毒多の戯れ言

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zoom RSS 「それでもボクはやってない」…不条理な社会とワタシの関係

<<   作成日時 : 2007/09/18 17:35   >>

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 評判の映画である。とはいっても封切りはずっと以前のことで、評判の映画という言い方も「時代遅れ」だ。
 なぜ今この映画について語るのかというと、DVDがレンタルされて、やっと見る事ができたからである。
 見た事の無い人は、ネタばらしもするのでちょいと注意してほしい。
 では、ざくっと、内容を書いてしまおう。
 主人公の青年が痴漢の疑いをかけられた。
 一貫して「ボクはやってない」と言い続け、裁判になり、裁判で有罪となった。
 青年が、痴漢をやったか、やってないか、事実の判定で有罪になったのではなく、この社会の悪意で有罪になったと描かれる。
 この映画にかんしては既に多くのブロガーが語っている。
 「普通」は、裁判の信憑性の有無や冤罪、もう少し何だと痴漢について話題になる(笑)のだろうが、ワタシは「不条理な社会」そのものの存在と、ワタシと「不条理な社会」の関係、関わり、「不条理な社会」には左右されないワタシにとっての真実とは何だろう、ってことにつまづいてしまった。
 映画のなかで弁護士、母親、友人は無実を確信しており、おそらく裁判官、検事、さらに刑事まで無実かもしれないと思って居るのだろうがオノレらの都合を優先させるなかで、有罪判決。
 有罪判決文を言い渡されるあいだに、青年の心情が語られる。
 ……事実か無実かは「神のみぞ知る」なんてのは嘘だ。
 ……間違いなく「私」は知っているのだ。
 ……「私」は「真実」を知っているのだ。
 不条理な社会の都合で曲げられる事の無い「真実」を、神ではなく「私」だけは知っているのだ。

 話は変わるが、最近、餓死で死ぬ直前を妄想したことがあった。
 既に空腹さえも感じず、すべての体を維持する苦痛からも解放されて、精神だけが研ぎすまされた状態。
 つまらぬ社会からも解放されて、精神だけがキリキリと生きる、真理だけを追求する恍惚感。
 その状況を想像をしていたら「おにぎりが欲しい」なんて言うこともないだろう、という考えが浮かんできた。
 例の「北九州市の殺人福祉」の犠牲になり餓死した人の日記がよぎったのだろう。
 ワタシも「北九州市の殺人福祉」のような社会がつくる悪意を許容するつもりはない。
 実際、このブログでももさんざん社会の悪意を攻撃し是正を訴えてきた(つもりだ)。
 しかし、実際に自分が餓死する立場になったら、こんなつまらぬ「不条理な社会」のせいにするのだろうか?
 ふと疑問がよぎった。
 どこまでも悪意はなくならず、善とはほど遠い、不条理である社会。それでもそんなくだらぬ社会に「期待」して、そのうえ「裏切られた」感に満たされ、恨みつらみを募らせながら餓死していくのだろうか?
 ここが非常に疑問なのだ。
 餓死寸前に至っては、私が存在した真実を喜び、その意味を噛み締めつつ、さらに思考し目を閉じる気がしている。
 ……なんちゃってぇ。実際にどうかなんてのは解らない。そうありたいと思って居るだけで、恨みつらみで死んで行くのかもしれない。

 さて、映画は餓死する寸前ではなく、痴漢の冤罪である。
 困ったな、どうしよう。
 映画の青年は思った。……「私」にとっての事実は曲げられない。
 それは「私」にとっては真実であり、他者にとっては関係ない。
 ましてや、私の真実は、つまらぬ「不条理な社会」など関係があるわけじゃない。
 社会の不条理をまともに受け止め、真面目にむきあうのもバカらしいよな。
 じゃ、刑事がいうように「嘘」(私にとっての嘘)でも、適当に返答をしておいて半日でおさらばしようか!?
 真面目に向き合うのは阿呆らしいから、不条理に屈服してしまおうか?
 いや屈服じゃないんだ。話にならない相手を適当にうっちゃるだけさ!!
 まともに相手にしないだけさ。
 駄目だ、駄目だ。なぜ私の事実を押し曲げなければならないのだ。しかも私自身の手で……
 そんな下らない相手(社会)に対して!!
 じゃ、曲げることのできない私の真実を曲げずにいるか?
 4ヶ月も拘束されて、しかも裁判ではそれ以上に「不条理な社会」に拘束されるぞ。
 「肉体的苦痛、冤罪を押し付けられる苦痛」と
 「不条理な社会に私にとっての曲げられない事実を曲げてしまう苦痛」……
 どちらが重いのだろう。どちらが屈辱的なのだろう。
 ああ、どちらも苦しそうだな。虚しいなぁ。だって実際にやっていないんだもん。
 こんな社会の悪意に屈服して、私は生きていけるのだろうか?
 だいたい私にとっての真実は、私だけの真実でいいのだろうか?
 それが果たして真実なのだろうか?
 私の真実をこの社会にも認めさせないといけないのではないか!!
 でも、認めさせようとしている社会は不条理に支配されている社会なのだよな。
 いかん、いかん、そんな下らぬものまともに相手にしては……、
 しかも、私もその不条理な社会を形成している一人なのだよな。 

