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zoom RSS 「死刑を望む土浦の殺人者」…死ぬつもりならなにしてもいいのか?

<<   作成日時 : 2009/05/06 06:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 1 / コメント 34

 ちょっと前、「何故人を殺してはいけないのか?」というテーマが世間で賑わったのを思い出す。その模範解答は何だったのだろう? 思い出せない、というか聞いてないかもしれない。
 ひとつ覚えていることは、池田晶子が、Qそのものが「殺してはいけない」を前提としているので、「何故殺してはいけないか?」と聞いた時点で答えがでている、と言っていた気がするが正確じゃないかもしれない。ただ続けて、最近では強盗殺人でなく、憎しみの余りの殺人でなく、理由もなく人を殺す人間がでてきたから、法律で禁じられているから殺してはいけない、としか言えない、とも書いてあったっけ。
 ところが、土浦で8人を殺傷した被告は、「死にたくて、死刑になるため、殺人をした」と言っているようだ。池田晶子が上のような話をしていたのは、関西方面の小学校に乱入したT間がニュースになっている前だったかな?
 晶子の姐御、死刑が法律で設定されているから人を殺したようですぜ。つまり法律で禁じられているからこそ殺人を行なったってことで、前提の崩壊ですな。
 この死刑になりたい殺人者に影響を与えたのが、永井均著の「子どものための哲学対話」という本ということだ。今回そのことを知ったマスコミは永井均にインタビューをしていた。永井均は、そのインタビューに対し、
 「もし死刑になりたいとか殺されたいと思っている人ならば、殺される仕方とすれば『人を殺すことで殺されたい』という推論自体は間違ってないですね。間違っているのが何かといえば、もともとの願望・傾向・欲求……」
と、言っていた。願望・傾向・欲求……以下がよく解らなかったが、前半の推論自体は間違っていないならば、ちょっとすごいことになるな、と感じたわけだ。なんといっても、死刑という法律、恐らく万人が死刑になりたくないという前提の法律が、「死刑になりたくて」となるわけだから。
 「死刑になるために殺人」つまり、死刑がなければ殺人をしない、ということなのだろう。死刑という罰がブレーキではなく、アクセルになっているではないか。愕然とする。
 ちなみに、永井均の著書「子どものための哲学対話」に以下のような著述があり、番組ではクローズアップされていた。

ぼく:死ねばすべてが終わるのか…。

猫:死刑以上の重罰はないだろ?つまり、世の中は死ぬつもりなら、なにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。


 な、なんだこれは。
 この本を読んでないうえに、抜き取られてここの部分だけで、語れるものでもないかもしれない。それにしてもシビアなセンテンスだな。ほんと哲学ってのは本質をエグっていくもんだなぁ、というのを感じる。でも「土浦の被死刑願望の殺人者」は間違ってない推論を実行したわけだ。新聞では「曲解」とあったが、間違ってない推論の曲解とはなんだろう? 永井均も「死刑以上の重罰はないだろ?」という前提が崩壊したことで困ったのではないか? 後半の「間違っているのが何かといえば、もともとの願望・傾向・欲求……」と言うところの、「もともとの」ってのは、哲学にしては歯切れが悪い。
 
 それにしても考えさせられるなぁ。
 本当に死刑で殺されるなら、何をしてもいい世の中なのだろうか?
 でも、「暗に認めている」とか「認めざるえない」というニュアンスから、表立っては認めていないし、認めたくない、ともとれるよな。でも認めざる得ないのは、「死刑以上の重罰はない社会(世の中)」だからだろう。「死刑」「重罰」「社会」…つまり、死ぬつもりならなにをしてもいい社会とは、法治社会そのものではないか? 法により全てが決められる社会においてのテーゼではないか。
 永井均が言った、推論自体は間違いではない、というのは法治社会においての推論だな。で、法治社会とはこの前提のうえにある、と言える。つまり「死ぬつもりならなにしてもいいのか?」というのも、死刑が極刑で重罰であるという法治社会においてのことである。重罰ではなく死刑を望むものが出て来る社会において、それを認めれば崩壊していくのではないか。
 いずれにしても、表立っては認めていないし、認めたくない、という「本当のこと」は法治社会とは、別のところにあるのだろう。
 「暗に」認めなければならない、認め「ざるえない」という、矛盾を孕んだ法治社会であること認め、そこを「前提」にすることなく、疑問をもち是正していくうえで「本当のこと」を追求しなければならないのだろうと強く思う。(死刑制度、カルデロン一家の処罰を含めてね。)

 今回の土浦の青年を殺人犯に追い込んだ要因もまた(法治)社会と考えるとさらに、ややこやしくなりそうだ。




 さて、「ぼく」のいう、死ねばすべてが終わるのか…。だが、これは難しいな。
 そも「死」が解らない。生きる個人としての肉体を伴う行為の「すべて」は終わりそうだな。ただそれが、すべてかどうかも解らないしなぁ、、、。



 

 
 












 

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何の前置きも脈絡もなく、話を始めます。 ...続きを見る
愚樵空論
2009/05/06 07:56

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コメント(34件)

内 容 ニックネーム/日時
もしも刑法が制裁によって行為を規制しようと企図しているのならば、タイトルの問に対する答はイエスである。
が、近代市民法の体系に属する刑法はそうした効果を企図して制定されたものでは、本来ならば、ない。
ゆえに、タイトルの問いかけに対する私の答はノーである。
sutehun
2009/05/06 12:31
dr.stoneflyさん、しばらくでした。

え〜、まず、ウチの方にいらしてくださっているみたいですが、場外戦になっているみたいで(苦笑)。我が家とはいえそこに混ざりたくない、すなわち管理人としての責任を放棄して、こちらでコメントさせてもらいますと、きれいに整頓された庭先なんて私の好みじゃないから、どうぞ、いくらでもお好きなだけ暴れてください(爆) たまにはいいかもしれませんよ、思いっきり暴れてみるのも。

...といったようなことはさておきまして、エントリーの方へのコメントに入らせてもらいますけど...、大変ですね、これは。

あ、そうそう。私も永井均の『子どものための哲学対話』は読んでません。そんなのもあったんだ。読んだのは『〈子ども〉のための哲学』。永井均の〈子ども〉ってのは、文字通りの意味じゃなくて、根源的といったような意味ですが『〜対話』は〈〉がついていないから、文字通り子どものためなのかな? にしては、エグすぎるような(苦笑)。私もそのうち読んでみます。
愚樵
URL
2009/05/07 04:05
>本当に死刑で殺されるなら、何をしてもいい世の中なのだろうか?

今の世の中の表向きの原則からすれば、「その通り」でも間違いじゃない、ということでしょうか?

sutehunさんが仰るように、もともとの刑法の意図は、制裁のためにあったのではないでしょう。けれど、ここで問題なのはもともとの意図じゃなくて、「彼」が死刑をどのように解釈するか、そしてその解釈は誤っているといえるか、ということのはず。で、個人を社会の構成単位だと考える原則からは、その個人が自らの死を賭して為した解釈なら、誰も間違いとは言えない。

もし仮に、社会の構成単位が「家」にあるとしましょう。そうすると「彼」が死んでも「家」は残る。「彼」が死刑になると「家」の恥になる。そういった考えになるでしょう? でもそうした考えは、現代では原則上からはおかしいと批判される。そうはいっても、「家」的思考からの批判は「彼」の家族へ向けて為されると思いますよ。でも、そうした家族批判は、批判されるべきと捉えられるその原則からすると、「彼」の解釈は間違いとは言えないということになってしまう。要するに原則が生み出す矛盾なんですね。
愚樵@つづき
2009/05/07 04:20
>今回の土浦の青年を殺人犯に追い込んだ要因もまた(法治)社会と考えると

