毒多の戯れ言

アクセスカウンタ

zoom RSS 「文は人なり、ってなんだ? 」…ちょっと考えてみる

<<   作成日時 : 2010/03/21 02:20   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 3 / コメント 43

 先週末ちょっと時間を潰さなければならなくなって、初めて「book-off」に入った。
 book-offって店がこの辺りだけのものか、全国的なものかは知らないが、古本屋のチェーン店であることは知っていた。店内に入ると1Fがマンガで占められていて2Fにマンガ以外の本があるらしい。
 時間つぶしとは言えなぜ古本屋に入ったかというと、ふと、ガキの頃読んだ「おれは鉄兵」というマンガをもう一度読んでみたいと10年くらい前に思ったことを思い出したためである。結論からいうと「おれは鉄兵」はなかった。あったとしても実際に買うかどうかはきっと悩むとは思うのだが、なかったので悩むこともない。悩むことはないのだがもう一度読みたいという気持ちが高まった。ガキの頃に読んだマンガなんぞ、今実際に読んでみたらたいしたことはないのかもしれないが、ないとなると気になる。
 「おれは鉄兵」がないことが解っても、時間が潰せてない。マンガの立ち読みをして潰すのもかったるい、と思案していると「本日すべての単行本が500円均一になってお買い求めやすくなっております、2000円のもの4000円のもの、高くて手が出ないシリーズ物などこの機会に、、」という店内アナウンスが入ったものだから2階へいき物色することにした。
 500円といえども読まない本を買えば高い買い物になる。物色したがなかなか読みたいと思う本がない。この辺が所詮、古本屋の品揃えなんだろうなぁ。とはいえ、何でも500円は捨てがたい。安売りに引っかかるおっちょこちょいだな。ということで、「photoshop」というアプリのちょっと高度な指南書と、新品価格10000円以上中古価格4000円で広辞苑より重い「慣用句辞典」と、読むかどうか怪しいが、なんとなく手にとってしまった内田樹の「こんな日本でよかったね」の3冊を1500円でgetすべく、両手で抱えてレジへ持っていったわけだ。財布から1500円を取り出そうとすると5850円です、と言うではないか!?
 この中で単行本はこの大きさのものだけです。と、内田樹が差し出された。文庫本以外は全て単行本と思っていたオレは驚き桃の木慌てふためき山椒の木を素手で握ったような衝撃に打ちのめされた。な、ナンデストー、じゃ、イラネー、と言ったのだが、店の人の無言の圧力なかで唯一の単行本は買うことになった。
 ということで、内田樹の「こんな日本でよかったね」が手元にある。新品で1600円、中古価格で850円を500円で買ってしまったわけだ。それにしても単行本とは大きさのことかね?


 ちょっと待て、これが前置きにしちゃ長すぎるだろ。無駄に言葉を浪費していいのか? しかも他愛もない言葉を、、、


 なんて思いながらも書いたのは、やはり内田樹の本を読み始めたからである。
 何なに? なんだって?「言いたいことは、言葉のあとに存在する」だって? ようはオレに言いたいことがあって、それを言葉という道具をつかって伝えようとするんじゃなくて、言葉がまず存在して言いたいことは後からついてくるというのだ。おうそうか、じゃ、まず「古本屋で500円で買った内田樹の本がここにある」で済まさずに言葉を並べてみようってんでダラダラと書いてみたんだが、どれだけ書いても「言いたいこと」が生まれてきそうもない。
 
>「言いたいこと」は言葉のあとに存在しはじめる、「私」は「私が発した言葉」の事後的効果として存在し始める。

とワケの解らないことをいう内田樹は、モーリスブラウンという人の言葉を引用している。

>作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何ものであるか知らないばかりか、何ものでもない。作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。

 これは解りやすい。ただここでいう作品つまり言葉とは思索し推敲したおし、作品まで昇華したものに違いない、しかも「何か」によって書かされた言葉に違いない。ん?「何かによってかかされた」? というのも、池田晶子が内田樹と似たようなことを言っていたことを思い出し、本を引き散らかして探し当てた。ちょっと長いが引用してみよう。

>(「何をしてたのしかった」、「アタシ悩んでいることがあるの」、程度のもの、、、)人が「書く」本当の理由は、決してそんなふうなところにあるのではない。言語が精神に要求するところの必然的運動性とその自覚、即ち、精神もしくは自己の方こそ言語にとっての道具なのであってその逆ではないと知ること、これが、本当の書く理由である。別の言い方をすれば、言葉が自分を表現するために私を道具として使うのであって、私が自分を表現するために言葉を道具として使うのではない。もっと易しく言えば、言葉をして語らしめるのであって、私が言葉を語るのではない。それならば語っているのは誰なのだ、当然そういう問いが出てくる。だから、それが先に言った大文字の「精神」もしくは、なんでもないところのこの何ものかなのだ。(ロゴスに訊け)

 言語が精神の要求するとこによって書くのが、本当の理由。
 同じようなことを言っていても内田樹は「軽くて」、池田晶子は「重い」なぁ(笑)。 
 晶子の姉御が「精神」とか「なんでもないところの何ものか」というのを、内田樹は「発話主体」と言っている。それは「私」そのものじゃなくて、言葉から滲み出る「言いたいことであるとこの何か」。このエントリー前置きとして書いたようにただダラダラ並べた言葉には、晶子の姉御にいわせれば「精神」、内田樹の言うとこの「発話主体」もないわけだ。
 なんだか小難しいそうだけど、これはオレの実感するところの「伝わってくる言葉」「伝わってこない言葉」に通じるものかもしれないな。自分の書いたものしかも言葉を選び、表現を選び、四苦八苦して書いたものを読み返すときには「読者」として伝わるものを感じる。他人の書いたものにも感じることのできる言葉には感じる。ブログをやっていて思うのは「書かずにいられない」とき何かよって書かされたものは自ら読み直しても「伝わって」くることが多い。エントリーupの間が開いたからと課して、無理やり書いたときは薄っぺらなエントリーになることが多い。
 さらにいうなら、他人の書いた言葉が「伝わってくる」とき、その人物の顔や声が伝わってくるのではない。だいたいネット上のことである、人物そのものを知る由もない。まさに言葉によって醸し出された「精神」。その「精神」によって想像の人物がかたち作られる。これがリアルな人物像とはちがう純粋な人つまり精神なのかもしれない。

 「文は人なり」……
 「文は精神、発話主体、何か、なり」……かな?

 内田樹や池田晶子の文脈でいけば、これは、文の表面的な「言い方」「表現の仕方」によって、書いた人が上品か下品かというのではない。書いた人の礼儀のあるないではないのだ。もっと本質的なこと。その文によって醸し出される「精神」のことを言っているのではないか?
 うーむ、書いた人物ではなく、純粋にその「言葉」からうまれる精神(本質)のことをいうということは、人物そのものとは違う次元の問題なのだ。
 もっとも、とすると「文は人なり」とは、「伝わる文章」「伝わる言葉」に対していうものであり、「伝わらない言葉」には、「文は人なり」そのものを運用することができない。上の前文のようなどうでもいい言葉の羅列や、「〜と言葉で言うのは簡単ですが、、、」、さらには誰それが(人間そのものが)仲間だ敵だをベースにした言葉の羅列や、自己弁護の屁理屈など「言葉」以前ものものだろう。語る価値もなく、最低限何かによって書かされている「伝わる言葉」でなければ「文は人なり」以前の問題なのである。(と、いいきっちゃうと「戯れ言」と矛盾してちゃうのかな?、、我乍らいい加減だなぁ、笑)
 

 内田樹の本にのっていたセンテンスをメモがわりに、、、

「言葉以上のものがある」と信じさせることは言葉にしかできない。それが言葉の力なのである。





テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(3件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
ブログに本当の言葉はない
このテーマに関しては、日頃親しく交わっているってゆうか、 うじゃじゃけて遊んでいる、と言っても電脳空間に於いてですが、 「かめ?」や「dr.stoneflyの戯れ言」が力の籠ったエントリーを発表し、大きな反響を、 もっぱらご近所同士っすけど、呼んだものであり、「またですか、もういいよ」ってな 声が聞こえて来そうってゆうか、僕自身が上げたいのですが。 ...続きを見る
BLOG BLUES
2010/03/22 00:03
仁侠ドクター中村哲
義を見て為ざるは勇無きなり。これこそが天晴れ大和魂、 武士道の誉れである。しっかし、この市井の偉人には、そんな裃着せた世界は 似合わない。断然「仁侠」の二文字である。僕は、ありったけの尊敬を込めて、 中村哲その人に、仁侠ドクターの称号をお贈りします。 ...続きを見る
BLOG BLUES
2010/03/23 13:13
素数ほど素敵な存在はない
ここ十年くらいの間に発表された日本の小説で、 あくまで僕が読んだ限りに於いてだが、ピカイチは、 小川洋子「博士の愛した数式」である。 ...続きを見る
BLOG BLUES
2010/03/25 14:49

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(43件)

内 容 ニックネーム/日時
私達の記憶や感情の多くは、他人を前にして生成されますね。本を読んで何かを覚えるのも、筆者の精神に触発されるからであって。こうして今書いているのは、毒多を読んで「ぐぐ」とせり上がる何かがあったからで、それを語らせているのは私ではない。

私が「自分が書いたものに一切責任を持たないが、読んだものには責任をもつ」と考えるのもこのためです。自分が何に触発されるべきで、どんな人物を回避すべきか、それは自分で決めなくちゃいけない。
どんなものに時間を使おうとも、必ずそれは有限なのだから、私はこの「ぐぐ」を選択的に探し求め続ける。ちっぽけな世界で待っていて、やって来たものだけを「これはいい」「これはひどい」と評論家ぶっている『主体的私』など、死に殻に過ぎない。

「ぐぐ」が来れば私も書くことができるし、その時に精神が生成される。戦争の非道を前にすれば別の「ぐぐ」が生まれ、それが行動につながる。それを知っているから、もっと戦争のことを知ろうとする。
私が戦争を知ろうとするのではない。「ぐぐ」と来た私が戦争を前にして何をするか事前に知っているから、私が戦争を知るのです。
だめな大人は、自分が人をいたぶって楽しいと知るから、あえてそうした「いたぶっていい人」を探し続ける。
人生アウト
2010/03/21 05:06
本選びにも同じことが言えるのかもしれません。
私が特に熱心に本を探し読んだ時、何ら「読むべきリスト」なんか持たなかったにもかかわらず、結果的に一級の必読書だけを読んでいた。
それは出版社の編集の妙、書店の配架、表題の才能が企図通りに働いたから。彼らの微妙なセンスを察知して、「これは読むべき」という精神が生成されたから。その感覚を信頼して、貧乏学生は惜しげなく1000円をはたいた。

この先走りが、精神のセンスだと断言していい。「自分が読んだもの」によって事後的に規定される「私」を、先覚的に選び取る知性。
これが無ければ、人は古い殻の中に籠もった「10年前の私」を守るため、外敵に対抗したり同じ食物を摂り続けることしかできない。成長しない。
人生アウト
2010/03/21 05:22
社会は「なんでもないところの何ものか」です。確かに社会はまずそこにあり、別個に私があるように見える。
しかし、社会は私達に常に要求してきます。できる以上の何かを(経済的な意味でではない)。かくあるべき社会がまず先覚的に知認され、それに「もって行かれる」「ひっぱられる」形で私達が前に進もうとする。
ゆえにその担い手たるべく、嬌慢なもの言いの一つもして見せなければならない。だって、「あるべき社会」がそこにあると断言するのであれば、その引き受け手たる自己にその能力がないと『謙虚』に物を言うのは、たんに「引き受ける気がないから」に過ぎないのだから。

