「お日様を護れ闘争中」(4)・・・運動的勝利か? てか勝利ってなんだ?

 表題の件は、昨年の10月以来のエントリーだな。
 この間も「子どものお日様を守れ運動」は、実際に日照被害を被ることになる子どもの親、職員、福祉法人、周辺住民を中心に継続されてきた。予定よりも2年ちかく工事着工を遅らせることができている。署名やデモはもとより、役所に建築認可を降ろさないよう訴えたり、「建設説明会」という名の直接対決を行ったり、ついには調停になり、実質「負け」の調停案を出されたりと、前回までのエントリーで、このブログでは一程結論めいた確認をせざるえなかった「法律的に問題なければ建設できる」方向でリアルでもやはり進んできていた。
 それでも調停案を受け入れることができない「人の子の親」としては、裁判闘争をおこし最後まで抵抗する覚悟はできていた。引き続き業者側には、「人間としてどうですか」とか「経営が上手くいくとお思いですか」という心理的プレッシャーは、並行して訴えている。
 OBのワタシに、ちょいと遅れて入ってきたのが、業者側弁護士よりの「建設中止を検討する」という文書が届いた、という情報。

 これまでは「説明会」を拒んでいた先方より、会いたい、と連絡があったということで、同席させてもらうことになる。
 「諸事情により建設中止を検討している」と文書にあり、その「諸事情」とは何か?を聞いてみたが、(実は遅れてしか行けなかったので肝心のとこを聞き損ねたが)「諸事情」は「諸事情」だ、という説明だったようだ。
 「建設中止の検討」にあたり先方が購入した土地をどうするか、、、ということでもう少し面白い話しを書けるのだけど、こんな過疎ブログといえども細かな内容はことの進展に影響があるといけないので、まだ書くのをやめておこう。

 このブログはこのブログらしく、心象的展開、運動的展開で話しをすすめる。

 まず印象的だったのが、美形の弁護士が笑顔で話していたこと。前回までの、頬が硬直し、ワタシたちの善に基づくの意見は一切聞き入れないと決め込んでいた説明会とは、まるで表情がちがう、優しいお姉さん、と言う感じだった。
 弁護士がある仕事を引き受けた。仕事にはいると思わぬ非人道的な悪者に仕立て上げられた。個人的感情を固くガードしていたに違いない。今回仕事により殺された個人的感情が解放されたという感じ。ただ、「あまりに損害が酷くなるような建設中止になるようであれば、やはり元の計画とおり建設を行う」とも言うのだから微妙なのだが・・・・
 それでもやはり、間にたち雇い主のゴリ押しを代弁しなければならない仕事であるとこの弁護士さんとしては、ホッとしたに違いないと感じさせる笑顔なんだよな。これ、先方と一口でいうが、矢面に立たないで蔭でソロバンを弾いている者と、直に対峙して「子どものお日様云々・・・」と悲痛に叫ぶ訴えを聞く者では相当温度差があるのではないか、と感じる。

 まだ中間でしかないが、運動的にはどうだったのか。
 まず現実として法的に問題がない有料老人ホーム建設を「建設中止の検討(実質建設中止)」という判断をさせたのは、運動の成果としたい。古い言葉でいえば勝利を勝ち取ったと言えるのではないか!!
 たとえ、それが心の底から「子どもの成長にとって環境が重要で、日照もまた需要な環境条件なのだ」ということの理解ではなく、「反対運動が鬱陶しいし、運営も面倒臭そう」という理由だったとしても。でも、「ほんとうのこと」を言えば、前者の理由を自らの問題として理解してもらったうで、昨日の敵は今日の仲間という関係を築きあげることが「運動」であり、目的でないのか? そこを目指す運動に「勝利」という言葉は似つかわしくはなく、つまり「ほんとう」の運動には勝利はない、と言いたいとこだな。
 
 でもね、弁護士の笑顔を見られたことはちょっと「ほんとうのこと」があるのでないか、とも感じている。 


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この記事へのコメント

平行連晶
2013年08月25日 23:39
夢枕獏の小説を元にした、板垣恵介著の『餓狼伝』という漫画がありましてね。

作中の台詞に「強さとは、“我を通せこと”」ってのがあるんです。

少年時代に夢枕獏の小説は幾らか読んだことがあり、『キマイラ・吼』シリーズにも同様の台詞があったように記憶しています。
主人公の少年、大鳳吼に師匠の真壁雲斎が、強くなりたいなら、金持ちになればいい。腕力よりは金の方が強いから等と説く場面もありました。

強者が勝利するのが常である以上、勝利もまた、我が通った結果と言い得るでしょう。
しかし個人的な感慨としては、「我を通す」ことには常に一抹の後ろめたさというか、負い目が伴うように思います。だから人は、勝利した時に、「努力の結果です」という“これは苦労と引き換えに手にした正当な報酬也”という主張を口にするのではないでしょうか。

互いに何かを手放すことにより、負い目を軽くすることができるのではないか、とも考えています。それは、負い目から逃避することに過ぎないのでしょうかね。
平行連晶
2013年08月25日 23:48
誤字訂正です。

「強さとは、“我を通せこと”」
→「強さとは、“我を通せること”」

相変わらずの書き損じで、すみません。

書きそびれましたが、子供さんたちの日照が保全されそうで、ひと安心しています。
同時に、過去のエントリに対し「子供さんたち自身に日照を大切に思っていることを絵や文章にしてもらったらどうでしょう?」とコメントしたことは、あれは子供さんをダシにした手管のようにも思え、失敗だったかなと自省しています。
あの時、自分自身にそういう意識はなかったのですが。
毒多
2013年08月26日 17:57
平行連晶さん、お久しぶりです。
リアル闘争はこんな展開になりました。

いろいろと意味深なコメントですね。真意を掴みきれないでいます。

>「強さとは我をとおせること」

これは今回誰のことを言っているのだろう?
子どものために何が何でも建設中止に追い込むという「我」を通した親の強さ、、、のことでしょうか?
でも、コメントの例えからすると、金に物を言わせて建設するという業者の我の強さのようにもとれる、、、「負い目」の話しにつながるのでおそらくこっちでしょうね。
ただ、親側のワタシにもやはり「負い目」はあります。

おそらく業者が断念したのも「負い目」でしょうし、ワタシが勝利ではないと書いたのも、なんらかの「負い目」のような気がします。
人の「負い目」とはなんでしょうか?
腕力、金力、数、ときに「正義」でさえ、力に任せて他者を抑えこむ、ことに「負い目」を感じるとするなら、「負い目」とは「良心」なのかもしれない、と思います。
「負い目」から逃げきれずに、悶々としているほうが人間らしいと感じる。どんな欲に目が眩んだものでさえ、「良心」は捨てきれない、と信じたいしね。

あ、ちなみに、ワタシは何も提案をしていませんが、子どもに絵は描かせていたみたいですよ。というか、窓に暗幕をはって、実際の暗闇を体験させたうえでの絵で、無理やり書かせたわけでないので、いいと思いますが


平行連晶
2013年08月26日 22:31
鎌倉に、北条時宗により開創された円覚寺があります。
この寺では、禅宗に深く帰依した時宗の意向により、文永・弘安の役に没した鎌倉幕府軍と敵方である元軍(高麗軍を含む)の死者を隔てることなく共に供養しています。

中世の武人は、他者を倒し・排撃し・屈服させる…勝利することの苦さ・負い目を知っていたのだと思います。

個人的には良心という言葉が今ひとつしっくり来ないので、「慈悲」と呼んでいます。ただ、人によっては抹香臭く感じる言葉かもしれませんね。

どうにも争わざるを得ない事態に身を置いた際、勝つことの苦さを知る者と知らない者とでは、根本的に何かが違ってくると思います。
何人であれ「100%の理」があることは稀です。だからこそ、我を通すことには苦さや負い目が伴う。敗者の痛みを我が物として感じる。

あとはその苦さを直視するか、無いものとして振舞うかのどちらかなんじゃないですかね?
平行連晶
2013年08月26日 22:56
追記です。

ディベロッパー側の弁護士さんに笑顔があったというエピソードに、私も救われました。

今回の一件で、弁護士さん自身が救われていれば良いなぁとも、思っています。
もし弁護士さんが勝っていれば、彼女は恐らく心の澱を抱えることになったのではないでしょうか。たぶんね。
毒多
2013年08月29日 03:30
敗者=犠牲者となる場合ですね。
勝者はやはり「多少の犠牲は仕方がない」と言いうのか? その言葉自体に「負い目」があると感じます。
ワタシの語感としてそのときの負い目と「慈悲」はちょっと違うのですが(笑)、個々の語感なので仕方ないのか、、、(言葉というのは共通の語感ではじめて意思疎通できるもの、という前提があれば、これもまた思索のテーマになりそうですね)。

ひとつ考えたのは、「100%の理」があれば、勝者となったときに「負い目」は感じないのかな? という想像です。やはり、なんらかの負い目は感じる気もする。
自らの「負い目」を把握し、軌道修正したときに、オノレに対して、オノレが勝者になる、、、という言い回しは、カッコつけ過ぎかな(笑)
毒多
2013年08月29日 03:34
おっと、書き忘れ。
弁護士の笑顔には、ワタシもほんとうに救われました。
ただ、弁護士というのも因果な商売だなぁ、とも思っています。オノレの良心に蓋をしなければならないことが多ければ、やがて歪んでいく気もするのですが、、、。

平行連晶
2013年08月30日 02:14
「100%の理」なんて現実にはほとんどありませんよ。
今回の件を引き合いに出すと、地主さんにせよディベロッパーの担当者さんにせよ余暇利用の一環としてマネー蒐集に興じていたわけではないでしょう。
食べていくための活動です。

弁護士さんにしても、顧客の希望を叶える…ロイヤリティってやつですね…それ自体は良いことのはずです。彼らには彼らにとっての理があります。

その活動が「他者から日照を奪う」なる侵害に繋がってしまっただけで。

伊能忠敬は江戸時代に国中を歩き回って測量し、精確な日本地図を作成した人として有名ですが、彼は米の買占めで巨富を蓄え(その年の収穫高を読んで予め買い付けを行う、いわゆる先物取引です)、現在の金額に換算して数十億円の資産を有していたそうです。
米の買占め・米価の吊り上げという一面だけを採れば、伊能は村上ファンドのおっさんなんかと同類ですよ。でも彼にはまた別の面があった。

伊能は蓄財した資金を、長期に亘る一大測量事業に惜しみなく投じたといいます。これまた数十億に上る、完全な持ち出し。また天明の大飢饉の際には米を拠出して民を救済したそうです。そのため伊能の地元佐原では餓死者をひとりも出さなかったと聞きます。

あるいは地主さんにも、私からは見えない「別の面」があるのかも知れない。いずれにせよ私は、一つの面を見る視点しか持たない。これは単に、データが不足しているというだけの話ではありません。先の伊能を引き合いに出せば、いずれ測量や飢饉に投じる資金調達のために買占めをしていた、とは言えない。それは、彼のその後の活動を知っているから別の視点が得られる、というだけの話です。

稀なる「100%の理」というのは、人間が意図せずに神の道に踏み入ってしまった時になら在り得るのかも知れませんね。でもたぶん、その瞬間を自覚はできないでしょう。
ダジャレイ夫人の付人
2013年08月30日 05:46
ご無沙汰しております。
小規模連系の保育園に子どもを通わせた者として一言
名古屋の日照権問題で話題になるのはいつも小規模連系の保育園ばかり。
「運動会」的体質を有しているからでしょうか?
推測ですが他の保育園などはそ´もそも「運動」が成立せず何事もなかったように事態が進んで行くように思います。
(続きます。)
ダジャレイ夫人の付人
2013年08月30日 06:02
(続きです。)
ただ今回の「運動」の相手が役所のように「無人格的な官僚組織」ではないため「負い目」を感じるように思います。
相手の「身体性」というか生身の人間であることに毒多さんが美人弁護士などに感じてしまったのではないでしょうか。
毒多
2013年08月30日 18:31
平行連晶さん

>「100%の理」なんて現実にはほとんどありませんよ

でしょうね。仮にあったとしても、という想定はあまり意味がなかったかもしれないかな。
どうも「慈悲」からの妄想で、仏を思い浮かべ、仏ならば100%の理があるかもしれない。では、仏は「負い目」がないのだろうか、、、と、、妄想が続いたことを、引きずったまま、コメントしました。
形而上ですね。
仰るとおり、地上で「生活」する人間が感知できるものではないでしょう。

地上で生活する人間は、
仰るように個の多面性は当然あり、その一面だけが個の全てでないことは当然で、前提でしょうね。
議論のうえでは、特定の一面がクローズアップされるは仕方ないとは思いますが、その一面で「全否定」しないように、、、、、最近はけっこう気をつけているつもりです。(ブログでもリアルでも)

毒多
2013年08月30日 18:31
ダジャレイ夫人の付人さん、お久しぶりです。
コメありがとうございます。

小規模連は闘う歴史とともに歩んできているので、イケイケでしょうね。他の保育園の生い立ちはよく解らないのですが、抵抗運動はしないのかな? 人知れず日陰になっているのだろうか? よく知りません。

>なにごともなく、事態がすすんでいく、、、のか、、、

心苦しいですね。
ただ、小規模連といえども内情は随分変わってきているようです。
あまり「運動」に熱心でない親が増えてきているとか、、、?
世代なのか、求心力なのか、、、、この空気もそこに身をおいてないので解りません。

役所が頑なに無人格を貫く、、この辺りは、弁護士の仕事、との対比を想像しました。
今回、地主、デベロッパーに弁護士からのアドバイスがあったかどうかわかりませんが、心が動いた。それで弁護士も笑うことができた。でも、地主・デベロッパーが意地でも変わらなければ、弁護士は顔を硬直させたまま、ずっとその立場で対峙しなければならない。

前回までの弁護士のように顔を硬直させ、無表情でことをすすめる役所の人の、、地主・デベロッパー的位置の人は誰に当たるのでしょう?
ワタシたちの叫びに表情を変えない役所の人の地主・デベロッパーは、実は市民かもしれない、と考えることもできるかもです。

ダジャレイ夫人の付人
2013年08月31日 09:11
私も他の園の状況を知っているわけではないのですが、こうした運動を行うには父母と保育者との信頼関係が大事です。
小規模連以外の園ではそうした関係を築くのがなかなか難しいと思います。

毒多さんの意見にもあるように最近の父母の意識も変わってきているように思います。学童の運営でも感じことですが、私は小規模連がその名に反して「大規模化」したことに関係しているからではないかと思います。
(時間の関係で途中ですが続きは後ほど)
毒多
2013年09月01日 10:52
ダジャレイ夫人の付人さん、続きはのちほどということで、少しだけ。

そうですね。なんでもみんなで力を合わせて頑張って創りあげよう、、、というときの結束と、一程度できてしまってからの「権力の維持」、、、、出来上がってしまった既成事実のなかに新しく入ってくる者の意識、、、、大きな隔たりはあるかもしれません。

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