 はて? 私だけの事実なんてありうるのだろうか?
 ありえたとして意味をなすのだろうか?



 こうしてこの不条理な社会の中で生き、社会を構成するワタシはグルグルまわり、堂々巡りがなされる。




 じゃあ、痴漢じゃなくて、してもない殺人の冤罪で有罪「死刑」となったらどうする。
 痴漢の冤罪と殺人の冤罪は違うのだろうか?
 殺人の冤罪で死刑になるワタシは、「不条理な社会」に恨みつらみを吐きながら殺されていくのだろうか?
 なんか嫌だな。
 つまらぬ社会と、全ての欲と、肉体としての命から距離をおいて、精神を研ぎすませ恍惚感にしたるとするか……

 
 

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gegenga師匠が突っ込まないかな? 入力ミス「悪天皇」
?時事のニュースにこんなのあったんですけど。 保存するのはどうするの? ...続きを見る
みんななかよく
2007/09/20 15:33
ご先祖様
昨日はお彼岸の中日ということで、墓参りに行ってきた。参ってきたのは私の父の系列のご先祖様だが、なぜか今住んでいるところからは近くて、往復で300キロほどの道程。この300キロの内訳は、概算で山道(といっても国道& ...続きを見る
愚樵空論
2007/09/24 10:21

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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
dr.stoneflyさんのこの記事を読んで頭に浮かんだのがV・E・フランクルの『夜と霧』です。ナチスの不条理な拷問と闘った人の話ですよね。
フランクルは、妻への「思い」に支えられて、ナチスの不条理と闘うことが出来た。私はまだこの映画を観てませんが、“誰かに支えられて”という部分はきっと入っているはずだと思います。

人間はそれが正しいかどうか、なかなか一人では決められない存在なんですよね。死はひとりで対峙するしかないからべつですが、社会の中の問題は、みんなとのかかわりが重要になってきます。周囲がクロだと叫べばどうしても、それに同調したくなる。人間なんて、そういう存在でしょう。

でも、だからこそ人間には仲間が必要なんですよ。ね。
愚樵
2007/09/18 20:41
愚樵さん、お仕事復帰おめでとうございます(笑)。
それと「ほんとうに言いたかったこと」へのワタシのコメントは決して「批判」じゃないですよ。
「夜と霧」は20年前から本棚にあるのですが、まだ読んでません。

この映画に関してですが、まずは社会の不条理と闘わなければならないのか、どうか? ということです。多く人がそうだと思うのですが不条理を感じなければ闘わなくてもいいのか? という問題もでてきますね。
不条理を感じない人と闘わなければならなくなったりもします。
まあ、闘うべきでしょう。(叩きのめすということではなく)
では、不条理に巻き込まれたとき闘わなければならないのか? が次です。
社会というものに価値をおけば闘わなければならないでしょう。
ワタシも闘ってきたつもりです。これからも闘っていきます。
仰る様に仲間がいましたし、今もいます。お付き合いさせて頂いているブロガーも仲間だと勝手に信じてます。
この映画の青年も弁護士以外に仲間とともに闘ってきました。
dr.stonefly
2007/09/19 16:35
(つづき)
ところが、最後にこの青年は思いました。
「すくなくとも私だけは真実をしっている」
この言葉から妄想に入っていってしまったエントリーです。
「私の真実」と「不条理な社会の事実」、この二つの関係とはなんなんだろう? と、

さらに、その関係を考えたうえで、実際にこの青年の立場にたったらワタシならどうするのだろう?……、と

愚樵さんはどうしますか?
またみなさんはどうしますか?
dr.stonefly
2007/09/19 16:36
私は、残念ながら、この映画を見ていませんが、冤罪ほど本人にとって悔しいものはないと思います。
実際、取調室で、どれだけ頑張れるかわかりませんが、やっていないことをやったなんて、言えません。でも、最初から犯人扱いですものね。かなり大変ですよね。頑張るしかないけれど、代償が大きすぎます。
家族とか、友人、弁護士のささえがなかったら、絶望しかない世界ですね。
例によって、全然思考が深くない考えで、すみません。北九州の餓死の問題も、なんでこんなことにならなきゃいけないのよ、と社会の不条理を感じます。
不条理だと感じるから、他人のことでも、闘いたい気もちになるのかなぁ。
戦争がそうでしょう。あんな不条理な殺され方、ないです。それが、見てみぬふりができなくなるのですよね。私はそう思っています。でも、不条理なことは不条理なまま進んでいってしまいます。ああ、難しい。
非戦
2007/09/20 11:10
非戦さん、わけのわからないエントリーにコメントありがとうございます。
やっぱり、やってないことはやってないとしか言えませんよね。
映画の主人公は一貫して「やってない」と言い続けましたが有罪でした。
映画は、この社会では事実と関係なく事が決められることを描いてます。
不条理な社会とつきあうのは阿呆らしいと、警察の口車に乗せられたらどうなるか。半日で拘束が終わるのか、気がついたら「死刑」になってた、なんてこともあるかもしれませんね。
真実を訴えるしかないのかな。

そしてやっぱりワタシがいる社会の不条理とは、困難でも闘わなければいけないと思ってます。
それでもたまにね、ワタシの存在そのものは不条理な社会とは関係ない、なんて思い出すといろんな事がややこしくなってしまうんです。
dr.stonefly
2007/09/20 12:44
>「私の真実」と「不条理な社会の事実」、この二つの関係とはなんなんだろう?

「私」と「私の外部(社会を含む)」の間には、そもそもからして「不条理」が存在するのではないでしょうか? それは、神ならぬ不完全な人間の性(さが)とでも言うほかないものだと思います。

だってそうじゃないですか。私と私の家族の間にだって不条理は存在します。それが他人なら、尚更のことです。

不条理は常に存在する。けど、だからといってその不条理が常に不幸を招くわけではない。不条理が常に存在して常に不幸を招くなら、世の中に幸せなんてのはないことになる。でも、幸せはちゃんとあるんですよね。

では、そう考えると幸せと何か。幸せとは不条理が不幸にならない「幸せな関係」からもたらされるもの。となると、「不条理と闘う」ということは「幸せな関係を築く」ということになるのではないでしょうか。
愚樵
2007/09/23 21:22
不条理がむき出しになってしまう社会とは「幸せな関係」が少ない社会。幸せな社会とは不条理を包み込む「幸せな関係」に溢れる社会。幸せな社会を築くとは「幸せな関係」が容易に築けるような社会をつくるということ。ではないでしょうか。

お金や競争は、「幸せな関係」を築くのにあまり役には立ちそうにないですね。
愚樵
2007/09/23 21:25
三連投、すみません。

アルバイシンの丘『不死と餓死』より

>『この世』というものの限りない『emptiness』を突きつけてくるものがある
...
>『生きてることはただそれだけで悲しいことと知りました』という世界
...

世の中はそもそもからして不条理だということの、別の表現なんだと思います。
愚樵
2007/09/23 21:30
愚樵さん、おはようございます。
ワタシは他者・社会との差異は不条理とまでは思っていません。が、「不幸を招く関係」が不条理といわれれば、そうですね。
「幸せな関係」ってのはいいですねぇ、そこを目指すのはいい感じです。
そのために闘うってのも、いい感じです。
ただワタシの癖として、社会どうのこのではなく、個人=ワタシ自身にそれを問う、という作業をしてしまうようです。

不条理といえば、本村さんも不条理の渦中にいますね。
ワタシは彼の幸せを願う者のひとりなんですが……
dr.stonefly
2007/09/24 09:35
>不条理といえば、本村さんも不条理の渦中にいますね

ああ、全くその通りです。本当に彼は不憫ですね。
でも、彼の場合、自ら不条理を求めているような気がします。彼にとっては条理なんでしょうけれどね。それが不条理になってしまうという不条理。
愚樵
2007/09/24 10:19

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