『謙虚』な人は、今の自己のまま社会に対して何もしない。自己の主体的な判断とやらで社会に物申すけれど、今以上の自己で先覚的に社会を先取りする、「10年後の社会に対し今責任を持つ」ことを決してしない。
人間は必ず年をとるから、10年後20年後、年下の人間からは必ず「今の社会がこうなのはお前の責任だ」と言われるのに、その時になっても「いや、これは社会が悪いのであって、私は外側から非を指摘してきた」と言い逃れる。
冗談じゃない。先覚的に社会が先取りされたならば、もう後は「私の行動結果が事後的に社会そのもの」でしかない!
人生アウト
2010/03/21 05:48
言葉はどれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、1台の戦車さえ破壊することができない。戦車はすべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。

しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものを自ら正当化することだけはできないだろう。

  ――加藤周一

かとうしゅういちを知らなかったんだけど、この言葉を見たときはぞくっときた。

僕が言葉と人を見るときには、――言葉と人を結びつけて考えるときには――このあたりの感覚の方が先にくる。そこを優先する。(これは意図的なものではなく、そちらに目がいく、ということ)

ここで何が語られているか。(もちろん「語られるべき、何が語られていないか」という雄弁も含めて)そこに一番の面白みを感じる。

言葉がここにあることの必然性、もしくは不思議さ、といったもの。

そしてまた、その言葉がここにないことの、空虚さ、寂しさ。たとえばその「ここにないものの存在感」を追求していったのが、俳諧や茶の湯などでいう「侘び」なのかなあ。

とか。

僕は足りないものの方に興味がわくのかもしれない。

だから、口封じ、には敏感に反応してしまう。

大音声のプロパガンタや、ここは建設的な議論を、とかいう「いい加減」な言葉を含めてね。



プラハにある戦車は自らの存在を正当化することはできない、というのはぞくっとくる。

それが、たとえば原爆を見て、ヒロシマ、ナガサキを見て、なおそれを正当化する言葉を探そうとする、そんな人間たちの「口封じ」を意図したものかどうかはわからないのだけれど。

ごん
2010/03/21 08:32
誰かに『そいつは帽子だ!』と言われる前の、得体の知れない、混沌。それを具現するもの。

――人間。

出会えば別れる、その運命。サン・テグジュペリは可愛いキツネにそれを語らせる。それとも語らせられた、か。

================

・・・君のその金色の髪は美しいなあ。

僕はパンを食べない。だから麦畑なんか見ても嬉しくもなんともない。それどころか憂鬱になる。あの忌々しい猟師たちの足音を思い出すから。

でも、これからは違う。

僕は麦畑を見るたびに君のその美しい髪を思い出すだろう。

 ――ごんが思い出しつつ(妄想しつつ)書いた
================

「本質」に重きをおけば、生きている人間は媒体(シャーマン・預言者・代議士)でしかないのだろう。だからそこだけを追求していくと「現象としての人間(つまりは生きた人、自分も含めて)」に対する侮蔑(期待し、裏切られ、そのことによって芽生えてくるもの)と、格闘していくことになる。他人に、そしてほかならぬ自分自身に期待し、裏切られ、それを繰り返す。

まるでシジフォスみたいに。

だけど、その愛の積み重ねの中に人間の価値(自分がここにあることの意味)を見出す人もまた、すくなくはなかったんじゃないかと、僕は思う。

ごん
2010/03/21 09:09
僕らはたしかにその本体をどこかにおいてきて、その何者かに「語らせられる」どうしようもない人間たちだ。けど、たとえば他者である彼や彼女らが語ったほんものの言葉を噛みしめるとき、(自らの中にその言葉が根付いていることに気付き、しかしそれは彼や彼女の言葉ではなくなったいることに気付き、その言葉をここに残してくれた『もの=得体の知れない何ものか』の存在に気付き)、

そのときに思い返される彼や彼女やらの現物、

つまりは彼や彼女らの表情や風体や声色や手触りや、熱や湿度といった

彼や彼女らの持つ個性、ごつごつとした人間性、ウエットな感性、

それらのものがどれほど懐かしく思い出されることか。

リアルの「いとおしさ」が、そこにあることの「かけがえのなさ」が、

どれほど人を慰めるものか。

言葉ではたとえようもない。

< これはもちろん、リアルで親交のある人に限らない。声色や手触りどころか顔すら、名前すら知らなくても感じられるものだ。その人の言葉が、自分の中に深く浸透していることに気がつけば、感じられる >

僕は「文は人なり」というのはそんなことを言っているのだと思っていた。

ごん
2010/03/21 22:50
文を読み、人を知り、愛を得る。

「文は人なり」という、この言葉はそういうふうに使われるのでなければ何の価値もない。

たとえばマルクスやマルキシストたちが僕のような使い方をせずにあの腐れ外道と同じように「論敵」を貶めるためにその言葉を用いたのだとしても。

もともと貶められている人間を、尊厳を奪われている人間存在というものを、さらに貶めて、そのことにいったい何の意味があろうか。

石ころを指さしてこれは石だと重ねてみても意味はない。

ああたしかにこれは石ころに違いない。だがかけがえのない石だ。というところに意味があるのだ。そこにしか意味はないのだ。

ペテンだと笑うのなら笑うがいい。

だが僕はそのペテンを笑えない僕の心にこそ、真実はあるのだと信じている。

ということで僕はこう思う。

たとえば人の言葉を思い浮かべ、その人がもう居ないことに突き当たり、しかし、振り返って自分の中にその人が居ることを感じる。僕はその積み重ねこそが「愛」なのだと、思う。

そういうときにはじめて人間でよかったと思えるから。


ごん
2010/03/21 23:05
高山樗牛でしたっけね。
「文は人なり」ってわけのわからない言葉です。
みんな、人にはキャラクターとか個性がある(それを他者である自分が認識できる)ってのを前提としているんですかね。
kuroneko
2010/03/22 10:19
私信です。

dr.stoneflyさんにお願いです。

kuronekoさんのとこ、9条と25条がどうのこうの言ってるけど、あそこにはコメントしないで欲しいです。

こんなことをお願いされても困るとは思いますが、今回だけは(今回も)察してやってください。

ごん
2010/03/22 17:29
おひさしぶりです。
なんか・・・ニーチェみたい、ってニーチェなんて読んでもいない阿呆がいうのもなんですが。
でも「作家は作品の後についてくる」って、なんか分かる気がします。坂本龍馬が流行ってますが、「歴史の歯車を回した人」だって、どっかの誰かみたいに「ここで俺が二つの勢力を結びつければ・・・」とか打算で動いてたわけじゃないでしょう。
歴史なんて所詮結果論だし、自分の信じるとおり行動する!しかないんでしょうね。
自分ではテキトーでも他人からしたら「スンゲー!」ってことも往々にしてありますし。オジー・オズボーンのように。
ベースケ
URL
2010/03/22 22:10
人生アウトさん、ごんさん、ありがとう。
言いたいことを言い切れないままの言葉を、未熟な精神を、鮮明にして頂き感謝です。お二人の言葉に「ぐぐっ」と感じ、なんどもじっくり読み直していました。このエントリーは、お二人のコメントまででひとつのエントリーになっていると感じています。
ワタシのなかで未消化だった「何かに語らされている人間は、ただ語らされているだけの存在なのか?」というのも、なんとなく解ってきたような気がします。
うん、二人の言葉は内田樹よりも池田晶子よりもずっと実感できる。
dokuta
2010/03/23 09:05

kuronekoさん
「BLOG BLUES」のコメント欄でも書いたように、9条と25条を対比させて考えること自体に違和感があり、さらには9条と25条のどちらが「効果的か」など、分断していくようで、反吐がでそうなほど嫌悪感があります。
25条が満たされなくて苦しんでいる人々がいるように、9条を蔑ろにされ今、現実に苦しんでいる人々がいる。どちらの人数が多いからどちらが効果的などと言えるわけがない。
ごんさんの私信以前に、コメントする気はありませんでした。(解答は渡辺治ですよ)

ごんさん、こうした私信は必要ありません。
見くびらないでくださいね(笑)。

dokuta
2010/03/23 09:06

ペースケさん、お久しぶりです。
そうですね。自分の信じたとおり行動するしかないでしょう。
ただワタシは、「自分の信じる」が「効果的」に左右されることなく、本質を見つめていたいと思っています。たとえそれが観念的だと言われてもね。

dokuta
2010/03/23 09:06
こんにちは。ペシャワール会の活動は、ご存知ですよね。中村哲氏は、こう言っている。「私たちにとって、平和とは理念ではなく現実の力なのである。」僕は、全然同感。因に僕もペシャワール会の会員だ。ただ貧者の一灯をくべたに過ぎませんが。

貴兄も、ドヤ街で救援活動をやってたときは、こう思ったんじゃないの。「私たちにとって、共生とは理念でなく現実の力なのである」と。

貴兄にとって本質とは、平和であり、共生じゃないのですか。で、それは、理念でなく現実の力ではないのですか。僕が、「BLOG BLUES」で政治的発言をする場合は、ぜ〜んぶ「効果的」かだ。換言すれば、現実の力となり得るかだ。

9条25条で言えば、戦争の根本要因は貧困である。9条と25条は抱き合わせて考えなくてはならない。これが一番「効果的」だ。違いますか。

政治的課題を論じるに於いて、理念を振りかざすのは嫌いだし、危険だと確信している。戦後左翼の衰退、新左翼の崩壊をほぼ同時代人として、歴史体験しているので。

貴兄の見つめる本質が、僕の想像したものでなかったら、とんだ暴言ということになりますので、そうであったなら、深謝です。
BLOG BLUES
URL
2010/03/23 13:10
9条と25条と並べるというのは、わりと最近になっての傾向ですね。わたしのエントリーはネタだから、もちろんそのまま主張しているわけではないし、dokutaさんが仕掛けやネタに気づかないと思うほど見くびってはいません。

まあ、左翼おじさんとお付き合いの多いわたしとしては、今まで「護憲」といってきた人たちへの批評意識はもってしまいます。おいおい工夫してエントリーにしますが。
kuroneko
2010/03/23 14:42
9条と25条の対比の話があったのか、と把握ー。

うん。私にとっては9条は「わが怨み」ですね。
「よくも殺したな」という私怨から9条を抱いている。他者のためであるより、個人的理由。
だから、自分の9条概念のためなら他人を支配蹂躙報復しうる。それは矛盾です。しかし絶対に譲れぬ。

そして25条は「われわれのため」ですね。私的理念としてでなく、公的理念として考える。ゆえに話は発展させやすくもある。
人生アウト
2010/03/23 14:56
政治は難儀なものです。
企業ならば私的理由で始められる。「お客様の生き血を吸わせていただきたい」と考えてOK。その過程・手段としてお客様の利益を追求する。それ以外の手段で「私的理由」を追求する方法はない。
政治は違う。はじめに9条を抱いた時、多くの人にとってそれは私的です。怨みや怒り・嘆き悲しみから発している。
――それ故に、他人は私達の怒り悲しみをどうでもいいと考える。私はそれを否定しない。他者が我が9条を踏みにじることを何とも思わない。
それより企業的な合理性を選ぶ。「お客様には我が恨みと心中していただく」と考え、その過程・手段として公的な言い方をする。共産党が「上から目線」と言われたりすることがあるのは、その私怨⇒公的への転換装置をもってないからではないか。
自民党や企業は持っている。上から目線なんてレベルでない、もっと深い悪意を、キレイな言葉に変換している。左派には、そうした「ズルさ」がないのかも知れない。(以前「橋下知事の発想は自分に近い」と書いたのは、この為。私はこのズルさ・悪意において、自民党にも何にも負ける気がない。すべて、個人的恨みを晴らすために)
人生アウト
2010/03/23 14:57
理念とは、果たされてはならぬものなのでしょう。私は自分の恨みが晴らされるべきでないと考える。

結果しか信用に値しない。
「結果的に平和であること」「結果的に貧困でない事」
これらは、平和を目指して・福祉を目指して達成される『ものでない』。
何かを目指して達成されると考えるならば、それは、何か正しいことを言えばそれが実現されると考えるに等しい。
私は自分の言葉に一文の価値もないと断じる。

結果、結果。結果が全て。
結果が正しければ、どんな方法をとっても構わない。
私が「合理性」を選択するのは、自分の私怨と逆方向に結果を結びつけることができれば、それは甚だ不本意ながら、結果的に福祉と平和のとりあえず継続・発展になりうると考えるからです。
自分の恨みが達成されないことによって、結果的には公的な憲法理念が達成されると考える。
人生アウト
2010/03/23 17:24
bluesのアニキ

>「BLOG BLUES」で政治的発言をする場合は、ぜ〜んぶ「効果的」かだ

 「政治的発言」ですね。「戯れ言」とは、この根本が食い違っているのでしょう。
 「政治的発言」を否定はしません。ワタシ自身も以前はブログで言ってましたから。また寄せ場(名古屋では戦後すぐドヤ街は解体されてありません)にいた頃は「政治的効果」を考え、激しく身体をつかって追及していましたが、、、。現実は挫折の連続、ワタシの市民運動経験のなかで「勝った」ことは一度もありません。
 矛盾に満ちた社会のなかで「効果的」を追及しようとすればやはり矛盾を生じさせる。
 今回では「今は25条で9条を言う時ではない」という言葉がいい例です。

 今、ワタシがブログでやりたいのは、一人でも多くの人と共に「ほんとうのこと」を追求すること。「平和のほんとうのこと」「共生のほんとうのこと」、、、「存在のほんとうのこと」。一人でも多くの人と「ほんとうのこと」を追求し、それが血肉化していければいい、と思っています。
 これが「観念を振りかざす」と映るかもしれない。が、ワタシはブログではこれしか出来ませんから。
dokuta
2010/03/24 09:17

 このブログは「政治的」ではない。特に最近の「戯れ言」は政治から離れている。だから最近「BLOG BLUES」は読みに行っているけどコメントやTBをしなかった。おそらくアニキのほうも「戯れ言」にある種の違和感を感じていたのではないですか? 「やりかた」があきらかに違っていた。
 もし、件のエントリーのコメント欄に、9条、25条が密接に関係していて抱合せが「効果的」と書かれていれば、「効果的」には違和感はもったが、表面きって反対はしなかったでしょう。今回はおっはー氏のそして七詩氏のコメントを看過できなかっただけです。
 9条も25条も、人類の究極の課題だ。人間が存在する限り到達できないのかもしれない。人間の存在理由を考えさせられる。人類にとってのゴールかもしれない。ワタシにとってそういう「言葉」です。うつろう現実に合わせての「効果」では語れません。
 
 もっともワタシも完全に「政治的」から脱退したわけじゃない。リアルでは細々ですが政治的な言動もつづけていますし、ブログ周辺においてもです。だから今回は「BLOG BLUES」でもコメントしたんだろうと思っています。ただ、ワタシは今回「BLOG BLUES」のコメント欄で明らかに失望した。これはアニキのせいじゃないかもしれないが、アニキの意図に反して「非効果的」だったということです。
 「憲法9条や平和、非核なんていうのでないことだけは確かですが」、、、これが「非効果的」な呼びかけであることは、ワタシとごんだけじゃなく相当数いるとワタシは想像しています。たとえ「寄せ場」でこう叫んでも一蹴される気がします。

dokuta
2010/03/24 09:17

kuronekoのアニさん

 ネタであることは分かっていましたが、「BLOG BLUES」のコメ欄で散々やってきて、そのコメ欄でごんさんは沖縄の苦しみを怒りとともに語ったんです。そのタイミングで、「実験」というエントリーで「ネタ」にするのは余りにデリカシーがなさすぎる。それが「仕掛け」で何かを引き出そうとしてもです。
 「デリカシー」などというと笑われるかもしれませんが、ごんさんの気持ちを相当逆撫でしているとワタシには感じました。
 「ネタ」「仕掛け」を否定しているわけではありません。今回は怒りを語ったごんと共にいたワタシが指名されてもコメントできない、とそれだけのことです。

dokuta
2010/03/24 09:18
こんばんは。真剣に考えて言葉を紡いだリコメントだと感じましたが。真剣も善し悪しでしょう。僕にはまるで熱に浮かれた新興宗教の勧誘のように映るよ。

「ほんとうのこと」って、なんですか。そんなものは、人の数だけあるものでしょう。兄弟はきっと、自分の思う「ほんとうのこと」しか認めなくなる。だって「ほんとうのこと」が、そんな人の数だけあっては、真剣に探究した甲斐がなくなっちゃうもの。新左翼もオウムも、それで無残な末路を辿った。

♪〜およしなさいよぉ無駄なこと〜戯れ言で、いいじゃないっすか。
BLOG BLUES
URL
2010/03/24 22:22
 もう随分前から感じていることですが、ワタシが言いたいことは、解る人に解るし、解ろうとしている人にも解る。解らない人には「新興宗教の勧誘」にしか聞こえないということです。
 このエントリー然り、エントリー自体は未熟ではあったと思いますが、ワタシの言いたいことは人生アウトさんにもごんさんにも伝わったと信じている。また、コメントはせぬ読者にも解る人には解ってもらえたと思っています。そしてお二人にコメント欄で言葉を綴って頂いたことでより豊かになっていると思います。戯れ言的なエントリーの多々ありますが、真剣に戯れ言を綴っています。真剣に「ほんとうのこと」を問い掛けたエントリーにおいても、共に思索して追求してコメントをくれる人は多くいます。真剣に言葉を綴って頂ける。「真剣も善し悪し」などと考えていない。そういう方々も「新興宗教の勧誘」には聞こえてないでしょう。
 このブログの「言葉が解らない」からと言って揶揄することなく、真剣にやり取りできる人に、あなたのいうところの「新興宗教」に嵌る人は一人もいないということです。

dokuta
2010/03/25 11:26
 「ほんとうのこと」はなんですか?と聞きますが、解っていれば思索する必要もないし、ブログで問いかけることもない。解らないから思索し綴っている。ただそれは、人の数だけあるようなうつろう現実の個々の事情や都合ではないということです。・・・というと、個々の事情や都合を軽視しているのか!!と言われるだろうなぁ、あなたには、、、。でもそうでないことは多くに解ってもらえていると信じています。まる4年も綴っているんですから、、、(おお、3.24でマジjust4年だ。)

 ワタシの言っていることが「宗教」かぁ、確かにそう感じるかもしれない。宗教の根本、真理を追求するという意味であればそうですね。ただワタシは現代の宗教のように勧誘もしないし金ももうけない。もちろん信者はいらない。「ほんとこと」を求める部分で共感し共に思索できるひとがいればいい。
 もちろん考えが違うからと言って、他所のブログを
 ♪〜およしなさいよぉ無駄なこと〜戯れ言で、いいじゃないっすか。
と揶揄することもない。(〜およしなさいよぉ無駄なこと〜、は、あなたの言う意味においての「文は人なり」の対象なのだろうか??)
dokuta
2010/03/25 11:27
 ひょんなことで、考え方の違いが表面化しましたが、ワタシは「BLOG BLUES」を批判も揶揄もしませんよ。不毛なやり取りをしたくなく、もうコメントもTBもしないかもしれないが読み続けていきます。
 読み続けるのはね、あなたが

>「BLOG BLUES」で政治的発言をする場合は、ぜ〜んぶ「効果的」かだ

と言っているが、そんな人間が「共産党」にこだわるわけがない。「共産党」のどこが「効果的」なんだ。非効果的、非効率的極まりない。笑わせます。共産党への投票など究極の死票です。分かっていても、あなたは「共産党」にこだわり発言している。状況にあわせ民主や小沢にも尾を振る人ではない(とここで、上のほうで共に思索できる人だと言った、愚樵さんやアキラさんからクレームが来るんだろうなぁ、爆(ご指名じゃないから、ここで登場しないでくださいね。)。尾を振っていたわけじゃないことは理解しているということで、、、)。
 あなたが共産党にクレームをつけ、叱咤激励し、、、するのは、実は共産党ではなく、共産党のずっと向こうにある、「あなたにとってのほんとうのこと」を求めているからではないですか? それは「効果的」でも「戦術」でもない。そして「あなたにとってのほんとうのこと」をさらに追求したときに、「あなたにとって」が外れる。共産党など、いや「政治」「党派」など霧と化す。、、、ということです。これも「新興宗教の勧誘」に聞こえるかな?まあ、仕方ないでしょう。

 ということで今後「BLOG BLUES」は黙って読んでいくことにします。

dokuta
2010/03/25 11:27
こんにちは。僕は、子ども頃から「星の界」という歌が大好きだった。最初耳にしたのは、多分、キリスト教の日曜学校だったと思う。当時、日曜学校に行くとお菓子をくれたのね。だから、洟垂れ小僧は、お菓子目当てで行ったんだ。説教はまったく聞いてない、覚えてもいない。ただ「星の界」は胸に沁みた。子どもごころに、心に残ったんだ。長じて歌詞を知った。子どもごころに理解した通りの内容だった。ちょっと歌ってみようか。

♪〜 月なきみ空に きらめく光 ああ其の星影 希望の姿 人智果てなき 無窮の遠地へ いざ其の星影 究めも往かん ♪〜 雲なきみ空に 横とう光 ああ洋々たる 銀河の流れ 仰ぎて眺むる 万里の彼方 いざ棹差せよや 窮理の舟を 〜

僕が感じたのは、孤独な心だ。大宇宙に孤りで向き合うという淋しさだ。そしてそれを引き受ける、気高さだ。
BLOG BLUE
URL
2010/03/25 14:40
真理の探究は、僕も好きだよ。自分で言うのも照れるが、思弁的な性格なので。しかし、真理の探究は、孤独な営為だ。孤独じゃない真理の探究などあり得ない。独りで考え、独りで体感体得し、独りで抱え込むものだ。ブログでお喋りし合うようなものでは、断じてない。

