「サラエボの花」…システムを突き抜ける

 やっと観ることができた。といってもすでに封切りから2-3年経っていて、今更普通のご紹介観賞記でもないんだけどね(笑)。
 取り敢えず最初に断っておくが、「ネタバレ」しないとエントリーにならないので、ネタバレが嫌な人は取り敢えず観てから戻ってきておくれ。映画を観る気がない人はこのエントリーだけでストーリーを想像してちょ(笑)。
 まずこの映画を知ったキッカケね。最近のエントリーで愚樵さんの言う「牧歌的」のたとえで紹介されたこと、、、、。でも本題に入るまえに書いとくと、愚樵さんはこの映画の風景をある種の「牧歌的」と言ったが、流石にこれを日本語の「牧歌的」と意訳するのは一般的には無理があると感じた。これは対話している者同士が相手の言う事を理解しようと、双方の間で「こういう意味での牧歌的だよね」という理解し合う努力なくして、狭いコメント欄一般に対しても「牧歌的」という言葉を当てはめるのは無理であると思ったしだい(笑)。「こういう意味での…」の部分が興味深いのだが、興味を感じない人とのすれ違いが、ブログでの「衝突の構図」なのかもしれないな。

 さて、愚樵さんは実際にこの「サラエボの花」を観たの感想録としてのエントリーを紹介してくれたので、ワタシ自身はそのブログを読み前知識を得て(しまって)から観たわけだ。
 とはいえこの「前知識」がかなりいい加減なもので、ボスニア紛争中に旧日本軍が当時中国でおこなった(と聞く)ようなレイプがあり、それによって妊娠した女性がその子を出産して育てる、と思い込んでいたのだが、そのレイプというのが日本軍のそれとちがい「民族浄化」というシステムとして行われたということ。ある民族がsexによって他の民族を消滅させて、もしくは統一させるために、、、この映画の場合はセルビア人がボスニア人を消滅、統一させるために集団レイプー妊娠さえた、ようであり、その「民族浄化」というシステムで妊娠した女性の物語なのである。
 女性は、妊娠中自ら腹を殴り流産しようとするが結局出産する。生まれた子ども(娘)を見ることも拒否したが、一度みて(対面して)しまったら「生命の○○」を拒否できずに育てる。レイプのトラウマは消えずにずっとセラピーを受けているのだが、生んだ娘を愛していると言い、子どものために働き、映画のタームでは娘の修学旅行費をつくるために奔走し続けるわけ。娘は父が戦死で殉職したものと思っていたのだが、最後に出生の秘密を知ることになるんだよね。娘もやはり、見も知らぬ父親が「戦死」ではなくてボスニア人(の民族浄化によって生まれた)であったことに嘆き悲しむ。

 この映画の始まりは「虚構」の最も醜悪な部分が幾重にも露呈されている。
 そも、誰にあっても差異のない「血」という実体に○○人という位置づけるのが虚構であり、しかも「男」のA人が「女」のB人を妊娠させるとAB人になる(それともただ単に対立○○人に恥辱を与えるということか?)、というのも虚構である。もっとも女性のトラウマは虚構にレイプされたことではなく、実体としてレイプされたことだと思うのだが、「民族浄化」という虚構によるトラウマが彼女のなかにあるのかどうかは解らない。娘を「愛してる」ということからそれは乗り越えていると思う。
 いつだったか「女は子どもを生む機械」と言った政治家がいたが、そうした言葉にやはり反感をもつのは、sexにより妊娠し出産をするという、ただその事実だけが問題なのではなく、男と女が「同意して子どもを産もう」というsexと、レイプによる妊娠とでは全く違うと「思う」わけで、この「思い」が事実の経緯(sex-妊娠-出産)よりも大切だと思っているからである。つまりは「心」が在るんだよね。とはいえ、この「心」というのもやはり「虚構」であり、人は「虚構」の中に生まれ、「虚構」を育てられるというのに当てはまる。愚樵さんは、虚構を所有と言ったが、ワタシなんぞは、この映画においての「虚構」はむしろ「心」そのものというイメージが強い。育つ、成長する、というのは、現実の身体が成長するという事実だけでなく、「心」が育つ、成長するという意味もあるだろう、ということからも、虚構が心であり、生まれながらにして虚構のなかに居て、虚構の中に育つということからも符合するんではなかろうか。もちろん「心」というのは純粋なもんだけでなく、いろいろあるわけだけどね。レイプが醜悪だと思う心はワタシだけでなく、多くの人に育っていると思うのだが、「民族浄化」というシステムによりレイプする人が出てくることからも、レイプが醜悪だとおもう心も確固たるものではない。システムに逆らえばそこでの生存も危ぶまれることから、レイプが醜悪だと思う心も曇らされ殺されていくのかもしれない。これは決して「民族浄化」を実行した人々が特殊ではなくて、誰でも陥ることのような気がする。システムのなかで生活することで、育った「純粋」は殺されることなんぞなんぼでもありそうだ。「純粋」に科学を追究して社会の役に立ちたいと思った学者が、システム(生存)に逆らえずに御用学者に化けたり、システムに逆らった斉藤和義が絶賛されたりするのも裏をかえせばシステムにとことん逆らう覚悟のない自分を知っていて、それが出来る他人を賞賛することのカタルシスだろう。もっとも映画のなかの選択は、レイプするか軍規違反で殺されるか、であったかどうかは描かれてなかったが、、、、。

