「CAPプログラム」なんとなく違和感!?

 このブログを始めたときから、保育園の民営化問題について闘っているブログやHPを応援しながら定期的に巡回している。いつものように巡回してると、とあるブログで「CAP講座開催のお知らせ」(内部呼びかけ)を目にして、ワタシ自身1年程まえCAPのプログラムを受けたことを思い出した。だいたい1年前のことを思い出すのは「滅茶苦茶良かった」場合か、「その逆」かで、ワタシが1年も前のことの記事を書こうとしているのだから、後者ということになるのは、「戯れ言」の読者なら予想できるだろう。……なんて、きっと「文句ばっか」言っている根性の曲がった変な奴と思われているに違いない。は~ぁ、タメイキ。

 で、知らない人のために、CAPとはなんぞや、とHPを軽く抜粋しとくと、
「CAPセンター・JAPANは、子どもへのあらゆる暴力を許さない安全な社会を創ることを目指し、…(中略)…CAP活動を通じて家庭や学校、地域の連携を深め、子どもの人権 が尊重される社会の形成 に寄与することを目的としています。どうぞ皆様のご支援の程よろしくお願いいたします。
CAPプログラムのすべての権限はN/ICAPが持っています。 許可なく子どもワークショップを模倣・実施することは固く禁じられています。
CAPセンターJAPAN

ワタシの子どもが通っていた保育園でもCAPのプログラムを毎年依頼している。子どもに対する誘拐や殺人が頻繁に起きるニホンで、自分で身を守る方法を子どもに教える、ということでCAPのようなプログラムがあることを知り、納得した。また妄想はどこまでも走り、これを受けた子どもたちの被害がなくなるなら、と期待した。CAPの講座の「講師」はCAP独自の養成講座を受けた「スペシャリスト」が行う。またプログラムには「子どもプログラム」と「大人プログラム」があり、子どもは「子どもプログラム」、ワタシは一応「大人プログラム」を受けたわけだ。

 そして、なんとなく違和感を感じてしまった。

 最初に断っておくが、ワタシが違和感を感じたのは「ワタシが受けたCAPプログラム」で、全てのプログラムが同じかどうかわからない。また、CAPの発祥が『アメリカ』だから違和感を感じる、という個人的な理由は、この際言わない。
 プログラムに期待しつつ、実際にCAP講座を受ける(自分の)子どもの反応が非常に興味があったためビデオに撮っといて欲しいと保育士に頼んだが、CAPの方から「プライベートの問題もあり撮影は許可できない」と言われ、さらには「大人プログラムを受講した親に限って見学は可(意味不明)」と言われた。この異様な隠匿性はどこに起因するか疑問で不信感の芽生えでもあったがここでは問題にしない。さらにさらにプログラムで使われる「安心・自信・自由」というキーワードは登録されているから云々と、非常にくどく言っていたことも違和感を感じたが不問としよう。
 結局、ワタシは「大人のプログラム」の受講者で子どもプログラムを「見学する権利」はあるのだが、仕事でいけなかったため「子どもプログラム」での子どもの反応は分からない。だから「大人プログラム」の感想を思い出しつつ紹介しようと思う。

 「大人プログラム」を受けて、まず感じたのは講師の目が怖かったことだ。異様な緊張感を感じた。この空気は多分CAPの人の熱い想い、情熱、危機感、自負、責任感なんだろう……と思う。この暴力に満ちあふれた社会で子どもを守らねば、という使命感がひしひしと伝わってくる、気がする。ひとりでも犠牲になる子どもをなくしたいという責任感……、さらに学習と研究と経験にもとづく自信、さらには「いいことをしている」という熱意からにじみ出る空気なのかもしれない。とにかく「怖い程」なのだ。
 そして情熱に溢れプログラムは進行していく。でもなにかが足りない。なにに違和感を感じたのか終わってから考えてみた。

 CAPのようなプログラムが今のニホンで必要なことは認めよう。しかし、このプログラムを行うとして、
 まず「このプログラムが必要なことを否定する感性」が必要ではないか。 
 まず「自分達=CAPの存在を否定する態度」が必要ではないか。
 まず「暴力に満ちた世界(社会)を否定する大前提」が必要ではないか。
 少なくとも「大人のプログラム」の中ではそんな言葉も無かったし、そんな態度を微塵も感じなかった。
 暴力のある社会を前提にした、自己防衛に対する気迫と緊張感に満ちた、悪く言えば余裕のない勢いしか感じられなかった。たしかに暴力に満ちた社会であるのは「悲しいかな」現実である。CAPのプログラムでは「悲しいかな」の部分が欠如している、ように感じた。最初から暴力に満ちた社会を前提にしてプログラムを行っているとしか思えなかった。そのことの違和感であり、そして暴力に受けるという基底にたった「権利教育」に対する違和感を、悲しいかな感じてしまった。

 今のニホンは、そんな悠長なことを言っている場合ではないと言われれば否定できない。楽天家の能天気な言葉を聞く必要なしと一蹴されるかもしれない。現実をわかってないと説教されるかもしれぬ。そして現実に暴力の犠牲になる子ども、さらには殺されて行く子どもが後を絶たないことも知っている。このプログラムが暴力から身を守るための実践的なプログラムで、現代社会では必要なプログラムかも知れない、ことも認めよう。しかし、少なくとも、「大人のプログラム」のとき感じた違和感を講師がひきずったまま子どもに対峙したときに、まず「暴力に満ちた社会ありき」という態度で望むことは不快であり、そして「暴力というネガティブ」から発する「権利」を子どもに教えることは不快である。
 
 子どもの中からこれ以上、暴力による犠牲者が出て欲しくないという気持ちは、多くの人が同じようにもっている。繰り返しになるが、だから今の社会のなかではCAPというプログラムが必要なのかもしれない。でも、やはり「悲しいかな必要なのだ」という前提を確認しなければまずいのではないの? と思ってしまう。

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