毒多の戯れ言

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zoom RSS 「差別語のこと」…足がない≠ニか障がい者≠ニか

<<   作成日時 : 2007/01/09 08:54   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 7 / コメント 16

 よく聞く言葉で、どうしても気になってしまうのが「足がない」である。
 どこぞに行く時、またどこぞから帰る時など移動する「車」がないという意味で使われる、あれである。つまり「車」を「足」と言い換え表現しているわけだ。しかしなぁ、たかが車の都合がつかないくらいで「足がない」と言ってしまうのは、まさに現代社会の病理なのかなぁ。とは言ってはみたものの、ワタシも「車に頼る」ということに関してはあまり他人のことがいえない。それでもワタシは「足がない」とは言わない。この言い回しを使う人は洒落た言い方だという意識があるのだろうか? まあそんな感覚もなく、どこぞで聞いた言い回しをなんの意識もせずに、慣用句として使っているのだろう。
 随分まえだが余りに連発する人に「あなたには足がありますよね。実際にここに事故や先天性の障害で足がない人が居ても同じ様に言えますか? もしかしたら、その『足がない』人が非常に辛い思いをしてるかもしれませんよ」と、聞いてみたことがある。そしたら「そういう人の前で使うわけないだろ、うるさい奴だ」と烈火のごとく怒鳴られてしまった。自分でも「うるさい奴」だということは分かってて、まず日常で無意識につかわれる慣用句の差別性の有無など指摘することなどないのだが、その人がよっぽど嫌な奴だったのかもしれない、思わず聞いてしまったわけだ。多分この人は仕方なく車椅子で移動しなければならない人の前でも「意識せず」言っているのだろうが、そのことさえ自分で気づかないだろう。

話は20年ほど溯る。ワタシが市民運動と関わり始めた頃のことだ。ワタシが何気なく言った「片手落ち」という言葉を指摘された。「足がない」と同じ理由である。その後「そうした言い回し」が気になってしかたなくなった。「目がない」「脳がない」……など、やたら気になって仕方ない。若かったのだろうやっきになって「言葉狩り」をした。生意気盛りってやつかな、歳をとるとともにそうした「指摘」もしなくなった。なぜだろう、それが歳をとるというやつだろうか? ただ口にはしないが「そういう言い回し」をチェックする癖はいまだにある。ワタシ自身気にしてこのブログでも使用していない、と思う……多分……きっと。

子どもが保育園に入ると「子供」という表記を指摘する親に出会った。久々に「指摘」する人に会ったわけだ。ワタシはよく解らず聞いてみたのだが、「供」が問題だという。つまり「子供」は「供え物」ではない、と言うわけだ。これは語源の問題なのだろうか。ワタシもよくわからぬまま「子ども」という表記を使っている。ただ、この「子供」を指摘をした親が「浮浪者・不労者」という言葉をよく使っていて、なんだか笑えたのだが、結局「浮浪者・不労者」が差別の意味を含んでいることを指摘しないまま卒園してしまった。その人はいまでも使っているかもしれないなぁ。
 またまたこのブログでも初期の頃に話題にした表記で「障害者」という言葉がある。いつ誰に言われたが忘れたが、障害者の何が「害」なのだという指摘され、「障がい者」とすべきと指摘された。ひねくれ者のワタシは何となく「この際問題提議をしてやろう」と思い保育園の発行物に「障『害』者」と、わざわざ問題の文字に『』をつけて書いてやった。福祉大学出身の若い保育士に噛み付かれて、その勢いにあっさり降参したら、その保育士は『害』をホワイトで消して手書きで「がい」と書き直して印刷していた。その印刷物のすべてワープロの文字でそこだけ「がい」と手書きなので目立って仕方がない。問題提議という目的は達成されたが、結局だれからも指摘されず笑われもせず、つまりは何の反応もなくがっかりした覚えがある。このブログでは、逆に「障がい者」という表記が指摘されてから、敢えて「障害者」となった。このブログでは『こども』は「子ども」で『しょうがいしゃ』は「障害者」と表記されていてまるで一貫性がない(笑)。

