「カンタ!ティモール」(2)・・・堕胎みたび

 映画のなかには、いくつもメモを取りたいセンテンスや言葉が流れた。講演でもなく、DVDでもないのでメモをとることもなく流されていく。よって記憶が定かではない。間違いがあるかもしれない。それでも何とか思い出して綴りたい。もし記憶違いがあれば、指摘して欲しい。
 まず前のコメントでも書いたが、何と言っても「自分の家族、親友を目の前で虐殺したインドネシア兵士と闘うためゲリラになり森に潜み、潜む間も毒蛇に噛まれ死ぬという環境を強いられ、それで捕虜にした敵兵士を言葉によって自分たちの生き方を納得させ、暴力的報復をすることなく、敵に国へ帰す」と語るシーンである。このやり方は葛藤の末のオノレを律した行動でなく、非暴力というポリシーや教えに従った行動でなく、また誰それ個人の行動ではなく、東ティモールの民の生き方そのものであるということ。だと理解した。
 「人間ならもっていて当たり前」と誰もがおもう「負・闇」の部分。「負・闇」を克服するとか、「負・闇」を分析するとか、「負・闇」を隠匿するとか、、、まったく無縁と感じさせる、前提であるはずの「負・闇」がない、という生きかた、なのだ。
 たとえばあの母子殺人事件をブログで書いたときを思い出す。妻と子をなぶられ殺され、この手で殺したいと言ったひとりの人間に、その苦しみや怒りのあまり報復したいという「負・闇」が皆にわかるのが前提だった。罪をおかした犯人は、その「報いを受ける」のが当然で、「死ね、死ね、死ね、殺せ、殺せ、殺せ」と飛び交う声はそれをストレートに表明し、それは違うと反論するのも、気持ちは解るがちょっとまて、と葛藤しながら思索するものだった。つまり「報復したい」が解るが前提だったのだ、その「負・闇」を克服するのも、水に流すのもその前提があってのこと。
 ところが、そうじゃないのだ。当然だと思っていた前提がないのだ。
 前提がない。なんてこった、、、である。ここまで書いてきたブログの根底が覆された。

 この映画を「堕胎ふたたび」とエントリーを書いている途中に観に行った。観終わり帰ってきて再び書きかけの文書に向かい合う。なんだかなぁ、と呟いた。

 東ティモールは日本にくらべ非常に厳しい環境である。インフラ整備などされてない。医者も稀である。これだけでも、今の日本人にとっては子どもを産むのを躊躇するものは多いのではないか? いやいや何よりもインドネシア軍が攻めてくる。自分がいつ殺されるか解らない。いつ家が焼き払われるか解らない。日本にいて環境が厳しいと中絶するものに「甘えるんじゃない、東ティモールではこんなんなんだ」と言いたいわけではない。日本人の誰が戦時下の東ティモールという環境で子どもを望むのだろう。少なくともワタシには無理だ。
 映画に戻る。インドネシアに捕まり、明日にも処刑される東ティモールの兵士同志が呟きあう。
 「おまえはまだいい、東ティモールを受け継ぐ子どもをひとりつくることができた。オレには子どもがいない」と。
 父親が殺された子どもはどうするか?
 東ティモールには、「甥」「姪」という言葉がないという。日本でいうところの叔母がみな「母」なのだそうだ。産んだ親がなくても孤児になる確立が低い。子どもを育てるということだけでなく、皆の田を皆が耕作し、誰かの家が必要になれば皆で建築する。ホームレスもほとんどみないらしい。という環境である。
 自分が東ティモールの子どもを育て、自分が死んでも東ティモールの親が育ててくれる、子どもは東ティモールがつづくために必要なんだ、、という国に堕胎はあるのか? おそらくないんだろうなぁ、と思う。
 環境がととのってないから堕胎もしかたない、という前提が解り、さてどう考えるかと思索するも、生態系維持のハードルがやたら高く、堕胎もあるのよなぁ、と感じるものも日本なんだ、と思う。
 インフラ整備とかの環境をあげたが、本質的な意味での環境が違うのである。

前の前のコメ欄で紹介したが、埋もれるだろうから再度紹介したいブログ記事がある。


妊婦の血液でのダウン症判定が遂に解禁!(ダメ主婦の恨み日記)


日本の環境の問題が切実に語られていると感じる。




〈追記〉



 東ティモールの女達がインドネシアにレイプされた。血である。映画「サラエボの花」でも描かれた「民族浄化」というやつだ。おそらく前提が同じであろう「サラエボの花」では、苦悩と克服、人間の強さをにじませ葛藤させながら観た。そうした前提のない身篭った東ティモールの女はその胎児を、子どもを、どうしたのだろう? 映画では語られなかったが、、きっと、、、、、だと思う。

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この記事へのコメント

すぺーすのいど
2012年12月05日 13:57
ご無沙汰しております。
なんかスゴくみたくなりました。
来年早々に名古屋でやるみたいなのでみに行こうかなぁ。
毒多
2012年12月05日 16:04
すぺーすのいどさん、こんにちは。
山梨までいかれたそうですね。盛り上がったようでよかったですね。

この映画はほんとうにお薦めです。
ご予定があえば、是非。
ただし、ワタシは「カンタ!ティモール」HPの上映スケジュールの時間を見て会場へ行ったのですが、開演時間が30分違っていた。
余裕をもって行ったつもりだったのに、着いた時、映画は既に始まっていました。ちゃんと主催者に確認してから行ったほうが無難かもしれません。

愚樵
2012年12月06日 04:07
ダメ主婦さんの方から、話をさせてもらいますね。

>日本の環境の問題が切実に語られていると感じる。

そう。そして、その環境を内面化してしまっている。だから彼女は、自身が殺人者となる業を背負うと語っています。

この内面化は魂の「蓋」です。ダメ主婦さんの文章を読んでみると、本当は殺したくないということがひしひしと伝わってきます。

彼女は卑怯者ではありません。でも、嘘付きです。誰に嘘をついているのか。自分に嘘をついている。

私は前に、「殺すなら自分の手で殺せ」と言いました。で、彼女は自分の手で殺そうとした。だからヨシ、ではない。この言葉はあくまで卑怯者に対するもの。

殺人者には「自分に嘘をつくな。魂の蓋を外せ」といいたい。
愚樵
2012年12月06日 04:29
次は『カンタ! ティモール』に登場してくるティモールの人たちです。彼らは、なぜ、あんなふうに生きることが出来るのか。

私は、彼らは小さなガンディーだと思いました。「サティーヤ・グラハ」をその生き方とする人々。サティーヤ・グラハとは、「真実を掴み取る」という意味だそうです。魂に「蓋」がされていない状態。

大切な人を奪われた。この体験は魂にとって強力な「蓋」になります。「蓋」の特徴は共有できるということです。

大切な人を奪われた苦しみや悲しみは、誰もが【共有】できます。だから容易に【蓋】になる。容易に共有できるという点で、貨幣も人権も科学も同じです。

彼らにはそうした「蓋」を撥ね除けることができる生命力があった。萌えているんです。

その「萌え」はどこから来たのか。『カンタ! ティモール』が描き出しているのは、まさにそこのところだと思います。「萌え」の根源です。
愚樵
2012年12月06日 04:52
もう一度、ダメ主婦さんに話を戻します。

彼女の置かれた環境、彼女の苦悩を私たちは【共有】できます。だからこそ、それを認めてはならない。

人と人とは断絶されています。個別のカラダを持っている、ということです。人の苦しみも悲しみも、そして喜びも、共有など不可能なんです。感情はカラダ(魂)の作動です。カラダを共有していない者が共有できる道理がないんです。アタマが【共有】したつもりにさせるだけです。

彼女の苦悩を〈共感〉しても【共有】してはならない。それは彼女が魂に【蓋】をすることを承認することになるからです。合わせて自分自身の【蓋】にもなってしまう。

毒多さんは

>日本の環境の問題が切実に語られていると感じる。

と述べました。その通りです。しかし、これだけでは卑怯者の言い草です。環境などというものが独立してあるのではない。ここでいう環境とは、私たちが【共有】してつくり上げた【蓋】でしかない。

(補足しておきますが、私は毒多さんが「それだけ」だとは思っていません。が、そうした「言い草」からは、人権思想の匂いは強く漂いますね。)
毒多
2012年12月06日 09:22
まずは愚樵さんに感謝。
ダメ主婦さんのブログを「おもしろい」と思い紹介したくなったのは、ダメ主婦さんに同意するからというものではなく、ワタシにエントリー(及びコメ欄)「ダウン症検査判定99%なり」および「堕胎ふたたび」の続きを導いてくれると感じたからです。ダメ主婦さんの言うことは解るんだが、なにか違う、それはなんだ? おそらくダメ主婦さんも自分で無理やり出した結論も「違う」と思っていると思います。いずれ、つづき、
に応えてくれて、ありがとう。理解を深めることができました。

以下ワタシのメモ

>環境を内面化

>自分に嘘をつく
それを
>【共有】できるから【蓋】になる。
>【蓋】は、真に生きる、本質的に生きるを疎外しるものである。
つまり
>【蓋】を認めてはいけない。
さらに
>【共有】したつもりは、【蓋】を承認すること
だから
>他者の【蓋】を承認し、自分に【蓋】をしてはいけない。
なぜなら
自分の本質的な生を疎外するから。

