ある誕生をみつめながら

知らなかったが8月11日は休日のようである。さて、
読みかけの本を読むか、ここのとこ考え込んでいる思索をテキストに表すか、たまっているビデオをみるか、、、
雨が降っていればそれらのどれかでいいと思うのだろうが、晴れた休日ではどれもいまひとつだと感じる。
そんなときは森へ足が向いてしまう。癖である。細胞の聲の形かもしれない。
森へ行きたがるのは、深層心理よりもさらに奥の感性を写真で表しにいきたがっていると思うのだが、どうも最近自我が楽を覚え撮影が駄々草になっている。
たしかに被写体は駄々草、、というか駄々葉か、駄々虫とか駄々光とかが多いのだが、撮影そのものが駄々草になってはいけない。
身体が感じて特に目が留まってしまう光景をちゃんとそのまま焼き付けたいと感じるからだ。
撮影が駄々草になるということは細胞が感じている感性を怠惰にしているような気がする。
その時々の感性に丁寧にむきあうことが「生きる」ことのような気もしているわけで、「生きる」を惰性にしているようで自分に腹ただしい。
ということでより丁寧にを目指し、重い三脚、レリーズをもって森に入った。
そんなときに限って身体が震え足を止め視線が留まってしまうような「生」に出会わない。
ただ、汗と草の露と森の湿気とセミの小便でズボンをベトベトに濡らしながらひたすら歩く。
いつもならば止まってしまう蔓のスパイラルや芽生えたばかりの葉に振り向けない。
汗と露にただぐしょ濡れた衣服をひきづりながら、ひたすら歩き、いつもの溜池の堰堤までたどり着き水を飲もうと座った。
ふと池を見下ろすと見たこともないカエルが堰堤の流出の淵に浮かんでいた。
日本に棲むカエルのうち十数種は知っている。でも、そいつは
みたことないのだ、、、、

画像


ちょっと望遠気味のレンズを覗き焦点をあわせ確認すると、それはカエルではなく鳥だった。
水鳥の雛だ。堰堤の排出口の脇である。
昨夜の豪雨で巣から流されてきてしまったのだろうか? 親鳥はいない。

何枚かシャッターをきってから、三脚があることに気づき動画をとることをおもいついた。(なんとか動画を貼ろうと1時間ほどトライしたのですができませんでしたのでリンクにしました。よければ見てやってください)

動画:https://youtu.be/YWFXT59Reks

水に浮かび少し潜ったりしている。やがてたまった落ち葉に上がってきた。
かわいそうに親鳥とはぐれたとなるとこの子の生命もわずかかもしれないな。
かといって掬って救ってやることもできないし、すくう気もおきない。
風呂に水を張り、浮島に落ち葉を乗せて、ミミズか虫か?いや水鳥だから小魚か?を2-3時間おきに、、、という絵が一瞬浮かんだすぐに手で消した。
このままここにいても、水に流され高さ10メートル以上ある堰堤の排出滝に落とされるか、ヤマカガシに食われるかカラスかオオタカに食われるか、ふう。
いずれにしろ自然の円環であり動的平衡である。人間が観念という虚構を発動して手を出すことあるまい。
その子は生まれて生きている。人間のように「法律」という虚構により【正しい】堕胎されることなく生まれた。
「自然の円環」という言葉で正しいとされ、母親の手により白蟻を媒介して天地を走らせることもなく生きている。
いくら水量か蛇やら猛禽やらありとあらゆる困難が予想されようとも、だから生まれさせないということもなく生まれて生きている。天の聲が聞こえるという虚構に左右されることなく生きている。
言葉によって意識することなく、自然な成り行きとしてただ生きている。
人間のように自己満足か自己安堵により手を下すようなことではないのだ。
とは解りながらもつい目を閉じてせめて大きくなるまで育って欲しいと「祈って」しまったのは、自意識なのか身体の自然なのかは解らない。
目をあけると、落ち葉のかたまりの逆のふちに動くものが見えた。
なんと卵を割りいま誕生しようとしている別の命があった。

画像


(前の動画をみて気づいたのだが、動画の終わりのあたりの右上に卵を割でてくる雛がいた)
流された落ち葉の吹き溜まりは「巣」だったのだ。
まだ割れてない卵もあるではないか。
生まれたばかりの雛が割れた卵から脱出する姿をかなりながい間見入ってしまった。
(かなり長めの動画にはなるが癒やされたい人におすすめします)

https://youtu.be/2mh1kgAsXqU

なんとか卵の殻の外で動き出した生まれたばかりの命。
なんとなく感動している自分に笑った。
はたしてこの感動はなんなんだろうか?
デフォで備わった感動なのか、絵本やら聞かされ美談により教育された感動なのか?
なんの思索も言葉もなくあとで感動している自我に気づいたとこをみると自然に備わった感情なのかもしれない。
そしてそんなことを、観念とか虚構とか自然の円環とか動的平衡とか「言葉」にされたとたんに感情を分析にしていることに嗤えるわけだ。
そう、言葉以前のなにかしら裡から溢れるものを感じることが「生きる」と思って森に来たのではないか、笑。
そんなことを裡(身体)からの感性を「考えてしまう」のは性分である。
だって人間だもの・・・
仕方がないな、と自嘲していると、なんと先に生まれた雛が生まれたばかりの雛にちかより突きだした。

画像


おいおいおい、やめなはれ、と、またしても人間の観念を発動させる。
生まれて始めての試練が、水でも蛇でも猛禽でもなく、兄(姉)の口撃?だったのだ。
この辺りは人間も似たようなものかもしれないな。ははは。

https://youtu.be/cChtuuWdbus

いずれにしろ親鳥に気づかれないうちに離れたほうがいいのだろう。
また会いに行きたくなる人間的な感情も棚上げするとするかな。笑

画像

"ある誕生をみつめながら" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント