善だ」などとは言っていないですよね?
自然には人間の善悪など関係なく・・・といったことを言っていますよね?

毒多さんは、およそ人間的問題だと誰もが当たり前にとってしまっているような問題の中に、「生き物として」という側面が入り込んでいるってことはないのだろうか?
というような疑問を持っているんじゃないかと思うんです。
少なくとも僕はそう読みました。
ですから「それは“あり”だと思いますよ」とコメントしました。

ごんさんには「耳を傾けないわけにはいかない現場」があるけれど、毒多さんにはそれが今あるわけではない。
「耳を傾けるべき問題」はあるかもしれないけれど、しゃしゃり出ればいいものではない。
むしろそれはしてはいけない類のものです。
これはごんさんも分かっていることですよね?
現場じゃなきゃ分からないことはたくさんあります。
また、当事者にしか分からないことも ものすごくあります。

ごんさんの言っていることは、自分にはあって毒多さんにはないものを“ある”と前提しておしなべてしまって、それを強要しているような雰囲気を感じるんです。
それではただのイジメです。
アキラ
2016/03/09 14:09
忙しさと思索にかまけて遅レス気味ですが、ここは取り敢えず。  

アキラさん、おはようございます。
お気遣いありがとうございます。
第三者の視点から対話がエントリーから離れていっていることにふれていただけたこと、またエントリーの意を正しく読んでいただけたことに感謝です。

ごんさんとは、3年前より、同じような構図(私つまりエントリーからすれば理不尽なやりとり)ですれ違いが繰り返し続いています。当時は「次元が違う」、「宗教だ」、といったような売り買い(ループしているなぁ^^)でお互いブチ切れ、主催者権限で出入り禁止にしたことを思い出します。^^;(数ヶ月前にごんさんに言い放ったはブチ切れたわけではなく、かなり冷静に言ったのですが・・)

最近の私はかなり落ち着いていますので安心してください。
ごんさんのコメントにもその次元(今回の場合「人間デフォ」)で考えるところはあります、また、リアルで(人間的問題に)直面し対峙している人が言葉での思索を目にして面白くないかもしれないな、と言えるぐらいの余裕があります。
毒多
2016/03/10 09:13
それにしても第三者的に「いたぶる」「いじめ」と映ったことが興味深く感じています。無茶振りに対してのワタシの軟弱なレスがそういうふうに感じさせるのですよね。
ここのところのワタシ自身の不安定状況を露呈(自分で感じている)させていれば仕方ないのかもしれませんが、オノレの、力不足、許容力不足、小器をちゃんと受け止めないといけないです。とはいえ思索が性癖だと不安定になることは仕方ないと、諦め気味なんですがorz
「いじめ」について「目的」「心理」「認識」「正義」「甘え」「自己肯定」「是認」「期待」「力関係」「裏表」etcetcなどいろいろなワードを浮かべつつ考えてしまいます。やっぱり思索は性癖なのかもしれません。
 いずれにしろ心配をおかけしありがとうございます。(変な日本語^^)
毒多
2016/03/10 09:14
ごんさん、冷静な第三者的にも「ムチャぶり」だと、指摘が入りましたよ^^。
とはいえ、「リアリティについて思索したいな」とレスしたところから「人間デフォ」にて、ちゃんとエントリーしようと考えていますが仕事が珍しく忙しくなってきてしまいました。金を得て食ってなんぼの生物的側面も人間社会あってこそと思索しながら、エントリーできたらと思っています。
毒多
2016/03/10 09:15
毒多さんの返信を受けて、もうちょっと追記しますね。

>無茶振りに対してのワタシの軟弱なレスがそういうふうに感じさせるのですよね。
<
いえ、毒多さんのごんさんへの返信は、とてもしっかりしたものだと感じました。
もっともだと思いましたので、僕のコメントにも毒多さんの言葉をお借りしています。

僕の疑問は、それに対してさらに絡むごんさんのそれは何だろう?ということの方です。
ある意味、毒多さんと毒多さんの場を使って、ごんさんは自分のために書いているようなもの・・といった内容に、僕には受けとれます。

毒多さんの思考の何かがカツンと引っかかったのだろうとは思うのですが、
前のコメントにも書いたように、それぞれそもそも違う人なのだし、違うように見てるし 考えるし、置かれている立場も人間関係も全然違うのですから、
そこを踏みしめておしなべてしまうような形で絡むのは、かなり不自然。

そのへんが「いたぶり、いじめ」と見えた、ということでした。
アキラ
2016/03/10 10:15
アキラさんの疑問(不自然と感じる部分)はワタシもずっと感じていました。
ごんさんも見ていると思いますので、脇にはそれますが、コメントの目的を教えて頂けると今後にむけスッキリします。
毒多
2016/03/10 13:38
今はじめて(やっと)拝見しました。

コメントの意図は、、

僕は僕なりに不誠実な気持ちはありません。と。

今エントリを、産む産まないを、毒のある社会側が強要することはできないよね。

という自身の教育活動のライフワーク(人生)に関わる問題に関しての・・思索に関する問題だと思っただけです。

そして、これだけは言っておきたいのですが、drさんへの批判の意味で「絡む」と評されるようなコメントをしたわけでもありません。

僕はただ、待ってはいました。僕を否定したdrさんの言論活動を。

特に少年Aについて、。

甘えですね。少年 a b c d たちといつも付き合っている僕の。そして卒業したやつらどうしてるのかなどうにでもなれよ俺も頑張ってるからと思ってる、

そんな俺の甘えです。

ごめんなさい。

もうこないです。

これまでどうもありがとうございました。

僕は教師ですけど、drさんが僕のblog先生だと思っています。今でも。

そして今は、リアルで合わなくて、関わりなくてよかったかもなと思っています。最後まで、何も憚らずにこういうふうに言うことができるので。

これまでどうもありがとうございました。


ごんゾンビ@drさん
2016/05/21 22:04
あと、ひとつだけ。

僕は水騒動についての処理を、本来は自身でケリをつけなければならないはずのものを、drさんはじめクロネコさんアキラさんみみずさんといった方々に預けてしまっていたのだと思います。スイッチがはいったら自身で抑えられない攻撃性は、あの恐怖体験のフラッシュバックからの過剰反応だったのだと思います。

言い訳をするつもりはありません。

あらためて、みなさんにお詫びします。

申し訳ありませんでした。ごめんなさい。


ごん
2016/05/22 19:24
取り敢えずはレスありがとう。
と、書いてみても「もうこない」ということなので読まれることもないのだろうか、と、すると残念だな。
ワタシは「今後に向けて・・」と書いたのだけど、まあ仕方ないのかもしれない。そういうこともよくある。
「これで終わります」「これで最後にします」といって去った者が再度コメントしたことはない。そういう言葉にはそれなりの覚悟をして書き残すのか、真面目なのか? 「最後」・・・このブログ上で何度も味わった喪失感をまた感じる。

それにしても「blog先生」とは、!!!
そんな風に思っていてくれたとは、全く気づかなかったし読み取れなかった。
ワタシのブログなんぞ自己満足か、せめて自分が教えを乞う場でありましたので、まさか「先生」だとは。とんでもない、という感じ。
でもブログを通して「他者と何かを分け合う」という気持ちはある。
分け合おうとする言葉が醸し出す何かを感じるときはいいのですが、最近のごんさんには感じなかったことが多かった。ワタシの察知が悪いのかもしれない。また10年近い付き合いのなか、ワタシの変化もあるかもしれないが、ごんさんが不器用ということもあると思う。ワタシも充分、不器用なのだ。

ここのところ更新できていないのは、ごんさんのレスを待っていたわけではなく、純粋に書けないからです。他所様のところでコメをして書こうとする気持ちを取り戻そうとしましたが、ダメでした。ぶらっと外にでて、花や虫、空や鳥、空気や水の表情をジット、ファインダー越しに見つめているほうが落ち着きます。
毒多
2016/05/23 15:56
まあ、それでも(先生のようなものという認識で)「読んできてくれた人が一人はいる」ということを知り、力をもらったな。こういうことはきっかけになる。考えることは止めません。ずっと思索しつづけます。だからブログを辞めることもありません。言葉は死ぬまで綴り続けます。ので、まあ、もしこれを読んでいて、仮に覚えていたら適当に覗いてみてください。

ネット空間では困ったなぁという面が多々有りましたが、リアルでは、ごんさんはきっといい先生なんだろうなぁ、と想像しています。具体的な話を話せるとまた違った対話ができそうな気もする。
ワタシも今年から乳幼児、障害者、高齢者を10以上の施設を抱える福祉会の理事になりました。これまでの思索の実践の場があたえられたことは感謝で嬉しく思いっています。それでもこれまでの机上の思索を折り曲げなければならない。つまりごんさんがリアルで感じていた「こいつら机上のブログで何いってんだ!?」という場面もあるでしょう。そんなときにも思索上の厳しさをオブラートに包みながら「はぐれ理事純情派」(笑)として、リアルでこれまでのブログ上のやりとりを生かせればいいと思う。
毒多
2016/05/23 15:56

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だって人間だもの・・・「昆虫はもっとすごい」より 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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