毒多の戯れ言

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zoom RSS 「ある障害者の死」…命の価値は働くことだけでしょうか

<<   作成日時 : 2010/10/22 15:17   >>

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 貨幣経済こそ最強の共同幻想だ、、、、貨幣なんざもともと紙やら金属片だもんなぁ、生はもちろん煮ても焼いても食えないし、見つめていいても何もおもろないわね。でも人はそれを欲しがるし、見つめてニヤけるヤツもいる。そりゃそうさ、別に紙や金属片みつめてニヤついてるわけじゃねぇもんな。それに織り込まれた最強の共同幻想をみつめているんだからさ。ところでこの幻想に換算される「いのち」って、なんだろうなぁ。命もまた幻想ってことかなぁ、、、なんてね。

 障害者A君が、ある福祉施設の事故でいのちを落とした。事故といっても施設職員のミスもあったらしい。そのミスは怠慢とかではなくこんな大事故にならなければ流されていくミスだったかもしれない。もちろん現実には事故につながったわけでプロとしての職員や福祉施設は猛省すべきだろうが、今回このエントリーでは詳しい事情もわからないので問題にできない。障害者A君の母の嘆きや悲しみや福祉施設に対する怒りはあるだろうと大いに想像するが、とりあえずこのエントリーでは書かないし安易には書けない。

 この事件は民事裁判になっているらしい。そこでは保険会社による算定で「障害者という理由で逸失利益(事故に会わなければ得られただろう給与、収入)が0」ということが問題の一つになっているらしい。文書にはA君の母の言葉として『「命の価値は働くことだけでしょうか」「Aは働くためだけに生まれてきたのではない」と命の尊厳と平等性が守られることを強く願っています』と書かれていた。
 この保険会社は福祉施設を運営する社会福祉法人が加入しているもので、法人が運営する他の施設もあわせた全体で加入していて、今回はたまたま複数施設のうちの障害者施設での事故ということで「障害者の算出方法」によって逸失利益が0という計算になったらしい。A君(の死)に対し1500万円前後という「価格」が算出されたのだが、A君が健常者であれば6000万円くらいになるらしい。
 
 この文書をみたときサヨとしてのワタシは即座に単純に障害者差別はおかしい、と思ったものの、すぐにそれとは別の何かしら不思議なものを感じた。
 ちょっとまてよ、そも命ってのは貨幣価値に換算できるものなのかいな?という疑問。これはA君の母の「命の価値は働くことだけでしょうか」という言葉とも通じるかもしれない。ここでの「働く」は逸失利益0という話の流れからきているので、「働く=賃金を得る」と受け取れる。「命の価値とは、労働で賃金を得ることだけでしょうか?そうじゃないでしょ」という言葉は、「命の価値は貨幣価値に換算できない」と同意のような気がするわけだ。うむ、そうだ、それなのに「命の価値を貨幣に換算する」保険に不満をもち差別的だと感じているところからくる違和感。気持ちは分からなくない、というかよく解るのだが、どこか違うと感じるのはなんだろう?
 保険(会社の算定)など、所詮「命を貨幣に換算する」前提で存在しているわけだ。それが良い悪いではなく「そういうもの」なのだろう。その前提にのっとらなければ「算定方法」に不満をもつことはできない。不満をもつことは、つまり「命の価値は貨幣価値に換算できる」前提に立っているわけだ。なんか矛盾しないか? いや、もしかして健常者と障害者と算定方法の違う保険算定を利用して、社会に障害者差別の実態を訴えているのだろうか? それにしても基準とされるものが「貨幣価値」になっている。金への置き換えると社会に受け入れやすいというのならば、やはり「貨幣価値前提」に立っている気がする。
 同じ文書に「障害者だからと差をつけず、人として命に軽重をつけないでください」とあるが、命の軽重の尺度が「貨幣価値」に基づいているのなら、やはり寂しすぎる。……ワタシが感じた不思議は、「貨幣価値」基準を前提に命の差別が語られることに感じた違和感なのかもしれない。もちろん、これはA君の母に対して言っているものではなく、ワタシがA君の母であれば同じように持つだろう不満に対しての思索であることは断っておきたい。

 「命の価値は働くことだけでしょうか」……逸失利益が0という流れではなく、純粋にこのセンテンスをみていると訳がわからなくなる。
 「命の価値は働いて賃金を得ることだけでしょうか? 貨幣価値に換算されないけれども価値のある労働もあるのではないでしょうか? いや価値がなければ労働といえないでしょうか? ああ労働をしなければならないのでしょうか? 生きているだけでは意味がないのでしょうか? そも生きているとはなんなんでしょうか?……」こうなってくると保険(貨幣価値)などとは違う次元のはなしだなぁ、と思ったりする。
 

  
 
 

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街の弁護士日記 SINCE1992
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dr.stoneflyの戯れ言
2012/04/02 08:26

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コメント(56件)

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毒多さんの違和感、僕も感じます。

ちまたで話題になった詩集『電池が切れるまで』という詩集の中の「命」という詩。
それに関して、以下のようなことを仰ってる方がいらしたのですが、とても印象的でした。

話題になった「命」という詩は、
【 命はとても大切だ
 人間が生きるための電池みたいだ
  でも電池はいつか切れる
 命もいつかはなくなる
  電池はすぐにとりかえられるけど
 命はそう簡単にはとりかえられない
  何年も何年も
 月日がたってやっと
 神様から与えられるものだ
  命がないと人間は生きられない
  でも
 「命なんかいらない」
 と言って
 命をむだにする人もいる
  まだたくさん命がつかえるのに
  そんな人を見ると悲しくなる
 命は休むことなく働いているのに
  だから 私は命が疲れたと言うまで
 せいいっぱい生きよう 】

この詩のよさは重々分かる。
けれど、それを踏まえて敢えて言うと、「使う」ことや「無駄にする」ことができるものとして生命を語ったその「見え方」は、生命を資源と見なす生命観だ。

この子の想いを汚すつもりは毛頭ないのだが、この詩に違和感を覚えないということは、生命を資源として見なすことにリアリティを感じる生命観に、世の中全体がシフトしてしまっているということではないだろうか・・・と。

そういうことに通じるような話かな・・と。
アキラ
URL
2010/10/22 17:14
まず、

>ワタシがA君の母であれば同じように持つだろう不満に対しての思索

に対するお応えであるということを強調しておきまして。

この不満は社会の下す評価への不満なんでしょうね。

論理的に考えれば、お母さんの主張はスジが通らないと私は思います。どうスジ違いかはここでは述べませんが。

が、ロジックの話はともかく、評価額が6000万と1500万だというのは、納得しがたいのは私も理解出来なくはない。その金額をA君に対する社会からの全人格的評価だと受け取ってしまっているのでしょう。

これは哀しいことです。“受け取ってしまっている”のはイコール“認めている”です。いえ、それを認めたうえで裁判で争うのはもちろん「あり」です。が、私がその立場に共感するかとなると、少し醒めた目で見ずにはいられません。

失われた者の全人格的評価を求めるのなら、残された者が代わりに表現するしかないように思います。また、そうして表現することが、金銭での全人格的評価を拒否することにもなると思う。私ならそうしたいですね。

