「沈黙」(遠藤周作)読了
正直にいえば読むことを躊躇していた。
理由は「サピエンス全史」の語る「虚構」にかなりひっぱられていて、キリスト教ベースの物語って、“所詮”虚構のなかの虚構の話だよなぁ、て思ってしまうことがひとつ。
たぶんワタシのなかでは、「虚構」を「空虚」として感じているものがあり、いまひとつのりが悪くなっている。まあこれを言ってしまったら人間であるかぎり全てが「空虚」であり、「虚構」を受け止めなければ「楽しい」ことなど何もないのではないかとは感じている。
もうひとつの理由は、「キリスト教」である。これ、ワタシの人生のなかで少なからず因縁があり、かなりアンチの「感情」がある。なんでいまさら「キリスト教」主題の小説なんぞ読む気になろうぞ、と思っていた。
にもかかわらず、読んだのはブログ「光るナス」のほうで同小説の映画版がこれでもか、というほどエントリーされていたうえに、ついには小説のエントリーもアップされたためである。ブログ主のアキラさんには、自分が読んだ本がよかったから「よければ読んでね」とかなり勝手に何冊も押し付けたこともあり、そのアキラさんが「いい」と言うものを読まないのは「人間」として拙いだろ、という気持ちがあったこと。映画をみることなく、小説を読むこともなくエントリーを読もうと思わなかったエントリーを読みたくなったこと。なんかが理由として挙げられる。
「虚構」に意識過剰に反応し、アンチキリスト教という前提で読み始めたわけで、読む前から楽しい読書になんかになりえないという思い込みでのスタート。前途多難である。にも関わらずけっこう「面白い(interesting)」と感じたのは、かなり普遍的な小説だと感じたからだろうか。最初からキリスト教(宗教)も「虚構」であることをかなり意識して読み進めたため、「人間」がほぼ普遍的に背負う「虚構」についての物語として読めたことにある。
「人間」はそれぞれ、個はなにがしかの虚構を信じて生きるしかない。それがなんであるかは個々の体質によるのだろうけど、宗教であれば信仰となり、イデオロギーであれば信念、国家でも金でも文化でも風習でもなにがしらを拠り所にしているように見られる。信仰や信念が深いほど「強い人間」となり信仰や信念があさければ「根無し草」など呼ばれたりする。
物語のなかではヒエラルキーという虚構とキリスト教という虚構の対立構図が描かれる。ヒエラルキーにとってキリスト教は有害であり邪魔な虚構であるとされた。日本のその時代にとってということで、必ずしもキリスト教とヒエラルキーが反発し合うものでもないということは「時」と「場所」次第でどのようにでもあることは周知としていい思う。だからこそ「虚構」なのだ。ただキリスト教とは「虚構」である、でかたずけていいのか、というも作者(遠藤周作)はかなり踏み込んで描いている。そうではなく真理とはなにか、を追求した物語だと感じられる。
物語登場人物中、「虚構」にふりまわされなかったのはキチジローで個人的にはシンパシーを感じている。強い「虚構」にふりまされずに、それでも貪欲に「虚構」を追いかけた。「人間」を追いかけた。「虚構」に束縛され殉死することもなく、弱さを自覚し、葛藤をうけいれどこまでも「人間」を追いかける。たとえ追いかけているものから蔑まされようがだ。誰も裏切らず、誰にも迷惑をかけず、おのが道を進んだ。(小説中「裏切られた」「迷惑かけた」「みすぼらしい」は、言う側の主観でしかなく虚構でしかない。)
主人公?ロドリゴが、虚構と虚構のはざまで、執着、落胆、葛藤、転び、、、のちに、小説としては最後に「>今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。……あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」と言った。
ロドリゴは【虚構】から脱却した後に、私の人生にしてキリストが物言った、と思ったようだ。「キリスト」からは離れられないのは、とやかく言わない、として、そんなもんかもしれない。と思う。
【虚構】への執着、落胆、葛藤、(落胆、)転び、、のちに〈虚構〉を識る。とワタシがかってにした解釈がこの本から読んだこと。
さて、光るナスの当該エントリーを読みにいこうかな、楽しみだ、笑。
理由は「サピエンス全史」の語る「虚構」にかなりひっぱられていて、キリスト教ベースの物語って、“所詮”虚構のなかの虚構の話だよなぁ、て思ってしまうことがひとつ。
たぶんワタシのなかでは、「虚構」を「空虚」として感じているものがあり、いまひとつのりが悪くなっている。まあこれを言ってしまったら人間であるかぎり全てが「空虚」であり、「虚構」を受け止めなければ「楽しい」ことなど何もないのではないかとは感じている。
もうひとつの理由は、「キリスト教」である。これ、ワタシの人生のなかで少なからず因縁があり、かなりアンチの「感情」がある。なんでいまさら「キリスト教」主題の小説なんぞ読む気になろうぞ、と思っていた。
にもかかわらず、読んだのはブログ「光るナス」のほうで同小説の映画版がこれでもか、というほどエントリーされていたうえに、ついには小説のエントリーもアップされたためである。ブログ主のアキラさんには、自分が読んだ本がよかったから「よければ読んでね」とかなり勝手に何冊も押し付けたこともあり、そのアキラさんが「いい」と言うものを読まないのは「人間」として拙いだろ、という気持ちがあったこと。映画をみることなく、小説を読むこともなくエントリーを読もうと思わなかったエントリーを読みたくなったこと。なんかが理由として挙げられる。
「虚構」に意識過剰に反応し、アンチキリスト教という前提で読み始めたわけで、読む前から楽しい読書になんかになりえないという思い込みでのスタート。前途多難である。にも関わらずけっこう「面白い(interesting)」と感じたのは、かなり普遍的な小説だと感じたからだろうか。最初からキリスト教(宗教)も「虚構」であることをかなり意識して読み進めたため、「人間」がほぼ普遍的に背負う「虚構」についての物語として読めたことにある。
「人間」はそれぞれ、個はなにがしかの虚構を信じて生きるしかない。それがなんであるかは個々の体質によるのだろうけど、宗教であれば信仰となり、イデオロギーであれば信念、国家でも金でも文化でも風習でもなにがしらを拠り所にしているように見られる。信仰や信念が深いほど「強い人間」となり信仰や信念があさければ「根無し草」など呼ばれたりする。
物語のなかではヒエラルキーという虚構とキリスト教という虚構の対立構図が描かれる。ヒエラルキーにとってキリスト教は有害であり邪魔な虚構であるとされた。日本のその時代にとってということで、必ずしもキリスト教とヒエラルキーが反発し合うものでもないということは「時」と「場所」次第でどのようにでもあることは周知としていい思う。だからこそ「虚構」なのだ。ただキリスト教とは「虚構」である、でかたずけていいのか、というも作者(遠藤周作)はかなり踏み込んで描いている。そうではなく真理とはなにか、を追求した物語だと感じられる。
物語登場人物中、「虚構」にふりまわされなかったのはキチジローで個人的にはシンパシーを感じている。強い「虚構」にふりまされずに、それでも貪欲に「虚構」を追いかけた。「人間」を追いかけた。「虚構」に束縛され殉死することもなく、弱さを自覚し、葛藤をうけいれどこまでも「人間」を追いかける。たとえ追いかけているものから蔑まされようがだ。誰も裏切らず、誰にも迷惑をかけず、おのが道を進んだ。(小説中「裏切られた」「迷惑かけた」「みすぼらしい」は、言う側の主観でしかなく虚構でしかない。)
主人公?ロドリゴが、虚構と虚構のはざまで、執着、落胆、葛藤、転び、、、のちに、小説としては最後に「>今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。……あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」と言った。
ロドリゴは【虚構】から脱却した後に、私の人生にしてキリストが物言った、と思ったようだ。「キリスト」からは離れられないのは、とやかく言わない、として、そんなもんかもしれない。と思う。
【虚構】への執着、落胆、葛藤、(落胆、)転び、、のちに〈虚構〉を識る。とワタシがかってにした解釈がこの本から読んだこと。
さて、光るナスの当該エントリーを読みにいこうかな、楽しみだ、笑。
この記事へのコメント
<
そんな義理立てしてくださらなくても いいのに。
(^_^;)
愚慫さんのところで、
「僕にとっての野口整体は、いのちを預けた趣味です。 (^^)」
と書いたのを受けて、
毒多さんが
『「いのち」を預けた、、、(野口整体から離れても死なへんやろ?、、)とか、、、』
と書いていましたが、
「離れても・・」以前に 離れられるわけがないのです。
だから、離れるときは死ぬときです、多分。
それは、ロドリゴもおんなじなんだろうと思いますよ、僕は。 (^^)
本を読んでからでないと解らないと感じた、光るナスの当該エントリーとコメ欄、読まさせて頂きました。
おもしろかったです。
>義理立て
なんだろうねぇ~。このまえに「いじめられっこ」の時もそうなんだけど、ほんの少し見えたことをじっと見たくなるんだよね。
例えば雲ひとつない青空のなかに面積でいったら1%もない雲があったとしたら、それを描写したくなるというか、、、ほぼ「ない」のだけど、確かにほんの少し在ることが気になるといった感じ。写真なんかでも同じ感じで、それをクローズアップして切り取っている気がします。
>ロドリゴ
これね、聞いてみたかったこと。
ロドリゴにとってのキリスト教、アキラさんにとっての野口整体、この両者がワタシには「とりあえず」同じに見える。何かのきっかけで、ロドリゴと同じ立ち位置になったとしたら、、、、たとえば、とつぜん別の虚構(exトランプ政権下のイスラムのように)によって野口整体が邪悪なもの指定されて、生徒が拷問にあう、、、とかなったら、アキラさんはどうするか、、、ということを想像しながら読んだのだろうか? 想像するならどうすると想像したのだろうか? ということを思ったのです。
「離れるわけはない」「ロドリゴと同じ」というのが答えですね^^
そのあたりはワタシとは違う。ワタシは「根無し草」です。
にもかかわらず、それでも何かを求めているのは「生きる」ことの宿命なんだろう。だから〈求める〉しかない、ただ「虚構」なんだぁ、がついてまわるんだろうなぁ~、根をはることはないだろうなぁ・・てなことを考えています。
いくら「生きているエネルギー」それ自体を純粋に考えようとしても、現実には純粋にそれ自体なんてものはないわけで。
ないものを一生懸命考えてもしょうがない、と僕はいつも思うんです。
結局 問題は、自分の(あるいは他人の)「生きている」のエネルギーと、「虚構」との結びつき方というか、関わり合いかた、だと思うんですよね。
そこがミソ。
もちろん「虚構」自体の「それ どうなんだろ?」といった質? 色?の問題はあると思います。
でも おそらく、それ自体が決定的なことではない。
決定的なことは、「虚構」との結びつき方というか、関わり合いかた、のところだと思うんです。
だから 同じ「虚構」でも、美しくもなるし愚かしくもなる。
今思うのは、アキラさんの“ずっと”と、ワタシの“最近”の違いなんだと思います。
このブログは日記的なものですが、「虚構」という言葉が裡にない以前のエントリーを読んでもなんとなく解っているような感じも受けるのですが、最近「虚構」という言葉と結びつき、パズルの完成のようにハマってしまった。
あれ、なんだ、これは、ってなふうに。
でも、だんだん、「虚構」って言葉とともに解ってきている途中ですが、まだたぶんアタマで、です。
なんといっても、「虚構」が実感できない!!(めちゃ笑えるセンテンスだ)
「虚構」が自覚できない!!(さらに笑えるな)
もともとの信念(信仰)が「サヨっち的正義」だったこともあるかもしれませんが、“愚かしいかもしれないベクトルの”「虚構」ばかりが気になってしまう。
世界統一のために宗教的普遍(虚構)をひろめなければならない、とした宗教(虚構)の利用、、、と、ヒエラルキー(虚構)に苦しむ人々のためにカウンター虚構として必要とされた宗教(虚構)との差異みたいなことから「虚構」って一体なんなんだ、が気になる。
たとえば「沈黙」の読後でも光るナスでされているように、後者の宗教(虚構)の内容・詳細についての対話のほうがずっと面白いとは分かっていますが、どうしてもその前提である「虚構」そのものに振り回される。「虚構」が分かってないのだろう。
きっとまだ、「どう結びつくか」の前段階なのでしょうね。というか、これまでもずっと「結びつき」を考えてきたのですが、ここにきて「これは虚構なんだ」という前提に気が付きそこに戻ってしまったというか、リスタートかな、笑
まあ人生つねに回り道ということで、、ははは、^^;
ピダハンのなかでダンが帰郷したあと棄教したことが、理由もわからず「嬉しかった」ワタシの心情をあらためて考えてみたくなったよ^^