「幸せになる勇気」@ 傾聴
「幸せになる勇気」は前出「嫌われる勇気」の続編です。これもワタシにとっては再読です。
「嫌われる勇気」の再読のときも思ったのですが、以前読んだときよりもずっとずっと響いています。
以前はベストセラーという看板にひかれて、この続編も知識の蓄積とかたんに興味とかいう動機で読んだのですが、今回は「傾聴」への興味と重なって絡んで本が訴えてくる。
なので、ワタシのほうも読み方が違う。実在をもって身体に響いてくる感じがするわけです。
きっとこういうのを時機と言うのでしょう。
「嫌われる勇気」のときは、思いの外「傾聴」と親和性があると考えながら読み進めていました。が、続編である「幸せになる勇気」を読むと親和性どころか、もろ「傾聴」のための教科書でした。
この間いろいろあって^^;・・・ブログに挙げるものかどうか、と考えましたが、やはりテキストにして紹介し、シェアしたいと思ったのが素直なところです。まあ、テキストにしてみる、というのは自分の理解を深めるという意図もあるのですが。
「幸せになる勇気」では、アドラー心理学(以下アドラー)は、カウンセリングだ、と断言しその説明がされています。カウンセリングとはつまり傾聴ですね。
「嫌われる勇気」と同じく青年と哲人の対話方式をとっていますが、「嫌われる勇気」以後の青年はアドラーを実践すべく学校の教師となり散々失敗して、哲人に文句をいいに戻ってくるという設定で対話はすすみます。
アドラー心理学は教育でもあるといい、「教育」はカウンセリングだ、と言っているので、教育=カウンセリング=傾聴とでもなるでしょうか。
アドラーは、教育もカウンセリングも(傾聴も)、人が「真の自立」をすることを目指します。
アドラーの言う自立とはいわゆる世俗的な意味、自分で生計をたてるということではなく、知性も感性もあわせた自らの「能力」を自分の意志で発揮して行使する。他者の指示によって行動するのではなく、自らの意志で行動するのが自立だというわけです。
たとえばアドラーは生徒を教育するにあたり「叱っても、ほめても駄目だ」といいます。いずれも教師の言葉だからです。叱っても褒めても自立をすることができない。自立を妨げている。
なぜ教師は「叱ったり褒めたり」するのか? それは生徒を支配するためである。と分析します。そうしたアドラーは、上下関係を否定します。上下関係は「自立」を妨げるからです。横の関係、しかも敬意をもった横の関係が上手くいくというわけです。
教育における「生徒」を、傾聴における「発話者」として読み進めることはできるでしょう。
とすると、教師は傾聴者となりますね、笑
叱るというのは、説教やらアドバイスも含むとするとより傾聴者らしい。結局、説教もアドバイスも発話者の「自立」を妨げることになります。
カウンセリング(=傾聴)においては具体的に次のように言っています。
カウンセリングをするとき、相談者を「依存」と「無責任」の地位に置かないことに細心の注意を払います。たとえば、相談者に「先生のおかげで治りました」と言わせるカウンセリングは、なにも解決しません。言葉を返せば、これは「わたしひとりではなにもできない」という意味なのです。(p122)
つまり自らが能力を発揮した自立ではなく、傾聴者の言葉(支配)で決心、決断させたなら、それは自立ではなく、「先生のおかげで……ありがとうございました」という言葉も傾聴失敗を意味します。そういえば、(発話者の)「ありがとうございました」、には気をつけろ、ってどっかで聞いたことがありますね、笑。
さて「叱ったり、ほめたり」に戻ります。
子どもである生徒を叱った服従させるのは瞬時としては、服従するかもしれませんが、それは自立でもなんでもないのは解ります。傾聴の発話者は大人ですので、叱った時点で瞬時としてもダメでしょ。説教やアドバイスにしても然り。
「ほめることは“能力のある人が能力のない人に下す評価”でありその目的は“操作”である」(p131)
支配や操作で「自立」ができるわけがないわけです。
褒めることで起きる、子どもの問題行動も5段階で説明されています。
まあ、子どもの成長を想像してもらえば納得できるかもしれません。いずれも「自立」ではない状態ですね。
第一段階は、「称賛の欲求」ほめられるために行動する。つまり、ほめられなければしない。
第二段階は、「注意喚起」ほめられなければ、とにかく目立ってやろうとします。イタズラなんか。
第三段階は、「権力争い」つまり反抗です。反抗して主導権を握ろうとする。反抗でなければ不従順で従わないという権力を得ようとする。
第四段階は、「復讐」です。権力を得られなかった場合。ひたすら相手が嫌がることを繰り返す。ひきこもりもこの段階かな?
第五段階は、「無能の証明」。第四段階までやったが何も成果があがらなかったら、何かすることをやめる。自分は無能であるから何もやらないと思い込むことで安定しようとする。
いずれも、自立に至らない子どもの行動として書かれていますが、自立は年齢に関係はありません。自分の能力を発揮する勇気をだせるかどうか? 40歳だろうが、50歳だろうが、発揮(自立)できずに思い悩む人のなかには、5つのどこかの段階の人もいるかもしれません。
敬意をもって傾聴するにしても、問題発話されるとなかなか傾聴困難な状態になりそうです。まあ知っていたからと言って段階によっては、傾聴できるかどうかは解りませんが、、、本では、第四、第五段階の治療は専門家の領域だといっています。orz
どの段階にしても、承認欲求がベースにあります。ところが、アドラーは承認欲求を否定します。承認欲求にとらわれた人間は、他者から認めてもらうことを願うあまり、いつの間にか他者の要望に沿った人生を生きることになる。すなわち、他者の人生を生きることになる。
アドラー的には、たとえば、繰り返し傾聴を求める発話者は、発話により自らの自立を奮い立たせようとしているならばいいのですが、場合によっては他者(傾聴者)の承認を求めているのかもしれません。そんな場合に発話者に「寄り添う」と言葉では簡単ですが、承認欲求を満たさないように寄り添うとなると、もう訳が分からなくなりそうです^^;
ここの承認欲求というのも他者からの承認欲求となります。
アドラーは、自らの価値(能力)を自らの意志で承認して、自らが決定することを求めます。これが自立ですね。
とまあ、こんなことが「幸せになる勇気」ではm易しい表現で、詳しく書かれています。傾聴者を目指す人にはお薦めです。
最後に上記とちょっと違う部分を引用しておきましょう。
他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって自らの価値を実感しようとする。これを劣等感を払拭できない人が、しばしば陥る優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれます。
ついつい勘違いする人は陥りそうですね。気をつけましょう^^; ワタシも気をつけよっと、笑
「嫌われる勇気」の再読のときも思ったのですが、以前読んだときよりもずっとずっと響いています。
以前はベストセラーという看板にひかれて、この続編も知識の蓄積とかたんに興味とかいう動機で読んだのですが、今回は「傾聴」への興味と重なって絡んで本が訴えてくる。
なので、ワタシのほうも読み方が違う。実在をもって身体に響いてくる感じがするわけです。
きっとこういうのを時機と言うのでしょう。
「嫌われる勇気」のときは、思いの外「傾聴」と親和性があると考えながら読み進めていました。が、続編である「幸せになる勇気」を読むと親和性どころか、もろ「傾聴」のための教科書でした。
この間いろいろあって^^;・・・ブログに挙げるものかどうか、と考えましたが、やはりテキストにして紹介し、シェアしたいと思ったのが素直なところです。まあ、テキストにしてみる、というのは自分の理解を深めるという意図もあるのですが。
「幸せになる勇気」では、アドラー心理学(以下アドラー)は、カウンセリングだ、と断言しその説明がされています。カウンセリングとはつまり傾聴ですね。
「嫌われる勇気」と同じく青年と哲人の対話方式をとっていますが、「嫌われる勇気」以後の青年はアドラーを実践すべく学校の教師となり散々失敗して、哲人に文句をいいに戻ってくるという設定で対話はすすみます。
アドラー心理学は教育でもあるといい、「教育」はカウンセリングだ、と言っているので、教育=カウンセリング=傾聴とでもなるでしょうか。
アドラーは、教育もカウンセリングも(傾聴も)、人が「真の自立」をすることを目指します。
アドラーの言う自立とはいわゆる世俗的な意味、自分で生計をたてるということではなく、知性も感性もあわせた自らの「能力」を自分の意志で発揮して行使する。他者の指示によって行動するのではなく、自らの意志で行動するのが自立だというわけです。
たとえばアドラーは生徒を教育するにあたり「叱っても、ほめても駄目だ」といいます。いずれも教師の言葉だからです。叱っても褒めても自立をすることができない。自立を妨げている。
なぜ教師は「叱ったり褒めたり」するのか? それは生徒を支配するためである。と分析します。そうしたアドラーは、上下関係を否定します。上下関係は「自立」を妨げるからです。横の関係、しかも敬意をもった横の関係が上手くいくというわけです。
教育における「生徒」を、傾聴における「発話者」として読み進めることはできるでしょう。
とすると、教師は傾聴者となりますね、笑
叱るというのは、説教やらアドバイスも含むとするとより傾聴者らしい。結局、説教もアドバイスも発話者の「自立」を妨げることになります。
カウンセリング(=傾聴)においては具体的に次のように言っています。
カウンセリングをするとき、相談者を「依存」と「無責任」の地位に置かないことに細心の注意を払います。たとえば、相談者に「先生のおかげで治りました」と言わせるカウンセリングは、なにも解決しません。言葉を返せば、これは「わたしひとりではなにもできない」という意味なのです。(p122)
つまり自らが能力を発揮した自立ではなく、傾聴者の言葉(支配)で決心、決断させたなら、それは自立ではなく、「先生のおかげで……ありがとうございました」という言葉も傾聴失敗を意味します。そういえば、(発話者の)「ありがとうございました」、には気をつけろ、ってどっかで聞いたことがありますね、笑。
さて「叱ったり、ほめたり」に戻ります。
子どもである生徒を叱った服従させるのは瞬時としては、服従するかもしれませんが、それは自立でもなんでもないのは解ります。傾聴の発話者は大人ですので、叱った時点で瞬時としてもダメでしょ。説教やアドバイスにしても然り。
「ほめることは“能力のある人が能力のない人に下す評価”でありその目的は“操作”である」(p131)
支配や操作で「自立」ができるわけがないわけです。
褒めることで起きる、子どもの問題行動も5段階で説明されています。
まあ、子どもの成長を想像してもらえば納得できるかもしれません。いずれも「自立」ではない状態ですね。
第一段階は、「称賛の欲求」ほめられるために行動する。つまり、ほめられなければしない。
第二段階は、「注意喚起」ほめられなければ、とにかく目立ってやろうとします。イタズラなんか。
第三段階は、「権力争い」つまり反抗です。反抗して主導権を握ろうとする。反抗でなければ不従順で従わないという権力を得ようとする。
第四段階は、「復讐」です。権力を得られなかった場合。ひたすら相手が嫌がることを繰り返す。ひきこもりもこの段階かな?
第五段階は、「無能の証明」。第四段階までやったが何も成果があがらなかったら、何かすることをやめる。自分は無能であるから何もやらないと思い込むことで安定しようとする。
いずれも、自立に至らない子どもの行動として書かれていますが、自立は年齢に関係はありません。自分の能力を発揮する勇気をだせるかどうか? 40歳だろうが、50歳だろうが、発揮(自立)できずに思い悩む人のなかには、5つのどこかの段階の人もいるかもしれません。
敬意をもって傾聴するにしても、問題発話されるとなかなか傾聴困難な状態になりそうです。まあ知っていたからと言って段階によっては、傾聴できるかどうかは解りませんが、、、本では、第四、第五段階の治療は専門家の領域だといっています。orz
どの段階にしても、承認欲求がベースにあります。ところが、アドラーは承認欲求を否定します。承認欲求にとらわれた人間は、他者から認めてもらうことを願うあまり、いつの間にか他者の要望に沿った人生を生きることになる。すなわち、他者の人生を生きることになる。
アドラー的には、たとえば、繰り返し傾聴を求める発話者は、発話により自らの自立を奮い立たせようとしているならばいいのですが、場合によっては他者(傾聴者)の承認を求めているのかもしれません。そんな場合に発話者に「寄り添う」と言葉では簡単ですが、承認欲求を満たさないように寄り添うとなると、もう訳が分からなくなりそうです^^;
ここの承認欲求というのも他者からの承認欲求となります。
アドラーは、自らの価値(能力)を自らの意志で承認して、自らが決定することを求めます。これが自立ですね。
とまあ、こんなことが「幸せになる勇気」ではm易しい表現で、詳しく書かれています。傾聴者を目指す人にはお薦めです。
最後に上記とちょっと違う部分を引用しておきましょう。
他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって自らの価値を実感しようとする。これを劣等感を払拭できない人が、しばしば陥る優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれます。
ついつい勘違いする人は陥りそうですね。気をつけましょう^^; ワタシも気をつけよっと、笑
この記事へのコメント
ぼくはこれだな(笑)
ブログ界隈ではメシア様がいっぱいいますからねぇ、もちろん勘違いなボクも含めてですが、、、
活動の場を移したのは正解かも、笑