いや、そんなことは絶対したくないです。けど、もし、その立場に置かれたら...。
愚樵
URL
2010/10/22 18:40
こんばんは

毒多さんの言わんとしてることは分かるつもりです。
ただこれは保険会社の「限界」を示しているだけとも思えますし、ありきたりかもしれませんが、保険金の多い、少ないでA君の命の価値が決まる訳でもないのは当然です。
そもそも他人の命の価値を決めるなんて不遜で、誰にもできない筈だと思うんですが・・・

でも、お母さんにとってはそれが「社会」が息子の命を評価したものとしか映らないのでしょうね。
命は死ねば終わりで何物も代わりはありませんから、仕方なく金でということなんでしょうが、愚樵さんもいわれているように残された者の役割って大きいように思います。
(愚樵さん、すいません)

えちごっぺ
2010/10/22 22:28
 逸失利益って、障害の有無だけでなく男か女か、子供の場合その親の収入も根拠にされるとか。
 そういうものだという時点で、私だったら何の意味もないと判定して訴えることはしないと思います。
 少し前、初めて障害児の逸失利益を認めた判例の時、保護者はお金よりもその施設の対応や運営の実態を世に問いたかったということでした。
 我が子の「価値」なんて、愛したものだけがわかればいい。世間に認めてほしいとまでは思いません。
tomoko
2010/10/23 21:07
またまたお久しぶりです。お邪魔して宜しいでしょうか。

遺失利益はあくまでも遺失利益で、命を量りに掛けているわけではないですよね。
資源としての労働力は予測に基づきある程度定量化できますから、同じく定量化可能な貨幣に置き換える作業に特に不思議はないと思います。

「生命保険」のような、あたかも命それ自体に何らかの価値があり、それを貨幣価値に置き換えるかのような「ことば」が、かかる錯誤を生むのだと思います。
最初から「遺失利益保険」とでも名付けておけば良いのかも知れません。

そもそも「命」ほど「価値」という概念と噛み合わないものはないですよね。
定量化できるからこその「価値」ですから。
黒い時計の旅
2010/10/24 07:51
追伸です。
誤解のないよう補足しますと、「命」は「価値」という概念で捉えることは出来ないということです。

少し角度を変えます。
ペット屋では様々な種類の生き物が売られています。
不人気な犬種の子犬より、稀少種のゴキブリ(ヨロイモグラゴキブリ等)の方が値段が高いことも珍しくありません。

あるペット屋の店主が、著書でこのように書いています。
「動物に付けられた値段は、それを家に連れて帰る権利の値段だと思ってほしい」

単なるレトリックです。
でも「価値」って本来そういうもの、その程度のものではないのかなと。

お邪魔いたしました。
黒い時計の旅
2010/10/24 08:05
みなさん、おはようございます。
週末はブログに繋がっていなかったので遅レスとなってしまって申し訳ありません。
ただ、繋がっていても安易にレスできるものではないなぁ、とは感じています。

毒多
2010/10/25 09:42

アキラさん、ここのとこ貴ブログを一言コメントで汚してしまってすみません(笑)
詩と解説(感想)の紹介ありがとうございます。話題になったとありますが、(タイトルはなんとなく聞いたことがあるような気がするのですが)内容はしりませんでした。
紹介の解説者と同様のものを感じました。
特に、
>の詩のよさは重々分かる。
>この子の想いを汚すつもりは毛頭ない
です。
この気持ち、、、、って論点がズレていますか? では、

おそらく重い病気にかかったのだろう詩をかいた子どもの気持ちを考えると、こんなこと書くのは辛いのだろうと察します。ただ、言葉を挟むことを許されない状況で、人々のこの詩を書いた子のいのちを愛惜しむ思いと
>生命を資源として見なすことにリアリティを感じる生命観に、世の中全体がシフト
をデフォとしてしまっている矛盾をかんじ、書かざる得なかったかと、、、、

毒多
2010/10/25 09:42
愚樵さん、どもども。
冒頭のお断りありがとうございます。ワタシがA君の母ではない今だから書けたエントリーだと自覚しております。

>“受け取ってしまっている”のはイコール“認めている”です。
うん、ワタシもこれを思いました。またこの母の姿をA君が見ていたら、、母さんの姿をどう思うだろうという母自身の想像はするのだろうか、、、と。もちろん死んだA君がみることができるのかどうかは判らないのですが、A君のために行動している母の立場にあればA君がみているだろう、という思うことはリアリティあると思いますので、、、。
特にA君にとっては「死」によって全く価値のなくなった貨幣換算が争われている、、、

「気持ちは解る」が共感できない。

>失われた者の全人格的評価を求めるのなら、残された者が代わりに表現するしかないように思います。
これは「表現する」ではなく、滲み出てくるもののような気もしています。実際にワタシの周りにも何人か障害者の親がいて、なかに(おそらく)本人も気にしていないだろう「何か」が滲みでている気がしています。

毒多
2010/10/25 09:43
えちごっぺさん、おはようございます。
命の価値がきまるわけではない、、そうですね。ただ、いまちょっと、「命の価値」の「価値」のとこに違和感を感じました。そも命というのは価値という言葉で語られるものなのか???
またちょっと考えたいと思います。(エントリーできるとこまで考えられるかどうかは別ですが、、、)

>命は死ねば終わりで、、、
命が死ねば終わるのはなんだろう? 身体は終わる(最近では終わらないパーツもあるようですが、、、)だろうなぁ、精神とか魂はだれかと共感、共有していれば終わらない気はしています。

毒多
2010/10/25 09:43
tomokoさん、お久しぶりです。コメありがとうございます。嬉しいです。
貴ブログをずっと拝見しております(romで申し訳ないのですが)。

このエントリーでは裁判で「逸失利益」が根拠になっている点だけをpick upしました。おそらく実際には「逸失利益」以外の多くの要素があるとは思います。ただ、そこをクローズアップすることで、世間的にも納得されそうな、その世間のほうがとても気になったのであえてエントリーしました。(A君の母には申し訳ないと思ってます)
逸失利益を核にした裁判が最近2件ほどあり、認められたこともこの件とともに知りました。それはそれでいいとは思いますが、「施設の対応や運営の実態を世に問いたかった」のであればやはり解り難いと感じました。むしろ誤解を呼ぶ気さえします。

> 我が子の「価値」なんて、愛したものだけがわかればいい。世間に認めてほしいとまでは思いません。

残念ながら(笑)、、、、tomokoさんの思いとは裏腹に、ワタシはK君とtomokoさんから「価値」なんかでは測れないものを頂いてます。世間が認めているかどうかなんてワタシにとっては問題ではなく、ただ、感謝してますよ。いつもありがとう。
それはきっと、K君なしのtomokoさんからも、tomokoさんなしのK君からも貰えない何かです。(なんだか、きれいごとのようで申し訳ないです。でも感謝してます。これからもエントリーし続けてくださいね)

毒多
2010/10/25 09:43
黒い時計の旅さん、ようこそ。
そも「保険」というのは「そういうもの」なのでしょう。では誤解を与える保険会社が悪いのか?誤解してしまう世間(風潮)が悲しいのか? ワタシはなんとなく後者のような気がしてます。
たぶん、この失った悲しみはせめて金(保険金)でも貰わなやってられん、って心理かもしれませんが、やはり金で慰められるってのも、、、、。

