「発達障害児の偏食」からおもうこと

 今朝、NHKで「発達障害児の偏食」についてのミニコーナーをやっていて見入ってしまった。
 15人に1人ぐらいの割合でいるという「発達障害」もその一言で一括できないのは当然なのだけど、どうやら「知覚過敏」であることが多く特に口内の知覚過敏の場合、食材に対して多数と違う感覚をもつという。たといえばフライのころもがトゲトゲの剣山を食べているような恐怖に襲われるとか、イチゴの赤に異様な恐怖を感じ、小さな種が口内に突き刺さる感じがする、表面がなめらかなコーンやシメジがどうしても気持ち悪くて食べることができない、など無理に食べさせるとトラウマになるという。にもかかわらず、自分の感覚以外うたがう、とうか、そうした知覚過敏な食感など想像すらしない親を始め給食時の教師は「好き嫌い」「わがまま」ということで、無理に食べさせていたりしたらしい。
 剣山を食うという地獄を無理解のうちに強要する、という話をきくとイドケダー君の地獄を思い出すが、ふと、オレも他者を地獄においやっていないか?というふうな考えが浮かんだ。というか、アタマでは何度も確認しているのだが、自分には感じることのできない感覚が他者にはあるのではないか、自分では思いつかない思考回路が他者の神経には繋がっているのではないか、もしくは自分では繋がっている回路が断絶しているから、他の部分がワタシには考えられないほど発達してないか? つまりは、自分が理解できないことが「ないもの」ではなく、他者にとっては「あるもの」ではないか? という、当たり前といえば当たり前なのだが、つい忘れて「みな同じ感覚だよな」という前提で生活してないか? ということを考えてしまったわけだ。
 これは逆もまたありそうで、自分の天性の能力・感覚、もしくは獲得した能力・感覚が他者にもあるのではないか? 気付いてないだけでちょっとしたきっかけで解るのではないか? と思っているのではないかという疑問もまたある。
 イド君などは、それを把握して「解る」ように解説してくれたわけだが、こういうことはなかなか難しいことなのかもしれない。
 人間には限界がある。全ての経験をして全ての能力・感覚を体得することはできない。全ての感覚を共有することは不可能なわけだ。他者どころか自分の感覚だと「思っている」それも過敏になったり退化したり変化するわけだから、すべてはうたかたなのだろう。こうしたなか認識しておくべきは「感覚は個々違うのだ」ということかもしれないな。
 とはいえ、映画でも小説でも何かを感じる感覚は共有できたと感じるときがある。つい、似通ったものを感じると「楽しい」とか「楽」を感じる。なのでそうした共有を目指すことが当たり前だと思い込み、そこを目指すことを頑張るのだけど、おうおうにして「感覚の違い」に出会い落胆することになる。やはり、「感覚は違うのだ」を忘れずにいたほうがいいのかもしれない。

 もとにもどるが、テレビの解説で「口内の感覚が敏感で食べることができない」偏食の弊害も紹介されていた。偏食により身体の成長に弊害をもたらしたり、糖尿病などの病に罹る恐れが指摘されていた。偏食の理由を理解しそれを改善した調理により、偏食を克服できるとしていた。これなんかは味覚に敏感であるという特殊能力の退化を目指しているわけで、多数のように最初から備わってなければ、それなりに成長したり病を回避できるという意味で、それはそれで「能力」といえると思う。
 と、ここで考えてしまうのだが、たとえば「人間は虚構さ」が理解できない(しない)、だとか【虚構】を感じる感覚が麻痺している(させていられる)ならばそれも「能力」といえるのだろうか? 明らかにその「能力」が過敏なほうが生きにくそうである、なんちゃってね、笑。
 

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