以上メモ終わり

毒多
2012年12月06日 09:23
つづき

ただし、解らない言葉はやはり解りませんね。

>「萌え」

という表現は解りません。ここでは始めてだし、あまり考えたことがないので自分の言葉ではないからです。【 】は解ります。でも解る人はほんの数人でしょう。ということが、全ての言葉に当てはまる、言葉というそういうものだと解ります。(コメ欄が管理人にむけてのみ話されているのはなく、不特定多数、もしくは、ここでは誰それにむけて話しているんだな、ということでしょう。それと遊び心。遊び心は好きですよ)


>卑怯者の言い草

ふむ、そうですね。指摘のセンテンスも(ティモールと比べながら)無意識に言いました。ワタシには卑怯者ってやつがホント痛いほど身に染み付いてますよ。憑依されていると言ってもいいほど。気をつけて卑怯者の言い草をしないようにする、ことはできるかもしれない。でも、それは違うでしょ? その都度ご指摘ください、ってのは甘えすぎだろうから、オノレで憑依を退散させるしかないのだが、、、アタマだけでは困難かな。

>人権思想の匂いが強く漂う

社会派人権ブログだったブログに向かい、こう指摘するのも、指摘されて「チッ!!」と舌打ちするのも、、、、、笑えますね。
このブログは昔からの訪問者が激減しています。

愚樵
2012年12月06日 10:47
宗純さんが的確に指摘をなさっています。

>何とかして科学の間違いを証明して、科学を否定したいのですよ。

私と関わっていると、仲間とみなされます。

>このブログは昔からの訪問者が激減しています。

そのようにみなされたということでしょう。

それが良きことかどうか、私はなんとも言えません。ただ、毒多さんは毒多さんです。

科学は非常に有用です。有用だからこそ、多くの人が飲み込まれてしまった。貨幣も人権も同じ。

宗純さんをはじめ、自らを進歩的だと自認する人たちは、自らの有用性を証明したいのです。だから、科学に憑依する。人権に憑依する。新自由主義者なら貨幣に憑依する。

私もかつてはそうだったし、毒多さんもそうなのでしょう。

有用なものを利用するのは良いことです。けれど、憑依してはダメです。自らの有用性を証明することを至上命題としてしまうと、ほぼ間違いなく憑依へと堕ちます。それでは国家に憑依して自らの有用性を担保し、権力を振り回す官僚たちと本質的に違いはない。違いは、権力があるかないか、だけ。

権力がないから権力のある者にルサンチマンを抱く。結局、みな権力志向なのです。

毒多さんが「運動」に見切りを付けられたのは、おそらくはこの権力志向に嫌気がさしてのことだと、私は推測しています。

毒多さんが証明すべきは、毒多は毒多以外のなにものでもないということです。
毒多
2012年12月06日 17:45
わざわざ断る必要はないと思いますが、訪問者が激減したことを愚痴りたいわけでも嘆いているわけでもないです。当然の成り行きだと思ってますし、それでもまだ観ていてくれる人がいることを楽しいんでいます。いずれもワタシの変節というか(笑)、変化が要因でしょうね。
愚樵さんの仲間とみなされたから減ったなんて、、あなた自意識過剰、、、ですよん、なんちゃってね、爆!! すみません。

>有用なものを利用するのはいいが、憑依しちゃだめです

ほんとそのとおり。この辺りは意識していなければいけなさそうです。無意識のうちに憑依してしまう。もしかしたらデフォは「人間とは憑依するもの」かもしれないとさえ思う。それがデフォだという考えに「ちょっとまった」と言うのが東ティモールですね。

ワタシが運動に見切りをつけたのは、、、、そんな風におもわれるほど、高尚な人間でも、解っている人間でもないですよ。吐き気が止まらないほど「身体」を狂わせてしまったからです。「身体」の悲鳴をやっとアタマが聞いたのかもしれないな。でも、すこし身体が落ち着いた後もご存知通り社会派人権ブログでしたからね。ほんとアタマでっかちだ、笑。

すべてはワタシです。間違いありません。あっ、証明か、証明って?

すぺーすのいど
2012年12月07日 01:04
どくたさん、情報ありがとう。

ダウン判定と堕胎の件、そんな判断をしなくてはいけない状況が問題ですよね。
生まれる環境が中途半端で実際に問題が存在するのだから悩むのは当然で、現状と言う前提でどちらの判断をしても母親が責められるいわれは無いでしょうね。
生まれ来る子ども達に、受け入れるよ、受け入れられるよ、という環境を用意しておくのか、受け入れない、受け入れられない、という環境を用意しておくのか、大人がどうゆう世界を子ども達に用意してあげるのか、そこんところの問題なんでしょうね。
子ども達をどう受け入れるのか決めずに、その子の極一面だけを先にのぞき見出来る道具だけ出来てしまった、というところかな。
愚樵
2012年12月07日 05:14
>あなた自意識過剰

(^_^;)