>「命」ほど「価値」という概念と噛み合わないものはないですよね。
定量化できるからこその「価値」ですから。

なるほど、そうですね。

補足、、、

すみません、補足されたというより、「ヨロイモグラゴキブリ」が気になってしまいました(笑)


毒多
2010/10/25 09:45
毒多さん、返信ありがとうございます。
「遺失利益」がキーワードになっていましたのでそれについて触れましたが、それ以前に不謹慎な表現をすれば「保険」とは胴元(保険会社)とプレイヤー(加入者)との間の「ギャンブル」ですよね。
生保の場合は賽の目の代わりに「死」が賭の対象なわけで。
ギャンブルにとって、賭の対象は何でもよく、また対象自体が配当金額を担保しているわけでもありません。
コインの表に張って10万の配当を得た時、コインの表自体に10万の価値が生じているわけではないですから。
黒い時計の旅
2010/10/25 12:41
追伸です。
人は本来自分の命の貴さを「価」や「値」で他者から評価してもらうために、保険に入るのではないでしょう。
もっと切ない感情や、生活上の要請によるものだと思います。
賭の配当に過ぎないものを、評価額と取り違えてしまうのは、それだけ現代人が全てを貨幣価値に置き換える習慣に染まっているのか、無意識の裡に他者から評価されることに飢えているのか、あるいは金というより全ての事象を数値化する欲望に囚われているのか。
どうなのでしょうね。
黒い時計の旅
2010/10/25 13:08
以下は私の作った貨幣に関する仮説です。
さらにその仮説に基づいた答えを一つの提案とさせていただいております。
その内容をどのように思われるかは、あなたの自由です。

私の考える貨幣とは、単なる一つの道具だと思っています。
何の道具かというと、人と人の間において、お互いの価値観を交換するためのツールです。
なんで人と人の価値観を交換する必要があるのか、それは価値観が、人によって全く違うからです。
およそ価値観が全く異なる人と人の協力関係をスムースに形成し、全体でレベルアップを目指す集団には必須であり、人類の発明した、そしてだれもが使うことを選択した’単なる道具’です。

なので道具(お金)の生み出す’働き’(人の働き=今回は人のミス?)そのものと、失命(事故の結果)は直接関係あると思いますが、道具(お金)と失命(事故の結果)は直接関係なく、それがこの先へ前進しようとする思考の障害となっているのではないかと思います。
そのアプローチを例えるなら、カッターナイフ(道具)で殺人が多発(人の働き)したらカッターナイフを全面販売禁止(道具を捨てる)にするくらい違和感を感じます。元凶は、カッターナイフを誤って使用する’人の働き’であり、解決先は道具ではなく’人の働き’を正すほうだと私は思います。
あらゆる問題は人(※表現悪いですが’道具’)を罰し、’人の働き’は正さないので、病院だろうが学校だろうが会社だろうが、あらゆる問題について再発を繰り返しており、それは毎日の事件事故のニュースが証明していると思います。(※私の考える’人’の本体は意思で、体をそれを実現するための自分の道具、という意味で’道具’という言葉を使ってます)
Armed Love Power
2010/10/25 18:05
コメント盛況ですね。私も続きを書いてみようかなっと。

“受け取ってしまっていること”はイコール“認めていること”。そしてそれは哀しいこと。

ここで触れてみたいのは、なぜ哀しいかのか、です。

あ、これはお母さんについて、です。

想像するのは、おそらくそれしか選択肢が思い当たらなかったのだろう、ということ。お母さんだって金銭を求めることがベストの選択だとは思っていないはずです。でも、それしかなかった。それ以外にお母さんにはベターな選択が出来なかったということではないのかと思うのです。だから、哀しいと感じるわけです。

「障害者だからと差をつけず、人として命に軽重をつけないでください」

ここで言われる“軽重”は、人と人との繋がりの“濃淡”のことでしょう。もちろん、その繋がりは他の何ものにも替えることは出来ない。が、お母さんが繋がりを失って喪失感を抱いているのは間違いないはず。そこを理解するなら、埋まらないとは知りつつもたとえわずかでも埋めようと希求することを責めることはできません。

そう考えると、金銭を求めての訴訟は金銭が目的ではないとも想像できます。つまり、勝訴そのものが目的である可能性。勝訴して「価値」が認定されることが目的。

そうであるなら、それはそれでお母さんなりの「表現」といえるかもしれなません。そしてさら、勝訴で得た金銭を同様の事故が起こらないための使うのならば、お母さんの「表現」はもっとしっかりと社会に認知されるようになることでしょう。
愚樵
2010/10/25 20:21
私も貨幣は道具だと思います。しかし、どのような道具も使いよう。これはあくまで想像ですが、上のコメントで示したような行動をもしお母さんがとることができたとしたら、それは繋がりを生むことになる。その繋がりは、貨幣そのものよりもお母さんの希求を満たすでしょう。

それでも私は、やはりこの訴えは筋違いだと思います。

お母さんの希求とその可能性は理解するにせよ、保険会社の立場に立てばそのような「表現」のために利益を供出させられたのでは堪ったものではありません。その供出はどう考えても逸失利益の範囲を超えています。範囲を超えたものを認めるには大義名分が必要となりますが、それをどう設定するか。 道義的責任? 企業の社会的責任? 適切なものが思い浮かびません。

白黒をつけるというなら、分は保険会社にある。が、ひとつ、別の方法も考えられます。和解という方法です。

保険会社はお母さんの「表現」の意義を認め、幾ばくかの金銭を見舞金といったような形で支払う。もしそのようなことが可能なら、そもそもの筋は違えども接点は見出しうるのではないか。

白黒を付けるばかりが能ではありません。
愚樵
2010/10/25 21:01
愚樵様
自分と同じ考えかたのような気がします、でも同じだから良いとか、違うから悪いという意味ではありません。(=白黒ではない)
保険会社はあくまでもサービスのひとつであり、そんなサービスを望む消費者がいるから存在(成り立っている)しているのであり、その対象にイイワルイをレッテルはる意味は無いかんじがします。まさにあなたの意見と、私の意見は一致したのですが、だからどう?という、自分もその次のステップに行けない若造です。あなたとの出会いに感謝させていただきます。
Armed Love Power
2010/10/25 21:45
すいませんコメントする記事をま違えたので再投稿します。

私がこの裁判の報道を聞いた第一印象も違和感でした。
一般的に裁判上で社会的な公正・正義の是非を問おうとする場合でも、形式上は損害賠償請求という形を取らざるを得ないという状況があります。
第三者的な冷めた立場でみると、本当に社会的な公正・正義の実現を目的としているのか、あるいは実は金銭目的なのか報道だけでは外見上区別できない場合がままあります。
(今回もそうですが、民事上の場合にそう感じてしまう場合が多い。)
ただそれとは別に殺人事件で被害者家族が被告人に対して極刑求めることがよく有ります。
犯人を死刑にしたからといって被害者が帰ってくるわけではありません。
そう言わざるを得ないやるせなさがそう言わせるのではないでしょうか。
死んだ人の価値が一番良く分かっているのはご家族でしょう。
今回の場合も命が何ものにも代えがたいことは(当然、貨幣価値に交換不可能なことも)十分承知しているのではないでしょうか。
命が交換不可能だからこそやるせない思いを裁判にぶつけているだけかもしれません。
仮に裁判で主張が認められても空しさが残るような気がします。

 思ったことそのままかきましたが、もう少し細かい状況が分からないと、よくわからないというのが本当のところでしょ
学童砦の一役人
2010/10/25 22:17
黒い時計の旅さん、再レスありがとうございます。
取り敢えず自分のことを考えてみると、やはり「保険」は自分が死んだとき遺された家族の金銭的な「保険」か、ケガをしたときの金銭的な「保険」のために入っていて、「賭け」でも「価値評価」でもない気がします。
今回、裁判では被告である福祉法人も、もし何か事故にあった場合の金銭的な「保険」で加入していたのでしょう。
これが、「命の価値」的な裁判にみえてしまう、、ここに対する違和感(そしてその裁判が判らなくもないと感じるワタシを含む違和感)は仰るとおり、

>現代人が全てを貨幣価値に置き換える習慣に染まっているのか、無意識の裡に他者から評価されることに飢えているのか、あるいは金というより全ての事象を数値化する欲望に囚われているのか。

なのかなぁ、と考えるところです。
毒多
2010/10/26 09:18
Armed Love Powerさん、おはようございます。
仰ることは概ね解ります。また大きく反論はないのですが、

>全体でレベルアップを目指す集団には必須
これは何だろう?という新たな疑問を感じました。レベルアップとは何を指すのか? また「全体で」レベルアップを目指す集団というのは大前提なのか?、、、といったとこです。「善」へ向かうベクトルのレベルアップならば同意ですが、、、

>’人’の本体は意思で、体をそれを実現するための自分の道具、という意味で’道具’という言葉を使ってます
ワタシもそう思っている(いた)のですが、過去エントリー(もしくは別宅)で「身体が道具かどうか」ってのは別の考えもありました。(たしか愚樵さんか、アキラさんだったかな? 内容が思い出せない、、、すみません)

ちょっとエントリーから離れてしまいましたね。すみません。

毒多
2010/10/26 09:19
愚樵さん、前のワタシのレスは意味不明で、日本語になってないですね。すみませんでした。

リアルでこの件について話をしてい人の予想では「和解勧告がでるんじゃないか」ってことでした。

現実的にはどうなんでしょうね?
実際の障害者の「ホーム」は、職員のなり手のなさとそこからくる現職員の厳しい勤務スケジュールはあるような気がしています。おそらく高い意志がなければ務まらない仕事だと思います。そうしたなか「少しのミスも許されない」という条件もありますね。(かといって今回のミスが許されるものではないのですが、、、)

A君の母が、裁判の勝訴によって得た金を、その施設のそうした「より確実に安全な施設環境を整える、とか、厳しい労働条件などの部分を直す」という条件で寄付したとしたら「保険会社」は黙っていないでしょう。(マッチポンプ的詐欺と言いそうな予感がします)

また、裁判の請求額である6−7000万から保険金の1500万を差し引いた部分を福祉法人が支払うことになると、おそらくカツカツで運営している法人は揺らぎこの福祉法人を利用している多くの利用者さんは路頭に迷うことになるかもしれません。そうでなくても上の厳しい運営がさらに厳しくなり、それはつまり現場で事故が増える可能性も大きくなるかもしれません。

「現場で事故が増える可能性」をA君が望むのか?またA君の母が望むのか? そうではないと信じたい。貨幣価値への変換を問題にした裁判になってしまっているので、A君の母は矛盾のなかに立たされている気はします。もともと和解できなかったので民事裁判になったのでしょうから、裁判で一定の判定がなされたうえで和解となるのでしょうが、矛盾を抱えたA君ん母にとっては試練になる気がします。(他人事にしないという意味でのエントリーでもあります)
毒多
2010/10/26 09:20

学童砦の一役人さん、別スレのコメは削除しておきますね。

A君の母のやるせなさは他者には想像できないでしょう。裁判で勝訴しても空しさや悲しみは消えないと想像します。
上にも書きましたが、
>貨幣価値に交換不可能なことも)十分承知している

>損害賠償請求という形を取らざるを得ないという状況
の矛盾が、(おそらく遺族をより苦しめるだろう)矛盾をかかえた方法でしかないのか、、、ということは、共に考えたいと思いました。

毒多
2010/10/26 09:20
みなさま

ためしにググってみましたが、「障害者の命の代償」や「裁判」や「逸失利益」などをでヒットしました。ただ、サイトには「実名」がでてきますので、アドレスを貼るのはやめます。

また、ワタシがこの事件そのものを問題にしたいのではないことを御理解ください。
毒多
2010/10/26 09:26
>全体でレベルアップを目指す集団には必須

説明不足でしたので、補足させていただきます。
全体は地球のことで、レベルアップは繁栄で、集団は地球人類全体のことをさしております。
あと、ターゲットに善悪はあまり関係なく、目指すものは、共存共栄&自立を遂げながらのエンドレス繁栄です。尚、善悪の判断は、周りの環境や時間(時代)の流れで、変動しちゃうので、あてにならない概念だと思います。変動の実例としてわかりやすいものとして、戦争中は殺人は善、平和時は殺人は悪、善悪での判断思考グセは自分の判断ではなく、自分以外のだれかのコントロールを無意識に受け入れるおそれがあると感じます、しかしそれ(善悪判断)が社会通念として優位性が残る社会(アジア圏、アフリカ圏など)がまだまだ多いという事実は、私にとっても、もちろん地球人類全体にとってとても憂慮すべき事項です。

>’人’の本体は意思で、体をそれを実現するための自分の道具、という意味で’道具’という言葉を使ってます
ワタシもそう思っている(いた)のですが

道具の範囲を、人体そのものの一時的な働きと想定すると、なんだか限定的で限界近しな感じがしますが、
私の考える人体という道具は、’人の努力と知恵と、その結果によってできた最終的な道具’までをセットでとらえております。例えば、’人のの努力と知恵と、月面に挑むようなロケット’のように捉えると、人体という道具は、おそらく無限の可能性が出てきます。

そして地球上でもっとも優秀で多目的で無限の可能性を秘めた夢のある道具を生み出す’道具である人体’を尊重する考え方は、世界中の法律やら制度がその方向に確実に向かっていることから、繁栄のためには必須条件であるという事の証明だと思います。
Armed Love Power
2010/10/26 18:20
・毒多さん

>裁判の請求額である6−7000万から保険金の1500万を差し引いた部分を福祉法人が支払うことになる

こうなると問題ですね。産婦人科医不足も訴訟がきっかけだと言われていますが、同様の現象を引き起こしかねません。

>かといって今回のミスが許されるものではないのですが

はい。ですが、ミスならば赦されなければなりません。故意なら犯罪が、それでも裁いた上で赦さなければなりません。そうでなければ社会がなりたちません。

この「許す」と「赦す」の違いは重大です。

なぜ「許す」ことができないか。それは実際的な被害が生じるからです。つまり、配偶者なり子どもなりがいなくなってしまうことで、損害が生じます。逸失利益です。そこを「許す」とミスは肯定されることになってしまう。「許す」ことができないから実際的な被害は補償されなければならず、そこから保険が生まれるわけです。

「赦す」はそういった性質のものではない。ミスは誰もが犯す。誰もが犯すから赦されなければならない。

極端な話をします。なぜ障害者と健常者の生命は平等なのか。実際的な機能としては大きな差があるにもかかわらず。この差はミスから生じたわけです。そしてミスは赦されるべきだからです。

お母さんがミスを赦すせないというなら、それは社会に対してミスを犯したお母さんを赦さない権利を与えることにもなってしまう。ひいてはA君自身の生存権をも否定される。

バカな話ですがそういった論理だって成り立ちうるんです。また、今の日本の社会にはそうした論理が受け入れられてしまう土壌がある。そうこう考えると、この問題はかなり危ういところを孕んでいます。
愚樵
2010/10/27 06:56
Armed Love Powerさん、おはようございます。

おお、地球規模のレベルアップでしたか。9条のようですねぇ(笑)
ただ、もう一つ聞くならばArmed Love Powerさんの考える「繁栄」とはどんなものなのかなぁ、、と。どうもワタシが「繁栄」という語感にあまりいい印象をもっていないので気になった次第です。

「善」については、時代や状況によって変わったり意図してコントロールされるものとは考えていません。普遍的な善について考えたいと思っています。
毒多
2010/10/27 09:01

愚樵さん、再コメ感謝です。

「許す」と「赦す」、、そうですね。
ただ、人は往々にして「許す」はもとより「赦す」こともできなくなりますね。できなくなった先は「無視」か無視できないほど大きな怒りや傷を負ったときには「断絶」か、、、「絶対に赦さない死刑だ!!」というのは「断絶」になるのでしょう(この場合も「死刑」によって「許」してはいる、となるのでしょうか?)。
しかし、「無視」「断絶」は、不幸だと考えます。ゆるす側にとっても、ゆるしをこう側にとっても、、、。正直にもうしまして、民事裁判になったところで、A君の母(また福祉法人)がこの不幸に陥る危惧はしています。
こうして考えると「許す」は、他者(法律、金銭etc)によって表面的に納得するもので、「赦す」は自己により自発的に行うもののような気がします。「許す」と「赦す」は全く別のもの。
そして後者のほうが難しい。「赦す」は善につながっていく気がしています。

ところで、
「許す」は定時法、「赦す」は不定時法に繋がっていく気がするのですが……

毒多
2010/10/27 09:01
・毒多さん

>民事裁判になったところで、

ええ、同感です。お母さんも含めて、弱者がより“救われなくなる”おそれが高くなりそうな感じです。対して保険会社などは、仮に損害を被った(←保険会社からの視点)としても、救う救われないというところへはいかない。所詮ゼニカネの問題。

この差異こそが“救いがたい”ところです。

>「許す」は定時法、「赦す」は不定時法に繋がっていく

う〜ん、その感覚が不定時法の感覚だと私は思うんですよ。

毒多さんは〈許す、公的、定時法〉〈赦す、私的、不定時法〉と整理されたように思うんですが、私の整理はちょっと違います。

定時法では、「許す」も「赦す」も共に公的です。だって、イエスは敵を赦せと命令するわけです。定時法の住人はそれを公的だと受け取っているはず。そのうえで“カエサルのもの”(許す)と“神のもの(赦す)”は区別する(イスラムは区別しません)。私的なのは公的な秩序への信仰だけです。

でも私たちは「赦す」を私的だと捉える。だから無神論者と言われるわけです。

>「赦す」は善につながっていく気がしています

ええ。それは定時法でも不定時法でも同じだと思います。違いは、定時法では「公的な善」になるということ。「公的な善」つまり「正義」です。が、私たちは「正義」と言われるとどうしても胡散臭さを感じますよね。
愚樵
2010/10/27 11:11

 やはり人権ブログの村野瀬秘書さんとこや非国民通信さんとこ(毎回お邪魔するのですが、どういうわけかこのエントリーは見逃していた)で取り上げられてましたね。なんとなくですが、久し振りにTBしちゃいました(笑)。すみませんでした。



愚樵さん
「許す」が定時法、「赦す」が不定時法と直感したことをもう少しだけ。もっとも最初の感覚であって思索されたものではないのですが、、、、
 「許す」が「定時法」というのは、他者によって押し付けられるもの、また合理的とされるもの。心からの納得ではなく納得せざる得ないもの。きっちりしたもの。余裕が無いもの。巾のないもの。無慈悲なもの、、、
 対して「赦す」が「不定時法」というのは、自発的なもの、揺らぐもの、自らの納得で決まるもの、ラフなもの、巾があるもの、、、というイメージがパタパタと浮かんだのですね。
 つぎに考えたのが、時間と時間の狭間ということ。定時法に時間と時間の狭間はほぼないですね。まったく余裕がない。ところが不定時法には、だら〜と巾がある。この巾がゆとりであり、「赦し」に繋がる気がしたんです。
 たとえば、3時に待ち合わせをする。遅れてきたヤツを「許す」か、そも不定時の世界では巾があるもののなかでは「赦す」になるのかなぁ、と。
 お決まりの結論では定時法の現代では、「赦す」余裕がない、、、となるのですが、爆!!

 じゃあ、定時法の現代では「赦し」はないのか、というと、それは余りにも寂しいので定時法とは結び付かないのかもしれないが、最初の直感として思ったのはこんな理由です。

 ところでイエスってのは定時法なんですか?あの時代は不定時のような気が、、、??

毒多
2010/10/27 13:48
・毒多さん

>「許す」が定時法、「赦す」が不定時法と直感したことをもう少しだけ

おおっと、蠱惑的ですね(笑)

>ところでイエスってのは定時法なんですか?

不定時法でしょう、まず間違いなく(^o^;

不定時法の話はこれから拡張していく予定ですが、要するに共同幻想の話です。“誰にでも同じ時刻”という「想定」は貨幣と同じく共同幻想です。もちろん神だって「想定」です。

つまり〈定時法、共同幻想、公的、「許す」+「赦す」〉と整理する。で、貨幣という共同幻想に全面的に縛られていると、「許し」と「赦し」の区別が付かなくなる。今回の話はまさにそういった話ではないでしょうか。

「許す」と「赦す」を区別する方法は2種類ある。ひとつは公的に区別する方法で、そこを担うのが宗教です。“カエサルものはカエサルに。神のものは神に”というわけですね。

もうひとつは「許し」を公的へ「赦し」を私的へと区別する方法。

>この巾がゆとりであり、「赦し」に繋がる気がしたんです。

この感触です。「赦し」を妨げる憎悪が“ゆとり”の中へ融け込んでいく。「癒し」と呼びますね、この感じを。“母の懐へ還る”とでもいいましょうか。

クリスチャンなどの場合、「赦し」は神への信仰と一体になることです。アチラのお話にはよくそういった告白が出てきますよね。ああした一体感も「癒し」といえばそうなんでしょうが、“ゆとりに融けいく”感じとは違うような気がします。法悦というんでしょうか、どこかエロチックな感じも漂います。
愚樵
2010/10/27 16:56
>「繁栄」
この国の常識に乗っかている状態で思い浮かべる繁栄は、いわゆるなんだか一部の選ばれし人たちと、それを支える一般人みたいな身分制度のような社会構造を思い浮かべてしまいますが、
私の夢見る繁栄は、70億の人の関係が、すべてフレンドシップ関係(以前コメントした、依存関係ではなく自立関係のほう)になることを最終ターゲットと思っております。なおそのターゲットとは固定的な概念ではないため、永遠の努力(コミュニケーション)が必要です。そのある程度が実現されたあかつきにおいては、貨幣や国境が、古い道具の一つとして捨てられる日がくると信じております。ってまさに夢レベルですが、誰かが夢みないと、空を飛んだり、遠くの人と気軽に会話するなんて、いつまでも出来なかったと思います。
Armed Love Power
2010/10/27 18:13
>普遍的な善
’善悪’を物事の判断に使用する危険性について、もうすこし実際的な例をあげてみます。
たとえば教育(躾)についてですが、普遍的には「親のもしくは先生の言うことに従順に従う」ことが善ですね。これを善としてしまった影響が、毎日のように「親が子供を虐待」、「先生が生徒を性犯罪の対象にする」事件を繰り返してますね(最終的には犯罪ですが、きっかけは’善’意です、もちろん原因は、親または先生の’行い’が問題なのですが、子供側からすると上位者の’善’に抵抗など不可能)。これはちょっと極端な実害なので、説得力に欠けるかもしれませんので、もっと多くの人が(無意識に)受けている実害を上げますと、
「親のもしくは先生の言うことに従順に従う」結果、
「あなたは何のために勉強するのですか?」と問われると、「テストの点を上げる為」、「なんで点をあげるの?」「よりよい学校に進むため」「なぜ」「よりよい就職先」・・・何が言いたいのかと申し上げますと、何度問いかけようが「自分で発案した人生の目的はどこにもない」ということです。すべての行動の理由が「XXが言ったから」「YYに書いてあったから」というように、すべて自分以外の外部基準や記憶に依存しており、自分起点の行動(思考)が皆無なのです。私はこのような人々のことをロボットと呼んでおります。(この国、ロボット多すぎ)
Armed Love Power
2010/10/27 18:14
このあとはまた理解度向上を期待して、極端路線にもどりますが、

ロボットには、自分自身に自分の行動の良しあしを判定する機能が無いため、「ネットで俺をのけものにするやつは悪者だ。派遣の仕事しかまわってこないこんな辛い仕事をしているのはやつらの社会のせいだ。悪者を懲らしめる私は善」とネットなど外部のなにものかからのメッセージを受ければ、秋葉原に(自分の信じる)正義(善)のために特攻しますし(彼の親は厳しかったそうですね)、「みんなあなたに迷惑(期待)しているので、潔く身を引きましょう、それが美しい(=善)生き方」なんていうメッセージを偶然受ければ、’善’を果たすために、迷うことなくむしろ率先して切腹したり、飛行機で体当たりしたり、電車に飛び込んだりというこれまでなぁ〜んにも進歩していないという事実は、歴史が証明してます・・・よね。 私から見ると貨幣なんかより’普遍的な善’のほうが共同幻想そのもので、真っ先に取り払うべき危険な概念だと感じております。
Armed Love Power
2010/10/27 18:14
差額を施設側支払うとは思えません。(通常でない想定ならば違いますが・・・解釈が違っていたらごめんなさい。)

通常こういったケースだと損害賠償についての対応を施設側は保険会社へ丸投げ(委任)しているはず。また、そのための施設損害賠償保険でもあります。

みなさんのコメントでも明らかなように保険という極めて資本主義的なシステムは、問題を貨幣価値に還元(交換)して問題の解決をはります。
貨幣価値に還元不能な部分、つまり「法的な和解」ではなく「真の和解」は保険会社が話しの前面に出てきた段階でどこかにいってしまいます。

個人的な事例でいうと昔、交通事故の示談を全部保険会社がやってくれました。
物損事故であったこともあり相手方との面倒な交渉を一切やらずにすみました。
まだ若くて初めての経験でもあり、こんなに楽でいいのだろうかと思いました。
また、資本主義社会では金さえ払えば面倒なことは一切やらずに済むと実感しました。

私を含めてこれだけ保険が一般化した世の中で現実的には大変難しい問題ですが、A君のご家族に向き合う「真の和解」があるとすればの相手方はやはり施設側であるべきでしょう。


学童砦の一役人
2010/10/27 19:31
こんばんは。
初めまして、ペター・カズベルグです。
そもそも、『命』に価値があるのは、量産品等と違って、1度なくしたら、簡単に手に入れる事ができないからこそ、価値があるのではないでしょうか?
少なくとも、同じ『命』を、量産品のようにもう1度手に入れる事は、絶対にできない、つまり同じ『命』と言っても、ひとりひとりの『命』の中には、人それぞれの考え方や今まで築いてきた、人生観や価値観があり、それはどれひとつとして同じ物はなく、要は人それぞれ各個々の『命』と言うのは、量産品とは、違って『希少で世界限定で1個』しか存在しないからこそ、本当に価値があるのだと僕は思います。
ペター・カズベルグ
2010/10/27 22:17
愚樵さん、コメントに併せTBありがとうございます。

>貨幣という共同幻想に全面的に縛られていると、「許し」と「赦し」の区別が付かなくなる

そうですね。ただ今回の件をみていて区別がつかなくなるというより「赦し」が忘れ去られていくという気がしました。そして共同幻想に縛られるだけでなく、「ゆとり」がなければ「赦し」は生まれてこない、とも。
今、A君の母には全く「ゆとり」はないと想像します。当然ですよね。そこを責めるのは鬼畜的行為です。また「ゆとり」とか「赦し」という話を聞く余裕さえない気がします。解決するのは時間かもしれませんね。
いつか「ゆとり」が出来たときに「赦し」と、母のゆとりのなかにA君が再び生まれてくるのかな、とも。

ただ、今回の裁判は、母の遣る瀬無い思いに「つけこんで」とはいいませんが、弁護士やら社会運動家なんかが「たきつけて」ともいいませんが、裁判にて闘うというかたちしてしまいました(カエサル100%か?)。その意義を全否定はしませんが、母にとっては辛い時間がながびいてしまうか、「ゆとり」も「赦し」も遠ざかる危惧はしています。
毒多
2010/10/28 09:15

Armed Love Powerさん、丁寧なレスありがとうございます。

「繁栄」のほうは、ワタシが「繁栄」という言葉に「物質的な技術的繁栄」「物質的な生産的繁栄」「物質的な文化?生活の繁栄」というイメージをもっていて、おそらく近代から現代にかけてそして今もなお(cop10でみられるように)「繁栄」というのはそうした意味で使われているので異常に反応してしまいましたが、説明を聞き納得しました。
>貨幣や国境が、古い道具の一つとして捨てられる日がくると信じております。ってまさに夢レベルです
いいですね。これをイマジン主義です。♪夢かもしれな〜い、でもその夢をみているのは、君一人じゃな〜い♪ですね(笑)。

「善」のほうは、まだすれ違いがあるようです。
>「親のもしくは先生の言うことに従順に従う」
これを「普遍的な善」だとは考えません。コメントで言われていることは解るのですが、ワタシの考える「普遍的な善」と前提の部分ですれ違っていますので、「善」の考え方としては違うと考えます。なんというかなぁ、誰ソレが考える「善」とかではなく、「真理」と繋がるものだと思っています。

毒多
2010/10/28 09:15

学童砦の一役人さん、おはようございます。

>保険会社へ丸投げ
一般的な民事裁判の落しどころを知らないのですが、社会的な通念を考えれば保険会社が払う範囲(丸投げ)というところに落ち着くのでしょうか。
裁判での直接の「被告」は保険会社ではなく、福祉法人になっているので請求額全額がみとめられたときのことを考えてしまいました。
ただ、これはその「社会的通念」が差別である、、と訴える裁判であるとも考えられるので、ややこしいですね。
>「法的な和解」ではなく「真の和解」は保険会社が話しの前面に出てきた段階でどこかにいってしまいます。
まったくその通りなのです。

交通事故の話は納得です。ワタシにも経験があります。
ただ、交通事故の程度にもよるのかもしれません。物損であれば所詮物ですが、人身で、しかも死まで至ってしまった場合は丸投げ以外に「真の和解」「赦し」が必要になってくる。
そうした意味では、本当に対峙しなければならないのは、A君の母と法人でしょうね。
保険が入ったことは、真の解決を遠ざけたのかもしれないなぁ。

毒多
2010/10/28 09:16

ペター・カズベルグさん、はじめまして、コメントありがとうございます。
「価値」という言葉をあらためて調べてみました。
1
その事物がどのくらい役に立つかの度合い。値打ち。「読む―のある本」「―のある一勝」

経済学で、商品が持つ交換価値の本質とされるもの。→価値学説

哲学で、あらゆる個人•社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもった性質。真•善•美など。

ワタシが違和感をもったのは1や2という意味においてかもしれません。3であれば受け入れられます。
ただ、どうも今の社会のなかでは1や2と捉えてしまうことが多い。今回取り上げたエントリーも、この1や2に対する違和感だったと思います。
おそらくペター・カズベルグさんも3の意味を言われているのでしょう。しかし、例えとして「生産性」を提示されているところが、1や2っぽい(笑)。
どうも、なかなか植え付けられたものから解放されるのは困難なようです。

毒多
2010/10/28 09:17
毒多さんへ。
横からすみません。
「価値」についての引用に「あらゆる個人・社会を通じて常に承認されるべき絶対性を持った性質」とありますが、上記の意味においても命というものにはそぐわないと思えます。

別に尊厳死云々のような俗な話ではなく、命は「機能」であり、水道という構造から水の循環という機能だけを取り出すことが出来ないように、細胞の組織体から命だけを取り出すことは出来ません。
機能それ自体は善悪や美醜、真偽とも無縁なものです。
それはただ存在するのみです。
さらに、命という機能は永続性を持たずいずれ停止します。死ですよね。
個体における命はよりミクロな組織体の一部が壊れること(局所的な死)のリレーによって支えられています。
黒い時計の旅
2010/10/28 14:21
つづきです。
個体の命が存在する時、そこには通常私達が認識しない死が機能しています。
個体そのものも誕生と同時に死を定められています。

命と死は不可分一体です。
しかし私達はそれを二分してしまう。
そしてあたかも一方に他方の持たない普遍的な善や美があるように見なします。
それは不条理というか、不可解ではないですか?

人間の脳が持つシンボル化→等価交換という概念の誕生と、原始宗教に「赦し」が導入された=赦しという概念の誕生。
どちらがより古く根源的なのかにも興味がありますが、私の手には余ります。
また長々すみませんでした。
黒い時計の旅
2010/10/28 14:44
>「善」
’良い’という評価は、絶対的なものなのか、相対的なものなのか、そこに相違があるのではと、あなたが「真理」という言葉を使われたのでもしやと思い、再度提案させていただきます。

私は「良い」という評価は、相対的なものだと思います。それは、「北朝鮮人民にとって金さんは良い人」=「アメリカ国民から見て金さんは悪い人」とか、要は評価者と被評価者の、座標(アドレス)の違いだけであり、万人に適用できる万能なモノサシでは無いからです。先ほどの同じ座標の上に、われわれの個人の意識が同居散在しているわけで、そのため、一つの事象「金さんの動向」が、いいことやわるいことというたった2種類の評価に導く意味は、あまりグローバルな考え方ではなさそうなことはご理解いただけるでしょうか。保険の契約システムでも良い悪いを契約項目として一つも挙げていないはずです。

「(目に見えない)絶対的な善がある」と教育とその訓練を受けてきた以上、なかなかその意識から脱せません。
会社など組織なんかでもヘッドが入れ替わったとたん、良い悪いがコロッと変わったりすることが、あたりまえのように、それが常識だと思い込ん(こまされて)でいますよね?

(目に見えない)絶対的な善を信じる集団が、自分たちの文化が長年信じる’善’とやりかたが違うので、相手を理解する努力をあきらめてできた結果が、「(目に見えない)国境」という現実を生み出していると思います。

ちなみにその国境の意味合いはそれぞれ異なり、大別すると、自国民を守る防御システム(努力した自立組)になっている国と、自国民を縛る監獄システム(あきらめた依存組)になっている国があり、日本はその後者だという説が、先日の流刑地説です。
Armed Love Power
2010/10/28 17:46
黒い時計の旅さん、おはようございます。

やはり指摘されましたか。ワタシ自身も多少の疑問をもちながら書きました。
命、>それはただ存在するのみです。
辞書の意味での
>あらゆる個人•社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもった性質。
は、ただ存在するとも取れると思いました。
つまり命、生がそこに在るのは、時代や社会条件やその他条件を越えて絶対に承認されるものである。と解釈です。
このときの「時代や社会条件やその他の条件」とは、例えばナチのユダヤに対する行為、日本のライ患者への行為、中国で反日デモをする人の日本が地球から消えろ(これは日本人ととったときですが、、、)、特在会の在日外国人は消えろ、市民のホームレスは消えろ、、、これら、そこに命が在ることの否定を否定する性質のもの、、、という意味です。
ただ、辞書の例による「真、善、美」に命を並べるとなると、やはり疑問がのこり、黒い時計の旅さんの言われることは解ります。

毒多
2010/10/29 09:27
Armed Love Powerさん

ワタシが言ったのは「良い」ではなく「善」です。
ここのコメントの流れでいえば「良」=「許す」、「善」=「赦す」というイメージです。
また「良」は形而下の不確実なもの、「善」は形而上的であり、時代、場所、その他の形而下的条件に左右されないもの。「良」であれば、あなたのご意見に特に異議はありませんよ。

・・・というレスを考え、辞書を再度ひきましたが、ワタシのいわんとする「善」は辞書的な「善」と少しはなれてましたね。

ただ、あなたが云う「自立」というのも、形而下的な価値に左右されない真理を探求するということではないのですか?

毒多
2010/10/29 09:27
私にとっては、「良い」と「善」、また「許す」と「赦す」の意味の違いはあまり気にしておりません。
それはいずれの言葉も、やり方、見え方(手段)だからです。
私が伝えたいのは、手段について議論しても、人それぞれに特性がある限り、一致は無いと思います。
例えば目が見えない人にとって、見え方を評価なんてできないし、手足を失った人にやり方を強制なんかできないし、また、現に今、私とあなたの意見が一致したところは「国境をなくすぞ!」という目的だけです。

一致しない’手段’の評価は、視野が狭いため、いがみ合いを引き起こし、足を引っ張り合うという現実(中国の反日デモ、日本の国会)が良い例です。合わせるべきなのは目的であり、それが未来への進化のカギだと思います。

>あなたが云う「自立」
目的主体行動こそが自立の基礎です。
目的にたどり着く手段は人×考えの数だけあって、常に変動しますので、「真理」といった固定的な概念とはなりません。
尚、ジヨンレノンのイマジンのメッセージは「見え方(手段)じゃなくって、大事なのは目的だよ!」を伝えようとする試みだったと理解しております。残念ながらこのメッセージは万人にはとどいてないですが。
Armed Love Power
2010/10/29 17:46
毒多さん返信ありがとうございます。

仰られている例はいずれも存在の否定なわけですが、否定は存在に先立つことはできないので、おのがじし存在を承認しているとも取れますね。

他方、負の評価を対象(存在)に与えているとも言えます。
「負の評価」が既にに生じている時点で、無条件に承認されるべき性質という前提が崩れている気もします。

概念上いかなる視座においても、善はあくまで善、真はあくまで真でなくてはなりません。
善は悪なり、真は偽なり、では具合が悪いですよね。
黒い時計の旅
2010/10/29 19:19
追記です。
愚樵さんと毒多さんのやり取りが面白いので水を差したくはないのですが、ひとつだけ。
「赦し」という概念に関して、頭では理解出来る一方で自分を省みるとこの概念が血肉化されていないというか、実感として希薄です。

自身に照らしても、肉親を他者から過失で負傷させられた経験があります。
当座は怒りや憎悪がそれなりにあるわけです。
慰謝料や遺失利益に関しては、肉親と離れて暮らしていたため何がどうなったか知りません。

今は怒りも憎悪もありません。
「赦し」たのではありません。
怒りや憎しみを持続させる力が、なかった。それは他者との関係から生じたものではないのです。

それと、保険は過失に対する「許し」との等価交換であるとの見方ですが、解る気もしますしそうでない気もします。
地震保険やガン保険。
地震もガンも過失ではありません。
どちらも純粋な「可能性」です。
加入者は可能性にbet(掛け捨てのような形で)する。
私が保険をギャンブルと呼んだのはそのためです。
黒い時計の旅
2010/10/29 19:51
事故・人災においても、加入者は過失の埋め合わせをさせる為に保険に加入するのかというと、どうでしょうか。

人為的災害であれ天災であれ、それが生じる確率が下がれば下がるほど、加入者は減るでしょう。
人災が生じた際の責を問うのが保険の本質であるなら、人災の発生率が1年に1回でも100年に1回でも、人は同じように保険に加入するはずですが、おそらくそうはならない。
加入者はbetしなければならないからです。
また長くなって、すみません。気を付けます。
黒い時計の旅
2010/10/29 20:12
黒い時計の旅さん、おはようございます。

>否定は存在に先立つことはできない
評価は存在に先立つことはない、、なるほど、そうですね。わかりました。

「赦し」についてのやり取りが、血肉化されていない。これは書きながら思っています。幾度もA君の母から離れて、と断りを入れるのもその現れです。
「許し」ではなく、「赦し」について血肉化されていない、と指摘されたのは、やはり「許し」が法的であったり金銭的であったり、>保険的であったり、するのに対して、「赦し」が根源的な意義を含むものからかもしれませんし、愚樵さんが(愚樵空論で)おっしゃっているように、事後にしか訪れないものかもしれない、と思いました。
毒多
2010/10/30 10:03
もう一つ私の主張の前提となる大事なポイントをお伝えさせていただきます。
人の行動(思考)には優劣は存在しますが、人そのものに優劣はありません。
意識が後者の場合、差別(現代だとホームレスのくせにとか障がい者のくせに、江戸時代だと非人のくせに)、人身売買(買春・売春・臓器売買・生命保険はひとつの金儲け)、死刑制度(昔でいうと仇討制度)、国境線をめぐる争い(善悪にこだわって相手を非難・・そのうち戦争)、といったあまり先進的でない問題解決手法が優勢(主流)になります。
Armed Love Power
2010/10/31 07:46
意識が後者というのは、
「人そのものに優劣がある」と思い込んでる意識のことです。

ちなみに日本では残念ながら大本流です。

名前の構成が、’苗字’が先で、そのあとに’名前’の順になってる国(アジア圏に多い)はその傾向が極めて高いです。
Armed Love Power
2010/10/31 07:52
Armed Love Powerさん

えぇ〜、どうしましょう。困ったなぁ、というのが正直なとこです。

>私にとっては、「良い」と「善」、また「許す」と「赦す」の意味の違いはあまり気にしておりません。

と書いてあった時点で、このスレでのあなたとの会話は終わったとおもってました。

で、主張ですね。
>お伝えさせていただきます。
これは「はい、読みました」でいいのでしょうか?
特に、反論はありませんが、うーむ、と心に響くものも、ちょっと思索してみようというものもない。
と、書くのは失礼かなとは思うものの、レスをしないのも失礼かなぁとも思い、困っています。

主張というのは、会話とちがい「言い切って終わり」でいいのかもしれませんが、伝わらなければ「主張する意味」があるのだろうか、とも思います。正直にいいますと、どうもワタシには、あなたのコメントを読んで「会話をしてでも主張を理解したい」という思いが生まれてこないんですね。これは、ワタシが悪いのかもしれませんが、その気がおきないことは事実です。
失礼かとは思いましたが、あなたのHNをググって他所様のコメ欄の様子を少しづつ覗き見させていただきました。反感をかっているものが多いですね(笑)。
すこし「方法」を思考されたほうがいいのではないでしょうか? 「主張」されて「言い切り」にならずに済むような気がしました。

大変失礼なコメントかとは思いますが、率直なところです。

毒多
2010/11/01 08:50
あ、今回のあなたの主張は、「読みました」で、解らないということではありません。
「はい、解りました」で終わってしまう、ということです。これでいいですか?
毒多
2010/11/01 09:12
非常に率直な返答に感謝しております。
他でのありさまをご覧になられたとおり、まともに理由まで述べてもらえるところまで(私の努力不足で)いけてません。(これが今の課題)

私の当お題に対する主張は、「障害者が二度と事故に巻き込まれないかを考える事」が最優先で、残された遺族のことはどうでもよいとは言いませんが、かなり優先度が低いしかつ特定のサービスを得意とする会社なりが考えればいいのであって、われわれ第三者がこのネットという資源を活用し、最も効果的な貢献ができるとしたら、問題の組織の外側にいるわれわれのような、別の視点からの再発防止策の議論にこそ時間と思考はついやされるべきでは?ということです。
それで、
>私にとっては、「良い」と「善」、また「許す」と「赦す」の意味の違い
と言い放ちました。これまでのサイトではかなりストレートに指摘してましたが、すこしぼかしたほうがいいのかな?と思ってまわりくどく発言しましたが、それでもなんだか問題が残るんだなぁ・・ということが、わかりました。
ありがとうございます。
Armed Love Power
2010/11/02 17:43
はい、このコメントは気持ちいいです。
何かレスしようという気になれます。
あなたが目指すベクトルがよくわかります。
ただ、残念ながらやはりワタシとは視点が違いますね。
ワタシのブログでは、

>「障害者が二度と事故に巻き込まれないかを考える事」が最優先

にならないんです。

あなたの考える、>ネットという資源を活用し、最も効果的な貢献、、、とは違うブログになりますが、まあ続けていきたいと考えています。



毒多
2010/11/03 08:47

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「ある障害者の死」…命の価値は働くことだけでしょうか 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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