映画「カミハテ商店」……誰かの役にたっているという実感

この映画を「いいよ」といって紹介してくれた友人が長い旅から生還したので記念エントリーをばひとつ、笑。
どうだろう?誰にとっても「いいよ」なのかどうかはわからない。
少なくとも紹介してくれた友人と紹介された友人たちにとっては「良い」映画だとは思う。
画面に目を移すと、やたら暗い映画でゆったりとゆっくりと時間が進む。どころか、そこへ訪れた者は時間が止まる。
そことは最果ての断崖絶壁のうえ、靴が揃えて置かれ人の姿が見えなくなるところ。
なぜ暗いのか?
そこで商店をつづける主人公である女性が暗闇のなかを彷徨っているからである。
そこで時間が止まる者たちも闇のなかだから。
やはりエントリーを続けるにはネタバレにならざるえないな。

まだ少女である千代の目の前で父親は断崖絶壁から身を投げた。
千代と母親は父親の靴をぶらさげ無言で断崖からの一本道をくだってきた。
トラウマである。千代が初老になるまで解放されない闇だった。
千代は束縛の象徴である「カミハテ商店」で無言のままコッペパンを焼いていた。
カミハテ商店へ訪れるのは、役所の福祉課の人とバスの運転手と牛乳配達の青年と一度きりの来客。
千代はどの来訪者にも無表情だった。
そこへ来たきり、帰りのバスに乗らない一度きりの来客はコッペパンと牛乳を買い、崖にむかう。
千代は無言で見送り、後に崖へいっては整えられた靴と空いた牛乳瓶を持ち一本道を下ってきた。

はたして人間はどれだけ闇を抱え続けるのだろう、と想像せずにはいられない。
少女だった千代のひとこまから初老まで飛んだのだけど、その間どんな人生を送ってきたのだろう?
どんな闇が襲ったとしても人間は忘却できるのではないかという希望が絶たれる。
この土地がそうさせるのか? 商店という家がそうさせるのか?
来訪者がすくなく、人影もすくない。
環境自体の時間がとまったようにゆったりゆっくりしている。
もし千代がずっとこの土地で時間を経たなら、誰とも話をしなかったのかもしれない。
初老になってからは、役人と、、「まいどあり」と笑顔で牛乳を配達する青年のみ。
千代が店を辞めようとしたとき、青年は身を投げようとした。
それまで何人もの片道の人々を無言で送ってきた千代が、はじめて千代が投身をとめた。
千代は誰かの支えになっていると実感したときだった。
永遠に閉ざされたかのような心が少し開いたとき。
そこから千代は変わった。
片道の来訪者を無言のまま送ることはなくなった、、、、

牛乳配達の青年と千代の共通点は、他者の役に立っている、という実感だな。
誰からも必要とされなくなったと感じたときに絶望する。
逆に一人からでも必要とされれば絶望せずに済む。
その実感は自分のものではあるのだけど、双方で実感できることでもある。
ということは覚えておいてもいいかな、笑。
そういえば最近、仕事が一つづつなくなっていき、「一つずつ必要とされなくなっていく」実感がある。
それは生活が苦しくなるということとは別の空虚さの実感でもあるわけだ。
仕事以外でもたとえばブログも、もしかしたら誰かの役にたち必要とされているのかもしれない、ということの実感を得たいために書いているのかもしれない。
千代が絶望のなかコッペパンを焼き続けたのも、そうした思いがあったのか?
もし苦しむ他者がいたのなら、もしかしたら「その」実感ができていないからかもしれない。
少なくとも悩みを打ち明けてくれたボクの「役には立っている」と伝えたいものだな^^
もちろん共依存ではなく、、、ね


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