共依存からの「真の自己」からの「偽りの自己」?

そも「真の自己」とはなんぞや?ということを考えているのは、「共依存の倫理」という本を読んでいてそこから触発されたからである。
じゃ、なんでそんな本を読んでいるかというと、「読んでみなはれ」といってお貸しして頂いたからで、お借りして積極的に読もうとしたのは、青カン(ホームレス)支援をはじめ、何支援でもいいのだが「支援活動」というのはそも「共依存」ではないか?という疑問を理解するヒントになるかな?と思ったから。
「青カンを助ける」といいながら、助けているという自分を持続させるため青カンが助からずそこに居続けることを望んでいる、ということがはたして良いのかどうか? 青カンのほうもその関係が心地よくなり、助からなくていいから青カンを持続する、という関係、これは共依存ではないか?という疑問。
これが青カン支援でなくてももちろん当てはまる。支援する相手が都度変わろうが、構造的に共依存関係を作り出しているなら、支援は「依存」することで自己を確立していて、それどうなん?ということを考え込んでしまうわけなのさ。

もともと「共依存」とは、アメリカにおけるアル中旦那とそれを支える妻(イネイブラー)との病的な関係が起源らしい。夫を支えるためにアル中を治したくないというヤツだな。それがDV夫と逃れられない(実は逃れたくない)妻(もちろん夫妻逆もあり)となり、さらに広まり、拡大解釈され「他人の世話を焼き、他人に頼られることで自分を存在をみとめさせよう」というところまできた。
上にあげた「支援」にたいするボクの疑問は、「拡大解釈」に入るだろう。決してイネイブラーとは言えず「病的」にもならないのかもしれないが、例えば、子離れできない親と親離れできない子、を見ると、やはり違和感と「何してんの?」ぐらいのことは感じて、はたして自分はどうなのか、と振り返ることになる。
子離れをできても会社ばなれできない、とか、国家離れできない、とか言い出すと社会離れは誰もできないだろ?という話しになり、「世間の価値にあわせ、世間に認められることで存在しよう」になってしまえば、もう全員共依存だろ、ということになるのかもしれない。それでもやっぱり敢えて何か違うんとちゃう、と言いたくなるところに「自分、自己」に繋がっていくわけだ。

共依存業界wwでの有名人でウィットフィールドという精神科医がいるらしいのだが、その人が言った「共依存は自己喪失の病である」は業界wでは有名らしい。もう少し説明すると、

共依存者とは、「他者に心を奪われすぎて、真の自己、すなわち彼らが本当は誰であるかを無視してしまう」人のことであり、偽りの自己として生きる人のことであるつまり、共依存者とは「真の自己を喪失した病人」なのである by ウィットフィールド

ほら、ここまで書かれるとちょっとドキッとしないかな? でもまあ、じゃ「真の自己」「偽りの自己」ってなんやねん、とはなるんだけどね、笑。
いろいろな人が説明しているんだけど、例えば「内なる子ども」byフロイト、「神聖なる子ども」byユング、「ワンダーチャイルド」byフォックス、「リアルな自己」byホーナイ、「真の自己」byミラーetc と挙げたところで、ああそれのことね、と解かればいいのだけど、ボクにはなんのことやらさっぱり解らない。
ちなみに、「偽りの自己」のほうは、「共依存自己」、「真正でない自己」「公共の自己」と言われるらしい。
さて具体的に言われていることを引用して列挙しよう。

リアルな自己とは「自分自身の感情・願望・関心を明確にして深めてくれ、自分自信の才能を開発し、自分の意志力を高めてくれ、彼のもつ特別な能力やもって生まれた才能であり、自己表現や自発的な感情で他者とかかわる技能」byホーナイ

これに対して「偽りの自己」を神経症者として、

「神経症者は、自分が感じるべきものを感じ、望むべきものを望み、好むべきものを好む…想像のなかで彼は別の自分になる。実際、まったく別な人物になってしまうので、j彼のリアルな自己は一層おぼろげになる」byホーナイ

ウィニコットも「偽りの自己」についてのべている。

「偽りの自己」は、「真の自己」を隠し保護する防衛的機能をもっている。偽りの自己は、個人が健全な場合にも機能するものであって、真の自己では獲得し維持することができないような社会生活を送るために、上品で礼儀正し社交的態度のもつ全機能で示される。しかし、極端な偽りの自己は、リアルなものとして確立しており、周りの人々も、その偽りの自己をリアルな人柄だと考えがちである。byウィニコット

またウィニコットは、「偽りの自己を理解しようとする目的以外に、本当の自己という肝炎を定型化してもあまり意味はない、本当の自己とは、生き生きとしているという経験にまつわる詳細を集めているにすぎないのだから」と述べている。

アリス・ミラーも引用したいのだが、あまり引用ばかりになると叱られそうなので、概略を説明する。
成功している人のなかにも、やることを完璧にやらないわけにはいかず、やってのけるのは、子どもの頃に親の愛情を得るために親を喜ばす行動を身につけるんだって、で「自分に望まれているものだけを見せる態度を発達させ、その見せかけと完全に融合してしまう」わけ。そうして親にみせていた「偽りの自己」がまさり、親の望みを裏切るかもしれない「真の自己」を表現することが恐怖になる、ってさ。

まあ、こうしてみると世の中は「偽りの自己」で溢れている気がしなくもない。
与えられた価値に乗っ取られてしまうなんてのは「偽りの自己」だとすると、肩書やらアイデンティティをはじめ、捏造された流行りで身を包み、他人の目をやたら気にするむきも多い、インスタ映やら「いいね」獲得工作やら2chも「偽りの自己」プレッシャーであふれている。教育も上司もマスコミもノウハウ本も「べき」ばかりだし、「べき」で凝り固まったヤツなんか腐るほどいる。
ウィニコットが言うように、真の自己を護るための偽り武装かもしれないが、結局それは自己ではなく人形のような気がしてならない。自ら偽り武装に乗っ取られることなく、真の自己を護るための盾として使いこなせればいいのだが、、、、
最初に戻るのだが、何か支援をするにしても偽りの自己ではなく、真の自己の躍動の場になればいいのだな。誰かの他者のためのワタシではなく、私が表現するための場が支援だった、というように\(^o^)/

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