「よるのばけもの」(by住野よる)からの真の自己、偽りの自己

 住野よるの「君の膵臓を食べたい」を読んで面白いといったツレアイが買ってきた本を読み終えた。ツレアイは「君の膵臓」ほど感動しなかったようだが、ボクには「君の膵臓」よりずっと秀作だと感じる。上手いなぁ〜と。
 というもの、なんともタイムリーに「真の自己」と「偽りの自己」を物語として表現していて、物語として表現できるのが羨ましいわけだ。流石、作家さん。
 以下ネタバレだから、ちょっぴり注意、、、、
 舞台は中学校のあるクラス、、、の、露骨ないじめ。
 一人のいじめられっ子の女子だけが真の自己で居続けて、他クラスメイトは偽りの自己で、偽りが剥がれないように注意しながらいじめ続ける。なぜなら偽りが剥がれ真の自己が姿を表すことは、体制である偽りからの同調圧力を決壊させ、いじめられる側となるから。
 昼の教室。真の自己で生き続けるいじめられっ子女子は、偽りがスタンダードな住民からは敵でしかない。スケープゴートよろしく、いじめが偽りの正義を強化する。女子は真の自己で在り続けるが疎外され、生きにくい世界でしかない。
 夜の教室。女子がひとり。誰もいない教室では恐れることなく真の自己でいられる。そんな教室にばけもの外見になった男子は訪れた。真の自己ゆえに外見に騙されない女子は、ばけもの男子とほんとの話しをする。人間としての昼の男子は、虐める側からはみ出し標的にされないようにしている。そんな昼の偽りの自己に気づきかけている男子はやがていじめられっ子女子に心を許していく。
 女子は男子に「昼の男子と夜のばけものとどっちが本当の姿」と問う。
 答えに詰まる男子、そして男子は、、、最後は流石にネタバレは遠慮しよう。

 学校のクラスという逃げ場のない狭い空間で真の自己のままいることの危うさを上手く物語にしている。「偽りの自己」集団のほうが圧倒的な勢いで「真の自己」を潰しにかかる。「偽り」の正当化のほうが消費カロリーがいるのだ。全力で潰しにかからなければ「偽りの正義」はまかり通らない。だって偽りなんだもん。
 真の自己は純粋でありばいいわけで消費カロリーが少なくて済む。ありのままでいいということはそういうこと。ただ、それが許されればの話しである。「偽りの正義」の刃にかかればとことんまで消耗させられ、もともと耐性の少ない真の自己が削りとられていく。読む者が読めば、別に学校のクラスだけでなく、中学生という子どもの世界だけでなく、それが社会だ、と勘づくはず。
 小学、中学……のいじめが固定化されたのが社会なのだから。
 それでも真の自己として生きている大人も多い。学校の教室のように逃げ場のない閉鎖空間として圧倒的な偽りの強要ではなく、保健の先生がいうように「もう少し自由」なのかもしれない。とはいえ「偽りの自己」集団が偽りと気づかないまま、「正義」を押し付けてくる。まあ問題はない。閉鎖空間ではない距離をおけばいいのだから。職場なら辞めてしまえばいいし、育児ママ公園ならいかなければいい。きっと「真の自己」そうろうの変人がいるはずだ。外見がばけものだろうと、見抜く目をもてば問題ないさ。
 で、距離を置くだけでいいのだろうか?

 よるのばけもののように、偽りの自己に悩んでいる男子がいて、いじめられっ子女子がしたように解放してあげることが住みやすい世界をつくる気はするね。そこまで踏み込んで読めるから「よるのばけもの」はいい本だと感じる。偽りで固まった世界に風穴をあける。
 おそらく「悩む人」の多くの根本は、真の自己と偽りの自己の狭間で悩んでいるのだろう。表面的な理由はいくらでもある。しかし根本を掘り下げればそんなももの。真の自己で生きるものが増えれば、真の自己で生きる者にとっては住みやすい世界が開かれる。
 もっとも、真の自己をとりもどすのも、また自己の裡の対話でしかないのだが。よるのばけもの、のように、ね。
 

"「よるのばけもの」(by住野よる)からの真の自己、偽りの自己" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント