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よく聞く言葉で、どうしても気になってしまうのが「足がない」である。 どこぞに行く時、またどこぞから帰る時など移動する「車」がないという意味で使われる、あれである。つまり「車」を「足」と言い換え表現しているわけだ。しかしなぁ、たかが車の都合がつかないくらいで「足がない」と言ってしまうのは、まさに現代社会の病理なのかなぁ。とは言ってはみたものの、ワタシも「車に頼る」ということに関してはあまり他人のことがいえない。それでもワタシは「足がない」とは言わない。この言い回しを使う人は洒落た言い方だという意識があるのだろうか? まあそんな感覚もなく、どこぞで聞いた言い回しをなんの意識もせずに、慣用句として使っているのだろう。 随分まえだが余りに連発する人に「あなたには足がありますよね。実際にここに事故や先天性の障害で足がない人が居ても同じ様に言えますか? もしかしたら、その『足がない』人が非常に辛い思いをしてるかもしれませんよ」と、聞いてみたことがある。そしたら「そういう人の前で使うわけないだろ、うるさい奴だ」と烈火のごとく怒鳴られてしまった。自分でも「うるさい奴」だということは分かってて、まず日常で無意識につかわれる慣用句の差別性の有無など指摘することなどないのだが、その人がよっぽど嫌な奴だったのかもしれない、思わず聞いてしまったわけだ。多分この人は仕方なく車椅子で移動しなければならない人の前でも「意識せず」言っているのだろうが、そのことさえ自分で気づかないだろう。 話は20年ほど溯る。ワタシが市民運動と関わり始めた頃のことだ。ワタシが何気なく言った「片手落ち」という言葉を指摘された。「足がない」と同じ理由である。その後「そうした言い回し」が気になってしかたなくなった。「目がない」「脳がない」……など、やたら気になって仕方ない。若かったのだろうやっきになって「言葉狩り」をした。生意気盛りってやつかな、歳をとるとともにそうした「指摘」もしなくなった。なぜだろう、それが歳をとるというやつだろうか? ただ口にはしないが「そういう言い回し」をチェックする癖はいまだにある。ワタシ自身気にしてこのブログでも使用していない、と思う……多分……きっと。 子どもが保育園に入ると「子供」という表記を指摘する親に出会った。久々に「指摘」する人に会ったわけだ。ワタシはよく解らず聞いてみたのだが、「供」が問題だという。つまり「子供」は「供え物」ではない、と言うわけだ。これは語源の問題なのだろうか。ワタシもよくわからぬまま「子ども」という表記を使っている。ただ、この「子供」を指摘をした親が「浮浪者・不労者」という言葉をよく使っていて、なんだか笑えたのだが、結局「浮浪者・不労者」が差別の意味を含んでいることを指摘しないまま卒園してしまった。その人はいまでも使っているかもしれないなぁ。 またまたこのブログでも初期の頃に話題にした表記で「障害者」という言葉がある。いつ誰に言われたが忘れたが、障害者の何が「害」なのだという指摘され、「障がい者」とすべきと指摘された。ひねくれ者のワタシは何となく「この際問題提議をしてやろう」と思い保育園の発行物に「障『害』者」と、わざわざ問題の文字に『』をつけて書いてやった。福祉大学出身の若い保育士に噛み付かれて、その勢いにあっさり降参したら、その保育士は『害』をホワイトで消して手書きで「がい」と書き直して印刷していた。その印刷物のすべてワープロの文字でそこだけ「がい」と手書きなので目立って仕方がない。問題提議という目的は達成されたが、結局だれからも指摘されず笑われもせず、つまりは何の反応もなくがっかりした覚えがある。このブログでは、逆に「障がい者」という表記が指摘されてから、敢えて「障害者」となった。このブログでは『こども』は「子ども」で『しょうがいしゃ』は「障害者」と表記されていてまるで一貫性がない(笑)。 結局この前 kaetzchenさんにが拙ブログのコメント欄にて、一言で的確に語った「免罪符」という言葉に集約されるのかもしれない。 ひとつは、表記や表現に殊更こだわることで、被差別者をつくろうとする社会の本質に迫る事無く「免罪」されようという逃げの心理が働いているのではないか、ということではないか? もしかしたらワタシが表記にあまりこだわらなくなり、他者への指摘もほとんどしなくなったのは、単に齢をとっただけではなく、少しは本質を考えようとしだしたからかもしれない。しかしそうして本質を考えていくとますます解らないことになる。本当に「足がない」人が「足がない」という言葉を耳にして「傷ついたり」「差別感を受けたり」するのだろうか? という疑問であり、さらにかえって意識することによって差別を煽っているのではないか? いや、もしかすると過剰に意識すること自体がワタシ自身の差別心ではないか? という疑問である。 障害者をひとつに括ろうとする事に差別的な思考が働いているのかもしれないな。障害者差別だけでなく、被差別層をカテゴリー化してひとつに括り思考する事が既に差別なのかもしれない。やはりすべて人間が個々であり、それぞれの感性や思考があるのだ。 ただ「免罪符」だからという理由で、逆に差別語を口にしていいという話にはならないだろう。階層として、個々として、被差別者を固定化しようとする社会の構造が歴然と存在することを認識し、個々がその社会を構成することを想像するとき、自然に表層である「言葉」にもその認識や気遣いが現れてくるのではないかと思う。 ただーし、差別者が差別の強化を目的にしたほんまもんの差別語、「サンゴクジン」や「ヨツ」や「チョン」などをイケシャーシャーと口にするお方には、相手が無知だろうがなんだろうが指摘したくて仕方なくなる。しかもそれが差別社会の頂点に立ち差別の強化のためにわざわざ発言する腐れ外道など言語道断である。全面的に糾弾するに値し、2度ならずも3度まで差別社会を強化しようと立候補する。こいつの悪巧みをなんとしても阻止しなければならない。 差別社会を強化しなければ生きて行けないと直感している病魔、お山の大将、石原のことだ。 |
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多文化・多民族・多国籍社会で「人として」 2007/01/12 03:46 |
チーム安倍の?教育再生?は、やっぱり低レベル!
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前を向いて歩こう! 2007/01/13 00:54 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
私も「障害者」と、その反対概念?の「健常者」という言葉には、以前から違和感を抱いています。前者には「その存在自体が社会にとって障害=邪魔=無益」って根源的な思想が隠されているように感じられてならないんですよ。すごく嫌な言葉です。 |
そまん 2007/01/09 20:05 |
以下は余談ですが、新約聖書の「福音書」と呼ばれる4つの文章には、イエスキリストが |
そまん 2007/01/09 20:28 |
そまんさん、こんばんは。 |
dr.stonefly 2007/01/10 01:51 |
本来は『障碍者』で、“碍”は「さまたげる」といった意味で、「いろいろと妨げられることの多い人」という意味の言葉、と、聞いたことがあるような気がするのですが、かなりうろ覚え・・・。 |
gegenga 2007/01/10 16:52 |
そうですね。体に何らかのハンデを抱えている人は、当時のユダヤ教の宗教エリート(とくにパリサイ派なんか)の連中から見ると、「罪深い」「汚れている」存在と見られていたんじゃないでしょうか。当時のユダヤ教は律法主義+形式主義が極限まで進んで、即ち形骸化していたわけですが、要は自分達宗教エリートは律法を忠実に守り、非の打どころがなく、清く正しい立派な「罪のない」人間だと勝手に思いこんで、そうでない大多数の民衆達を見下し、典型的な差別意識を持っていたんですね。 |
そまん 2007/01/10 19:27 |
gege師匠。もともと障碍者という表記だった、ということはワタシも聞いた事があります。でも「碍」の意味を知らなかった。「さまたげる」という意味だったんですね。で、何が「さまたげ」なんだ?と思ってみたりして……(笑) |
dr.stonefly 2007/01/11 09:16 |
stoneflyさん |
そまん 2007/01/12 23:52 |
宗教が宗教としてなりたつには「組織化」は避けれないのでしょうね。その時点で限界を感じます。たとえば「イエスが好きだから、イエスのように生きる」と自分だけで決めるだけではいけないのでしょうか? 別にその表明も誰の承認もいらない気がしてます。 |
dr.stonefly 2007/01/13 16:22 |
例えばクリスチャンでも、前にこちらでも話題になった内村鑑三の流れを組む「無教会」の集会というのがありまして、その人たちは教団や教会は作らず、個人のお宅やどこかの会館の集会室なんかを借りて、小人数の集会を開いて礼拝したり、聖書の研究会をしたり、お互いに励ましあったりしてるんです。 |
そまん 2007/01/13 19:32 |
私は信じられる宗教を持ちませんが、群れることでしか信仰を深められない、また群れを信仰心の表れとする風潮には疑問を感じ続けています。個々人が個別的に深めればいいだけだと思います。群れにより生ずる組織や権力、利権の弊害により未だに宗教戦争は無くなりません。個人的には、遠藤周作氏の考え方が自然だと思っています。 |
life_is_beautiful 2007/02/06 00:21 |
ひねくれ者め |
通りすがり 2010/06/20 16:00 |
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