毒多の戯れ言

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zoom RSS 「科学・文明とカルト」…現代人は科学に麻痺している

<<   作成日時 : 2009/07/20 16:12   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 5 / トラックバック 5 / コメント 35

 たまにブログ倦怠感に襲われる。ブログ倦怠感とは記事をupする億劫さのこと。
 今回の原因は解っている。7.16のエントリーの自爆。毎回、記事はそれなりに気持を込めて書くのだが、テーマの中心に誤りがあれば全てを葬りさるしかない。中心テーマよりも脇(ギャグ)に力を入れるワタシのようなブロガーにとって、ほんの少しの中心テーマのために脇(ギャグ)を全消去する精神的ダメージはでかいのだ。
 それにしても、ああ、倦怠感。
 倦怠感などというならブログなぞ書かなくてもいいではないか、と普通は思うよな。なにをブログごときに嵌って毒されとんねん、ってね。しかし、どうも書かないと気持ち悪いのである。ブログそのものはネット空間で、ときに仮想空間と揶揄されるが、書くという行為はワタシにはリアルなのだ。もしかしたら書くために生きているのかもしれない、とさえ感じている。
 なのに、この倦怠感。
 この倦怠感を脱するために、興味を引いたエントリーとコメント欄があった愚樵さんとこへコメントした。した。した、したんだけど・・・(表面上は)スルーされた。ワタシなりに結構考えてコメントしたのに、誰も絡んでこない。これは拍子抜け。何故? と、反省モードに入った。だいたいが愚樵さん自身が小難しいエントリーを挙げる。コメント欄は小難しい論理?理論?が展開される。という中で、スルーされた理由は、(愚樵さんコメント欄基準において)……
  1.稚拙なコメント 
  2.場違い(KY)なコメント 
  3.意味不明(ワケワカメ)なコメント
  4.面白くないコメント
  5.普通過ぎるコメント
  6.レス(絡む)に値しないヤツ
  7.もとよりお呼びじゃない・・・(アンケートでもとってみようかしら、笑)
ぐらいが思いつくのだが、他所のブログに勝手にしたコメントだから文句をいう筋合いじゃないしなぁ。ちゅうか、もとより「レスや絡みがない、って文句を言う」ってメチャクチャ恥ずかしいことなどできやしないしなぁ。でも虚しいしなぁ。まあ、いいんだけどさ、フンだ。でも、せっかくコメントをするため考えたので、自分のブログで追究しよう。自分のとこのさらにエントリーならたとえ反応がなくても納得する。それにもしかしたら、ワタシのブログを読んでくれ人なら反応したり、絡んでくれるかもしれない。(って倦怠感はそこかいぃぃいいい!!!!)まあいい、だんだん倦怠感が薄れて来たぞ、うん、いい感じだ。

 コメントがスルーされた愚樵さんのエントリーは、このブログ(戯れ言)にもTBをくれた×第二名神さんの「マルチン・ニーメラー牧師の詩」を似せて書かれた 「 似〜メラーの言葉」に言及したものだった。×第二名神さんは、社会や政治がじわじわとカルトに汚染されていくことを警戒して警告していて、ワタシもTBを頂き読んだとき、「特に違和感もなく」、そうだよなぁ、と納得した。
 で、愚樵さんが何を言及したかというと、×第二名神さんが「科学的根拠」を理由にカルトを警戒すること、その「科学」がときとして「カルト」になるのではないか……、という指摘だった。愚樵さんのエントリーは、

>科学が人を支配するためのツールとして使われるなら、科学もカルトと同じです。

と締めくくられる。
 まあ、ワタシはフムフム成る程ねぇ、と愚礁さんとこでも思った単純なヤツなんだけど、このエントリーの最後の締めが気に入らなかった人もいて、コメント欄が盛り上がっているわけだ。いわく、>科学自体には善も悪もカルトもなく、科学を使う人が善や悪やカルトにするわけです、とな。つまり、科学自体はたんに科学自体であって、「科学もカルトと同じです」という物言いが気に入らない、らしい。
 科学はツールであって人間のつかうもの、カルトは人間そのものであるから、科学とカルトでは次元が違うってことなんだけど、でも、科学好きで科学至上主義の人は科学とカルトと並べて語られただけで、気分が悪くなり、そんなとこから上の言い方が気に入らないという心理も見えたりして、なかなか面白い。まあ、そのコメント欄では論理の展開の仕方などが検証されているわけで、論理など解らないワタシがコメントすべきじゃなかったのかもしれないな。
 ただ、ちょっと引っかかった。ひっかかったからコメントしたのだが、再度書いてみる。
 引っかかったのは、

>科学自体には善も悪もカルトもなく、科学を使う人が善や悪やカルトにするわけ

 科学自体には善も悪もカルトもなく、、、、ないのか?
 科学ってのは、人間によって認識されて、人間が「科学」と言ったり、使ったりすることで「科学」になるんじゃないだろうか? つまり「科学」という言葉を発した時点で人間の意志、意図、恣意がはいり、善とか悪とかその他のなんらか、ときにはカルトにもなるんじゃないのか?ってこと。
 他に言い換えてみよう。「自然」という何かは在る。「自然」という呼ばれる以前に在る。人間に関係なく在る。人間が「自然」という言葉を発するときに「自然そのもの」は、人間とセットで存在するのではないか。人間の意志、意図、恣意がそこにある何かに働いたとき人間の言う「自然」という存在になるのではないか、ということ。人間が「自然」と言ったその「自然」は「人間が認識する自然」で人間の意識も含まれる。
 つまり人間の発する「科学」は人間とセットの科学で、人間の意図、意志、恣意、善、悪etcが既に組み込まれたもののような気がしたのだ。先方のコメント欄では「科学」が「文明」と被って認識されている気がしたので、余計にこういう風に感じたのかもしれない。
 人間の発する全ての言葉に人間の意識が含まれ、その意識のなかに、意図、意志、恣意、善、悪、ときにカルト、も含まれるのじゃないのか、、、ってのは無理目ですか?

 
 そうでなくても、まあ「科学」「文明」の危険や危機や警告なんて目新しいものじゃないよな。映画なんかでも繰り返し描かれて来た。モダンタイムスからフライマン、、だったっけ?人間が蠅男になるやつ・・・。 ありとあらゆる手法で描かれて来た。描かれたのは「科学」「文明」の使い手だったが、ワタシなんかはそこから「科学」「文明」そのものの、つまり人間が言う(人間とセットの)「科学」「文明」の危険を感じていた。ワタシだけじゃなくて、ほとんどの人が同じように観てたんじゃないかな。そんな映画のトラウマから「クローン」や「臓器移植」がヤバいと感じている人もいると思う(これはオレだけか、爆!!)。でもね、あらためてヤバいとは思うものの、×第二迷信さんが、科学を根拠にカルトを警告した詩に「特に違和感もなく」読んだのだ。つまり特に意識しなければ、この科学基準ってのは身に染み付いているのだ。カルトであればヤバいと直感するのに、こと「科学」「文明」に関しては相当麻痺している。もしくは麻痺させられている。
 ワタシは「クローン」や「臓器移植」はマッドサイエンスに近いものを感じるのだが、時と場合によっては「臓器移植」はありかな?と考えてしまう。これをとっても現実には相当麻痺している気がする。いいかい、映画のシーンで、人が二人並べられていて、片方の動いている心臓を取り出して別の体に入れる、ってのを観てマッドサイエンスと感じないだろうか?これ感じなかったり、実際には「ありかな?」と考えてしまうなんて、相当「麻痺」している気がするぞ。
 冷静に考えてみよう。既に「科学」「文明」がカルト化していると思われる部分は多いぞ。 

 愚樵さんのとこにも書いたが、ワタシたちは既に「科学」「文明」なしには生活できないところにきている。だからといって既存の「科学」「文明」や、今後の発達を善として肯定を前提にするのは違うと思う。それが発する悪が見えなくなってしまえばカルトと同じである。むしろ「科学」「文明」も警戒し、疑いの目でみるべきだと思えてしまう。








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内 容 ニックネーム/日時
科学に善も悪もないのは確かでしょう。
科学の目的は「記述」することそれのみです。そこにあるものを、何一つ見落とさずに、構造を把握すること。それが科学と言っていいと思います。
だから、生きた人間を把握するために解剖しても問題ない。科学のために必要だから。
しかし歴史上、腑分けは死体に対してこそ行われましたが、通りがかった人間をいきなり解剖する人は(たぶん)いませんでした。なぜなら、科学者も幸か不幸か、法と道徳に支配されていたからです。生きている人間を殺すのは良くない、と思ったのでしょう。これは、道徳的な考えであって科学的な考えではないと思います。

だから、「科学に善も悪もない」。なぜなら、善悪とは異なる指針で組み立てられるのが科学だから。もちろん、科学者でありながら道徳も遵守する人はいくらでもいますが。
人生アウト
2009/07/20 21:35
そして、何らかの効率や善意、目的意識に基づいて、科学を道具として行使されるものが「技術」「工学」ですね。
科学と技術は異なるもの。技術・工学の根底には「役に立つこと」「目的意識」がある。その目的意識が強ければ、より安全で効率的な道具を組み立てられるのも確かですが……残念ながら、この目的意識が曲者です。
と言うのも、何が良くて何が悪いかはその人のオリジナルが強く反映されるから、「安全性よりもエネルギーを」という信念・善意を持てば、原発推進になる。「人間には優劣がある」と信じれば、ナチスになる。
この善意を疑うことこそ、私達にとってもっとも困難なことなのです。

そしておそらく、「科学のために人を殺す」人間よりも、「信念と善意のもとで殺人技術を行使する」人間の方が、圧倒的に多い。
人生アウト
2009/07/20 21:43
おこんばんハです!
で、

>霊とか魂とかの存在を信じている方が非常に多い。小学生の何割もが、「死んでもまた生き返る」と思っている。こうした状況は、現在の危うさ、

実はあたしもここに引っかかったんだよな。

特に、

>小学生の何割もが、「死んでもまた生き返る」と思っている。

のくだり。

え〜、それって一般常識を武器として娯楽を糾弾する連中(というかPTAみたいなの)が、科学(=ヴァーチャルリアリティ)を批判するときのテンプレぢゃん、、、

なんてね(笑)

ごん
2009/07/20 21:43
===================

ゲームか?マリリンマンソンの歌か?それともボウリングか?

いや、ウオルマートに売ってる銃だろ、

人殺しはよ。

byマイケル・ムーア(って勝手に変換@ごん)

===================

そう思いたいときはその手の研究があるし

そう思いたくなければ別の研究がある、

そういうふうに「お勉強」を続ける限り、

科学に真理を託してる限り、

人は間違いを犯さない

この国で「決定する」のは、その、無謬の人々、

この国で「遂行する」のは、科学者か英雄、

そして死ぬのはいつも貧乏人。

こんな国に逝きたいか〜!


ふざけるなどあほうめ!!!


人間、なめんなよ。

ごん
2009/07/20 21:44
本来ならあっちにコメするべきなんでしょうが、もう、そういう領域を通り越しているようなんで…
愚樵さんは「科学の使われ方」を問題にしているわけで、「なら」という語を用いてから「科学もカルトも同じです」と結んでいる。それに反論するならば、「なら」という限定を外した形で「科学もカルトと同じ」であることを是認しなくちゃいけないはずなんですがねぇ。
でもって、「科学」には自然科学もあれば人文科学もある…そういう広がりのある言葉のはずなんですが、どうなっちゃったんでしょうか。
とみんぐ
2009/07/20 22:52
もの凄く簡単に言うと、科学というのは現実を分析する手法のことだから、それ自体がカルトにはならない。
でもたぶん、これと『科学的に得られた成果』を混同すると、『科学がカルトになる瞬間』も見えるのだと思う。

例えば、断面に鉄が(成分としてはもちろん酸化鉄ですが)散りばめられたように食い込んでいる15,000年前の骨が見つかったとして、これに対して『この断面の様子は鉄製武器で付けられた傷と一致する。だからこの時代にはすでに製鉄が行われていた』とか、『製鉄をするにはかくかくしかじかな設備やら材料やらが必要だが、そんなものがその時代に作れるわけがない。故にその人骨は捏造』とか言っちゃうことですね。
言ってることは正反対ですが、等しく『科学っぽく』、また等しく『非科学的』です。
こうした場合滑稽なのが、どちらか一方が、相手を非科学的と責めることが多く、彼らは自分達の科学性について微塵も疑わないところですね。笑える笑える。
あー。最後なんかずいぶん場違いなこと書いちゃった気もします。
sutehun@かなり端折って申し訳ない
2009/07/21 00:10
人生アウトさん
やはり、そうですか……。なんとなくは解っていたんですよ。
科学は「記述」のみですね。「科学」と「技術」は別物で、「科学」と「道徳」はさらに別物ですね。了解です、、かな?
おそらく「技術」と「道徳」も別物でしょうが、混同しやすそうです。これは解ります。原発にナチに信念と善意で殺人技術を行使する、、ですね。

前に戻って、科学は記述することのみ、、、で、ちょっと絡ませてください。
構造を把握するのは人間によって行われますよね。記述も人間によって行われる。これが科学。解るんですが、(もうちょっと食い下がると)では、利用を目的にされずただ記述するのみ、ということが人間のすることで出来るのでしょうか? その記述は常に二次利用とセットになってませんか? つまり記述と二次利用を分けることができない。それが人間にとっての「科学」と違うのかな? と思った次第で、やっぱり無理目かな(笑)
きっと、問題は人間ができるかどうかではなく、記述そのものが科学というもの、と言われるんだろうなぁ……。
dr.stonefly
2009/07/21 12:29
ごんさん、どうもどうも。
絡まれない毒多です(笑)。深々と絡み合うのも鬱陶しそうですが、スルーされるのも寂しいものです、爆!!

>霊とか魂とかの存在を信じている方が非常に多い。小学生の何割もが、「死んでもまた生き返る」と思っている。こうした状況は、現在の危うさ、

ワタシもここ、と思いました。死んだ後のことは生きている人間には解らないのに、決めつけて、しかも自身の決めつけと違うと、間違っている、危うい、と言ってしまう感性。
>無謬の人々、、、かな
この感性こそ危ないと、ワタシは言いたいのです。

Lさんって、左派運動系の人じゃないのかなぁ。昔のワタシにそっくり(笑)。どうも科学的でもなんでも、割り切って白黒判断つけないと前に進めない、って理由かもしれないなあ、と思いました。が、その辺が難点なんだよなぁ。いまどき理解を得易いのは科学だといって。そこを基準にして運動をすすべれば取り敢えず全てOKってことにはならないと思うんだけどなぁ。
dr.stonefly
2009/07/21 12:29
とみんぐさん
ほんと、絡んでもらえると嬉しいね。って、ワタシャ人恋しいのかな(笑)。
愚樵さんとこでは、「科学」といいながらチェーンソーがでてきたり、科学をもとにしたツールが問題になったりしてたから、おバカなワタシは勘違いしたのかもしれないな。「科学」と「科学によってできたツール」は別物らしいではないですか!!、そうか、そうだったんだ、、、でも、では、本当に科学はカルトとちゃうんかぁ? ってことでこんなエントリーを書いてみました。

>「なら」という限定を外した形で「科学もカルトと同じ」であることを是認

やっぱりアレかな科学とカルトを並べられちゃったことに腹立ったんかな?

dr.stonefly
2009/07/21 12:30

sutehunさん
>『科学的に得られた成果』を混同すると、
混同します。しますとも。成果がでなければ科学と認められないと違うの? しかも役に立たなければ科学と認めない、って風潮にありますよね。世は。実際の科学の研究現場では違うのだろうか?
二次利用できる、できない、成果が得られる、得られない、役に立つ、役に立たない、、って認識で「科学」といわれているような気がして、そう認識されている「科学」が普通で、
>『科学がカルトになる瞬間』も見える
ってのが、普通になっていれば、科学がカルト(の要素を含む)と言ってもおかしくないのではないか? と思った次第です。

後半の話は、考え込んでしまいました。面白い。
ワタシがこれを考え込む道筋は、取り敢えず科学的に考えているような気がします。こういう意識せずに科学的思考するという癖が現代の教育の成果なのでしょうか?

ところで、「骨と鉄」の正解はなんですか? 爆!!

dr.stonefly
2009/07/21 12:32
ある意味、科学や芸術や思想には通底するものがあるのかも知れませんね。
例えば、徹底的に思索的である思索家は、徹底的に隠者であるために歴史に名を残さない。
芸術家も、極貧のまま死んでいった人は数多い。
科学だって、ほんとうは道楽なのだから、金がなければ働くしかないし、数式とにらめっこしてる奴を私達は「穀潰し」と呼ぶ。

しかし印刷技術が発明され、大学や学会という名誉・給料・弟子の供給装置があるお陰で、職業としての学者が成り立つようになった。
端的に言えば、「儲かる業績」というものがあり得るようになった。(当然、いくら研究しても金にならない分野も、山ほどある)
科学が制度化することで、社会の一部として吸収合併された。(だから今度は、数式を解けない人間が無能呼ばわりされるようになった)
人生アウト
2009/07/21 12:57
>利用を目的にされずただ記述するのみ、ということが人間のすることで出来るのでしょうか?
>その記述は常に二次利用とセットになってませんか?

はい。やはり科学にも「二次利用に向いた分野」と「向かない分野」があり。
「向かない分野」に従事する人は、「そんな研究が何の役に立つのか」と言われつつも、自分の研究にだけ目を向ける(良くも悪くも)変わりものなのでしょう。
「二次利用向きの研究」は、常に産業と歩を同じくするから、何らかの目的下の研究になりますね。となると、その「目的」がどのようなものかによって、彼の研究は人を生かしもするし殺しもする。

もし、親の遺産を受け継いだ富豪とか、極貧を苦ともしない仙人であるならば、いっさいの社会的な「目的」と無関係に科学の記述を続けられるのでしょうが。
人生アウト
2009/07/21 13:07
>科学や芸術や思想には通底するものがあるのかも知れませんね

お、これは何となく掴めそうな気がするぞ。
過去の芸術家や思想家もただひたすら追求するだけで、金に執着もなく、社会性もなく、、、そのこと以外にはどうでもいい、という人が多いという話を聞いた事があります。まあ、ソクラテスもプラトンがいなければ今にまで認知されているかどうか解りません。プラトン(的な役割の人)がいないソクラテス(みたいな人)も歴史のなかでは多々いたでしょうね。
ただ、なんとなく、科学というと、人間に役立つという前提で存在するものと思ってました。個人的な思い込みです。ちょっと考えれば、このまえノーベル賞をとった来る日も来る日もクラゲをひたすら取っていたという人がいまししたが、その人の話を聞いていると、あまり金とか名誉とか関係なく、ひたすら知りたくて研究しているんだな、という印象をもったことを思い出しました。とすると、科学もただ、ひたすら追求できるものなのだ、と再認識します。
つまり、純粋「科学」は存在する、ですね。納得します。
dr.stonefly
2009/07/21 16:23
でも、結構不思議なのは、人に知られなくてもいいのか? ということ。
多くの芸術家や科学者が他人に知られることを前提にしているような気がします。これは金儲けでも名誉でなくても、他人に触れられることが前提になってませんか? 他者と共有することが前提になっているように感じます。

そうしたなかで、純粋科学者、純粋芸術家、はどんな世界観なんでしょうね、なんだか不思議な感じがしますね。

dr.stonefly@つづき
2009/07/21 16:23
交換、なのでしょうね。
例えばもし、現代に孔子やソクラテスがいれば、私は飛びついて意見を交換したくなる。
学問の歴史は積み上げられていって、後世に伝えられるけど、それはいわば自分以上の何者か=人類に献上・お供え・プレセントされたものです。
人類という巨大なものにアクセスして、私達はさまざまな知を分けてもらう。と同時に、自分が生み出したものを今度はプレゼントしたいと思う。

学者が学会で発表すること、役者が観客の前で演ずること、自作の野菜を近所におすそ分けすること。これらは全て同じことだと思います。
今もまさに、毒多さんや私がやっていることではありませんか。「交換」を。

ただしここで、必要以上の取り分を要求すれば、「強欲」「意見の押しつけ」「過分な名誉欲」となって表れてくるのでしょう。
人生アウト
2009/07/21 18:01
お疲れ様?です

>1.稚拙なコメント 
  2.場違い(KY)なコメント 
  3.意味不明(ワケワカメ)なコメント
  4.面白くないコメント
  5.普通過ぎるコメント
  6.レス(絡む)に値しないヤツ
  7.もとよりお呼びじゃない・・・
上記すべてにあてはまる為、躊躇しましたがかまって下さい(自爆)

まあ、「幸福の科学」なんていう方々もいらっしゃることだし、「科学」=「真実」、あるいは「科学」=「正論」という一見、誰も異論を唱えられない風潮があります。

私など思考が科学的、論理的な面から程遠い為、「とか言ったって〜結局、人間の恣意的要素は排除できないだろ〜」なんてつっこみたくなるんですが(この点は毒多さんと同じかも)、とどのゆまり盲目的に信じたくないということです。
昔のDNA鑑定により(それだけではないが)、大変な目にあわれた方もいるように科学が絶対と思う事の恐ろしさ、科学の名のもとにトンデモが正当化されることに常に目を向けていなければと思います。
(やはり、冒頭の七項目すべてにあてはまってしまいました、無念・・・)
えちごっぺ
2009/07/21 21:46
こんにちは〜^^

おおーーーっ!予想通り伸びてますなあ〜。(^^)

実は昨日コメの下書きを書いているうち、どんどん長くなってしまって。w
三分割か四分割にしなけりゃならないので迷ってました。で、結局ボツにしてしまいましたが。><

科学がカルトとなりうるかどうかについては「ズバリ、なりうる!」ですね。
それは科学教信者の存在があるから。が理由です。(笑)

>でも、科学好きで科学至上主義の人は科学とカルトと並べて語られただけで、気分が悪くなり、そんなとこから上の言い方が気に入らないという心理も見えたりして、なかなか面白い。

とdr.stoneflyさんが見抜いている。(爆)
ニケ
2009/07/22 08:58

人生アウトさん
「交換」ね。いいですね。「シェア」とか「共有」でもいいのかな。
できれば、喜びをもって「交換」「シェア」「共有」したいものですね。
喜びをもって、の前提になるのが「純粋」のような気がしました。純粋科学であり純粋芸術であり、純粋、、、、ブログ(笑)

話はそれますが、ブログ界において、「強欲」「意見の押しつけ」「過分な名誉欲」が多々みられますねぇ。

dr.stonefly
2009/07/22 09:21

えちごっぺさん

> 上記すべてにあてはまる為、躊躇しました
> (やはり、冒頭の七項目すべてにあてはまってしまいました、無念・・・)

そんなことありませんから、、、あまり虐めないでください(笑)。

DNA鑑定、ありましたねぇ。恐らく警察の恣意が働きまくっていて、いまとなれば科学者は、あれは科学が利用されただけで科学ではない、と言うのでしょうが、やはり科学ってことで世間は納得したんでしょうしね。

「科学」そのものには恣意は働かないと、このコメント欄のやりとりで教えられましたが、その科学を扱うのは人間ですからね。結局はねぇ、、、、。

dr.stonefly
2009/07/22 09:22
>話はそれますが、ブログ界において
50年後に、私達のやり取りは新聞社や学者が発掘して本に編纂するのですよ。2000年代の風俗史として。ちょうど私達が、モノクロ時代の写真を見て、当時の生活に思いを致すように。
その時どのような読まれ方をするか、に私の興味は向いています。ネット表現もまた、個人を越えた人類なるものへのプレゼントなのです。
プレゼントである以上、「私の意図を正確に汲め」「そこは訂正する」なんて個人的な主張は通じません。ただ、読まれたものが全て。読者の感想が絶対正義。

私が個人的な主張をしない理由は2つ。1つは、自分に自信があること。過分なほどに読み、考えたから、誰が何と言おうと自分の考えは変わらない。だから異論や異議に対して、感情が波立つことがない。
もう1つは、SF的思考。内田樹ブログ7/20記事で言及されていましたが、私は「こうではなかった自分」を幾つも並立させている。10年前に生まれた自分、異性に生まれていた自分、アメリカ生まれの自分……それらが何を考えどう行動するか、常に現実と並立させている。
それは、10年前に生まれた他者、異性という他者、外国人という他者の思考や感情を、「ありえたかも知れない自分」として捉えることです。他者は自分の別の可能性、ならば他者の異なる意見もまた、「自分の意見の一つ」として吸収できる。
人生アウト
2009/07/22 11:41
あとは、まあ、産婆術ですね。
誰かを説得したいと思う時、知は外在的なものでなく内在するものとして考える。
我々は経験と思考を用いて認識するのだけど、この経験には個人差があるので、思考の結果も人によって異なる。
我々が他に働きかける「言葉」自体でさえ、純粋な論理体系ではなく、経験的なグラデーションを伴っている。つまり、ある言葉を聞いてどう受け止めるか、人によって異なる。

しかし、自分の言葉が持つ経験的な偏りに無自覚であると、「自分の言葉が誰が聞いても正しく解される筈」と思ってしまう。
これを解決するには、「応答」を重視するしかない。まずは自分の言葉を切断的に用いない。すると、相手から応答が返ってくる。これをソナーのように用いて、自分の言葉に含まれる偏りと、相手が持つ偏りを把握する。
どういう言葉を使えば相手に届くか、これで分かる。
人生アウト
2009/07/22 15:22
>どういう言葉を使えば相手に届くか

これは本当に日々悪戦苦闘する分野ですね。

「科学技術」の発展のめざましさに目を奪われるのも判る気がするし、現代文明の知の集約の加速は、本当にすさまじいばかりです。その発達にわくわくさせられる上、ある意味、どんどん便利に、そして生き易くなってきている。

ところが、その一方では、ごく基本的な自分自身に関すること、たとえば「どう生きるか?」とか「どういう存在でありたいか?」といった問題が、どんどんおざなりになってくる。

そうしたギャップが、個人の精神と、その結びつきで構成される社会そのものを、ひどく蝕んでいる気がします。

そうした社会では、言葉は本当に伝わりにくい。
naoko
2009/07/23 02:35
遅くなりました。愚樵です。

まず、dr.stoneflyさんのコメントがスルーされた理由から...なぜでしょうね?

私自身がスルーした理由は明確です。dr.stoneflyさんのコメントに全く違和感がなかったから。あのコメントを頂いて、正直ホッとしましたが(不毛な応酬の後でしたのでね(笑))、その気持ちを表わすのは自制したんですよ。それをやると、セクトというか仲良しクラブというか、そんな風に受け取られて、余計に感情的な対立が深まるかなと思いまして。

それともうひとつ、これは推測ですが、私のところへコメントするのはかなり敷居が高いだろうと思うのです。ほら、強力な論客が居着いているから(笑) 誰だって絡まれるのはイヤですからねぇ... 

それを放置しているのは管理人たる私の責任ですが、私はコメント欄は、仲良しクラブになるくらいだったら荒れた方がいいと思ってますし、またむしろ“荒らし”を排除せずに負けないでいることを示せたら、と思ったりしていますので、敷居の高さは仕方がないかな、と。
愚樵
URL
2009/07/23 05:43
私は人間はつまるところ、何かを信じずにはいられない存在だと思うのですね。で、その何かは大きく分けると、「自分自身」と「それ以外」になる。そして「自分自身」は多神教的。「それ以外」は一神教的になると思ってます。

簡単に説明しますと、多神教=「自分自身」となるのは、多数ある神の中からどれを信じるかは「自分自身」で決めなければならないから。一神教だと、それは決まっているんです。

科学信仰もカルト信仰も、一神教的。何を信じるかはすでに決まっていて、決まっているもの以外のものは信じるに値しない。何を信じるか、自分では決められないが一神教。

確かに科学は信頼に足るものです。しかし、「信頼に足る」は「信じるに足る」ではない。科学信者はそこを自覚していない。

水伝(←なつかしい?)もそうでしたが、信頼に足らないことは明確ですが、そのことと信じる信じないはまったく無関係なんですね。それは「自分自身」が決めること。「決めること」と「決まっていること」の間には決定的な断絶があって、科学もカルトも、どちらも「決まっていること」なんです。
愚樵@トピずれ
URL
2009/07/23 06:21

ニケさん、おはようございます。
うーん、残念!! ボツ稿。よんでみたかった。
>科学教信者の存在
逆を言うと科学教信者の存在がなければ、科学はカルトになりえない。ですね。まあ、当然といえばとうぜんですが、科学の方法は否定と肯定の繰り返し、と誰かが書いてましたが、科学そのものも疑ってみれるか、どうかが分かれ道かもしれないなぁ〜。

>dr.stoneflyさんが見抜いている
いや、これは多くの人が「肌感覚」で見抜いているでしょう。(笑)

dr.stonefly
2009/07/23 08:43

人生アウトさん
>「こうではなかった自分」を幾つも並立させている。
晶子の姐御がよく「何ものでもない自分」と言っていたのですが、同じ様な感覚なのでしょうか? どうもまだ、この辺の実感ができないでいます。
人類をひとつの生命体で、全体として息づき波打っている、のかもしれない、と考えることもあるのですが、市民運動あがりとしては「個(の人権など)」を特に意識したりして、把握しきれない。

言葉のやりとりとしてはグラデーションというのもあり、その自覚もあるでしょうが、根本的な違いを感じることが多々有ります。グラデーションが彩られている材質の違いみたいなもの。
いつまでたっても、どこまで「応答」しても、交わることのない。
その材質は性格かな? 鉄と紙、固さとか柔軟さとか……
確固たる解答を見出したい性格と、確固たる解答などないと思っている性格。ここのすれ違いがエンドレスな応答になる気がしています。
今のワタシは後者だな。(結構テキトーな性格)

dr.stonefly
2009/07/23 08:44

naokoさん
たぶん、ワタシとnaokoさんは似ているんだろうなぁ。
その似ている部分は、非科学的というか、科学では解明できない部分ですね。「どういう存在でありたいか?」ならまだしも、「何故存在するか」とかね。
やはり、人は解明したい存在なんですね。
その一つに科学することがあると思うのですが、解明できないことはやはりある。科学がまず先にきてしまうと、解明できないことは非科学として重要ではなくなる。ある種、本末転倒だと思うのですが、、、

この世は科学では解明できないことのが多いのにね。

dr.stonefly
2009/07/23 08:44

愚樵さん
スルーせずにいてくれて有難う(笑)
いやね、やっぱ愚樵空論は「論客」が多い。それでも勇気を出してコメントはするものの反応がなかったので、本文に挙げたようなアンケート項目を考えてしまった次第です。
でも今回のスルーされたと思ったのは、愚樵さんに対してではありません。名指しで聞いたのにスルーされたことです。愚樵さんが個別レスをつけないことは知っていましたからね。また、あのコメ欄を(計算して)管理するのは大変だろうなぁ、と思っていました。でも、あらためてコメ欄に対する考え方を聞けてよかったです。
今後も遠慮なくコメントさせて頂きます。爆!!
dr.stonefly
2009/07/23 08:44

>決まっているもの以外のものは信じるに値しない。何を信じるか、自分では決められないが一神教。

これは、今回考えていました。
正直にいいまして、あのエントリーに対する反応は過剰反応と思えて、もしやアレルギー体質なのか、と思ってしまいました。アレルギー体質といっても非科学に対するアレルギーですね。ああした、過剰反応につきあっていると、ワタシのほうが科学アレルギーになりそうです(笑)。(科学アレルギー=すべての科学を根拠にものを言うことに異常な拒否感を感じる。爆!!)

どう考えても科学できないことのほうが多いのに、科学に異様に信じそれ以外を否定する。
ワタシは「幅」を考えてました。科学という狭い幅に自ら嵌まってしまうと、人間(思索)の幅も狭くなるんだなぁ、とコメ欄を眺めながら、、、もちろん、この思いは肌感覚で、科学ではありません。

dr.stonefly@つづき
2009/07/23 08:45
ネタ元が、あとからコメントするのもナンですが、
「科学」という言葉に「アレルギー」を持ってる人が多いんですよね。
(非・理系)

社会科学も人文科学もふくめて「科学」であり、
「科学的」というのは、自己矛盾を引き起こさないスジの通った立場だということ。

カルト、というのは、そもそもの論拠に合理性がなく、「なぜ?」と尋ねられても「とにかくそうなんだ」
で決着する以外にない。

どこまでが譲り合える立場で、どこからが譲れないラインかを、客観的な基準を示せない、
ということですね。

マホメットにしても、弘法大師にしても、
自説の根本が「正しい」かどうかはともかくとして、理論の筋は通ってるわけです。
 つっこみ所はいろいろあるにしろ。
(イスラムはアッラー一神教で、仏教は創造主を持たない宗教ですが、根本のところで共通するところも多い)

てなところで、お茶を濁しときます。
×第二迷信
2009/07/23 22:53
×第二迷信さん
元ネタ様、勝手に絡ませてもらいました(笑)。

>「科学」という言葉に「アレルギー」を持ってる人が多いんですよね。

ワタシは非理系だけど、アレルギーは持ってませんでしたよ。コンプレックスはもってますが、、、(笑)
でもさ、科学が絶対で唯一の根拠って言いはられると、そう言う人にはアレルギーを持ってしまうね。

理論の筋は大切だとは思うけど、説得力はそれだけじゃなさそうだしねぇ。マホメットにも弘法にも、理論だけでは言い表せない(科学では解明できない)人間としての深みがあったんとちゃうやろか?

まあ、
>お茶を濁しときます。
という、非科学的なことで締めくくる、応用さがあれば何の問題もありません、爆!!


dr.stonefly
2009/07/24 08:32
で、多くの人たちは「科学」というのを、「結果」(たとえば、核爆弾とかの)で考えるんですが、
「科学」が「学」である以上、それは「考え方」の問題。

すじみち立てて、矛盾のない合理的判断を追究することそのものが「科学」ですから、
弘法大師の求めた思想は「科学」です。
 結果としての高野山が科学的かどうかは別の問題がありますが。

愚樵さんとこは、1つのネタ話にとことんこだわる人が多くて、ちょっと下がって広い視野で眺める、というのが難しいです。
×第二迷信
2009/07/27 21:56
>
弘法大師の求めた思想は「科学」です。
 結果としての高野山が科学的かどうかは別の問題がありますが。

結局この辺りのことですよね。

>愚樵さんとこは、1つのネタ話にとことんこだわる人が多くて、ちょっと下がって広い視野で眺める、というのが難しいです

他所のことをコメントを控えます(笑)


dr.stonefly
2009/07/28 15:52
ん。
静かになった。
落ち着いたみたいですね。

>ところで、「骨と鉄」の正解はなんですか?
とのことですが。
えーと。
なんていおうかな。

正解はないです。
何年か前にテレビで聞いた話と、大学の一般教養科目『日本の歴史』で先生(日本の歴史で講師とかしてるわりに専門は中国軍事史)の言ってた話を脚色して作ったので。

ちなみに。
先生は『縄文時代に当たる時期、日本で製鉄が行われていたとか言う人もいますけど、中国でも当時の史料としては青銅器すら発見されていない時代で、私は疑わしいと思ってますけどね』みたいなことを言ってました。製鉄技術が確立される前は隕鉄を叩いてのばして成形して使っていたとか、技術の方向性から言って土器から一足飛びに製鉄を行うには無理があるとか、そういう冶錬についての知識を前提にした上で、批判するのはあくまで結論だけ。間違っても『常識に反するからその史料は捏造(あるいは間違い)』なんていわない。
この先生の態度こそが、私にとっての『科学』なんですなー。
sutehun
2009/08/01 21:49

sutehunさん

>『常識に反するからその史料は捏造(あるいは間違い)』なんていわない。 この先生の態度こそが、私にとっての『科学』

科学的態度ってのは結局このあたりかな。
結構、「科学的態度」を装っていそうで、自分の思いを押し付ける人もいますからね。科学に対する誤解もそのあたりからくるのでしょう。

それにしても、ワタシの場合は、経験上「常識」そのものを疑ってみたくなるので、疑ってみたいどころか無理矢理でもひっくり返してみたくなるので、科学的態度ではなく「常識といわれるものは疑えカルト」かもしれません。爆

dr.stonefly
2009/08/03 09:32

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「科学・文明とカルト」…現代人は科学に麻痺している 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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