「よるのふくらみ」窪美澄 読了

 「ふがいない僕は空を見た」の衝撃再び! という帯に釣られて買いました。
 って、ふがいない…がそれほど衝撃を受けたかと言えば、そうかなァ?と頭をかしげるのだけど、でもね、なんだろう?つい癖になって読みたくなるんだよね。理由はよく分からないのだけどさ。
 例えば上橋菜穂子のように特に印象的なストーリー展開とか、何かをすごく暗示しているとか、スペクタルとか、どんでん返しとかないし、COCORAみたいにマイノリティの心境とか、勉強になるとかないんだけど、、、そうだなぁ、臭いとか吐息とか肌触りとかが、なんとなく鼻やら肌からジワジワと染み入ってきていつのまにか染まってしまっている、といった感じなんだよね。で、また他の窪作品も読みたくなる。
 普通の、とはちょっと違うかもしれないけど、でもホントは普通だよね、っていうのをピュアに書き出しているのかもしれない。
 排卵期になるとSEXがしたくて「いんらんおんな」になる。体の自然を抑えきれなくて、道徳や倫理がどこかの果まで飛んでいってしまう、、、、って、ピュアでしょ?

 最近、対話のなかの「沈黙」は自己の裡なる対話の時間だよね、ということを考えているいるんだけど、じゃあ、どんな自己の対話かといえば、きっと「本音の自分と立場の自分」とか、「自然な自分と社会の自分」とか、あるいは「感性の自分と理性の自分」だったり「個人としての自分とシステムのなかの自分」ってのか、もしかしたら「夢見るの自分と現実の自分」なんてこともあるかもしれないのだけど、「よるのふくらみ」というか窪作品のなかでは、本音とか自然とか感性とか、もしかしたら夢見る、、みたいな自己が素直に表出していて、それが染み入ってくるのかもしれない、なんて考えています。
 で、結局、立場や世間体や常識や道徳ではなく自己の自然を自己で受容できたときに、はじめて幸せに繋がっていく、という心地よさ、、、きっと現実には誰もが葛藤することを自己の感性に素直に行動すれば、きっと上手くいくよと書かれているのかもしれません。

 なんて書きながら、オノレの最近の現実はため息をつぎながら、じっと手を見る状態なんだけどね。はぁ。他者の感性に感動しながら「立場」を問いて黙らせてしまったりして、ちょっとなんだかなぁ、と鏡の自分を見つめながらため息、そして沈黙、笑。
 まぁ、それでも、「よるのふくらみ」で落ち着かせもらったり、慰められたりしたわけ。じんわりだけどね。
 こんなボクは当分、窪作品を読みつづける気がするな、笑。

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