ジタバタのなかの一コマ
なんとか社会にしがみつくためのジタバタの一つは、ちょっと面白かったのでメモをしておこう。
社会を見限ったところで生きていなければ意味がない。生活するためには金がいるわけで、最低の生活をするための稼ぎをどうするか?ということでのジタバタ。
やりたくないことはやりたくない。何ならできるか?と、思案しているときに、ふとテレビに目がいった。
ネットで写真を売る素人の話題を特集していたのだ。売るために素人が写真をアップするサイトがあり、写真の写の字も分かっていなさそうなおばあさんが小遣いを稼いでいるとか、ちょっと真面目にやっている人がそこそこ稼いでいるとか、、、テレビの特集のわけで、上手い話ししか流さないのは承知している。ところが、タイミングは動揺のどん底のわけだ。しかも好きな写真で生活費を稼げるなら悪くないではないか。というわけで、さっそくそうしたサイトに登録してアップし始めてみた。
登録したサイトで、写真が売れ稼いでいる人の写真を見てみたり、サイトのアドバイスを読んでみたりする・・・・物撮り、モデル撮り、名所の風景、パンフォーカスで目的がはっきりしている写真が売れているようだ、、、というより、しか売れてなさそうだ。ワタシのmacのなかに溜まっている数千枚の写真のほとんどが売れそうもない、写真だった。
ということで、売れる写真を撮ってみようと思った。ワタシの終わりかかっている仕事もそうした商用写真との関係も遠からずなので、だいたい要領は解っている。モデルは手配が面倒なので、白幕とライトを用意して物撮りでもしてようか、その前にセットしなくていいようなお決まりの風景で撮ってみようか、と考えて実際に撮って歩いてみた。
結果、、どうなったか、写真を撮るのが全然つまらなくなってしまったのだ。考えなくても解りそうなものなのだが、金を出してでも欲しがられる写真は商用のもので、つまり、ワタシがつまらないと感じている社会の一面そのもので利用される写真なのだ。ちなみにそのサイトでは、ワタシの感性で切り取っている「わけのわからない写真」は事前審査で落とされ、掲示さえされないのだ。
すべてが理にかなっている。
需要があるのは目的がはっきり解る日常的な商用写真。ワタシの撮りたいのは日常のなかで見落とされる、誰もみようとしない心象光景。ほんの少しの人だけが共感してくれる焦点さえあっていない写真。
問題なのは、サイトで売れそうな商用写真を撮ろうとすればするほど、写真を撮るのが嫌になるということ。
これは人間としてかなり重要な意味をもっていると思うのだ。
好きでもないことをやろうと努力すればするほど、嫌になり面白くなくなる。
好きでもない社会に沿おうとすればするほど、生きているのがつまらなくなる。
好きでもない人生を歩めば、死にたくもなるだろう。
これだけ思索してきたにも拘らず、動転して短絡な思考になってしまうとこなってしまう。なかなか面白いことに気づいたと思う。
さて写真販売のサイトはどうするかな?
ま、せっかく登録したわけだし、事前審査でNGにはぎりぎりならず、ワタシも納得するものを審査にだしてゆくか。売れることはまずないだろうが、売れそうな写真を撮る努力をして写真が嫌いになるよりずっといい。
もし売れるようなことがあったら、大笑いだ。世の中も捨てたもんじゃないと思うだろうか?
社会を見限ったところで生きていなければ意味がない。生活するためには金がいるわけで、最低の生活をするための稼ぎをどうするか?ということでのジタバタ。
やりたくないことはやりたくない。何ならできるか?と、思案しているときに、ふとテレビに目がいった。
ネットで写真を売る素人の話題を特集していたのだ。売るために素人が写真をアップするサイトがあり、写真の写の字も分かっていなさそうなおばあさんが小遣いを稼いでいるとか、ちょっと真面目にやっている人がそこそこ稼いでいるとか、、、テレビの特集のわけで、上手い話ししか流さないのは承知している。ところが、タイミングは動揺のどん底のわけだ。しかも好きな写真で生活費を稼げるなら悪くないではないか。というわけで、さっそくそうしたサイトに登録してアップし始めてみた。
登録したサイトで、写真が売れ稼いでいる人の写真を見てみたり、サイトのアドバイスを読んでみたりする・・・・物撮り、モデル撮り、名所の風景、パンフォーカスで目的がはっきりしている写真が売れているようだ、、、というより、しか売れてなさそうだ。ワタシのmacのなかに溜まっている数千枚の写真のほとんどが売れそうもない、写真だった。
ということで、売れる写真を撮ってみようと思った。ワタシの終わりかかっている仕事もそうした商用写真との関係も遠からずなので、だいたい要領は解っている。モデルは手配が面倒なので、白幕とライトを用意して物撮りでもしてようか、その前にセットしなくていいようなお決まりの風景で撮ってみようか、と考えて実際に撮って歩いてみた。
結果、、どうなったか、写真を撮るのが全然つまらなくなってしまったのだ。考えなくても解りそうなものなのだが、金を出してでも欲しがられる写真は商用のもので、つまり、ワタシがつまらないと感じている社会の一面そのもので利用される写真なのだ。ちなみにそのサイトでは、ワタシの感性で切り取っている「わけのわからない写真」は事前審査で落とされ、掲示さえされないのだ。
すべてが理にかなっている。
需要があるのは目的がはっきり解る日常的な商用写真。ワタシの撮りたいのは日常のなかで見落とされる、誰もみようとしない心象光景。ほんの少しの人だけが共感してくれる焦点さえあっていない写真。
問題なのは、サイトで売れそうな商用写真を撮ろうとすればするほど、写真を撮るのが嫌になるということ。
これは人間としてかなり重要な意味をもっていると思うのだ。
好きでもないことをやろうと努力すればするほど、嫌になり面白くなくなる。
好きでもない社会に沿おうとすればするほど、生きているのがつまらなくなる。
好きでもない人生を歩めば、死にたくもなるだろう。
これだけ思索してきたにも拘らず、動転して短絡な思考になってしまうとこなってしまう。なかなか面白いことに気づいたと思う。
さて写真販売のサイトはどうするかな?
ま、せっかく登録したわけだし、事前審査でNGにはぎりぎりならず、ワタシも納得するものを審査にだしてゆくか。売れることはまずないだろうが、売れそうな写真を撮る努力をして写真が嫌いになるよりずっといい。
もし売れるようなことがあったら、大笑いだ。世の中も捨てたもんじゃないと思うだろうか?
この記事へのコメント
僕は前から言っている通り、ヒト=人間には期待を一切していないので、社会の中にうまく位置どりすること自体は「ゲーム」だと思っています。
それはそれ、これはこれ。
・・・というだけのことだと思っているので、傍目には「一切期待してない」とは見えないのかもしれませんね。
毒多さんがどういう位置どりをしたいか・・に尽きる気がします。
写真は楽しむためのもの。
それは撮影者にとっても、写真を見る者にとっても同じはず。
この2つが成立して「売れる」ということになる。
これが物事の機序というものだと思うんですよ。
この2つを両立させることを、ピーター・ドラッカーは「マーケティング」と言いました。そして、売れるために、この場合は撮影者が変わることを「イノベーション」と言いました。
「売るため」すなわち「お金」のために変わるんじゃないです。鑑賞者を楽しませるために変わる。
撮りだめた写真のほとんどが売れそうにないなんて、ごく普通のことだと思います。だってそれは、「自分のだけの楽しみ」のためのものでしょうから。そのなかでも、他の人が楽しめそうなものがあるのを発見するのがマーケティング。
マーケティングとイノベーションが楽しめるようになれば、というか、そういうことを人間にはできる能力があるとぼくは信じています。
だって、子どもは大人を見てマーケティングをして、自分自身をイノベーションしていくんですから。
ここにきてやっと本音でものが言えるようになりました。永かったです。本音というか、ちょっと自分が生きるということ結びつくというか、、、
ということで、本音ですがアキラさんのことを羨ましいと思っています。いました。
「生きる」(好きなこと、納得すること)と「生活」(人間、社会)が結びついている、という意味で。
そのアキラさんが人間に期待せず社会に絶望しているから位置取りゲームとは、なかなか面白いです。
まあ、根源のとこで「生きる」と「生活」(社会・人間)がかけ離れているからの絶望と無期待なのでしょうが。
突き詰めた結果、そこまで行ってしまえば絶望と無期待しかなく位置取りゲームになるしかないかな、、、
そのてんワタシはまだ「青い」かな。
そも「生きる」が分かってないし、多分底の底では、片手一握りぐらいには社会にも絶望していないし、人間にも期待している。・・・ワタシの裡のどこかでそういうところが残っている。絶望も期待も捨てたくない、という本音かな。
だからいまままでのような位置取りゲームじゃ納得できなくなってきている。納得できない、と本音が言い始めている。現実には位置取りゲームは続けるしかないと分かっているのですが、、ね^^;
写真どうのこうのってのは、あきらかにゲームですね、それぐらいのゲームなら楽しめます、わははは。ん?「そのくらい」・・・「程度」とはどういうことなんだ?・・・そういうことかな?
少し書くことが面白くなってきているので、もう少し続けます^^
noteでのレスがしきれていないのは、こんな状況だからでした、笑。
それにしても、やっぱり書くものですね。言葉で他者と繋がるのは楽しい。
写真のことの現状を振り返ると、今は、自分自身の感覚の再現のために写真を撮ることを楽しんでいる。「自分だけの楽しみ」です。
noteに上げるときのセレクトは「鑑賞者を楽しませたい」になる。マーケティングは人間への期待かな?
もっと考えてみると、
「鑑賞者のなかに自分と同じような感性があるかどうか確かめたい」とか、
「どういう鑑賞者が楽しんでもらえるのか知りたい」
・・・けっきょく全部「自分」ですね。
あまり他者の期待に応えるために、写真の撮り方を変えている気がしない。イノベーションできてない。
昔のブログ記事のほうが、そういうことがあった。鑑賞者を楽しませるための文章。これはイノベーションだ。
写真も言葉を綴るのもどちらも好きですが、何かが違うのかな。
これを考えるのは楽しそうだ。
マーケティングとイノベーション、うん。楽しまなければね。元気がでてきた^^
それも長期間。
っていうか私が何も考えていなかったのかもしれません。
考えずにこれしかないと突っ走るみたいな。
まあ考えることしかやってきませんでしたから。性分です。
突っ走れるなら、それはそれでいいと感じますよ。
ときどき記事を覗いてみては、なるほど、とか 考え過ぎ!とか思っております。
ただ、婆さんのお節介で、考え過ぎの方には声を掛けたくなります。
暑いけれど、いい風が吹いてますね
ぐらいですが。