>デフォは「人間とは憑依するもの」

人はなぜ憑依するか。というより、憑依できるのか。「想定」できるからです。アタマが優秀で、かえって「あるがまま」を観ることができないから。

>僕らが「生きている」というのは、「〈自然〉の地平」と「〈文化(言語)〉の地平」との重層的な地平を同時に生きている

というのはアキラさんの指摘ですが、「〈自然〉の地平」というのが「あるがまま」。憑依は「〈文化(言語)〉の地平」で起こる。「〈文化〉の地平」がなければヒトは人間ではありませんから、人間である以上、憑依はまず避けられないと言ってもいい。

けれど、自覚はできます。宗純さんがよく言っています。科学は善悪を判断しない。判断するのは正誤だ、と。キチンと科学の適応範囲を自覚すれば、憑依を自覚して回避することができる。

(ちなみに宗純さんの論理は、

「科学は善悪を判断しないので、善悪には意味が無い」
「善悪は宗教の範疇」
「宗教は科学でないから意味が無い」

です。科学に限界があることを知っていながら、限界を一生懸命否定しようとしている。なので、善悪を認めようとする私の態度が「科学を否定しようとしている」ように見えてしまう。結局、科学という地平に憑依しているんです。)

(という私の宗純さん批判に、宗純さんはどう応えるのか知りたいな...)
愚樵
2012年12月07日 05:20
>証明か、証明って?

ワタシを探り続け、「すべてはワタシである」と言明し続けることだと思います。

ワタシやアナタの声に耳を傾けると同時に、ワタシやアナタの「ワタシはこんな人間だ」というレッテル(想定)を拒否すること。
愚樵
2012年12月07日 05:28
「萌え」についても触れておきましょう。

世間的に「萌え」というと、例えばこんなもの

http://blog.radionikkei.jp/archives/200506/067/large-1119788612.jpg

ですが、私が世間的な言葉遣いをしないのはご存知のとおり。愚樵的に「萌え」というと、

http://sphotos-g.ak.fbcdn.net/hphotos-ak-ash3/556330_452496504787304_1289405300_n.jpg

という感じ。

そして『カンタ! ティモール』こそ、「萌え」の根源と純粋形、その強靱さとしなやかさを描いたもの、です。
毒多
2012年12月07日 07:55
すぺーすのいどさん

YWでやるんですね。近くていいや。ワタシがいった上映会より安いし(笑)。

ワタシが観に行ったのは、「堕胎」がテーマのエントリーを考えたり、コメ欄でやりとりしている途中でしたので、どうしても映画を観ながらそのテーマが浮かんでしまう。それで、こんなエントリーを書くことになった。
たまたま「堕胎」だったんですが、どんなテーマでも考えさせられることになるような気がします。
根底が違う。前提が違う。想定が違う。
自分が「この枠」のなかの環境あれこれについてしか考えていなかったのか、、、と、ワタシは思ってしまいました。
観るまえにあまりいろいろ言うのも、よくなさそうなので、やめときます(笑)
毒多
2012年12月07日 07:56
愚樵さん

>僕らが「生きている」というのは、「〈自然〉の地平」と「〈文化(言語)〉の地平」との重層的な地平を同時に生きている

これは解りやすく、名言ですね。アキラさんありがとう。ツイッターで紹介しとこかな(笑)
褒め倒して終わりでは失礼なので、愚樵さんのコメと合わせて思索しなければ。

重層的な地平を同時に生きている、、、そうか、そうだな。でももし2つの地平を重層ではなく同じ地平ではないか?と疑問を持つ。「〈自然〉の地平」が「主」で「〈文化(言語)〉の地平」が「従」という関係にしたいワタシがいる。それは重層ではなく主従じゃないのか、という思索。主従の関係が逆転してしまい、従がメインになってしまった。それが憑依。本来「主」を補完するための「従」が巨大化し「主」を飲み込んでしまったのがアタマデッカチ。
「主従」の関係がただしく留めているのが東ティモールで、「主」がなくなってしまったのが、他の多くの普通。

ああ、重層的であればいいのか。主を上層、従を下層として上層を支えるために下層があると考えればいいわけだ。
これが重層的な地平ではなく、別の地平になっていることが問題なわけだな。いずれにしろそこの自覚と思索が必要になるワタシは別の地平だと考えているから。東ティモールの人々は自覚が必要がないのは、もとより解っているから。何故わかっているんだ?

毒多
2012年12月07日 07:56
>宗純さん批判に宗純さんがどう答えるか?

噛み合わず不毛になる、と予測します。何十回と繰り返したのをみましたから。でも諦めきれない愚樵さんはいい人です。

>萌え

二枚の画像みました、、、わからん(笑)
後者の画像、微笑ましく笑えます。が、ワタシにはまだ「萌え」という言葉とは結びつかない。この「思わず緊張(こわばり)が溶け、力が抜けてしまう感覚」が愚樵さんの「萌え」なんだ、ということは受け取っておきます。ああ、「カンタ!ティモール」は「思わず緊張(こわばり)が溶け、力が抜けてしまう感覚」ってことを「萌え」と一言の言葉でいいたかったわけか。。。それならば納得。(とはいえ、ワタシはまだ「萌え」一言でそこまでは解りません。)

>強靱さとしなやかさを描いたもの
という表現は解り、同意できます。

毒多
2012年12月07日 08:31
書き忘れ。

宗純さんの件でのワタシの「予想」は外れればいいと思っています。
すぺーすのいど
2012年12月07日 12:51
大丈夫ですよ。
映画と堕胎の関係度は理解しています。
この映画は愚樵さんのエントリで知って「面白そうだな」と思ってました。でもそこまでだったんですけど、どくたさんのこのエントリ読んで「是非観たい!」と思いました。
これは縁です。従うのが自然かと思います。
毒多
2012年12月07日 13:39
空論じゃなくて、戯言で「是非観たい!」ですね?
イヒヒヒヒ、してやったり(ドヤ顔)
というワタシは空論で始めて知って行きましたが、爆!!
平行連晶
2012年12月07日 22:26
>「負・闇」がない、という生きかた

8人の兄弟をインドネシア軍に殺された男が、カメラから視線を外して空を見つめつつ「憎しみは無い」と言ったとき、この人は憎しみを識っている、と私は感じました。

日本語の字幕を追って観ていたので、原語で語った言葉とのズレがあるかもしれません。その分だけ割り引いて考えなければいけない。
それでも、元から憎しみを知らない人から「憎しみはない」という言葉は出てこないと思います。

憎しみはない、のでなく、憎みはしない。
そんな意志の顕れに見えました。
彼や、彼と同じ境涯の人々は、己の憎しみを預けることの出来る何物(何者)かを持っている。そのように見えます。

基本的に、人間が好きな人たちなのでしょう。

水木しげるの『カランコロン漂泊記』に、出征中に仲良くなったニューギニアの原住民たちとのやり取りが出てきます。
彼らは占領軍側の水木が引き揚げる際、「日本に帰ったらいかん」「俺達と暮らせ」「家も畑も作ってやる」「嫁も探してやる」と涙を流して別れを惜しんだそうですよ。水木は原住民たちを「勇ましくはなかったが、幸福そうに見えた」と述懐しています。

映画に出てくる東ティモールの人たちを見ながら、水木の漫画を思い出していました。だから正直この映画をみて、あまり驚きはなかった。
ああ、やっぱり、そうなんだ……という感慨。

愚樵さんのところにも書きましたが、私自身は東ティモールの人々のようにも、インドネシア軍人のようにも、どちらにもなれる。そう思います。同じ人間、どちらか片方にしかなれないとは感じない。どちらにも共感を覚えます。

あとは、どちらを選んだ方が面白いか、だと思っています。自分の意志の問題。
平行連晶
2012年12月07日 23:00
淋しさを何物かに預けるよりも、憎しみを何物かに預ける方が容易い。
そう感じます。

それらよりも遥かに容易いのは、淋しさを隠して憎しみに身を任せること。
アキラ
2012年12月08日 09:23
こんにちは。

わたくし、『カンタ!ティモール』を観ていないでものを言っちゃうわけですが。。。 (^_^;)

僕も平行連晶さんと同じようなことを想っています。
件の東ティモールの人たちを 東ティモールの人たちたらしめているのは、まさに「〈文化(言語)〉の地平」での「意志」の話のように思うんです。

僕らが「生きている」というのは、「〈自然〉の地平」と「〈文化(言語)〉の地平」との重層的な地平を同時に生きている・・・・
という「重層的に同時に」というイメージは、重層的なんだけど地層みたいには重なってないと思うんですよ。
生まれ落ちた瞬間、いや生まれる前から僕らは「〈文化(言語)〉の地平」のド内側にいるわけですから。

ですから、「〈自然〉の地平」と「〈文化(言語)〉の地平」とは、簡単に色分けできないほど混ざっていて、しかも分けることのできないドドメ色。
それが人間なんだと思います。

だから僕自身は、平行連晶さんと同じように、東ティモールの人々のようにも、インドネシア軍人のようにも、どちらにもなれる、と思います。
映画を観てないんですけど、そういう想像をします。
アキラ
2012年12月08日 09:26
追伸です。

愚樵さんには直接言ったんですが、あの2枚目の「萌え」写真は(というか、その事実・・というか、「それ」は)、サイコーですよね。 (^o^)
愚樵
2012年12月09日 05:52
「萌え」について、再度。

通俗的な「萌え」のことは忘れて、“萌え”という言葉のもともとの意味から考えてみたいんです。

“萌える”というのは「萌芽」です。「芽」は裡に秘められた生命力が、外へと形になり始めたもの。そう考えると、“萌える”主体は、生命力だ、ということになる。

そう考えると、「萌え」とは生命力の発動だと観ることができる。

二枚の画像の前者。通俗的「萌え」。三次元から二次元へと後退してしまって歪になっていますが、それでも生命力の発動であることに変わりはない。

後者。空を飛ぶ鳥を捕まえようとしてます。通俗的「萌え」には歪んだ性的イメージ、つまり未熟な大人のものという感触がありますが、それを忘れると、性的に成熟し始める前の子どもだって萌えるのは、当たり前だと言える。

とても健全な「萌え」の姿だと思います。

さらに象徴的にいうと。「鳥」は「夢」のイメージです。夢を捕まえるというのも、これまた「萌え」です。すぺーすのいどさんが拙宅のコメントで「萌え」=「恋」と繋げましたが、「恋」が異性対象ということを忘れて一般化すると、“鳥を捕まえる”だって「恋」だと言える。

後者の絵が微笑ましいのは、子どもの「恋」だからです。ままごとだから。これが大人だと、微笑ましいだけでは済まない。大人の「恋」には悲劇がつきもの。

捕まえた鳥はどうするのか? 殺して食べるのか? そうなると、もはや「萌え=恋」ではない。次のステージ。「恋」なら「愛」になる。

堕胎云々で始まった一連の話は、実は「愛」についての話。「愛」は複雑怪奇。
愚樵
2012年12月09日 06:28
上の話を東ティモールへと繋げます。「恋」の言葉を使った方がイメージしやすいでしょう。

『カンタ!ティモール』は、ティモールに「恋」した広田奈津子さんが彼女自身の「恋」を形にしようとして撮ったものです。「恋」ですから当人は突き動かされてしまっていて、どうしようもない。

(広田さんの突き動かされた話は、お聞きになりました?)

で。何を撮ったかというと、「東ティモールの人たちの「恋」」をしている。東ティモールの人たちも「恋」をしている。だれに? ティモールに、です。実はここにすでに「〈文化(言語)〉の地平」が潜んでいる。ティモールの人たちが、「(東)ティモール」と意識したときに。「ティモール」は「〈文化(言語)〉の地平」の産物ですから。

実際、『カンタ!ティモール』の中にもナショナリズムを感じさせる部分がある。
(ティモールを発展させるべきかどうかという若者たちの議論が、ちらと出てくる。)

けれど、『カンタ!ティモール』はナショナリズムを描いたものではないのは明らか。ティモール人になるかインドネシア人になるかいった「選択」と「意志」の問題を取り上げた映画だとも思わない。

こういうことをいうと、また誤解を招くかもしれませんが、「恋」は相手は誰でもいいのです。大切なのは「恋する」こと。まず先に生命力の〈萌え〉があって、それが対象を見つけると「恋」になる。そして「恋」になった時点で「意志」が生まれる。

萌え→対象の発見(意識)→恋→意志の順番です。

その意味からすると、平行連晶さんは、私とは逆さまに見ているように思います。
(もちろん、どちらの観方が正しいという話をしたいわけではありません。)

(「恋に恋する」はまた別の話。自我と自己の話になります。)
愚樵
2012年12月09日 06:45
アキラさんが私からの見えれば逆さまの平行連晶さんに共感を示すのも、頷けることです。というのも、アキラさんが修行している野口整体は、そのための技法。私は「負の技術」と呼びますが、「負」である所以は根源の方へと遡るからです。

しかし、『カンタ! ティモール』はそういう技法の話ではない。

私は『カンタ! ティモール』は「萌え」の根源と純粋形を捉えたものだと評しました。人間の生命力の在処を描いたもの。

実際、その生命力がインドネシア軍が用いた機械力に勝利した。が、「勝利」は表立っては描かれません。それどころか、勝利などどうでもいいのだ、という気配さえある。

「意志」の根源である「萌え」の物語です。「萌え」さえすれば、後は二の次、という話。

私が『カンタ! ティモール』から考えるのは、ヒトという生物種は、どういった環境下にあるときに最も「萌える」のか、ということ。最適な「萌え環境」とはどういうものなのか。そこから経済の話へと繋がる。

ティモールと、ダウン症検査の結果によっては母親が殺すと「意志」してしまう今の日本と、どちらが「萌え環境」としては良好か。いうまでもないでしょう。
アキラ
2012年12月09日 12:20
確かに愚樵さんが仰るように、上の僕のコメントはちょっと誤解を招いてしまうかも、ですね。
すみません、補足します。