ブログってさ、「ねえねえ見て、うちの猫かわいいでしょ」とか「共産党ってどうよ」とか「スラムドッグミリオネラ観たけど、まいったね」とか、そうゆうもんでしょ。他者を巻き込むものだからね、孤独な営為である真理の探究はできない。

公の前で精神のストリップなんて恥ずかし過ぎる。ていうか、人見世するもんじゃない。その時点で、それはもう「ほうとうのこと」じゃない。間違いなくスタンドプレイに堕す。

ブログでお喋りしながら真理を探究する数学者がいますか。ブログでお喋りしながら真理を探究する文学者がいますか。いるわけがない。もちろん、孤独な営為の果てに掴んだ真理をブログで発表するってことは、時代が変わったから、あるだろうけどね。
BLOG BLUES
2010/03/25 14:42
兄弟は、絶対のぼせてる。僕の揶揄は中傷じゃないよ。批判を冗談でくるんだものだ。でも、血相変えて反駁した。だから必ず、今のままなら、兄弟は陥る。自分の信じた「ほんとうのこと」しか認めなくなる。

もっとも、僕は「ほんとうのこと」は人の数だけあるという人なので、兄弟がブログに何を求めようと、それは自由勝手だ。決して邪魔しないし、これまでもしなかったでしょ。

ひとはひと、あっしはあっしと心得ているんだ。釈迦に説法かも知れないが、この心得だけは、兄弟も失さないでね。
BLOG BLUES
2010/03/25 14:43
>断じてない。
>間違いなくスタンドプレイに堕す。
>絶対のぼせてる。
>必ず、……陥る。
>認めなくなる。

「絶対に間違いのない」御忠告ありがとうございます。
……、これ以上ワタシからあなた言う事は御座いません。
また

>ひとはひと、あっしはあっしと心得ているんだ。

これに異論は御座いません故、、、これにて御無礼。
毒多
2010/03/25 16:16
では、訂正いたします。

>ないのではないでしょうか。
>スタンドプレイに堕すでしょう。
>のぼせているように感じました。
>多分、陥ると思います。
>認めなくなると危惧します。

語尾が変わっても文意は変わりません。ねえ、僕はあたなに嫌がらせをしてるんじゃないよ。あなたが考える「ほんとうのこと」に対して、僕の所感を述べたのですよ。「ほんとうのこと」をブログで考えると主張するからには、答える義務が生じよう。

僕の所感があなたにとって許容できないものならば、その旨、正々堂々反論すべきでしょう。違いますか。

それとも「ほんとうのこと」とは、あなたにとって許容できるものに限られるということなのでしょうか。
BLOG BLUES
URL
2010/03/25 18:17
「ほんとうのこと」って、何?≠ニいうように、自分の生きる意味を絶対の真理の中に求めようとする人間(←わたし)にとっては、「ほんとうのこと」なんて、そんなの人の数だけあるよ≠ニ言う人間と、ちょっとやそっとの対話で分かり合えるとは思えない。
その上、「あんたが、そんなものが見つけられると思ってるとしたら、そいつはとんだ思い上がりだ。のぼせてるんじゃない?」とか「もしも、見つかったとしても、それは、たんなるあんたのひとりよがりの勘違いだね」とか言われたら、「まあ、それはそうかも」としか答えられないなあ。
だからと言って、たったひとつの「ほんとうのこと」を求めることをやめるわけじゃないけどね。
だって、これは一種のわたしの信仰≠ネのだから。
それも、とっても大切な信仰。
それを他人にとやかく言われたくはないわな。
さらには、こちとらの信仰≠フ中身を議論の魚にされたんじゃあ、たまったもんじゃない、と感じるな。
naoko
2010/03/26 01:57
あっと、上のコメントは、あくまでもわたしの感想です。決して、毒多の気持ちを代弁したものではありません。
しかも、この間、毒多に「もう少し口の利き方に気をつけろ!」と諫言されたばかり(汗)。
ちょっと熱くなってしまいました。

あくまで、わたし自身の勝手な感想です(笑)。
当人同士の問題(←というものがもしもあったらのはなしですが)、それに割り込むつもりは毛頭ありません。

ただし、「毒多には、あなたの質問に答える義務などない」ってこと。だって、ここは毒多のブログだもの。

加えて、独りで探求して独りで体得して抱え込んだ真理こそ、極めてひとりよがり≠ノ陥りやすいという気はするぞ。

わたしもそういう人とは対話したくないな。
(好みの問題として、ね。)
naoko
2010/03/26 02:36
毒多に、「ここで出てこないでください」言われそうなので、これにてコメントは終了します。
以後、このエントリーでコメントはしません。
呼ばれてもいないのに出てきてすみません、毒多。
悪しからず。
naoko
2010/03/26 03:10
こんにちは。やあ、お仲間が増えましたね。

「naoko」へ。コメントと同時に、小川洋子の言葉を紹介したエントリ「素数ほど素敵な存在はない」をTBしてますので、どうかお読みください。僕が「dr.stonefly」に絡んでいるのではなく、「ほんとうのこと」を考えるって、こうゆう営為ではないのですかという、僕なりに真剣な問い掛け、ちょっと威張っていえば、兄弟である、毒多氏が僕のことをアニキと呼んでくれたので、「dr.stonefly」へのサジェッションであることが、ご理解いただけるでしょう。

架空の僕の答えを出して僕を貶めるのは、「ほんとうのこと」を求める人の所業とは、とても思えません。反省してください。

兄弟、こんなものだよ。ブログで「ほんとうのこと」を考えるなんて。『好みの問題』だってさ。おいおい、それじゃ人類普遍の「ほんとうのこと」になるまい。

こんなレベルなんだ。人類普遍の「ほんとうのこと」なんて、全身全霊全存在を懸けて取り組んで、果たしてできるかどうかってな課題でしょう。

対してブログは余暇でしょう。少なくとも僕は、いわゆる実生活の時間が空いたときにしか、ブログに向かわないよ。向かえないよ。

だったらさあ、戯れ言でいいじゃん。僕はそっちの方が好きだよ。もちろん、何度も言うが、ひとはひと、あっしはあっしだ。僕は決して邪魔しないし、これまでもしてこなかった。今回、こうなったのは、ま、話のなりゆきってことで、ご寛恕ください。

外野がこれ以上増えると、あの悪夢の再現にならぬとも限らぬので、当欄でのコメントは、これっきりにします。もし、僕への問い掛けがあるなら、「BLOG BLUES」までご足労願います。
BLOG BLUES
URL
2010/03/26 10:10

naokoさん(汗)
って、いきなり「汗」かよ、と自らツッコんで誤魔化してみる。
すみません、すみません。やっぱ、前のこと怒っていたんだ。気になっていたんですが、、、。しかし、ちょっとS入ってませんか? あまりイジメないで下さい、お願いします(笑)
ワタシは未熟ですので、気分でいろいろ言ってしまうこともあります。どうか許してやってください。

それと、代弁して頂いてありがとう。
解る人には解るんだな。嬉しいよ。

毒多
2010/03/26 11:27
わたしはパソコンに向かうとき、その向こうにいる人に語り掛けたいと思うし、できれば、愛を持って向かいたいとも思います。

 前のこと、ぜんぜん怒ってないです。
 
 わたしは毒多の「怒りの言葉」はダイスキ。

 「文は人なり」ですよ。

 はははは、いじめるのはこのくらいにしておいてあげよう(爆)。
naoko
2010/03/26 14:37
なんだか騒々しいコメント欄になっていたようで、登場し損ねていたんですが(笑)

「言いたいことは、言葉のあとに存在する」

って、私には、

「言いたいことは、すべて言い表せない」
「本当に言いたいことは、言い残される」

ということじゃないかな、と思えるんですよね。で、それでいくと、

「文は人なり」

というのも、

「文章に表現され尽くせなかったところが、その人」

ということになりますね。また、そう考えると

「「言葉以上のものがある」と信じさせることは言葉にしかできない。それが言葉の力なのである。」

というのもスジが通ります。つまり言葉には、「言葉は必ず言い残す」とどのつまり「言葉は力不足」ということを伝える力がある、ということ。「言葉の力不足」が伝われば、自ずから「言葉が伝えたかった本当のこと」が想起される。

>「伝わってくる言葉」「伝わってこない言葉」

というのは、「言葉が伝えたかった言い残し=(本当のこと)」が、想起される言葉、あるいは想起されない言葉、ということなのでしょう。
愚樵
URL
2010/03/26 20:04
ご、ごめん。これで本当に最期です。忘れ物を届けに来ただけです。2008年7月のエントリ「中島らもの祥月命日に」でいただいた「ルンペン放浪記」からのコメントです。ぜひ参考にしてください。

『中島らもという作家が、泥酔して、絵に描いたように、みっともなくくたばったと耳にしたので、そいつはおれと同じだと、倅が持っていた数冊の本に飛びついてみた。

中間雑誌に連載中の小説は今一つうまくなかったが、エッセイは、独特で面白い。あれこれうなずきながらめくっていると、「ほんとうのことをいえば殺される。うまく泳いで渡るのはもう、心底うんざりだ。おれはほんとうのこというぜ」という意味の一節にぶち当たって、おったまげた。

以来、ずっと“ほんとうのこと”というやつに頭をやられっぱなしだ。“ほんとうのこと”、“ほんとうのこと”、“ほんとうのこと”……って、いったいなんだ?ええ?この時代、いえば殺されるような“ほんとうのこと”って?書いたもので、ぶち殺されるような“ことば”って?

未だにはっきりわからないが、何がなしかのことを書いて人前にさらすなら、殺されるほど力を持つ“ことば”を書きしるしたいとは、いつも、ひそかに心のすみで思う。

そうか、ふむ、中島らも、か。』
BLOG BLUES
URL
2010/03/27 11:34

愚樵さん、コメントありがとう。
コメントを頂き、救われています。
何度も読み直しています。
読み直しながら、ごんのことを思っています。
ごんとそいつは帽子だ、が死にました。(この言い方が、絶対に受け入れられない人がいるということはずっと以前に経験してますね。またウダウダ言ってくるかな?(笑)。)

「伝わる言葉」を綴ってきてワタシのなかで存在したごんも
>「言いたいことは、すべて言い表せない」
>「本当に言いたいことは、言い残される」
と、感じたのでしょうか?

>「言葉が伝えたかった言い残し=(本当のこと)」が、想起される言葉、
というか、言葉によって存在したごんそのものが想起される気持ちです。

ごんが言い残した本当のこと、、、か、ふぅ。

毒多
2010/03/27 17:41
毒多さんもごんさんも
言葉が迫ってくるんだよ、私にとってはさ。
リアルの人間がね、向こうにいることが感じられるの。
だから愚樵さんの言っていることがすごく沁みてくる。

ゴメンね、何もできなくて。
えあしゃ
2010/03/27 22:30
えあしゃさん、ありがとう。
>何もできなくて、、、
そんなことはない。伝わってくるさ。
毒多
2010/03/28 07:47
ごんちゃんがいないとさびしい。
naoko
2010/03/29 00:51
そうだね。でもまた書き始めるさ。
毒多
2010/03/29 08:07

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「文は人なり、ってなんだ? 」…ちょっと考えてみる 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる