映画「むかしMattoな町があった」に心乱されて

観終わりました。いい映画です。
なんだろうこの感じ。心が揺さぶられる。
精神病院の改革をおこなったイタリア人医師フランコ・バザーリアのドキュメント風のドラマ。
ボクが子どもの頃だから40年以上前かな? 母親が言う「キチガイ病院」という言葉がずっと残っていた。青カン支援時代、アル中の青カンが福祉にかかると必ずおくられたW病院。軟禁、拘束と薬漬けの病院。
1960年代に厚生省の通達
「精神病院は、地価の安い辺鄙なところに建てるのも自由です。精神科医でない医師でも精神病院の院長になれます。そこで働く医師の数は他科の三分の一、看護者は三分の二でもかまいません。もしそれを守れなくても罰しません。みなさん、医療金融公庫の低利融資をつかって精神病院をじゃんじゃん建てましょう」(精神病院はいらない7pより)
という触れ込みでじゃんじゃん建った精神病院では「精神病院は牧畜業者」(故武見太郎日本医師会会長)の言葉のもと精神疾患の人々を食い物にした(同7pより引用)
映画で具体的な拷問が映像化されている。
何重もの鉄格子での監禁、拘束、薬漬け、電気ショック、水タオルによる窒息、檻etc……。
これを解放し、病院を解体したのがバザーリアとその弟子たちで闘争と葛藤の生涯が克明に描かれている。

治療施設ではなく、たんなる収容所ということが描かれている。
じゃあ誰が収容されるのか?
それはワタシである。
いや、場合によってはワタシが収容されていてもおかしくない、という息苦しさを感じる。社会にとって邪魔ものが権力によって収容されるのだから。家族によって邪魔なものが家族という権力によって送られる。親という権力によって送られる。地域によって送られる。戦争で正気を狂わされたものが送られる。
正気であろうと普通であろうと運が悪ければ送られる。
老婆は厄介払いされた。姨捨山のように。
送られたが最期、狂人として再生される。
施設が人間性を剥奪し狂人をつくるのである。
医者も看護婦も狂っていく。
映画「es」で、囚人と看守のロールプレイが本物の看守をと囚人をつくったように。
逆らう者はとことん虐待される。
映画「カッコーの巣の上で」でロボトミーがあったように。
医会や学会は「村」をつくり精神病医での利権と伝統を守る。原発のように。
脱出不能の収容施設である。
精神病院のシステムによって人間性を奪われ脱出不能な不可逆的に組み込まれる、、、

正直にボクに精神病院のリアリティはない。
だから精神病院の改革もよく分からない。
映画から学んだが、だからといって精神病院の改革を!!と叫ぶことができない。上滑りだから。
でも、この映画はボクを揺さぶる。
はたしてこの構図は、精神病院だけのことか?
ここにも、あそこにも、同じ構図の「囲い込み」がごろごろしているのではないか?
目に見えない壁なんか網のように存在する。
見える、見えいない壁に拘らず、囲って見えなくして収監しておく、危険と世間を煽ってアンタッチャブルとする。
マスコミもここぞとばかりに煽る。
いや、ローカルな収容所じゃない。
この社会システムそのものが、、、、とは言わないが、、、
多数が狂人のシステムでは少数の正気なやつが狂人だろう。
きっとボクを揺さぶるのはそういうことの気がする。

「先生、本当のことを言ってくれ。苦悩が人をマットにするのか、マットであることが苦悩なのか」映画のなかの戦争トラウマで15年拘束されつづけたボリスの台詞です。
先生であるバザーリアは「僕も解らないんだよ」と答える。
確かに解らない。
でも、苦悩を感じるのは人間だということは解る。
苦悩を誤魔化し、苦悩をないものにすることは人間性を自ら削っている気がする。

「僕も解らない」といった精神科医のバザーリアは「僕も含めて精神病について何もわかっていないんだよ」・・・こういうふうに自らを「さらけ出す」事ができる人だから、偉業をやることができたのだろう。システムが解体されていき、人間性が取り戻されていく。また心が揺さぶられる。

最後にこの映画を紹介してくれた友人に心から感謝します。ありがとう。

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