「意志」の問題だろうと言ったのは、前のエントリーにコメントした「要はアタマの使いようだろう」と同じようなニュアンスです。

つまり、「〈 自然〉の地平」に足をつけて生きているということは大前提だということ。
そこを抜かされてしまうと、誤解されてしまうかな・・と思いました。

自分の暮らし、あるいは人々の暮らしが、どういう「秩序(コスモス)」で廻っているか、だと思うんですよね。
僕らは「秩序(コスモス)」を望む生き物ですから。

東ティモールの人々の暮らしを「秩序」立てているのは、「〈 自然〉の地平」なんだろうと思います。
一方、僕らの社会のほとんどを「秩序」立てているのは、「〈文化(言語)〉の 地平」のいろいろな「イズム」ですよね。

「〈文化(言語)〉の 地平」を「秩序(コスモス)」と感じていると、「〈 自然〉の地平」は「カオス」です。

で、「〈 自然〉の地平」を「秩序(コスモス)」と感じていると、しかしそこにも「カオス」はあります。
僕らが自然のすべてを把握し理解することはできないので、その理解できない部分は常に「カオス」と感じる。

ですので、いずれのところに「秩序」をおいても「カオス」は存在する。
その上で、どこに「秩序(コスモス)」をおくか。
そこに「意志」なり「アタマの使いよう」が出てくると思ってます。
平行連晶
2012年12月09日 14:42
>アキラさん
>僕らは「秩序(コスモス)」を望む生き物ですから

望む…というよりも、事物に秩序(因果或いは相関性)を見出せない状態にまるで耐えられないんですよ。人間は。

だから宗教や科学が生まれてきたのでしょう。
虫や鳥、獣も事物に差異を見出すことはできる。魚や蛇くらいになれば飼い主がケージ・水槽を覗けば餌がもらえると思って寄って来る。むかし飼ってた蛇なんか顔を寄せてきて私の顔を舐めましたよ。
人が近づく→餌、のような相関関係を把握できます。そういうアビリティはある。

しかし人間は違います。ランダムに生じる不確定な事象からさえ何らかの因果・相関関係を導き出そうと欲する。意志する。

統合失調症が非常に苦しいのは、幻覚が生じることでなく、内的に捉えられる世界から秩序が失われることだそうです。

「どこか不穏な冴えです。超覚醒の中で神経が鋭くとがってきます。(中略)外界はちりぢりに断片化し、無数のきれぎれの意味や暗示(ほのめかし)がめまぐるしく散乱かつ殺到する世界になっていきます。(中略)やがて頭の中もまわりの世界も意味なき意味の乱舞のような状態におちいり、錯乱状態と見えるようになります。」(滝川一廣『こころの本質とは何か』より抜粋)

世界に秩序を見出し、世界に耐えるには、差異を見出し、境界を定め選択しなければならない。選択には意志が必要です。
世界を受容するにあたり、無意識の脳の働きだけに頼ることは不可能な生き物に進化してしまったのが人間なのではないでしょうか?
私たちは既に世界を意識してしまったのだから。
平行連晶
2012年12月09日 15:07
>愚樵さん
>ティモール人になるかインドネシア人になるかいった「選択」と「意志」の問題を取り上げた映画だとも思わない

>ティモールに「恋」した広田奈津子さんが彼女自身の「恋」を形にしようとして撮った

全く一切異論の余地はないです。仰るとおりです。
でもって、私は恋をしない人間なので(世間並みに何人かの女と付き合ったことはありますよ一応)、広田監督がティモールに恋して夢中になって突っ走っていく姿を、淡々と観察してしまうんですね。
完成した作品は、作り手の許を離れて受け手に委ねられるものだとも思っています。だから誤読してもたいがい平気でいます。

「発展は大事だよ」と主張するレオナールに、アレクシオ・ロペスが「村を出て行って近代化してしまえ!」とからかうシーンが好きでして。
「発展は大事」ってのは「都市文化の魅力はな捨てがたい」ってことですよね。
広田監督が恋するティモールの民、その1人はインドネシア軍に抵抗し独立を勝ち取り、そしてやっぱり俺は都市がいいナーと言っている。メタリカのTシャツ着て。
私は人間のそういう助平で現金なところが、結構好きなんですよ。
平行連晶
2012年12月09日 17:01
>「人間ならもっていて当たり前」と誰もがおもう「負・闇」

闇は既に自然の中にあるんですよ。
映画の中でも垣間見ることが出来たと思いますが、東ティモールの民は闇を怖れている。闇の中に息づく「何か」を怖れ、畏れている。彼らはそれを「精霊」という言葉で表している。

ずっと前ですが、TV番組でタンザニアのマコンデ族の話を観ましたよ。マコンデ族は黒檀を素材に自分達の夢に顕れる奇怪な精霊・悪霊の姿を彫る。彼らはその彫刻を「シェターニ」と呼びます。日が暮れて夜が訪れたら、彫らない。夜は「闇に棲むモノ」の支配する時間だから。彫刻を続けると、怖ろしい「闇に棲むモノ」がやって来る。

こういった人たちは、外側の世界に自分達の心を遥かに超える強大な「闇」の世界があると感じている。これはあくまで私の感性から導いた仮説ですが、外部世界に強い闇を感じ取ることの出来る人間は、己の内面にある闇を絶対視しなくなる。己の闇など取るに足らないものだという感覚を得るようになる。

人間が文明を発達させ、環境を人工物で覆い尽くし闇を放逐すると、残された闇は己の心の中のそれだけになってしまう。
己の中の闇が全て。人間と人工物しかない世界に生きれば、そうなって何の不思議もありません。

それと付けたりですが、私は幼子の中にも「闇」を感じ取りますよ。私は子供に聖性を感じますが、それは生得的に「聖なる慈しみ」「聖なる残忍さ」双方を抱いた両義的な存在に感じられるということです。
ティモール人にも、インドネシア兵にも、どちらにもなれるという実感は、目の前にある分かれ道のどちらかを選択するということでは、ないです。生まれた時からどちらも持っている。持っているものの中から己の意志でどちらを選ぶか、ということです。
アキラ
2012年12月09日 18:51
> 平行連晶さん

はい、ですから僕らは「どどめ色」であり「秩序(コスモス)」を望む生き物なんだと思います。
(^^)/
愚樵
2012年12月10日 05:06
以前私は、〈自生的秩序〉という言葉をテーマにしていたことがあります。自(おのず)ずから生まれる秩序。

それと対になるものを【自作的秩序】とでも呼びましょうか。自(みずか)ら作る秩序。

私たちが望む秩序は、さて、どちらか?

【自作的】だと「闇」を追い出そうとする。
〈自生的〉だと「闇」を受け入れようとする。

ダウン症検査が目的とするところは? 「闇」を追い出そうとしているわけでしょう。

>残された闇は己の心の中のそれだけになってしまう。

それすら消し去りたいと意志する。消せないのに。だから、目をつむって見ないことにする。隠蔽する。卑怯者になる。

それに対して私は「自分で殺せ」と言った。すなわち「闇を受け入れろ」と。

ここまで「意志」の問題です。〈自生的秩序〉への〈意志〉か。【自作的秩序】への【意志】か。〈内在的秩序〉vs【超越的秩序】と言い換えてもいい。
愚樵
2012年12月10日 05:16
〈自生的秩序〉であれ【自作的秩序】であれ、秩序は表現されなければならない。表現には言葉が用いられる。〈自生的秩序〉は「自然の地平」だけれども、言葉を用いた時点で「〈文化(言語)〉の 地平」が入り込む。

けれど、〈自生的秩序〉を表現する〈言葉〉と、【自作的秩序】を表現する【言葉】は、同じ言葉であっても、本質的な部分が異なる。

〈思索〉は〈自生的秩序〉を〈言葉〉に置き換える営為。
【思考】は【自作的秩序】を【言葉】で作り上げる営為。そして、【言葉】をリアルにするのが文明。

私たちが暮らしているのは文明社会。【思考】の社会。

ここもまだ「意志」の問題。
愚樵
2012年12月10日 05:32
子どものなかにも「闇」はある。微笑ましい子どもの「萌え」の中にも、「闇」はある。ただ大人がそれを見ようとしないだけ。

そもそも「萌え」は「闇」を内包している。もしくは、「萌え」は「闇」から生まれる。

相矛盾することばだけれど、どちらも正しい。同じものの観方が異なるだけ。

(ナウシカは、「命は闇のなかで瞬く光だ」と言った。命が生む闇を受け入れて、その言葉へと辿り着いた。)

「萌え」のなかに「闇」を見出したときに「意志」が生まれる、と言っていいのかしれない。

ならば、命が生んだ「闇」を受け入れる「意志」を持つことが「愛」だということになる。
毒多
2012年12月10日 15:06
ただいま戻りました。

ちょっとバタバタしていてブログを離れている間に有意義かつ解りやすい会話がされていて嬉しかったり、ワタシが混ざらないほうがスマートに話が進むのが悔しかったり・・・(笑)

東ティモールの人々に闇はない、としたほうが思索の上では解りやすいと思ったのですが、実際には、そんなことがあるわけないですね。平行連晶さんが挙げてくれた、
>「発展は大事だよ」と主張するレオナールに、アレクシオ・ロペスが「村を出て行って近代化してしまえ!」
は、覚えてます。名前やら台詞の詳細がわからず引用としては挙げれませんでしたが、、、カメラが向けられると、はにかんで、「撮るなよ」と笑う場面でしたね。

「闇」があるなら、それがないように見えるのは「環境」か「意志」か、といったワタシ自身のQを次のコメとして提出しようと思っていたのですが、すっかり話されていて、しかも深められていて納得してしまいました。、、、ほんと、ありがとう。
まだ発展しそうですが、ワタシはもうちょいバタバタしそうで、じっくり思索する時間がちょっと後になりそうなので、とりあえず、感謝のコメントを・・・

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