「遺言。」 養老孟司著

かの養老孟司大先生の「遺言。」なのです。死んでないけど。
これは読まずにはいられません。ということで、読みました。
単純なボクはすぐにインスパイアされ、「青いインクの赤」という短文を書いたのですが、興奮しすぎて流石にちょっとあれやこれや詰め込み過ぎたかな、と自嘲しています。後ろのほうにおまけとして載せておこうかな?
「遺言。」をざっくり言うと、現代人は意識ばかりで感性が置いてけぼりになってないかい?ということだとボクは読み取りました。(とまあ、こうして「言葉」で読後メモを書こうとしていることも「意識」なんですがね、爆。)
「遺言。」では意識優先になるメカニズムが解りやすく説明されているのですが、きっと人が「悩む」ということも、意識ばかりで感性が喪失している、ことと繋がっている気がしてなりません。
「意識と感性」、、、最近読んだ「ふがいない僕は空を見た」も「蜜蜂と遠雷」も「窓ぎわのトットちゃん」も「マチネの終わりに」も全部これがテーマになっている気がするんですね。
多分意識に重きを置きすぎることで、人間としての自然(感性)との齟齬が生じ苦悩に繋がるというのはどんな物語にも通じるテーマなのかもしれません。

苦悩は意識のなかにあり解放は感性のおもむくままに

さて本に戻りますが、どこに焦点をあてて紹介すればいいのか解りません。
引用しだすと全編になってしまい、それはもう引用ではなく写経であり、もう読んでください、と言うしかありませんね。
で、最近ちょっとした会話のなかに「意味のないものってあるのかな?」って言われたのですが、本に書かれていたのでそこを引用してみましょう。

〈以下引用 ……は中略〉

現代生活は感覚が働かないようにできるだけ努める……
オフィスにいたとする。風は吹かない、雨が降らない、温度は一定、臭いは当然しない……床は平坦で硬さはどこも同じ。……
山の中は……風が吹き…小鳥がさえずり、小川が流れ、それが森に反響して、じつにさまざまな音がする。…都市の生活はそうした感覚入力をできるだけ遮断する。
感覚を遮断しているつもりなど毛頭ないという。けれど、なぜかそういう環境を作り中に住み着く。感覚所与を意味のあるものに限定して、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会である。それを人々は自然がないと表現する。そこには花鳥風月がない。でも自然はもともとあるもので、あるものはしょうがないのである。意味もクソもない。
…すべてのものに意味がある。都会人が暗黙にそう思うのは当然である。なぜなら周囲に意味のあるものしか置かないからである。しかもそれを日がな一日、見続けているのだから、世界は意味で満たされてしまう。それに慣れきった人たちには、やがて意味のないモノの存在を許さない、というやはり暗黙の思いが生じてくる……


〈以上引用終わり〉

先の会話のなかの「意味のないものってあるのかな?」は、会話の流れからむしろ都市の生活から意味のないものとして遮断されていってしまう「自然への感覚」に対して「意味があるでしょ」と言いたかったと思うので、引用箇所の文意とは真逆ぐらい違うのだけど、それにしても、そうした自然も「意味がある」という結びつけてしまうのは現代人というかヒトなんだろうなぁ、と感じます。
意味、無意味という判断をすることもなく、あるがままに在る、という感じでしょうか。感じるままに感じる、っていうのはもう意味じゃないですね。
また戻りますが、悩みというか、苦悩も「意味がある」というところから生じるのかもしれません。
というのも、「ピダハン」や「ヤノマミ」の部族の暮らし、「逝きし世の面影」の江戸の庶民の暮らし「人生フルーツ」にしても感性に立脚した暮らしに「苦悩」は似つかわしくないですね。
意識、意味に囲まれた都会社会のほうが悩めるヒトも多そうです。

とすると悩みからの解放は「裡なる対話」(意味の探求)よりも「遮断されてきた裡なる自然に戻る」(感性への回帰)のほうがいいのかな?ちょっと解りませんけどね^^;

もちろん意識(意味)も必要です。だって人間だもの。
ほんと人間は自然の生物であり、社会的生物だな、ってね。



おまけ……ww

青いインクの赤

インク壺にペン先をつけ青いインク昇らせ「赤」という字を書いてみる。
と、彼女は「綺麗な碧ね」と呟いた。
アカでしょ、とボクが微笑うと、うねるような濃淡が故郷の海の色に似てると言った。ボクはアカを想起して文字を書いたんだけど。
都会生まれ海のある故郷のないボクにとって何色のインクで書いても「赤」はアカだった。でも、その綺麗な青いインクは碧い波だったなんて、、、
彼女の言葉が遠くなり、一瞬、紙の上の「赤」を形作る数本の青い線がゲシュタルト崩壊し、碧い波にしか見えなくなってしまった。

青いインクの「赤」という線の集まりをみて、夕日のアカでも血のアカでもなく、ましてや赤トンボの背中のアカでもない、そう漠然とアカしか思い浮かばないボクはちょっとツマラナクなる。
「赤」という形状は、漠然としたアカを想起しなさいと教えられた通りに思い浮かべるボクは何かが狂っているのだろうか?
そういえば子ども頃、黒で刷られたテスト「赤」の横には「あか」と書いて丸をもらっていたな。それが正しいと教え込まれたと、ぼんやり思いを巡らせながら青インクの赤に目を落とす。
折角、綺麗なインクの色なのに。
しかもその青が、藍染のアオでもなく瑠璃鳥のアオでもなく故郷の海の色だなんて。

彼女は感性の人で、ボクは意味の人なんだろうか。
都会の学校では、ずっと感性なんて意味のないことって教えられてきた気がする。
モネっていう感性だけの人が描いた絵にも意味を見出すよう解説されたり、ショパンのピアノの調べも言葉で説明された。
生徒は叩き込まれた、同じ意味をもつように、同じ価値をもつようにって。
意味あるものは価値があるものとして取引される。
だから感性にも意味をつけられたないちがいない。
しかもみんなが同じ価値を認めなくちゃならないんだ。
「みんな同じ」が意味であり価値なんだから。

でも感性おおくは道端の雑草のように意味を見い出せなもの、都会では価値のないものとされ、とことん排除された。

学校で徐々にボクの耳は感じなくなり目も鼻も感じなくなり意味に支配された。
雨だれのリズムはただの雨の音になり、青いインクの赤に至ってはアオでさえないアカになってしまった。
意味の世界では彼女は意味のない人として排除されるのだろうか?
それでも彼女だけが「生きている」気がしてならない。
意味なんて必要ない・・・って言えないボクが蒼い波に揺れいていた。


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