物語

 あ、コイツまたやっちまったな、と私が上から嘲笑う。
 コイツがやっちまった理由がわかっていて、やっちまったことをちょっぴり認めたくなくてささやかにブルーズなことも、私は知っている。
 
 そのときコイツは物語を綴っていた。
 もちろん物語が虚構であることは識っているのだが、物語を綴るときはその世界にのめり込むのである。
 そうでなければ虚構だけにあまりに虚しいから。
 そんなときのコイツは隙きだらけだ。
 もともと虚構であることに色付けをしてもしきれない。
 その隙きを突かれて慌てふためいた。
 慌てふためいて狼狽えた。
 そんな自分を晒してブルーズになったわけだ。

 コイツの物語は、多数であるNT(とある基準での定型発達者)がつくった歪んだ社会は、ET(とある同基準での発達障害者)が歪みを暴きぶち壊すことができる(かもしれない)。という物語。
 多数に属するNTには無理なことを、そこでハラスメントをうけ苦しむETだからそこできる(のではないか)。という物語。

 そんな物語に、そもそもNTとETに違いがあるのか?というコイツの物語以前の根本的な疑問が入った。
 その疑問はホントのことだった。
 違いは、、ない、のだ。
 それをコイツは識っていながら隠匿していた。
 隠匿した上で物語を綴っていたわけだ。
 そもそも隠匿でさえない、だって虚構なんだもの。
 物語(虚構)に没頭していたコイツは、そんなことを忘れていた。忘れなければ物語を綴ることはできない。
 忘れるほど没頭していたから狼狽えた。
 ホントのことの、指摘に。

 おそらく指摘した者も、その物語を否定しようとか中断させようとしたわけではないだろう。むしろ興味をもっていたに違いない。
 その者はその者自身の物語を綴っていて、コイツの物語をきき自らの物語の「再構築」をしようとしたのかもしれない。
 ところがコイツは自分の物語を守ろうとするあまり、つまらぬ結論で終止を謀った。コイツはそんな自分にブルーズになっているのだ。

 そんなコイツも直前に尾崎豊の物語を冷淡に見つめていた。
 これまでも多くの人の物語に物語以前の根本的な「ホント」を言って、その者にとっての物語をツマラぬと感じさせてきたにちがいない。今、コイツが感じているように。それはつまらないことだな。
 
 人は物語つまり虚構をほんとのことのように綴るようになった。
 ブッタのように悟らない限り物語を綴り続ける。
 その物語が楽しいことであろうと、苦しいことであろうと。
 ブッタいわく楽しいことも因果(縁起?輪廻?)にて苦につながるらしいが、とりあえずおいておこう。楽しければその瞬間はいいではないかww
 でも人は楽しくもない、苦しい物語さえ綴らずにはいられないのだ。
 そんな苦しい物語、虚構にがんじがらめに縛られ悩むことになっても。
 おそらくそんな悩める物語を聴いたときに、その者に物語以前の「ホント」のことを言ってはいけないのだろう。
 楽しい物語のときの興ざめではなく、苦しい物語の場合はさらに物語に埋没することになりそうだから。苦しいときこそ「ホント」のことに気づけばいいと思うのだが、他者の言葉では気づくことにできない。
 気づくことがあるとすれば、自ら物語から抜けるというメタ物語の再構築。自らの裡なる対話しかない。もし他者の苦しい物語を聴くことがあれば、その者の裡なる対話を促すため聴くことになるのだろうな。

 ところでコイツは結構、虚構だと識っていても物語を綴るのが好きなのかもしれない。私はそんなコイツが嫌いじゃないぞ、むしろ好きかもしれない、笑

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シャボン玉とんだ 叩いて消えた 笑いあふれて愛着


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家族へむかって駆け出す すこやかな光のなかで少年


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ゆったりとまったりと 色づくまえの静けさは喜び


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