まさにその通りだと思います。

>「本当のこと」は法治社会とは、別のところにあるのだろう。
>死ねばすべてが終わるのか…。だが、これは難しいな。

この2つは密接に関連しますよね。「本当のこと」は、死ねばすべてが終わるか否かの答えだとしても差し支えなさそう。でも、その答えは個人では出せないんです。だから、社会が「とりあえずの答え」を出してしまう。そのとりあえずの答えを多くの人が受け入れると、それが宗教になる、といった循環になるのでしょう。でも、いかなる「とりあえずの答え」も結局はとりあえずでしかないから、どこかに矛盾をきたす。もうこれは堂々巡りでしょう。たぶんこれ以上は前へ進めない。
愚樵@もうひとつ続き
2009/05/07 04:38
そうなるとですね、残された方法は前へ進まないことを選択するということになって、そこから問いを発すると、「彼」は本当に死にたかったのか? といった方向になると思うのですよね。でもこの問いも、「彼」の本当の意志など「彼」以外にはわからない。いや、「彼」自身ですらわかっていないかもしれない。

となると、あとは自分自身に問いかける他はなくなってしまう。

本当に死にたい人間は死刑を望むか?
 おそらく違うだろう。
本当に死にたいだけなら、黙って死んでいくだろう。私ならそうする。
では、死刑を望んだのはなぜか?
 社会への自らの死を賭した抗議だろう。

こんな自己問答になっていくのではないでしょうか?
愚樵@ゴメンナサイ4連投
2009/05/07 04:40


sutehunさん、おはようございます。
ワタシとして、肌感覚としてNoなんですが、それでは説得力がないんですよね(自嘲)。
>近代市民法の体系に属する刑法はそうした効果を企図して制定されたものでは、本来ならば、ない。
つまり、タイトルのQは本末転倒で、本来ならばNoであるというのは解り易いです。
でも、「『本来ならば、』ない。」と書かれている様に、『本来ではなく』制裁として考えている人が多いような気もしています。正直に申しますと、ワタシもそういう部分があると思っていました。
そこをもう少し勉強してみます。(死刑制度とも繋がっていくような予感がしています。)

dr.stonefly
2009/05/07 10:37
愚樵さん、どうも。
本当にごめんね。反省してるよ。
でもね、なんだかさ、ナチのように単一思考や感情を統制しようとしたりする奴が許せなかったり、実際に政府やら権力に殺されたりしている人たちと付き合ってきたワタシにしたら、ああいうバカはちょっと許しがたくなってさ。これも肌感覚の脊髄反応ってやつ。
でも、空しくなるだけだから、もうしないよ。そういえばunder the sunだったし、それとわざわざエントリーまで挙げて頂いたことを考えなくちゃね。
それと、ウエブリの字数制限にはいつも迷惑をかけてます。

さて、永井均の著作の「子どもための哲学対話」は、ワタシも未読ですが、どうやら「子ども」向けの本のようです。amazonのレビューを見ていて読みたくなりました。
dr.stonefly
2009/05/07 10:38
ところで、
>社会が「とりあえずの答え」を出してしまう
ってのは、社会が「とりあえずの答え」をださなければやってけない、ってのはそうなんでしょうね。そう思います。で、多くの人が受け入れると「宗教」と言われますが、多くの人が契約する(?)「法治」も「とりあえずの答え」ではないでしょうか?(「法治」を絶対のものとして他を全否定するのは宗教と似てますね、笑)
つまり、法治社会も「とりあえず」以上を追求しだすと堂々巡りで前には進めない、ことにはならないですか。となると、矛盾も認めなければならない。
結局、本当のことは、やはり

>あとは自分自身に問いかける他はなくなってしまう。

ということになると思いますが、その問いかけ先が「とりあえず」しか答えが出ていない「社会」と絡んで来る。でもそれは「とりあえず」で「ほんとう」の追求とは違う。
ここに大きな誤りがあると思うのです。
dr.stonefly@つづき
2009/05/07 10:39
 だから

> では、死刑を望んだのはなぜか?
 社会への自らの死を賭した抗議だろう。

も、ほんとうのことではない。
「とりあえず」な社会に「死を賭した抗議」……は、「ほんとう」とは違う。
 もしかしたら、永井均も「『もともと』の願望・傾向・欲求……」以下でそれを言おうとしたのかもしれないな。
(まとまりがなくてすみません)

dr.stonefly@つづき2
2009/05/07 10:39
こんにちは。
僕も永井均氏を全然知りませんが・・・。

社会というまとまりを律するやり方として、「法治」「徳治」といったことが考えられるかと思います。
人間の存在を性善説でとれば、自律的な「徳治」が可能だと思われます。
一方、性悪説でとれば、どうしても他律的な「法治」にならざるを得ないかと。
あるいは、一つの社会の中で価値観が多様化してしまえば、あるひとつの「徳」では律し切れなくなりますから、複雑な社会になれば、どうしても「法治」にならざるを得ないとも思います。

ここで問題になっているのは「死刑制度」ですよね?
極刑が「死刑」でなければ、同じ「法治」でも「(法律の枠内で)殺されるために殺す」という発想にはならないでしょうから。
極刑が「無期懲役」とか「懲役500年」みたいなことだったら、死にたいけど自分で死ねない人間が、「人を殺めることで(法律によって)自分を殺してもらおう」と行動することはあり得ません。
アキラ
URL
2009/05/08 22:04
(つづき)

また、極刑が「死刑」なら、確かにその「死」を怖れなければ何でもできちゃう。
「死刑」を極刑として掲げる社会は、確かに「死を怖れないのであれば、何をしたっていいですよ」と暗に言っているようなものです。

『人を殺すことで殺されたい』というのは、ロジックとしてはおかしくはない。
こう発想する人間は、戦争にでも参加して戦死するという選択肢を選んでもいいわけです。
しかし、自分の生きる社会に「死刑制度」があれば、その社会内で合法的に『人を殺すことで殺されたい』が可能になります。
ですから問題があるとすれば、『人を殺すことで殺されたい』と発想してしまうその人の「もともとの欲求」と、その発想の実現が合法的に可能になってしまう「制度」だ、と言えるんではないでしょうかね。
アキラ
URL
2009/05/08 22:05

アキラさん、舌足らずのえんとりーをフォローしてくれて、ありがとう。
どうもワタシは「徳治」「性善説」の位置に立ちたがっているようです。
そして「法治」「性悪説」を否定したがっている。でも現実には否定しきれない。ここにワタシのあやふやさがあるんですよね。
解り易く指摘して頂き感謝です。

永井均は「死刑制度がある法治」の立場にたち、『人を殺すことで殺されたい』が可能ということを推論した。そして、今回それを実行する人が現れた。
本来、死刑制度は誰もが死にたくない、という前提の上でなりたつ法律、いや、その前提の上でしか成り立たない法律ですよね。そうじゃない人が現れたところで、大前提が崩れた。これ「制度」として成り立たない、ということではないでしょうか?
これは、これまでの「死刑制度」存続派のひとも廃止派の人にもなかった、思考だと思います。

dr.stonefly
2009/05/09 10:01
>そうじゃない人が現れたところで、大前提が崩れた。これ「制度」として成り立たない、ということではないでしょうか?
<

そう思います。
社会学者の宮台真司氏は、そのような事態を「社会の底が抜けた」と表現しています。
これはしかし、もう随分前から起こっていることで、僕らはそのような時代状況を踏まえた上で、継続的にその「制度」は社会にかなっているのか?と、常に問い続けていく必要があると感じます。

死刑制度、カルデロンさん一家の処罰、時効問題などは、このようなことの典型と言えるんでしょうね。
アキラ
URL
2009/05/09 11:39
これは……突っ込みいれておけばいいんでしょうか?
近代市民社会は法治社会ではあるが、しかしその『法治』という概念はいわゆる法家のそれとは違い、社会契約たる法(すなわちこれは他律的であると同時に自律的であるわけです)によって行為を規制することによって成立する。
そもそも性善説と性悪説とは共に儒学の概念であり、また偽(=人為)によって人は聖者となれるという結論自体はまったく同じであるため、たとえ(同じ諸子百家にその源流を見ることのできる)法家思想における法治主義に対してでも『性悪説』という語を用いることは不適当である。とか言えばいいんですか?

私は近代思想=キリスト教文化圏において成立した西洋思想に浸かっちゃってる人間なので、法家思想と近代思想とをごっちゃにした記述はちょっと許せんのですよ。少なくとも日本は明治時代に『欧化』して社会的には西洋思想を受け容れて制度を構築したわけだから、そこで息づく『法治主義』は法家思想とは何の関係もないぞ、と言いたいわけですよ。
sutehun@夕方から酔っ払い。
2009/05/09 17:24
こんばんは

なんか難しい話になり始めている中に割り込むのも何ですが…
「とりあえず」から始めちゃって良いんじゃないでしょうか?
「とりあえず」であることを認めることが、「『とりあえず』以上を追及しだす」ことにつながるんじゃないか、それは堂々巡りではないと思うんです。「とりあえず」の姿であるからこそ、次の段階に進む手掛かりとなりうるわけでしょう。
むしろ「とりあえず」であることを認識しない論、あるいは「正解」しか認めないという論の方が怖い気がします。
とみんぐ
URL
2009/05/09 23:18

アキラさん
このブログでも、たまに書きますが、ボクが青カンと共にいたときに感じていたのを言葉にすると、まさに「社会の底は抜けている」でした。
そこは生死と直結する抜け方だったのですが、抜け居ている制度は、直接「生死」を決める制度ではない。
こうした意味で直接生死と関わる「死刑制度」は、ちょっと他の制度と別のような気がします。
今回のことは特に「死刑制度」をpickupする出来事かもしれません。

dr.stonefly
2009/05/10 09:10
sutehunさん
入れれるツッコミは入れて下さい。
アキラのさんの説明はワタシには違和感がなく解り易かったのですが、そうか、深いのですね。アキラさんがレスを入れてくれるかどうかは解りませんが、勉強になります。法治と法家の違い、混同はちょっと勉強しなければレスできないな、と感じます。でも、

法治ってのは社会契約ってのは考えていました。
この国に産まれたワタシは、知らぬうちにこの国の法治と契約していたんだなぁ、とね。知らぬ間にだったんですが、生活していくうえにおいては「まあいいか」ということで契約破棄していません。ただ、ワタシは社会よりも個が大切なので、ほとんどのことが許容できても、個の大切なことが契約によって侵害されようとすると自律的に契約内容を変えなさい、と言ってしまう。許容できない、それは個にとって大切だけでなく、個々多数の人にとって大切だとワタシは信じている。
dr.stonefly
2009/05/10 09:11
と、ワタシが考える「個々にとって大切」ってのは、もしかしたら法家思想に近いのかなぁ、と思った次第。
それで、アキラさんのコメントに違和感なく納得したのかなぁ、と自己分析します。また教えてください。

dr.stonefly@つづき
2009/05/10 09:11


とみんぐさん 「とりあえず」は「法治」だな、と感じています。 それと同時に、とりあえず契約しているんだなぁ、とも感じています。 法治や契約よりも、個々にとって大切なこと を大切にしたいワタシは、それが法治や契約で辿り着けないと思っています。 でも法治や契約は、生活するうえでは必要で、取り敢えずあるものを良くして行かなければならないと思ってます。 とりあえず、って許容範囲広そうで、とりあえずいい感じですよね(笑)

dr.stonefly
2009/05/10 09:23
あら、dr.stoneflyさんに向けたコメントだったんですけど、怒られちゃいました。
はい、dr.stoneflyさんの「引っかかり」にピンとくるように、「徳治」「法治」「性善説」「性悪説」というワードを一般的なニュアンスでの対比として、「・・主義」を抜き、カッコでくくってみたりして使いました。
ですので、これらのワードは元々の出自であるところの狭義の世界とは、まったく関係ありません。
直結してるととられてしまうと、「徳治(主義)」や「徳」といった用語の使用法がそもそも間違ってるってことになってしまうのですが・・・。

怒られちゃったんで、言い方を変えてみますね。
近代市民社会の基本は、政教分離ですよね。
ですから「政」の分野は、基本的には「教」にはタッチしてないと言えます。
「教」に抵触するような行為の規制をするわけではない。
例えば、刑法に「殺してはいけない」などとは書かれてないわけです。
だから、「法律で禁じられているから殺してはいけない、としか言えない」ってのは、本当に誰かがそう言っているのだとすれば、ちょっとおかしな話だと思いますよ?
アキラ
URL
2009/05/10 11:16
(つづき)

その意味では、近代市民社会の「法治主義」ってのは、一方の「教(西欧では主にキリスト教)」を元々当て込んでの仕組みだとも言えるでしょうね。
「欧化」したとされる日本でも、何らかの「教」を当て込んでの「政」なのだろうと思います。
で、dr.stoneflyさんが気になってらっしゃる「引っかかり」は、一つにはやはり「教」の分野のことになろうかと。
つまり、「死刑を望む土浦の殺人者」の「そもそもの欲求うんぬん」。
こっちは「政=法」とは関係なし。

それからもう一つには、「死刑を望む土浦の殺人者」の行為が、近代市民社会の「契約内容」の履行を当て込んだ、言ってみれば統治権力との契約内容にキチンと則ることを要求する行為になってしまっている、ということでしょう。
極論的に言い換えてみれば、ですからこれは非常に近代市民的な行為だと言えてしまいます。
アキラ
URL
2009/05/10 11:17
(さらに続き)

dr.stoneflyさんが青カンと共にいたときに感じていた「社会の底は抜けている」は、制度(政)の不備によるものだと思われますが、この土浦の殺人者やT間などのケースの場合は、ですから「制度(政)の不備」とは言い難いわけです。

「教」の分野の強度が崩壊してしまったがために、それを当て込んで作られていた「政」とのマッチングがうまくいかなくなってしまっている、という、もうちょっと大枠の部分での話になるのではないかと思います。
だからこそ この「底の抜けた」状況は、一筋縄ではいかない根の深い問題だな〜と思うんですね。
アキラ@3連投すみません
URL
2009/05/10 11:19
そもそも、どうして「私には人を殺す権利がある」と考えるのでしょう? そもそも、どうして「私には生きる権利がある」と考えるのでしょう?
「私には人権がある」と考える人の集合が民主主義であるのは分かるのですが。無条件で己の権利が保障されると勘違いしてしまえば、「ならば私には殺人の権利もあるはずだ」と考える人も出てくるのか。

でも、そもそも、「私の権利」が無条件で守られるなんてこと、ないよね。
私に権利と人生をプレゼントしたのは、私以外の他者だった。
だから私は、別の誰かに権利と人生をプレゼントするのですが。
人生アウト
2009/05/10 16:43
ガキの頃、いつも頭にあったのは「間引き」や「口減らし」、飢饉や一家心中のことでした。食べ物がなくなれば自分は殺される、それは仕方ない。己の命はそこまで。
だからあたしにとって、勉強や仕事は「より多くの人を食べさせるため」のものに他ならなかった。私の知識私の技術私の運動は、一日でも長く人類を生存させるために前進しなければならない。死にたくない。

はーい、こっから極論入りますよ。→
私の命私の時間は、次世代に命を繋げるための道具に過ぎない。機能的に合理的に。
次世代を生かすのは善であり、従って次世代を殺すのは悪である(中絶除く)。
子供を殺す人間を殺すことは善である。法ではなく、私の信に従う。字義通りの「確信犯」。
人生アウト
2009/05/10 21:18
もともと、「他人が助けてくれる」と思っていないんですよね。
私は「自分以外のドライバーは無知無能である」という前提に立つから、誰よりも運転が安全になる。交通法規がいかに成熟しようと、こちらの手足を奪われてからでは遅すぎる。他人の車を信じるな。
脱税や詐欺、いくらでも手口は試行され実行されている。自分の金は誰に対しても安心ということを知ってはいない。経済学者曰く、「経済学を学ぶのは経済学者に騙されないためだ」。
自分の判断、自分の努力。これだけは裏切らない。失敗しても納得できる。自分の頭だけは何よりも公平である。(毒多さんドン引き)

私は、他人が愚かであり弱いと決めつける。研鑽において、自分に勝るものはないと傲慢に確信する。
だから他人の弱さを許す。人生の意味がわからない奴は俺の弟になれ。飯をおごってやる。酒を飲ませてやる。友達になってやる。殺人者にならないよう、人生に意義を与えてやる。
対等ではない、しかし人間として社会を作ってやる。(ふふふ、リベラル真っ青)
人生アウト
2009/05/10 21:29
あー。アキラさん。
別に怒ってたわけではないので、誤解を与えたことについては謝るッス。m(反省)m

そもそも内在的制約をいえば片が付くような問いかけなんで、本来ならば一顧だにしないのが正しい態度かも。

人というものがどのような存在であろうと確定的に存在する何か、というものが、哲学というか法学というか政治学でいうところの一般的正義ですから、ぶっちゃけ近代市民法は『自立的か他律的か』なんていう問題意識とはほとんど無縁なんですよ。

法とは市民が自らの意思と責任とに基づいて選択した市民自らの正義であるから〜とか、であるからして市民は法の精神を理解していなければならないし、また新たな社会の成員に対してそれを理解させなければならないし〜とか、その努力を怠った結果が現状だろーがこの〜とか、いろいろ言いたいことはいっぱいですが、明日も早いんでもう寝ます。
sutehun
2009/05/10 22:18

くぅぅぅ、レスが難しぃぃぃぃ、ふう。
どうも、無知でお子ちゃまな管理人に、(おそらく解っている人同士では問題ないならないようなことに)大人なコメントを頂き、恐縮しております。またおこちゃまに解り易く言ったために誤解を招かせて申し訳ない。ごめんちゃい。
それにしても勉強になります。

>この「底の抜けた」状況は、一筋縄ではいかない根の深い問題だな〜と思うんですね。

>そもそも内在的制約をいえば片が付くような問いかけなんで、本来ならば一顧だにしないのが正しい態度かも。

これは性分なのかもしれません、が、前者か後者かというと、前者のように考えてしまう。一筋縄でいかない「根」はどこにあるのか?とか、社会はどうして「底が抜けている」のか、そも底が抜けているのは良いか悪いかとか、「底が抜けている」とどうなるのか……。底が抜けていることと法治はどう関係するのか、もしや法治故に底が抜けるのか……、とかさ。
dr.stonefly
2009/05/11 18:03
sutehunさんが言われていることも解るのですが(ちゃんと解ってないかもしれないのだけど)、法の基にあること、さらにその基の下層にあることが気になって仕方がない。だからこの事件の犯人のことが引っかかるんだと思います。内在的制約とは何だろう?とか、一般的正義とは?とかというふうに考えてしまうのですが…。

> 自分の判断、自分の努力。これだけは裏切らない。失敗しても納得できる。自分の頭だけは何よりも公平である。

これはドン引きしませんが、人の存在とは次世代に命を繋げる道具にすぎないのか、どうか? いかにも生物的だなぁ、人間はこんなもんなんかなぁ、なんて非常に考えさせられます。

まあ、ボチボチと考えていきます。

dr.stonefly@つづき
2009/05/11 18:04
>sutehunさん

いや、こちらこそすみません。
dr.stoneflyさんはご存知ですが、最近別口でいろいろクレームをつけられまくっていたので、またやたらなことを言って怒られちゃったと、ついつい勘違いしてしまいました。 (^_^;)

>内在的制約
<
>ぶっちゃけ近代市民法は『自立的か他律的か』なんていう問題意識とはほとんど無縁なんですよ。
<

原理原則については、理解しているつもりです。
けれども僕は、「とはいうものの、一神教的契約観の体得は日本では無理だろう」とか、「違う形で把握するしかないんじゃないか」とかいった認識に立ったところから、ものを見たり言ったりしてしまっているので、そのへんが実は問題なのかもしれません。

ですから、sutehunさんのような立ち位置の方からすると、「一顧だにしない」というのが 確かに一番正しい態度かもしれませんです。(^_^;)
アキラ
2009/05/11 18:38
あたしは「社会は生者だけのものではない」と考えているのですよね。生者と死者の両方にとって社会であると考える。
もし社会が生者だけのものなら、気に入らない奴は殺せばいい。しかし殺せば法で罰せられる。…ということは、私が人を殺さないのは法による罰を恐れるからなのか? 罰に恐怖するから私は法を守っているというのか?
ならば、間違った政体の下で恐怖政治が行われれば、私は恐怖に支配されたまま暴力に加担するのか? 冗談ではない。私は、自分の判断にこそ従って、暴力をやったりやらなかったりするのだ。

そして歴史は暴力にあふれている。殺されるべきでない人が殺されてきた。そして自分は生きている。これは不公平だ。私も死者も対等の筈だ。全ての生者と死者に公平なルールが策定されなければならない。
そうだ、子供が殺されたのだ。ならば大人の私は不当に生きていることになる。従ってこの人生は不当なものであり、『返却』しなければならない。それは、現実の不公平を是正することによって達成される。
人生アウト
2009/05/11 21:50

アキラさんはsutehunさんと面識なかったんだ?(もちろんブログ上の話だけど)。解っていただけると思いますが、sutehunさんは、知識も良識も分別もある大人なので、全然大丈夫ですよ。

dr.stonefly
2009/05/12 09:58

人生アウトさん
コメントを読んでいて、ちょっと昔、青カンの側に居た頃を思い出しました。
法律によって禁じられているから行動(時に暴力であっても)しないことはなかった。法律にかかわらず自分の判断で動いた。多分その自分の判断は、利己ではなく、社会や未来の見ていた気がする。さらには、死んで行く青カンを見ていたと思う。
もちろん法律によって禁じられているから、パクられることになったかもしれない。もしパクられていても、とりあえず「契約」しているので、それは仕方ないと暗に考えていた、と思う。最近はてんで駄目なんだけど……。


「返却」かぁ、返却の具体的な仕方は難しいなぁ。

dr.stonefly
2009/05/12 09:58
> アキラさんはsutehunさんと面識なかったんだ?(もちろんブログ上の話だけど)。
<

あ、はい。なかったです。
恥ずかしながら、お見知りおきを。m(_ _)m
  >sutehunさん

ええ、知識・良識・分別と三拍子揃った方はなかなかいらっしゃらないので、ああいうツッコミを入れられて、ちょっと嬉しかったです。 (^o^)
それでもって言い換えてみたら、なんだ、こっちの方が自分なりにはまとまってる?じゃんって、我ながら情けなく思いました。
アキラ
URL
2009/05/12 21:56

アキラさん
ワタシが書けば書くほどワタシ自身の無知が露になっていき恥ずかしのですが、アキラさんの最初のコメントに納得し、sutehunさんとツッコミのあとその後のアキラさんの説明で、一歩進んだところで考えることができ、感謝しています。

今、永井均の「子どものための哲学対話」を読んでいます。子ども向けと高をくくっていたのですが、基礎学力がないワタシには結構難解で、四苦八苦しています。社会契約についても書かれていました。

>いまのぼくらのような人間が集まって約束をしたと考えがちだけど、そうじゃない。社会契約をしたことで、いまのぼくらのような人間ができあがったんだ。

恥ずかしながらワタシは漠然と前者の考え方をしていました。後者はsutehunさんが、言わんとしたことだろう、と思いますが、まだ血肉化できていません。もう少し時間がかかりそうです。
dr.stonefly
2009/05/13 08:27

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「死刑を望む土浦の殺人者」…死ぬつもりならなにしてもいいのか? 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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