『子は親を救うために「心の病」になる』 其の1

 本を読み進めるなかで、あるセンテンスに目が釘付けになり、無意識に目線は言葉から外れ宙の一点に止まり、かといって目線の先を見るわけでなく、脳内が急に回転しはじめてあることが思いが浮かんでは消え、また別の出来事が浮かんでは消え、さらにまた別の記憶が浮かんでは消え、それぞれが釘付けになったセンテンスのイメージと繋がり、それらをまた言葉に還元したくなる。こうしたセンテンスがたびたび出現する本を「いい本」というんだろうなぁ、と感嘆のタメイキをつくところをみると、「子は親を救うために「心の病」になる」という本は、ワタシにとっては「いい本」だった。
 これはカウンセラーの書いた哲学書だな。
 物語はカウンセリングの臨床から存在そのものへ、「普通」から「脱普通」へと移っていく。ワタシがこのところずっと考えていたことを、他者の言葉で確認する。「脱普通」が「宇宙期」かぁ、、ああ、そうだよ、なるほどな、と思う。

 1章から3章までは、実際のクライアントの現状の悩みについて、生育歴からのカウンセリングの臨床が書かれる。かなり読み応えがあり、悩みの「隠れた」要因が解りやすく書かれていて、「普通」に悩む親にとして、あるいは子としての読者にとっては、むしろ1~3章が肝であるのかもしれない。本の事例のように極端に悩まなくても多くは「思い当たる」ところがあるだろう。自己を振り返ることのできる読者にも読み応えはあると思う。
 ところが正直にいえば、ワタシには退屈だったんだよね。
 ここのところ、こんな臨床のテキストをちょくちょく読んだり、聞いたりする機会が多いからかもしれない、とも考えたのだけど、それだけじゃないの可能性がたかそう。ここでは「退屈だったんだよね」という感情の記録に留めておくが、これを忘れずに記録しておくことはかなり重要のことのような気がしている。

 さて本には「普通の」ことについて書かれている。
 「普通」とは、人はみな「安心」を求めて生きている。その「安心」は「愛情」「お金」「賞賛」に裏打ちされている、ということ。
 具体的に書かれている部分を少し引用しよう。

 “自分がこの社会に生きているという「社会的な存在感」=生きている実感を、日々、生成する。それは、自分が周りの人々と同じものを求めて生きている、つまり、「愛情」「お金」「賞賛」を求めて生きているという疑いのようのない感覚である。その結果、自分が他人とつながっていると感じる。その感覚を確実なものにしてくれるのは、共通の倫理感(善悪)である”(p226)

 この「普通の」安心は、普通の心理システムにより獲得される。後天的な心理の発達「乳幼児期」「学童期」「思春期」「成人期」が親子関係によって順調に発達したり、本書第1~3章のように親子関係の不調により発達が疎外されたり、修正したりするのだが、順調だろうが紆余曲折だろうがこの発達段階を経て成人期である「普通の安心」を得ようとする。
 ところが4章には、もともと感情面でのネグレクトにより「親子関係」が「無」だった例が提出される。親子関係の無により心理発達そのものが無という状況である。ついで5章、「成人期」の次の段階「宇宙期」(著者創作語)が記される。
 「普通の」成人期のつぎにある宇宙期。
 善悪の共通理解によって繋がることを求めず、賞賛・承認されることを求めず、単独で「ただ存在」すること。ワタシのなかでは出家を想像するのだけど、そうした行動にでずとも裡なる心理状態。本書ではムーミン谷の「スナフキン」が例にだされている(笑)。達観かな?、そうそう俯瞰だな、と思う。マズローの欲求段階も俯瞰しちゃってる感じ。

 4章に登場する親子関係がなかった人は、つまり普通の心理段階(心理システム)が無だった人は、「普通」に「存在」しているという自覚が希薄で、普通の社会のなかで苦しくことになるのだが4つの心理発達期を飛ばして「宇宙期」に入った。いや、入らざる得なかったとしている。周囲と繋がっている安心ではなく、単独で存在する安定を得た、となるのだろう。
 親子関係の無だけでなく、先天的にエイティピカルの人も「宇宙期」に入りやすいのだだろうし、「普通の」安心を得ていた人も、重要な喪失や重大なノックアウトによって宇宙期スナフキンになるとある。
 ワタシが個人的にここのところ気になっている「自殺」をしようとししている人も、ホームレスになった人も、いわゆる負け組も「宇宙期」に踏み込む「チャンスを得た」人だと考えている。たとえ「普通の」心理システムを悩んで、苦しんで、乗り越えなければならないとも「宇宙期」バンザイなのだ。
 と、ここである。ワタシは「宇宙期」に踏み込むことを良しとしているのだ(まぁ、今までもずっと書いてきたのだが、笑)。そして、踏み込むためには「普通の」安心、「普通の」社会から重要な疎外や喪失やKOによってしか、もしくは4章の親子関係の皆無かエイティピカルしか踏み込むことが困難かとさえ考えていた。
 はたして(多少の修正が必要だったとしても)「普通の」心理発達によって、「普通の」安心を得ている人々があえてそれらを投げ出して「宇宙期」に踏み込もうとするだろうか? 「普通の」幸せを感じているのであれば、それでもいいのではないか?
 多分これは「普通の」を獲得できた人の感覚だろう。「宇宙期」の存在など気づきもしない多数である。
 この本の著者も「普通の」人である。だから著者は「宇宙期」に気づき「宇宙期」に踏み出すことを「オプション」としている。つまり著者は「普通の」安心で幸せであればそれでよい。と言っているのだ。「オプション」を選択するには「普通の」を捨てなければならない。外部から奪われて「オプション」を選択せざる得ない、と、自ら捨てて「オプション」を選択するのでは決断の差異がある。前者は決断以前であるのだが、、、。
 このブログの流れでいけば【「普通の」安心】は、【システム】によって与えられたものであり、似非である。よって「オプション」どころか一択と言いたいところなのだが、流石に「一般の」読者向けに書いた汎用書であれば、そうは書けない、と言ったとこだろうか?
 著者も「オプション」と書きながら、実はそうでないと思っているかもしれない部分の引用をしておこう。

 人間存在の核、その最後の幸せへ向かう……(p240)

 ところが、ワタシは「オプション」と言われて、ホッとしたんだよね。
 このことも包み隠さず記録しておこうと思う。・・・つづく。
 
 

"『子は親を救うために「心の病」になる』 其の1" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント