「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」内山節著

先週末のこと、仲間と森のなかを歩いていた。
ボクが先頭を歩いていたのだが、通り過ぎた土手にヒキガエルがいるよ、鳥の巣があるよ、と教えられるということがあった。
教えられて過ぎた土手に戻り見直したのだが、それらは土と同化していたのだ。
ボクにはまったく見えていなかったものが、観ることができる人には見えていた。
家に帰り、その出来事を思い出しながら、それは「森歩き」だけじゃないよなぁ、と思索にくれることになる。
くしくも、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったか」(内山節著)を読み終わったこともあって、しみじみと「観ることが出来ない」自分を鏡でみつめる。sigh orz

昔、、、といっても1965年以前なのだけど、田舎では「キツネにだまされた」ということが普通にあったらしい。ぎりぎり生まれていたボクは「キツネにだまされた」というフレーズは知っているものの、実感として「だまされた」ことはない。
ど田舎に生まれたものの、街からの流れ者が住み着いた切り開かれた新興集落でそれ以前の歴史はなかった。新興したのは、もう既に「キツネにだまされなくなった」時代だったのだ。
時代は高度成長期であり、合理主義、発達主義が浸透するにしたがって、個人が自然から切り離された。自分が自然の一部ではなくなり、人間と自然が切り離されて客観視されたことが「キツネにだまされなくなった」という、著書でかかれた内容と同じような時と土地だったのだ。
つまり自然の一部として暮らしてきた生活がなかった、ということだろいう。
その集落の住民はみなサラリーマンで住まいだけがど田舎だった。自然豊かだったがそれをことさら意識した記憶がある。
「キツネにだまされる」とは、たとえば里山をつくり村人が自然の一部として生きていて、「自然」という言葉さえ使われなかったのかもしれない。
単純にはいえないのかもしれないが、「キツネにだまされない」ボクだからヒキガエルも鳥の巣も気づかずにスルーしてしまった気がしてならない。
とはいえ、ヒキガエルが、、鳥の巣が、、と教えてくれた仲間が「キツネにだまされた」経験があるかどうかは知らない。今度聞いてみたいと思うが、おそらく「ない」と言うだろう。それでもボクよりもずっと自然と同化しようとする「感性」が働いていたとは思う。
そんな感性が麻痺しているボク自身が哀しい。

まあ当然といえば、当然かもしれない。
ボクが生まれ育った時代は、近代であるし発達至上主義である。個人主義だし権利主義でもある。国民国家であるし法律と制度でつながった人間関係である。文明開化であるし科学が真理なのだ。
そういう時代だったし、そういう教育だった。
そういう価値観しか知らされず、それが唯一価値のある「統一された」イデオロギーだった。いくらそういう価値観に反発し社会運動などしてみたところで、そういう価値観を前提にした軌道修正(にもならない)のような反抗にすぎなかった。むしろ反抗するほにその価値観に浸っていた。
そこにヒキガエルがいること、鳥の巣があることの想像さえつかない、思いもしない、そも「ない」ボクにはそれ以外の「何か」が解るはずもなかったのだ。
それがいくら「不自然」」であったとしても。
それしか知らなかったのだから。

国民国家、すなわち人間を国民として一元的に統合していく国家は、国民の言語、国民の歴史、国民の文化、国民のスポーツといったさまざまなものを必要とした。(同著131pより引用)

ボクは日本国家に統合されていた。そのように教育され、そのように育ってきた。
国民国家とは唯人間主義でもあった。「人権至上主義」であり「人権」のためなら自然は切り捨てられても仕方ないとなっていく。自然が切り離され、捨てられ、客観視された。つまり人間はどんどん「不自然」になっていった。
いくらボクが何度も森のなかを歩こうとも「不自然」しか知らず生きてきたのだから、根本的な何かが変わらない限りヒキガエルも鳥の巣も見えないに違いない。

日本においては、自然とともに、自然の近くで暮らしていた人々にとっては、たえず自然の姿がみえているからこそ、自然のままに生きることのできない人間の問題もみえていた。しかもなぜ自然のままに生きられないのかは、人間の本性に根ざしている。その本性とは生のなかに「自己」や「我」、「個我」を内在させていることである。生を自己の生ととらえ、そこから不安が生まれる。そしてそうであるとするなら、自然は清浄である。なぜなら必要以上に自己を主張することもなく、春になれば花をつけ、秋が深まれば枯れる、ただそれだえけの自然の営みを不安をいだくこともなく受け入れているからである。(同著 p95より)

人間が「不安」を感じ、それを「悩み」として抱えこむ。ときとして「不安」「悩み」に耐えられなくなり自殺をはかる。不自然なんだなぁ、と思う。逆に、とっても近代的て都会的で合理的で国家的なのかもしれない。自然がみえなくなった人間の生の帰結なのだろう。
それでも【そこ】に殉じて「自然が見えなくなり」「【安心】して満足する」ことなく、「不安」と「悩み」を抱えることができた。裡にある自然の発露かもしれない。そうであるなら、その「自然の発露」を傾聴することがあるならば、それは歓迎することとして「自然の清浄」へむかうベクトルの傾聴を考えてしまう。
きっとヒキガエルも鳥の巣も見える日がくると信じて。

>人は向かい合うより、自然の方を見ながら共に歩むべきだろう

これは最近、友人に教えられた言葉である。観えている人には見えているんだな。
このセンテンスをみながら、不自然を拭いきれなくとも、今からでも、いや、今だからこそ「キツネにだまされたい」と考えている・・・そんなボクがいる・・・

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