「9条の会」と「システム」と「村上春樹」と

一端代表をクビになった某9条の会の新しい事務局からまた代表をやってほしいと連絡があった。正直に困惑する。若い子たちをまとめる能力のなさの自覚もさることながら、「9条の会」という「組織」に疑惑をだいているからなのだと、思う。
ボク自身はまだ9条護憲という立場ではあるのだけど、正直にいえば9条の真意にどこまで添えるか自信がない。街角で「9条護れ」とシュプレヒコールを挙げる人々のどれだけ9条が過酷なものなのか、解っているのだろうか?と多少シラけた目でみている。
というか、もしかしたら「9条の会」もやはり「組織」であり、システムのパーツとして組み込まれるのではないか、という疑い、というか「9条の会」そのものがシステムとして稼働しているのではないか、という疑念があり、それが本当の代表をご辞退したい理由かもしれない。

どんな「組織」であっても、たとえそれが社会正義だろうが、善意だろうが、無給ボランティアだろうが、組織が秩序をもって動き出すために理念があり、会則があり、せーやくしょがあり、システマティックにしなければなりたたない。システマティックに進行するということは、それだけで個人が滅却され、感性が取り残される可能性がついてまわる。当然といえば当然なのだけど。
既にほとんど多くの人が経験していることだ。国家という「組織」に居てシステマティックに時間が流れるなか、個人の感性とシステムとのギャップを意識、無意識にかかわらず内包しているだろう。だからこそ、システムのなかにいても人の感性を取り戻そうとする「人生フルーツ」なんかに惹かれるのだと思う。
国家となると大きすぎて、無意識すぎて縛られ感が少ないかもしれないけれど、もしかしたら小さな組織ほどシステムによる縛りが強く、縛られたくない感性が強いものはシステマティックに疎外されるのかもしれない。A町のように。
よほど個人(の感性)として「したいこと」「やりたいこと」「やらなければならないこと」と「組織の目的」が合致しなければ、システマティックに縛られることを誰がするものか。
ボクが今、9条の会の代表をしたくない理由はこんなとこかもしれない。
できることなら組織に属したくなく、できることならシステムに組み込まれたくない。それでも必ず組織に組み込まれる。だって、人間は社会的な生き物なんだもの。

ということを前のコメ欄を書きながら思っていた。
再度、村上春樹のエルサレムでの演説を再度もう少し長く抜粋したい。(全文読みたい人は、「村上春樹 エルサレム 演説」でググってください)

“以下抜粋”

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。
このメタファーの意味は何か?時には非常にシンプルで明瞭です。爆撃機や戦車やロケット、白リン弾が高くて硬い壁です。それらに蹂躙され、焼かれ、撃たれる非武装の市民が卵です。これがこのメタファーの一つの意味です。
しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。こう考えてみてください。多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。


“以上抜粋”

村上春樹の小説はほとんど読んだことがなくファンでもないが、この演説はずっと記憶に残っている。

システムは我々の命を奪うのです。システマティックに。

システムは組織とも読める、国家とも読めるし、会社とも、9条の会etcとも読める。
命は、魂とも読めるし、感性とも感受性とも存在とも読める。

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