悩む人

よくよく考えればワタシはあまり悩んだことがない。アタマが悪いか、感性が鈍いせいかもしれない。
はたして良いことなのか、残念なことなのか、良いとか残念とかでない他のなにかなのか、解らない。
イメージとしては流されるままにきたという感じ。
何かをやりたいということもなく、だらだらと学校へいき、成り行きで就職し辞職し、自分で金をかせぎはじめ、なんとなく青カン支援なんかをやっちゃったり、決意することもなく結婚したり、いつのまにか子どもがいたり、悩む要素がないのか、悩む感性がないのか、、、、あ、そういえば若かりし頃は好きな娘から恋されず悩んだっけ? そうそう寄せ場運動の最期に激しくやりあって気が狂うほどの苦悩したし、ネット上のやりとりで怒り狂ったことも何度かあったし、、、それらが「悩み」とえいば悩みといえるかもしれないが、すでにもうなんでそれ程、苦悩したのか怒り倒したのか忘れてしまった。
それが歳をとるということだろうか?
商売が立ち行かなくなりそうな今の状況も悩んで良さそうなものだけど、なんとなく成り行きに流されてもいいか、と感じている。
この先、嫁や子どもに先立たれたら苦しく感じるだろうとは想像するものの、悩むことはない気がしている。人はいずれ死ぬ。

だいたい自らの「悩んだよなぁ」ってことを思い出してみても「他者との関係」ばかりだな。しかも「気持ちが通じない」「意見があわない」「解ってもらえない」程度のことだ。他者の悩みを聞いてみても似たようなものか、「社会制度の矛盾」に苦しめられているぐらいだろう。それはそれにしても「社会制度の矛盾」を是として「矛盾を矛盾」としない人との人間関係に悩んでいる場合が多いのではないか?
他者の態度に悩んでみても仕方ないんだろうなぁ、と思う。例えば「矛盾を矛盾としない」という他者の態度に悩んでみても仕方ないのだ。その他者がそうした自己に悩んでいない以上、その他者の課題にもなっていない。

「悩み」とは自己の裡のものである。

仮に「矛盾を矛盾としない」他者が身内にいたり会社の上司やら同僚だったりして、「許しがたい」他者が身近にいるという悩みも、そう感じている自己の悩みだろう。「許しがたい」は他者ではなく、自己の裡にある。
さて「悩み」は解決したほうがいいかどうか?という問題もあるが、まぁ解決したほうが楽だと思うし、楽な方が楽しい。
「悩む」ことを楽しむという言い回しがあるかもしれないが、仮にそうしたことが出来たとして楽しんでいることで「悩み」ではなくなっていて解決していると言える。
「矛盾を矛盾とせずに是としている許しがたい」他者に「矛盾を矛盾とせずに是としている自己」に悩んでもらう、というのも解決のひとつで、何か働きかけることで上手くいけばいいのだが、いかないから「悩んでいる」ことが多いだろう。繰り返すが他者の問題で自己の悩みからは離れてしまう。
まあ、そんな他者から離れるか、人間はいろいろだと割り切るか、キチガイとレッテルをはり観察するか、笑、、、、解決はそんなとこだと思うが、なぜ「間違っている」あいつが、いまのポジションのままで「正しい」自分のほうが身を引かなければならないんだとか、新たな悩みがでてきそうであるが、いずれにしろ、その悩みは自己のものであり、自己にしか解決できないことには違いはない。

自己の「悩み」は自己にしか解決できない。

ということが解らないうちは、新たな悩みが尽きないだろう。
「許しがたいあいつ」さえいなくなればワタシの「悩み」はなくなるんだ、と「悩み」を自己の裡ではなく、他者に反映させているうちは、「悩み」から解放されない。「許しがたいあいつ」がいなくなっても、自分と違う他者はわんさかいる、というよりも、自分と同じ他者はいない。そんな他者に「悩み」を反映させているのでは、悩みが尽きるはずもない。
逆に「悩み」は自己の裡にある、ということが自覚できれば「悩み」が「悩み」として感じられないかもしれない。
という意味で、「子は親を救うために「心の病」になる」に書かれていた、「カウンセリングは聴くことである(傾聴)」というのはそうなんだろうと思う。他者からの「アドバイス」は他者の解決にほかならない。
他者に悩みを話すことは、話すことで自己の裡にあるものの整理や発見をすることで「悩み」を相対化することになり、俯瞰することになる気がする。

いずれにしろ多くの普通の「悩み」は俗世的な悩みで虚構のなかのできごとに他ならない。

とここまで書いたとこで野坂昭如のCMを思い出した。
♪ソソソクラテスかプラトンか、二二ニーチェかサルトルか、みんな「悩んで」大きくなった……♪
こいつらの存在そのものの悩みとワタシらの社会前提のなかの悩みは質が違う、、のかな?

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