「お日様を護れ闘争中」(3)・・・貨幣価値至上主義と対峙する

 さて、またしても陽の光が奪われんとしている保育園の業者交渉にいってきた。
 近所でもなく、子どもはとうの昔に卒園した保育園に、夜わざわざいかずにはいられないのは、この福祉会から仕事をもらっているからか? 否、ワタシのなかの何かがそうさせているからに違いない。けっして楽しくなく、ストレスがたまるのだけどやはり行かずにはいられないと勝手に身体が動く。恐らく保育園も、仕事をあげているから来てくれ、とは思ってないと、思う(笑)。
 経過としては、子どものお日さまを奪わないでほしい、という保育園側の切望に対して業者側が少しづつ設計変更して案を出し直すことが続いている。もっとも、弁護士は「72床から65床にした、これ以上の妥協はできず、協議は打ち切る」と言う。その案は、冬至になると10時過ぎまで園庭にも保育室にも陽が当たらないというもの。
 ここまで妥協した案をだすんだから、保育園側もこの案を呑めという。
 10時過ぎ、、、、って、呑めるわけないだろ!!
 
 それにしても、つくづくこの国の法律(システム)は、貨幣価値を基準にきまっているんだなぁ、と思う。そこが0歳から5歳の子どもが生活する場であり、学説としても「日照」が必要だとしていて、情としても動物的な感性でも「日照」が必要だと感じるのが自然だと思うのに、採算重視の業者に有利なようにできている。
 業者との協議会といっても、実際に協議の場にでているのは、施主の弁護士と設計士だけなのだ。保育園を黙らせるために金で雇われた弁護士と、施主に雇われた設計士、貨幣価値しか背負ってないわけだからクールなものである。つまり、ゴリ押しだろうが、無理強いだろうが、子どもに陽が当たろうが、当たるまいが、後のことは知ったこっちゃない。報酬は建物が建つまでという「立場」である。
 施主は現場に投資(貨幣価値主義の最たるもの)し、実際に儲けるの現場責任は管理会社で、いずれも自らは協議会にでてこない。対人間から逃げ、みずからの罪悪感から逃げ、実際にそこで生活する子どもと対峙できない、貨幣のみで物事を進めようとする卑怯者である。雇われた弁護士は、貨幣価値至上主義である卑怯者(の施主)の代弁者で、個人としてもやはり貨幣価値至上主義となるのか? 人情はあるのだろうか?必要以上にクールに振舞っている、気もする。
 いずれにしろ、ここに建つのは、老人ホームであるのだが、老人を食い物にする貨幣価値至上主義であることは、ここまでの協議ややり方をみていれば、いうまでもない。
 72床を65床にした。これ以上譲れないと、建ったあとは関知しない弁護士は言い放つが、はたして「子どもの太陽を奪ったと揉めたおした」老人ホームが、そうした福祉の精神で65床にしても満床にすることができるのだろうか? 貨幣至上主義によって不幸な人間がふえないように、入居を予定する老人にもその精神:事実を教えて上げるしかなくなる。ここでゴリ押しをすると経営的にも拙いことになるという空気は、卑怯者の施主は弁護士にその空気さえ押し付けてしまい、無機質な数字しか頭の中にはないのだ。
 たとえ一度建ったとしても、奪った太陽を返せと言い続けるしかない。建ったそのときから「改築しろ」と要求し続けるしかない。親の子どもに対する愛情のなせる業であるし、それは健全な魂のがなせることだろ。そうなってから施主と管理会社は貨幣価値主義は狼狽えるのだろうか?


 いずれにしろ、この貨幣価値至上主義者はこの国の法律によって保護されている。
 この国自体が貨幣価値でうごき、そのように法律をつくっているわけだ。だからといって、貨幣至上主義に身を売るか、いやいや、身を売るという意識もなく、そこに毒されている自覚をするかどうかは、別問題である。感性が貨幣価値に反発し自然に身体がうごいてしまうその時がチャンスかもしれない。

 余談だが、弁護士というのも因果な仕事だなぁ。この国の貨幣価値基準の法律によって仕事をしなければならないわけだから。たとえ健全な精神をもっていても、貨幣価値主義に毒された者の弁護をするうちに序々に自らのソウルジェムが汚れていき、いずれ魔女になってしまうのだろうか?(いかん、また「まどマギ」に飛んでしまった、爆!!)

 
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

愚樵
2012年10月31日 04:35
子どもよりも老人の方が、カネになる。ただそれだけ。

将来おカネを生むのは子どもたちなのに。今、カネになる老人が優先。

まさに貨幣至上主義。



毒多
2012年10月31日 11:43
>将来おカネを生むのは子どもたち

微妙な書き方ですが、「カネ」とカタカナで書かれていることで、理解します(笑)。

こうした貨幣至上主義者は、「今」の「オノレ」に「より多く」の「貨幣」が流れこむかが、最大にして唯一の基準なのでしょうね。
「オノレ」で完結すれば、自業自得になるのでしょうが、子どもが「人間至上主義」に育つことを阻む可能性が大きい。また、子どもが貨幣至上主義に育つことを望んでいるんでしょう。それでまた「オノレ」が正しいと安心し、麻痺するのに役立つのでしょうから。

それ以上に、今回ふと思ったことは、この国の貨幣至上主義的法律を基準にしなければならない「弁護士」という職業の悲しさ。
「はぐれ弁護士、人情派」では、仕事がなりたたないのだろう、哀しさ。

愚樵
2012年11月01日 03:51
私たちも貨幣経済至上主義に加担しています。まちがいなく。ここをどう見据えるか。

「弁護士の哀しさ」を見出して、“他山の石”とするか。“対岸の火事”とするか。
毒多
2012年11月05日 15:04
やっと、ビッグローブのメンテが終ったようです。
アプローチしようと方がみえましたら、迷惑をおかけしてすみませんでした。

>愚樵さん

実は考えて長いレスをしたためたのですが、愚樵さんが粟島へ移住すると聞いたため、何かしら陳腐なものになってしまいました。
ワタシは粟島のことは知りませんが、移住の「気持ち」はなんとなく察することができそうです。とはいえ、今のワタシには無理です。

ところで、今の地へは、嫁はんの事情で移住したと思ってましたが、粟島移住は嫁はんと一緒にですか? 





平行連晶
2012年11月06日 09:36
>今のワタシには無理です

割り込んですみませんが、毒多さんはなぜ「無理」だとお考えになりますか? ご家族の生活環境を変えねばらならないからでしょうか。
私の場合は「無理」というより、自身を純然たる都市生活者に調整、生物としての生態が都市に適応した形になっているからです。

CANのダモ鈴木がインタビューで語っていたことです。バンドに誘われる前、北欧のド田舎に住んでいたことがあったそうで。孤独でさみしいので働かなくていいし住居も提供するから同居人求むという募集に応じたんです。
2年ほど住んで退屈さに耐えられず、そこを離れたとか。
ライヴの最中に奇声を発してステージから逐電、そのままCANを脱退してしまうような奇人ですが、だからといってシステムから離脱した暮らしが出来たかというとそうでもないんですね。

いまエドワード・グレイザーの『都市は人類最高の発明である』という本を読んでいて、読了していないので詳述は避けますけど、都市は人間の身体には極めて不適な面がある一方、脳にとっては極めて好適な空間なんですね。
これはお日様護れ~にも絡む問題で、何故近隣に日照問題を引き起こすような階数の高齢者入居施設に“需要がある”のか、という話にも繋がります。
平行連晶
2012年11月06日 09:59
現時点までは、貨幣経済(信用経済)は都市の必要条件。
では、都市は貨幣経済(信用経済)の必要条件でしょうか?
都市は農村というバックヤードを必要としますが、バックヤードとの交易に貨幣(信用経済)は未来永劫欠くことのできないものか?
ここが思案のしどころです。

お日様護れ~エントリについてどうも今ひとつ発言者が少ないのは、話が面白くないからでなく、問題が切実過ぎて切り込み方がよくわからないからなんじゃないですかね。
(おそらく)エレベーターが設置されるような階数の高齢者入居施設運営が(おそらく)希望するだけの入居者を得て機能する、こういう事象に貨幣が追随してくるわけです。
先立って貨幣があるわけでは、たぶんない。さて、どう対峙したものか。
平行連晶
2012年11月06日 10:11
補足です。

>ライヴの最中に奇声を発してステージから逐電、そのままCANを脱退

Wikipediaで確認したところ、バンドのリハーサル中に逐電したとありますね。私の記憶違いか…。
インタビューでは「月~金は勤勉なサラリーマンである」と語ったそうですが、これも眉唾かもねぇ…。
愚樵
2012年11月06日 19:06
毒多さん、平行連晶さん

粟島へは、とりあえず、単身赴任です。

>都市は人間の身体には極めて不適な面がある一方、脳にとっては極めて好適な空間なんですね

それはそうです。人間の脳が快楽を追究してする中で生みだしたのが都市なのですから。そういう意味では、インターネットも都市です。身体のことはほぼ無視できてしまう。となると、リアルな都市よりも、バーチャルなネットが「人類最高の発明」ではないのでしょうか?

それはさておき。問題は「至上主義」なんです。都市も貨幣も否定するものではないし、できるものでもない。ただ、価値観がそこへ収斂してしまうことが恐ろしい。貨幣を排除するのも、国民皆農民も、同様に恐ろしい。
平行連晶
2012年11月07日 00:29
>愚樵さん

ブログを通して感じる限り、愚樵さんの求める「樵道」と、現状の林業労働者の役回りはあまりに乖離しているように見えるので、粟島行きはとても善いことだと思います。

新天地を目指す愚樵さんを寿ぎます。恩寵あれ。

それにしても、前から思ってますが愚樵夫人は立派な方ですね。夫人がいなかったら今の愚樵さんはなかったでしょうね。

都市と貨幣についてですが、江戸には既にバブルが存在した(金含有率を下げた貨幣の乱造に由来する信用不安が土地投機を招いた)ようですから、都市の興隆は貨幣経済の伸長と分かちがたいものがあると思われます。

「至上主義」というと意識されるイデオロギーのようですが、むしろあまりに貨幣経済が身近で自明なものであることが、貨幣で処理できないものを見えなくしてしまうのではないかなと。

愚樵
2012年11月07日 06:18
平行連晶さん

わが夫人は、いろいろな意味で「立派」です。わはは。
毒多
2012年11月07日 08:19
平行連晶さん、おはようございます。

>今のワタシには無理です
これは突発的に書いてしまったのですが、何が「無理」かが核心なのでしょうね。

まず、何かを変えたいと思っているのかどうか?
変えるために、場所(環境)を変える必要があるのか?

愚樵さんの場合は、何かを変えたい野望があり、それに適した場所(環境)を変えることがベターである。ストレンジ性や困難な面はあるが「動かざる得ない」から移住する。となるのでしょうが、

ワタシの場合は何かを変えたいと思っている、と、思っているのですが、明快なビジョンが見えない。ワタシのなかに陥るものがわからない。場所(環境)を変えたところで、それが見えるかどうか解らない。いや、そもそも本当に何かを変えたいと思っているかどうか、を、オノレのなかでちゃんと考えなければならない。おそらく「身体」が動きたがれば、動かざる得なくなれば、動くのでしょうが、家族とか借金とかの「無理」という理由が先に頭にうかんでしまう。言い訳かもしれません。
と、いった状態で経済至上主義には染まらないが、利用できるところは利用している貧乏状況です。

環境が、田舎か都会かというのは本質の次の問題かな?(これもどうか解りません)。
ただ、ワタシは子どもの頃それなりの田舎に住んでいたので、回帰したいという思いがどこかにあります。虫やら鳥やら魚やらが好きであるというのも理由かな(笑)
ただ、ながいこと街に住んでいるとすでに街サイドに適応しているかもしれない。実際に田舎暮らしをするとどうなるか解りません、、、と、考えていくと、やはり、何かを変えたい(したい)と思っているのかどうか、そのために田舎がいい、という順番でなければならないのかな~。

毒多
2012年11月07日 08:19
愚樵さん、ツイッターではずけずけとスミマセン。

単身赴任ですか。ワタシのツレアイは、ワタシのブログをみていません。たしか愚樵さんのとこもでしたよね。愚樵さんのブログやらツイッターやらをみているワタシにとっても、おお、ビックリ、だったので、ツレアイさんにとっては唐突な話し(に近いの)では?、で、どう反応したんだ?
と、興味はそちらにいってしまいました。なんて下世話なんだ、とおもいますが、家族にとっては大きなことだと思いますので。
安冨さんのように、そこを切ることが歩む道というのと違い、家族の理解を得なければ、進むことはできないと思いますので、ちょっと聞いてみたくなりました。
ああ、そうだ、ワタシには家族を説得し、理解を得る明確なビジョンがないことをここでも再認識。

毒多
2012年11月07日 08:41
平行連晶さん、ふたたび

人間の快楽を求める具現が都市。なるほど。
しかしこの快楽もある一面の快楽なんでしょうね。たまに田舎へいきホッとするというのが物語っている。緊張をともなう快楽なのかな?
その快楽は本当の快楽なのか?
とは、いいながら、水汲みにいかなければ水がない、火を焚かなければ灯りがない、という生活はワタシにもできそうにありません。
ワタシのいう田舎は、田舎といってもある程度、快楽が保障される田舎ですね。
あとネットも必需。ネットがあると田舎という要素の多くは消えそうです。

本題のお日様のほうですが、ワタシの見方では、施主および管理会社は「貨幣」が先立っていると感じています。「老人」は貨幣を得るネタという感じですね。先方の話し、態度をみている限り・・・

平行連晶
2012年11月07日 22:53
>毒多さん

都市生活って、身体性を忘れさせるんですよね。都市は基本的に統御された予測可能な空間ですから、身体の予測不可能性と対立します。
で、「古い」生物を見れば誰でも分かるように本来身体が先で脳が後から複雑に組織化されてきたので、脳の機能のみを先鋭化させるのは生物的に無理があると思います。
夢野久作の『ドグラ・マグラ』なんかにも、脳は「交換器」であるのに脳自身がそれを忘れているなんてことが書かれていますが、言い得て妙だと思います。

他方、田舎と言っても…例えば私の郷里はド田舎ですけれども、生活道で切り刻まれた自然林と半ば放棄された里山が点在するものの、そこで暮らしている人たちの感覚は、私から見てほとんど都市生活者のものです。移動は車ですから、実質は部屋の中にいるのと同じ。歩いている人がいないですから。農家は自作農ばかりで、土地を所有していない人は緑の多いベッドタウンで暮らすサラリーマンですよ。

このような状況下で身体性を取り戻そうとしたら、それなりに吟味した上で環境を選び、生き方を定めなきゃならないでしょうね。

都市に話を戻すと、都市はバックヤードとしての田舎(農村・漁村など)無くして成り立たないですよね。日本の場合、今は貨幣を介して海外のバックヤードに依存している状況。
平行連晶
2012年11月07日 23:45
私は全く経済音痴ですので、的外れかもしれませんが、貨幣というのは、これまた統御された予測可能なものです。1円が脱皮して10円になる、或いは100円が死んで0円になるようなことはないです。古銭のような個物として扱われるものを除けば、100円はどれも100円。

では自然物、たとえば農作物などはどうかというと、全ては個物なので本来2つと同じものはない。その個物に「箱の中の商品どれも1個100円」と値が付くことに「高い」「安い」「適価」という評価を下して違和感を覚えない状態が、「貨幣の実体化」なんじゃないかなと。

>施主および管理会社は「貨幣」が先立っている

日照は、そもそも都市と相克しやすい要素なんですよね。遮られやすいものでもあるし、貨幣に置き換えるとしたら、日照を受けられないことによる精神的な被害であるといった損益としてしか捉えることは出来ないでしょう。太陽光の照射を受ける時間・量を貨幣価値に置き換えるのはとても難しいから。

私は、施主や管理会社が「貨幣が先に立って」いるように見えるというのは、貨幣を得ることを最優先させるという意味での「至上主義」というより、都市生活の中で他の物差しを持つ機会を喪っているのではないかなと感じます
。寧ろ彼らは日照不足により訴訟を起こされて貨幣で片が付く方を望んですらいるかもしれない。
それこそ、予測と統御の可能な領域ですから。

うまく書けていなくて、すみません。
愚樵
2012年11月08日 07:13
毒多さん

ヨメは反対はしませんでしたねぇ。私が「決めた」と言えば、もう仕方がないと諦めているからでしょう。ただ、一緒には行かない、というのはきっぱり言った。行けない理由は私も了解しているので、単身赴任は致し方のないこと。

ヨメは私を理解しているのか。言葉で語る理念やらビジョンやらは、理解するつもりさえないでしょう。良いと思うならやればいい。幸いなことに、それが許される所で生きている。

それがストレンジャ-。言い換えれば「無縁者」。そんなところで一緒に生きてきた。ただそれだけのことなんだろうと思います。
毒多
2012年11月08日 13:36
平行連晶さん

昔、テレビのお馬鹿番組で「貧乏さん」をテーマにしたバラエティをやっていて、それが結構好きで観ていました。
あれ、都会に暮らしていても、雨水を最大利用したり、雑草を食ったり、ひたすら歩いたりしていて、何かしら惹かれていました。(そんな番組を観なくても青カンを見ていればいいのですが、笑)。その番組のなかで(おそらく)沖縄の森のなかのバラックに住んでいる(と記憶しているのですが)陶芸家がいまして、1年に一度だけ陶芸作品を売るといってました。何故、常時売らないかと番組のタレントが聞いたのですが、貧乏陶芸家いわく「そんなことしたら金を得てしまうもん」みたいなことを言った言葉が、記憶から離れません。
「身体性」を取り戻すのは、環境ではなく、生き方なのかもしれません。便利を追求した都会のほうがより「取り戻しにくい」ぐらいのことでしょうか。
この「取り戻す」ことができるかどうか、と、システムの呪縛から解放されると似ているような気がする。
毒多
2012年11月08日 13:40
経済についてはワタシも音痴ですが、「貨幣」そのものが目当てになるのか・・・金儲けは面白い・・・みたいな感覚、交換手段ではなく、目的になっているのを至上主義と考えています。
とはいえ、
>都市生活の中で他の物差しを持つ機会を喪っている
は、うーん、と考えさせられています。自覚のなく、あたりまえになっていて、それが「都市」と関係している、、、かぁ。なるほど、、、ねぇ。
まあ、今回の施主も設計士も地元民ではなく、「日照問題」などもとよりアタマになく、彼らの生涯で出会ったことがなく、今回も青天の霹靂という田舎者です。そんな田舎でも貨幣至上主義になれる。日本には田舎はないのかもしれないな。

>貨幣で解決する訴訟をのぞんでいる
うん、これはそうですね。本質を隠匿して、慰謝料として金で解決をはかるのが裁判とするなら、至上主義的法律のもとで行われる裁判では「至上主義」側の理にかなっている。
保育園は金が欲しいわけではない、、、むしろそこで白黒つけづに、本質だけを訴えたほうが、、、ちょっと進言してみます。
毒多
2012年11月08日 13:40
愚樵さん

ほんと、内々のことにずけずけとごめんなさいね。でも愚樵さんの粟島行きを聞いてから、それをずっと考えている。
愚樵さんとツレアイさんは、そこを理解しあえる(許されるも理解のうち)関係にある。おそらくワタシとツレアイにもあると信じていますが、幸か不幸か確認するほど大胆な行動を身体が要求するに至らない。
もしかしたら、「家族の気持ちを大切にしている」ということを言い訳にしているのかもしれない、とも思える。、、、いやいや、やはり、今、動く気持ちはないのだろう。
なぜ、こんなことを書いているのか、、、、
ついに机上からリアルへ稼働しはじめた、愚樵さんを羨ましがっているのだろうか?そうかもしれない、でも、羨ましがって身体が動くものでなし、もしそれで「では、アタイも」と動くならアタマがさせているんだろうなぁ、と思う。
いずれにしろ、机上で完結するのは虚しいと感じてはいます。

>ストレンジャー
人は繋がらなければ生きてはいけない、、、とすると、ストレンジャーはプロセスではないのかな。
愚樵
2012年11月09日 05:34
毒多さん

これまでだって、私も私なりにリアルな活動はしてきたんですよ。田舎のごく小さな団体でしたけど、「9条の会」はかなり入れ込んだし、森林関係の活動なんかもやってはいた。ただ、それら「リアル」は、「机上」とは敢えて切り離してきたんです。これまでのリアルな知り合いは、私が「愚樵」であるということをほとんど知りません。

知っているのは、「平和党」という団体(分裂しましたが)の連中くらいか。これはネットの繋がりからリアルへ移行したものなので。後はアキラさん。

今回の粟島移住も、始まりはネットからでした。ツイッターのつながりで東大で開催されたシンポジウムに招待されたのが始まり。それからあれよあれよといろいろな人と繋がって、ここに至る。「机上」はこれはこれでますけれど、リアルと繋がっている。
愚樵
2012年11月09日 05:42
机上で完結は、それはそれでいいんだろうと思います。そうありたい人はそうあればいい。そのことを他人が批判することはできないし、また、そうでなければリアルで生きていけない人もいる。

(例えばネトウヨとかブサヨとか)

ワタシはそれでいいのか? これは自分自身の問題だから。

今朝、Facebook経由で、小出裕章さんの言葉が回ってきてシェアしたのですが。

「ここであきらめてしまえば、私は私自身を許せなくなります」

ワタシ自身を許せなくなる。ワタシ自身を好きでいられなくなる。

私はとどのつまり、私自身を好きになるために行動しているだけなんです。矛盾を感じながら林業労務者をやっている私自身より、粟島で子どもたちの未来に関わる私自身の方がずっと好きになれそうだから。

ヨメもそこいらあたりは理解してくれていると思います。言葉でこんな会話はしませんけどね。恥ずかしいから。(^_^;)
毒多
2012年11月09日 08:32
愚樵さん

もちろん愚樵さんがリアルでなにかしらしていたことは知ってます。平和党ってのは知らなかったけど、9条の会は知ってましたし。ただ、今回はなんとなくそれらと違う(と、ワタシは感じている)。いままでは空論とリアルがあまり結びつかなかったような気がしたが(あくまでもワタシのイメージ)、今回は空論がついに机上から飛び立ったというふうに感じる(ワタシの感じ方)。
この旅立ちを祝福したい。、、、と、同時に、、、正直にいいましょう。それを羨ましがっているワタシがいる。だから、「今のワタシには無理」が考えることなしに出てきたんだと自己分析します。

たぶんワタシも机上で完結することができてない人間だと思っていますが、では今、何がしたい、が見えてない。机上がゆえにどんどん見えなくなっているのか、とさえ、思える(笑)。でも、いろいろ考えてると今はまだ自分の子ども(とその周辺)を育てている(育てられている)んだなぁ、その自分は好きだなぁ、と思う。
まあ、それでいいのか、と思います。
ワタシの場合はどこまでいっても序々です。

>林業労務者をやっている私自身より、粟島で子どもたちの未来に関わる私自身の方がずっと好きになれそう

粟島へいって何をするのか、興味深かったのですが、そうですか、いいですね。是非、綴ってくださいね。空論がリアル論に繋がるかどうかも興味ありますし、なにが生まれるのか楽しみにしています。

平行連晶
2012年11月11日 12:21
>日本には田舎はないのかもしれない

今話題になっている益戸育江(ex. 高樹沙耶)が石垣島の土地を購入してロッジを建て、大麻草の生活利用について研究しながら暮らしているとか。電気は沖電から買っているそうです。
水道が引かれていない場所と報じられていましたが、どのように生活用水を確保しているのかは、知りません。

こういう生き方をする人は、システムからの影響力を弱めるための「場」をまず確保しようとしているのでしょう。
益戸は例によって2ちゃんねるで叩かれたり冷笑されたりしてますけど、内心「怖い」人が多いように見えます。離脱者が増えることが。

「怖がる」ことについては田舎の住人だろうが都市の住人だろうが、今はもう変わりがないと思います。むしろ、田舎の人間の方が従来の身内意識に都市生活者の無関心を取り込んで、さら始末に終えなくなっている面があると感じます。
「地球はぼくらのゴミ箱だ!」
郷里にいる妹の元彼の言葉です。げらげら笑っちゃいましたけど、残酷な台詞です。


>至上主義的法律のもとで行われる裁判では「至上主義」側の理にかなっている

法は対・人間、人間同士の関係を処理するものでしかありませんよね。法の力で自然を変化させられるわけじゃない。大麻取締法を制定したって大麻は勝手に生えて育つし、日光は権利を擁護したところに優先的に注ぐわけでもない。人間のご都合だけが先鋭化されたら、あとは人間の都合に特化した「貨幣」の出番なのは当然ですよね。
人間のことだけを扱っている人間が、自然をレジャーの対象程度にしか捉えなくなるのは「自然」です。また「法」的に捉えた場合、保育園は「一時子供置き場」程度の存在なのかもしれませんしね。駐車場の日照が顧慮されないのと同程度に見做されているのかもしれません。
平行連晶
2012年11月11日 12:40
また、脇からすみません。

>愚樵さん

ずっと気になっているのですが、フクとブーはどうなさるのでしょう。島につれて行くのですか?
夫人よりも愚樵さんに懐いているのなら、あるいは愚樵さんを群れのリーダーだと考えているのなら、島で暮らした方がいいのかな。自分も犬を飼っていたので経験的に知っていますが、犬は自分が慕っている人と離れることをとても悲しむので、愚樵さん・夫人のどちらと離れるにせよ、犬達にとって少しでも悲しみが少なくなるように配慮してあげてください。

そういえば、猫も実家で飼っていたのは家族全員が帰宅するまで用便しないで我慢していたし、夜中には「巡回」をして就寝中の家族の様子を確認してました。彼らは私達が感じている以上に私達のことをよく見ているし、大切に思っているようです。
愚樵
2012年11月12日 06:40
平行連晶さん

そうなんです。フクとブーをどうするか。問題なんですよ。

関係というのは複雑です。ヨメは実家との関係があって、粟島行くのは難しい。かといって、家に一人残していくのも切ない。フクとブーがいてくれると助かるんです。

でも、それはフクとブーに切ない思いをさせることになる。人間は自分自身を騙して切なさを紛らわす術を知っていますが、犬は出来ませんからね。我慢してもらうしかない。

行く行くは二匹とも島へ連れて行きたいと思っています。島の方がいろいろな方面で関係性が豊かですから。その方が犬にとってもいいだろう思います。

でも、どうなるのかはまだわかりません。悩ましいところです。
毒多
2012年11月12日 17:25
平行連晶さん

 益戸育江(という名は知らなかった、高樹沙耶だったんですね)が、噂になっていることは知りませんでした。ちょっとググってみたら、分かりました。
 ブログもほんの少し読んでみたのですが、彼女がしたいのが、大麻ネタでのシステム(法律)への挑戦なのか、否か?が解りません。現システムへの挑戦である場合は、結局は現システムに内包され、システムから影響が弱い「場」というのも、プロセスで「場」を選んだだけという感が拭いきれません。(システムへの従順を警鐘するのが目的ならば、そのネタが「大麻」でなくてもいいと思うので、「大麻」そのものが目的で、システムに挑もうとしているのかなぁ?)
 以前高樹沙耶のころにハワイにいたのを知ってますが、どうも純粋に「システム」からの脱却がしたいのか、男絡みなのかわかりませんね。まあ、どちらでもいいのですが(笑)

 いずれにしろ、システムから外れよう(離脱しよう)とするものを叩くのは、システムの権力者か権力に媚びる(束縛されることで安心できる)人々でしょうね。

>法は対・人間、人間同士の関係を処理するものでしかありませんよね
はい、これはこのエントリーの会話で強く意識しました。貨幣で処理するもの、、、、。以前、このブログでとりあえげた、「ある障害者の死」というエントリーを思い出しました。「自然」に湧き上がる感情でさえ、貨幣に慰められる・・・・ふぅ。

この記事へのトラックバック