「お日様を護れ闘争終了」(5)・・・法より良心だと言ってみたい

 さて、一応の決着がついたので報告がてら考えてみようかな。
 結論からいえば、利潤追求のみのクソ業者の計画撤退が確定した、ということである。
 これワンセンテンスで書いたものの、実はとてもすごいことで、私の感覚では「快挙」「奇跡」といえる。直接闘い抜いた親、職員、関係者には拍手を送りたい。
 「利潤追求のみのクソ業者」などと失礼極まりなく書いてしまったが、すべて法律の内でやっているうちは「法治国家」では「悪徳業者」ではない。話し合いのなかで知ったのだが、業者がやろうとしている老人ホームは、デカいガタイのわりにタイトな建築(間取り)・シビアな運営計画(シフト)で、人道的にはブラッキーじゃないの?と問いかけたいが、おそらく法的には全てクリアしているか、もしくは法の目をかいくぐっているのだろう。目をかいくぐろうがどうしようが、違法でなければ私企業の「利潤追求」は、当たり前となっていて、この国では、それが悪であろうはずもなくむしろ善なのだ。合法で今回のような有様ということはつまり、法自体が「企業の利潤」を保障し、それこそが「国家」の安定だと考えていると思われる。露骨な例をあげれば、銀行、電力会社、自動車等大企業へは、そんなんあり?って感じで擁護されていて、違法だろそれは!!、なんて現実もある。
 今回の日照権を守る運動では、調停でさえ業者側に立ったのだから、この国の営利優遇はそうとうなものである。
 そんななか法的保護が「薄い」保育園と子どもは、古美門研介よろしく、勝つために、やれることは何でもやろう!!と、2年以上にわたり、集会からデモ、全戸ビラ、署名、市民・他保育園への共闘依頼、旗の乱立、横断幕から、役所への釘刺し、直接抗議、調停、、、いよいよ負け戦覚悟の裁判か、、、、というところまできた。そんな矢先の、企業側の実質「白旗」ということになった。

 この国の法だけを基準にすれば、企業が100%勝ち組で、保育園・子ども連合は100%負けだったのが、すべてひっくり返った。法治によって運営されている国ということでは、「法治国家」の根幹がくずれそうな結果。
 でも根幹はくずれないところをみると、ほんとの根幹は「法」ではないのだろう。
 では、なんだろう? 現実の生活のなかでは、法やら裁判やらに依拠せず、話し合いで解決してるものが多数で、それが何かと、あえているなら「人の良心」・・・・かな、ぎゃははははは。
 企業が金儲けに洗脳されていても、法もそれを保障していても、最後には「人」なのだ。いくら金に操られようが、きっと、どこかにある「良心」は完全に消すことはできない。まあ、今回の相手業者にしても実のところ「ここで老人ホームを建設しても面倒な経営を強いられる、撤退やむなし」ということかもしれないが、それにしても「良心」が全くなければ、設計図を描いたうえ2年も建設を遅らせた損をともなう撤退は絶対にしないだろう、と思う。良心の希薄そうなユニ●ロだったら撤退しないだろうし、良心の皆無のワタミならば間違いなく撤退しないだろう。そのてん今回の業者は「良心」があったのかもしれない。と書きながら、ワタミとの闘いを妄想していたら、今回、闘った相手が良心的な企業に感じてきた。「クソ業者」なんて言い方は撤回しなければならないかも。
 (ちらっと聞いたのだが、最後会合のとき笑顔が素敵だった美形の弁護士は、実は「母親」で、子どもを小規模連の保育園に預けていた、、、と、耳にした。あんな憎々しく子どもの権利に耳を塞いだ彼女だったが、彼女が業者側の弁護士になったが撤退に大きく影響していて、実は良かったのかもしれない、、と、ふと思っているのはワタシだけかな? もっとも古美門は言うように、弁護士は「仕事として」雇い主の利益を考えなければならないわけで、ワタシの考えは間違っているのかもしれない、が、彼女の保育園に子どもを預ける母親としての良心も力になったのでは、と思いたくて仕方ない。)

 古美門研介よろしく、勝つためにやれることはなんでもやった、、、と、書いた。もちろん双方とも合法で、「何でもやる」は同じだが、古美門とは本質がまったく違う。弁護士の古美門は、報酬のために、依頼主のために、仕事として行っているのだが、今回、保育園・親は、報酬のためでなく、依頼主はなく、仕事ではなく、私利私欲をなげすて行った。いや、ちょっとまてよ、報酬のため、依頼主のため、仕事のためと言えるのかもしれない、、、とすると、違いは、なんだろう。
 自分の子どもの日照を守るため、闘わざる得なかった、思わず闘ってしまったとなるのだが、ほんとにそれだけのためだろうか?
 確かに子どもにとっての日照は大切である。それは確信しているし、間違いないと思う。でも、日の当たらない保育所に預けられた子どもが目に見えて重大な健康被害、発達不全を起こしていると、言い切れないだろうし、現実にはそうではないだろう、またそれを辺り構わず大声でいえば、そうした保育園に預けざる得な親・子どもを非難することに繋がりかねない。
 またまた今回闘った年長の親などは、自分の子どものことだけを考えていれば、1年弱も我慢すれば卒園という親もいただろう。それでも闘ったわけだ。
 おそらく、自分の子どもの被害を想像し、いつかここに居るだろう、名も知らない未来の子どものことも考えたのではないかな。それは未来のどの世代の子どもたちへの報酬のため、いつの時代であっても全ての子どもが依頼主であり、、、全ての子どもに仕える事、と、認識しないまま「良心」の発動によって闘ったような気がするわけだ。もちろん、「子ども」は「人」に置き換えることができる。目の前の報酬ではなく、いつか未来の名も知らない誰かのために事に仕える、、、人とは、こんなことができる、してしまうものだな、と、しみじみ。



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平行連晶
2013年11月03日 03:38
毒多さんが説く「良心」とは、利他主義/利他行動のことと解釈しました。
自力で日照権を追求する行動が困難であろう子どもさん達に代わり、大人たちが時間と労力とを捧げるわけですから。この営為が、あくなき利潤追求を是とする「利己主義」企業活動と相克するのもむべなるかな、です。

毒多さんにとって、利潤追求を目的とする企業活動を法が援けているかのように見えるのも尤もで、そもそも法は利他主義に立脚するものではないから、でしょう。
「保護責任者」という、押尾先生入獄の根拠となった法律用語がありますけれども、「保護責任」は利他主義からは隔たっている。

物故した栗本薫の『双頭の蛇』だったかな、「法は正義よりも優しい。法は『これはしてはならない』と命じるのみで『これをせよ』と求めるものではないから~」といったニュアンスの台詞がありました。
確かに、法は良心(内心)へと踏み込む機能を持ちません。たとえば利潤を追求するこころそのものを抑制する働きはしない。ただ利潤を追求する営為が他者の利益を損なうことのないよう、一定の抑制をかけるのみです。

ちょっと大風呂敷を広げてみると、法治国家とは利他主義のもとに成立する共同体ではない、と言い得るのかもしれませんね。私は法学には疎い(否、万物に疎い)ので、この意見が正しいのか判りませんけれど。

「毒多さんが説く『良心』とは、利他主義/利他行動のことと解釈」と書きはしましたが、実は私自身は利他主義=良心なのか判らないのです。それ以前におそらく不可知論者なので、他者はいざ知らず私個人にとって「良心」とは何なのか認識は出来ません。己の営為の中で何が良心に基づいているのか、把握出来ない。故に良心に立脚した共同体というものが、想像出来ないんですね。
毒多
2013年11月05日 09:48
平行連晶さん、おはようございます。

思わず「良心」という言葉をつかいましたが、あらためて辞書をひくと、

>善悪•正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。
とありました。おそらくワタシは「善に基づく判断・行動」という意味で使っていると思います。「正しく行動」しようの、「正しく」が如何様にも解釈できる、ことは幾度も話題になりましたから。


なんとなく、自分のために何かをすることよりも、他者のために何かをする利他行動のほうが「美徳」だとされる風潮があるような気もするのですが、そうしたことや「損得」を考えずに思わず動いてしまった人々、としたいところで、その意識しないしてしまった行動を「良心」と言いたいんだろうなぁ、と自己判断。

それと、利他主義は簡単に利己主義につながる、こともあるでしょうね。
他者のために無償でやっている自分にうっとりという自己満足は生まれてくるでしょうし、それが(利他主義的)運動にのめり込む要因になることもあるでしょう。そしていつか本末転倒して高慢になる(笑)
こんなこともあり、平行連晶さんの「利他主義=良心」????ってとこに繋がるんじゃないのかなぁ、ってのは邪推すぎますね。

別の意味で利他主義は、まわりまわって知らないうちに利己主義に繋がるって感じもあるかな。あぁ利己主義ではなくて、今回の場合でしたら、自分の子どもの日照だけでなく、この先の観たこともない知らない子どもの日照が守られてその子どもが幸せでいる、って想像でなんとなく幸せになれる、、、みたいな。
「なんとなく幸せ」を利己と呼ぶかどうかは別にして、その程度の報酬で、そこそこ動いてしまうことを「良心」とよんでみたいと思います。

平行連晶
2013年11月05日 23:44
>子どもが幸せでいる、って想像でなんとなく幸せになれる

昨日、新宿に『セブン・サイコパス』と『そして父になる』を観に行ったんです。
座席予約を済ませ新宿通りの地下を西口方面にてろてろ歩いていたら、夫婦が派手に喧嘩していましてね。旦那はベビーカーを押しながら足早に私と同方向へ向かい、妻は追いつつ夫を殴ったり蹴り付けたりしています。
「ゴツッ」「ゴッ」と鈍い音がして妻は本気で殴っている模様。とはいえ、腰も入っていないし特に鍛えてもいない女の膂力じゃ高が知れます。夫は場所柄ゆえ往来の目を気にして抑え気味の罵声を上げ、ベビーカーを押していない方の手で妻を押し退ける程度。

私は完全な野次馬気分で「ファイトファイト! ウェイト乗せて右、右!」とかほくそ笑むうち、夫婦に追いつきました。その時に、見たんです。

ベビーカーには、乳児が乗っていました。彼は、振り向いて相争う両親の姿をじっと見つめていました。無言のまま。口をへの字に固く結んで。咎めるような、何かをじっと耐えるような険しい視線を親から外すことは決してなかった。

私はそれを見て、はっと胸を突かれましたよ。乳児は両親とまるで同じ、こわばった表情をしていました。いたたまれない気持ちになりました。見ず知らずの子どもさんの表情を見てね。

個体差もあるでしょうが、人間には誰の子かに関わらず、子どもさんの笑顔に触れていたいという心の働きが埋め込まれているんだなあと実感しましたよ。時に「神」と呼ばれる奴だか奴らだかが、小癪にも人間をそういう生物にデザインしたのかもね。それは良いも悪いもない、抗いがたい心の働きのように私には思えます。

あれから、ちょっと悔やんでいるのです。都市生活者の流儀を発揮して、黙って通り過ぎてしまったことをね。ひとこと言えばよかったのに。
「子どもさんが、嫌な顔してるよ」ってね。
毒多
2013年11月06日 14:33
乳児が親の表情を読み取る、、、、かぁ~
考えさせられますね。
多分、お日様闘争の対業者のときは、相当顔を引き攣らせ厳しい表情をしていただろうからねぇ。
たしか乳児はいなかっと思うけど、喧嘩のときの表情と同じとすると、表情だけで判断する乳児にしてみたら、ドツキアイの夫婦と同じに見えるだろうし。

路上の夫婦の喧嘩の原因がなんだったのか、知る由もありませんが、子どものことだったら、笑っちゃうほど本末転倒です。

って、他人ごとではない。
子どものことで喧嘩をしている、お日様闘争で子どもへの配慮を確認したんだろうか?
今回のワタシは運動主体でないので、そこまで分かりませんが、業者との主戦場は保育園だったんです。
う~む、今更ながら気になる。

>「子どもさんが、嫌な顔してるよ」
果たしてこれで冷静になれるのか? ちょっぴり疑問です(笑)

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