結局この前 kaetzchenさんにが拙ブログのコメント欄にて、一言で的確に語った「免罪符」という言葉に集約されるのかもしれない。
 ひとつは、表記や表現に殊更こだわることで、被差別者をつくろうとする社会の本質に迫る事無く「免罪」されようという逃げの心理が働いているのではないか、ということではないか? もしかしたらワタシが表記にあまりこだわらなくなり、他者への指摘もほとんどしなくなったのは、単に齢をとっただけではなく、少しは本質を考えようとしだしたからかもしれない。しかしそうして本質を考えていくとますます解らないことになる。本当に「足がない」人が「足がない」という言葉を耳にして「傷ついたり」「差別感を受けたり」するのだろうか? という疑問であり、さらにかえって意識することによって差別を煽っているのではないか? いや、もしかすると過剰に意識すること自体がワタシ自身の差別心ではないか? という疑問である。
 障害者をひとつに括ろうとする事に差別的な思考が働いているのかもしれないな。障害者差別だけでなく、被差別層をカテゴリー化してひとつに括り思考する事が既に差別なのかもしれない。やはりすべて人間が個々であり、それぞれの感性や思考があるのだ。
 ただ「免罪符」だからという理由で、逆に差別語を口にしていいという話にはならないだろう。階層として、個々として、被差別者を固定化しようとする社会の構造が歴然と存在することを認識し、個々がその社会を構成することを想像するとき、自然に表層である「言葉」にもその認識や気遣いが現れてくるのではないかと思う。

 ただーし、差別者が差別の強化を目的にしたほんまもんの差別語、「サンゴクジン」や「ヨツ」や「チョン」などをイケシャーシャーと口にするお方には、相手が無知だろうがなんだろうが指摘したくて仕方なくなる。しかもそれが差別社会の頂点に立ち差別の強化のためにわざわざ発言する腐れ外道など言語道断である。全面的に糾弾するに値し、2度ならずも3度まで差別社会を強化しようと立候補する。こいつの悪巧みをなんとしても阻止しなければならない。
 差別社会を強化しなければ生きて行けないと直感している病魔、お山の大将、石原のことだ。


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コメント(16件)

内 容 ニックネーム/日時
私も「障害者」と、その反対概念?の「健常者」という言葉には、以前から違和感を抱いています。前者には「その存在自体が社会にとって障害=邪魔=無益」って根源的な思想が隠されているように感じられてならないんですよ。すごく嫌な言葉です。
様々なハンデを持つ人々を障害物のごとくみなして、無視・排除しようとする日本社会って・・それこそが病んだ社会じゃないでしょうか。
後者の言葉も、心身に外見的にハンデキャップがなければ健常者=まともな人間なんでしょうか。決してそうじゃないと思いますよ。
そう呼ばれて安心している人々の中にも、心というか精神的・霊的にすごく病んでいる人が、特に日本には無数にいる気がして仕方がないんですが。
この言葉には、たまたまハンデを持っている人々を低く見ることで、自分の存在の意義というか正当性を何とか見出し、無意識に優越意識を持とうとするいやらしさ・傲慢さが垣間見えるような気がします。
また日本人の想像力のなさも強く感じます。
自分が今後そういうハンデを持つ可能性が絶対ないと思っているのでしょうか。
そまん
2007/01/09 20:05
以下は余談ですが、新約聖書の「福音書」と呼ばれる4つの文章には、イエスキリストが
その力によって、奇跡的に多くの人々の病気やハンデを治す話がたくさん出てきます。
ヨハネ福音書の9章という所には、こう書かれています。
〜イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。〜
どうでしょうか。この意味がおわかりになるでしょうか。私はこの話しがとても好きなんです。特に最後の箇所がポイントですが。
心身にハンデがあるというのは(ちょっと語弊があるかもしれませんが)その人の個性でしかないと思います。全ての人に個性があります。ハンデがあろうがなかろうがその人間の価値・尊厳に些かの違いもありません。
その個性の違いを殊更にあげつらって、差別の道具・種にしようなどという思いを持つこと自体が自身の価値・尊厳を損なうんじゃないでしょうか。 
そまん
2007/01/09 20:28
そまんさん、こんばんは。
そうですね、確かに「健常者」という言い方にもイヤラシさが漂っている。何が「健常」なんだ?と、カテゴライズされている自分に問う必要があると思います。
障害も個性という言葉もよく聞きますね。でも、ワタシ自身はまだこう思える域には達していません。やはり障害者を見れば「可哀想」と思ってしまう。ワタシの差別心でしょう。なかなか克服できません。

聖書の箇所はおもしろいですね。ご推奨の箇所ではないのですが、「目がみえない」=「誰かが罪を犯したから」という発想は、その時代は目が見えないことが、やはりハンディであり、そのハンディは「罪ゆえ」とされていたのでしょうか。
dr.stonefly
2007/01/10 01:51
本来は『障碍者』で、“碍”は「さまたげる」といった意味で、「いろいろと妨げられることの多い人」という意味の言葉、と、聞いたことがあるような気がするのですが、かなりうろ覚え・・・。
gegenga
2007/01/10 16:52
そうですね。体に何らかのハンデを抱えている人は、当時のユダヤ教の宗教エリート(とくにパリサイ派なんか)の連中から見ると、「罪深い」「汚れている」存在と見られていたんじゃないでしょうか。当時のユダヤ教は律法主義+形式主義が極限まで進んで、即ち形骸化していたわけですが、要は自分達宗教エリートは律法を忠実に守り、非の打どころがなく、清く正しい立派な「罪のない」人間だと勝手に思いこんで、そうでない大多数の民衆達を見下し、典型的な差別意識を持っていたんですね。
でもイエス様は、そういう自分を正しいとして、他人を差別する様な傲慢な彼らの態度こそ、神様から見れば「最も大きな罪」であるということを、彼らに堂々と話されました。
その反面、様々なハンデや病気に苦しむ弱い立場の人々をもっとも愛され、それ自体は罪の結果ではなく、ご自分や神を信じる信仰により、その現実を超越した「救い」が与えられることをご自身の言葉と奇跡で証明されたわけですね。逆転の発想なんですよ。
そまん
2007/01/10 19:27
gege師匠。もともと障碍者という表記だった、ということはワタシも聞いた事があります。でも「碍」の意味を知らなかった。「さまたげる」という意味だったんですね。で、何が「さまたげ」なんだ?と思ってみたりして……(笑)


そまんさん。
>自分達宗教エリートは律法を忠実に守り、非の打どころがなく、清く正しい立派な「罪のない」人間だと勝手に思いこんで、そうでない大多数の民衆達を見下し、典型的な差別意識を持っていた
悩ましいですね。ワタシも気をつけなければならない。
特に「思索しない民衆」「国家に洗脳されている民衆」「真理を求めない民衆」など多数の民衆達を見下し……て、いるのかもしれない。でも、そうした人々は「聞こう」とはしないんですよね。
ワタシはある時、宗教に疑問を持ってしまったので「宗教」自体に興味はないんです。でも、イエスという人はすごいと思ってます。
dr.stonefly
2007/01/11 09:16
stoneflyさん
>私も同じくです。自分が現在の内外の情勢に悩みつつも、その割には大して何も効果的な活動も出来ていないのに「なんで今の日本の大多数はこんなに問題意識がないんだ」とか腹立たしく思ってばかりいます。
でもそれもおっしゃるように、自分を高みに置いて見下していることになりますよね。
絶えず自戒しなければならないです。

「宗教」というのも難しいものです。
最初は人間を高める・救う価値ある教えや信仰であっても、それが「宗教」として体系化し、組織化して多くの人間を巻き込んで巨大化していくと、最初の生き生きした、躍動感のある信仰や教理が例外なく形骸化・保守化し、形式主義あるいは利益第一主義等に堕落していくんですね。
イエスキリストが登場された時代のユダヤ教もそうでした。その堕落ぶりを彼は厳しく批判し、もう一度初心に帰れと言う事を訴えたところに彼のすごさがあります。
でもその弟子の時代までは良かったのですが、それ以降現代に至るまでのいわゆる「キリスト教」はまたまた同じ道を辿っているのは残念です。ですからクリスチャンは2000年前の初心に帰る必要があるんです。
そまん
2007/01/12 23:52
宗教が宗教としてなりたつには「組織化」は避けれないのでしょうね。その時点で限界を感じます。たとえば「イエスが好きだから、イエスのように生きる」と自分だけで決めるだけではいけないのでしょうか? 別にその表明も誰の承認もいらない気がしてます。
宗教が悪いとも思いません。ただ、現実の宗教の弊害を考えると……、ちょっと哀しいものがあります。「聖戦」とか「我に勝利をアーメン」とか……、あと宗教によくある選民思想がどうも好きになれません。
ごめんなさい。別に宗教論議をするつもりはありません。
ホームレスの炊き出しなんかでも「教会関係」の方が多くかかわってられて、素敵だなと思う面も多くあります。
dr.stonefly
2007/01/13 16:22
例えばクリスチャンでも、前にこちらでも話題になった内村鑑三の流れを組む「無教会」の集会というのがありまして、その人たちは教団や教会は作らず、個人のお宅やどこかの会館の集会室なんかを借りて、小人数の集会を開いて礼拝したり、聖書の研究会をしたり、お互いに励ましあったりしてるんです。
そうした集まりは、巨大宗教に見られる弊害というのはほとんどないようで、私も評価してるんですが。あるいはそうした小集会にも属さず、全く個人で信仰を守っている人もおられて、実は日本ではそういう人の数の方が教会に行っている数より多いんじゃないかって説もあるんですよ。
stoneflyさんが言われる様に、宗教組織の弊害を避け、尚且つイエス様を信じて、彼のように生きたいと望むことは、非常に良い事・必要な事だと思います。それにより、確実に人間の品性は向上し、また救いの確信も持つ事ができますから。
斯く言う私も、それを目指しているんです。
人間的向上はまだまだですが。
この件についての論議はこのくらいにしましょう。また機会があったらやりましょう。


そまん
2007/01/13 19:32
私は信じられる宗教を持ちませんが、群れることでしか信仰を深められない、また群れを信仰心の表れとする風潮には疑問を感じ続けています。個々人が個別的に深めればいいだけだと思います。群れにより生ずる組織や権力、利権の弊害により未だに宗教戦争は無くなりません。個人的には、遠藤周作氏の考え方が自然だと思っています。
life_is_beautiful
2007/02/06 00:21
ひねくれ者め
通りすがり
2010/06/20 16:00
<b>障碍者<b>です。17歳のときに骨肉腫で左腕を肩の付け根から切断されました。他人が何気なく使う「手が足りない」の言葉には、やはり反応してしまいます。義手をつけています。手を貸して欲しいなどと言われると、義手を外して渡してやろうかと思ったりします。でも発言するのは自然のことで、差別意識はないのだと思っています。
手を貸して、手が足りない。手を切る。
2012/11/10 09:46
おはようございます。コメントありがとうございます。

>「骨肉腫」
大変でしたね。というと軽々しいですね。実は私の甥が同じ病でした。亡くなりましたが、、、
エントリーもしたことを思い出します。

それにしても「言葉」というやつは、、、と、思います。
ここでとりあげた慣用句は、おそらく、手も足も身体のすべてがあってあたりまえとして、あたりまえだからこそ「気の利いたいいまわし」としてアタマで作り出されたのでしょう。
あたりまえ、、が、あたりまえの世界では、差別の意識もないのが当然だと思います。あたりまえは、本当にあたりまえか?と疑問をもつことは必要だろうと思っています。
それは、思い込みか、思い込まされたものか、とかね。

ただ、こうした言葉を意識してつかわないのもやはり、「あたりまえ」の肯定につながり、むしろ差別ではないのか、と考えることもでき、難しいところでしょう。

私はつかいませんが、今回コメントを頂いたことで、やはり「反応」してしまう、ことを知り「差別」うんぬんではなく「気遣い」として、今後もつかわないだろう、ということは自覚しました。

ただ、いずれにしろ「使う」「使わない」ことは些細な問題で本質は別にあるのだろうと考えていきたいと思います。

毒多
2012/11/11 05:00
健常者こそ変な言葉。
足がない。は、籠が乗り物目である時に乗り物を運ぶ人たちが足を動力にしたから、そのまま車も同じ乗り物だから続いている言葉。電車や飛行機も同じ。
これを挙げるのであれば、うつ手なし。も同じようにいいなさい。みみなしほういち の新しいタイトルを用意しなさい。

言葉じゃないんだよ、言葉じゃ!
結核で骨をなくした者
2015/04/02 20:39
いいです、それ。義手渡すの!
義手かーいっ!ってノリ突っ込みできますね。

もしそれで相手方が困ったら、そらこそ差別をしているということです。
差別は意識の奥底にあるもの
2015/04/02 20:46
はい、言葉じゃありませんね。

2007年の記述を残しておくことを考えてしまいます。
毒多
2015/04/03 08:30

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