自然淘汰と助産と傾聴と…

やはり誰かと話をすることは大切なことだと思う。
自分ひとりだけではどうしても自らの気づきに限界がある。
他者の言葉からハッと気づくことはあれば幸せである。
誰かに話をしてもらうためには自分をさらけ出すことから始まる。
さらけ出すことは、ちょっと勇気のいることかもしれない。
だって、もしかしたら100人に解ってもらえないかもしれない。
それとも100人に嘲笑されるかもしれない。
それでもさらけ出さなければ、誰も真剣に言葉を返してくれない。
もし誰か一人が真剣に話を聴いてくれたら僥倖だ。
聴くだけでなく話かけてくれたなら、その一人は大切なことを気づかせてくれるだろう。さらに自らの新たな気づきを話せば、その一人もまた自身の新たな気づきを得るかもしれない。その気づきの連鎖は幸せだ。
至福スパイラル。

例えばボクは小説「君の膵臓をたべたい」をテーマに自己をさらけ出した。ところがアマゾンの素人書評で★ひとつでかなり酷評がされていた。
多分酷評をする人々はボクを「小説を解ってない稚拙なヤツ」と烙印を押すだろう。それでもいいのだ、誰かひとりでも話を聴いてくれたなら、、、
もしそのうえ話しかけてくれたなら、ボクはボク自身を晒したことに嬉しくなり安堵する。それは喜びの始まりだ。
例えばボクはブログで「ふがいない僕は空をみた」の一部を引用した。
それが引用であってもボクは自己をさらしている。
読む人によっては、何こいつ、こんなとこ引用してバカじゃね、とか、、解釈の仕方が全然ダメだね、とか、、そんな可能性もあるわけだ。
ところがボクは自己を晒したおかげで何人か反応してくれた。
読んでみようかな、、とかね、、かなり嬉しい。

そんななか同小説「ふがいない…」でのボクの引用を読んで、
「助産と傾聴は似ているかもしれない」なんてことを話してくれた友人がいる。
そうだ、これは気づかなかった。ボクにとっての新たな気づきだ。
「自然なお産」は産婦が自らの自然を発揮して産むこと。
助産は寄り添い産婦の力を引き出す。
「生きる」に悩む人は自らの自然を発揮して「生きる」ことを取り戻すこと。
傾聴は寄り添い悩む人の本人の力を引き出すこと。
助産も傾聴もいずれも本人の力を信じて引き出す役割なのかもしれない。
引用部分には、自然の力を信じることは自然淘汰も認めることとあった。
特にそのことを引用し、友人はそこまで含めて似ているのでは、と話してくれた。
自然淘汰という言葉は、この社会では、人権至上主義により人命至上主義により叩かれるのかもしれない。でもやはりこれが本質なのだろう。
本人の自然な力を引き出すことは本人次第なのである。もちろん一人だけでは困難なので他者が寄り添う。助産であり傾聴である。
かならず上手くいくとは限らない。自然淘汰があるのだ。
寄り添う者もまた「自然淘汰」を覚悟すべきだろう。
整体と傾聴が似ている、と話してくれた友人がいる。ということは整体と助産も似ているということかな?これも上と同じことが言えるのかもしれないなぁ、、、

(もちろん助産も傾聴も寄り添う側に「寄り添う技術」があるのが前提なのは言うまでもない。未熟ゆえに淘汰に追い込むことがあれば自然ではなく人為である)

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