 さて、「民族浄化」というシステムの根拠であるとこの「○○人」という虚構も現在では生まれながらにしてあり、育つにしたがって〇〇人システムに取り巻かれ培養されていく。それは国家とかと同類のものになる気がするんだな(言葉や文化ともいえるが話が広がりすぎるので別の機会に)。そしてそれも否定できないのが現実であるわけ。それが「呪縛」かもしれない。レイプか?死か? 出産か?堕胎か? 子を捨てるか?育てるか? というヘビィな呪縛は稀なのだろうが、システムのなかに住む以上多かれ少なかれ呪縛はある。上で書いた御用学者や斉藤和義もそうだろう。縛られるか打ち破るかが問題になるのだが、この映画はシステムを打ち破るという勇ましいものとも違う。システムの基になった虚構(心)の純粋なほうを描いたものであり、虚構が基になりシステムは作られるのだがシステムが上位にあるのではなく、存在のホントの部分では、やはり虚構(心)が上位にあり、やはり純粋な虚構を貫けるのが人間という映画なんだろうな、と信じたい。
 純粋な「愛」は呪縛じゃないんだよね、きっと。呪縛じゃないから絆も深いのかも。これ家族という虚構で線引きはできないのだろうね。親子という虚構でも「愛」がないこともある。それはシステムに飲み込まれたときに「愛」も削がれるのか? 削がれる要因でおもいつくのが貧乏という「虚構」なのだが、それで必ず削がれることはない。サラエボの女がそうだったようにね。
 「純粋」ってのは全ての人にあり、ときに多くの虚構やその複合であるシステムに阻害されるが、やはり人にはそれらを「突き抜ける」力があるんだろうな。このサラエボの女のように。
 サラエボの女がわが子を愛したのは「母性」という解釈をした人もいるだろうけど、ワタシはそう見ず、人の「突き抜ける」力を発揮したのだと思う。突き抜けて「純粋」を具現した。この「突き抜ける」は、以前から言っているシステムに苦しめられて苦悩しているにも関わらず、達観してしまった青カンに通じるような気がする。これはやっぱり「苦悩と距離をおく」というやつとは違う力強い心を感じる。きっと、システムと距離をおかず、システムのなかにいて、システムを否定しなくても「突き抜けて」いるからなんだろう。この「突き抜けた」心象風景が牧歌的なのかもしれない。



 あ、そうそう9条ってのも、虚構でありシステムなんだけど、その心は「突き抜けちゃって」いて力強さを感じるのも同種のもののような気がするね。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

愚樵
2011年05月11日 10:20
さっきからずっと、毒多さんの文章とにらめっこしています。さて、どうコメントしたものやら。なかなか上手くまとまりません。

上手くまとまらない要因は、まず双方の言葉の定義が違うこと。特に「虚構」という言葉。ここは毒多さんのブログですから、毒多さんの定義に従うべきなんでしょうけど、未だ自分の定義に引きずられていて、上手く言葉を構築できない。かといって、私の定義に従って毒多さんの文章のダメ出しをしてもつまらないですし。

(これまで私は、毒多さんに対してその種の「ダメ出し」をくり返してきたのですけども...、m(_ _)m )

そこで。今回は、「まとめる」ことはとりあえず放棄したいと思います。その代わり、私の中でまとまらない、上手くイメージできない「毒多さんの言葉」を追及(笑)させていただくことにします。

(スミマセンね。新たなイジメみたいで...σ(^o^; )

>サラエボの女がわが子を愛したのは・・・、人の「突き抜ける」力を発揮したのだと思う。
>突き抜けて「純粋」を具現した。

ここはイメージできるんです。が、そのイメージが

「達観してしまった青カン」

とはうまく並列しない。どちらもシステムの呪縛から解放されるという意味では同じでしょう。しかし、呪縛の解き方がまるで違うような気がします。

身体を束縛している鎖があるとしますね。簡単に言うと、サラエボの方は、身体が大きく成長して鎖を引きちぎったという感じ。青カンの方は身体が縮んで、鎖から抜け落ちたという感じ。

もっと端的に言えば、一方は生を、一方は死を志向していると言えるでしょうか。

もちろんこれらはあくまで私のイメージであるわけですが、「突き抜ける」力について毒多さんはどのようにイメージされているのでしょう? 気になるところです。
毒多
2011年05月12日 08:31
愚樵さん、おはようございます。

「まとまらない」のは「言葉の定義」もあるかもしれませんが、エントリーの主張がはっきりしていないからかもしれません。短い時間で咀嚼して文章化するには難しいテーマだとは思いましたが、取り敢えず何かを書かないと忘れるか、前に進まないか、と思いましたので、理解されないな承知でアップしました。

「虚構」に関しては辞書的な意味から離れていますね。
今回は、strepsipteraさんの言う「シンボル化」ということを念頭に考えました。
「虚構」という言葉自体に、ワタシはどちらかというと「負のイメージ」をもっています。空虚とか中身のない、、みたいな。であるから、もとより「虚構のなかに生まれ、虚構のなかに育つ」という指摘に反発したくなったと考えます。
しかし実際には「虚構」を受け入れなければならないことから、プラスのイメージをもってみました。として考えるなかで「虚構」のひとつに「心」もあるのではないか、という試行をしてみたといったとこです。
でも、正直いえば、やはりどっかで「虚構のひとつに心」というのは違うんとちゃうか、ってのもあるんだよね。まあ、もう少し考えてみます。

それと、「突き抜けた」青カンも「生」ですよ。
申し訳ないが、この辺の感覚は言葉する自信はありませんが、、

ところで今回の(ワタシのなかの)本題は、原発(事故)をどう考え、どう対峙するかでした。ずっと原発反対と言ってきたのに、今でも反原発なのに、ここに来て「言えなく」なっている。デモもちょくちょく参加してきたのに、原発反対デモなんかも不参加どころか引いてしまう。世論が多数になればなるほど反感をもつ。
どうしちゃったんだろう? と自分で思います。もうすこし「事実-虚構、絆-愛憎、システム」あたりを基に考えてみます。

愚樵
2011年05月12日 16:54
・毒多さん

何処でみたのか記憶が定かではありません。たぶんTVで見たのだと思いますが。

『サラエボの花』では、生まれた子どもは拒否されることなく育て上げられました。が、みんながみんなそうだったわけではありません。拒否されてしまった子どももたくさんいたはずです。

その番組では、拒否された子どもたちに懸命に愛を注ぐ人たちの取り組みが紹介されていました。ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦で、育児拒否にあった子どもたち。ただしそこでは「民族浄化」には触れられていなかったと記憶しています。

生後1年あまり放置されていた子どもたち。身体の発育は良好そうでしたから、食事は与えられていたのでしょう。ですから完全な育児放棄ではない。でも彼らには感情がありません。笑うことはおろか、泣くことすらしません。お腹が空こうがオムツが汚れようが、周囲に何の訴えかけもしません。文字通り“ただ生きているだけ”の異様な子どもたちでした。

そんな子どもたちに、感情を呼び起こそうと、懸命に世話をする人たち。その甲斐はあって、少しずつではあるけれども、子どもたちに感情が芽生え始めている――そんな内容でした。

ここで考えるのが「突き抜ける力」です。人間には「突き抜ける力」は生まれながらに備わっているのか。おそらく、否です。ヒトの赤子は「突き抜ける力」もまた未熟なまま生まれてくる。身体と同様に生後大きく育まれていくものなのでしょう。

では、その糧はなんなのか。身体ならば発育の糧は食物です。「突き抜ける力」は? 愛情。それ以外に答えはなさそうです。
愚樵
2011年05月12日 17:11
『サラエボの花』を毒多さんは「突き抜ける」物語だと観た。その読解に異論はありません。ただ私は、同じ物語に「連鎖」を観ることもできると思います。呪いを受けた母親が、呪いに負けず愛情を「繋げた」話です。「突き抜ける」ことは「繋がる」こと。そして「繋がる」ことは「生きる」ことです。

さて、ここで再度、青カンの件です。しつこくてすみません。これは以前から気になっているのです。

毒多さんは達観した青カンも「生」だと仰る。ということは、上の論法(になってませんが...苦笑))を適用するなら、「繋がった」ということになります。では、何とどう繋がったというのか。疑問です。

ひとつ思い当たるのは夏目漱石の『こころ』です。『こころ』のなかの「先生」と「私」の「繋がり」です。もしかしたら、毒多さんと青カンの「繋がり」も、この種のものではなかったのか。

もしそうであるとするなら、「生」つまりは青カンよりも毒多さんにあったということになるでしょうか。
毒多
2011年05月13日 08:45
愚樵さん、一般受けしないエントリーに付き合ってもらって悪いっすね(笑)。

おそらく、サラエボの女の親子のほうが稀なんでしょうね。だから映画のテーマになりうるのかな。
捨てられた子ども達の様子はネグレクト(負の繋がり)の典型的な成り行きのような気がします。システムの悲惨な産物としてこうした子どもたちが居るのですが、子どもたち自身にはシステムの呪縛がない。だから「愛情」によって突き抜けることができる。これがシステムの呪縛にガンジガラメになった大人になると、なかなか突き抜けることができない、というのが実際で、そんな風景は散見できるのでしょう。
毒多
2011年05月13日 08:46
「突き抜ける」というのは、個人の在り方の問題かもしれません。システムがどのような状態であっても、、、たとえば「愛情を持てる」「生の喜びを感じられる」「(価値観によって左右されるものでない)善を持てる」etcといったようなことで、システムに振り回されない、という感じ。もちろん他者がいての話になりますので「繋がり」において他者と「愛情がある」「生を共感できる」「善い関係をもてる」etcでいいと思います。ベタな言葉でいけば「生き、生かされ」でしょうね。
サラエボの女でいけば、親と娘はシステムの障害に関わらず「愛情」で「繋がり」、「生き、生かされ」という突き抜け方をしている。(子どもっぽい書き方でしょ?(笑)。大人にはなかなか出来ないことかもしれませんね。)
 ワタシとある青カンもこう考えれば、そんなもんかもしれません。(あまり追及されると、あの感覚は本当だったのか?と思ってしまいます。何かのときにワタシの心が勝手に創り上げた妄想かもしれません。確かにそう感じたのに、なんだか具体的な経験が思い出せないでいます。)


多分こういうふうに視点をおくと、システムの(呪縛の)なかでの「原発反対」というのも結局呪縛されたままの「反対」なんだよなぁ、と感じてしまう。そのあたり、違和感のもとなのかな。

毒多
2011年05月13日 15:27
追記ね

サラエボの女が「稀」な存在であったように、多数にそこ(突き抜けること)を目指そうと「言う」というのも違うと思うし、多数がそこに到達できるという前提のシステムを再構築しようというのも無理目だな。

とすると、どう考えるか、となりそう。

愚樵
2011年05月14日 05:53
・毒多さん

一般受けしないものの方が、どちらかというと私の好みです(苦笑)

>多数にそこ(突き抜けること)を目指そうと「言う」というのも違う
>多数がそこに到達できるという前提のシステムを再構築しようというのも無理

ここはおそらく私がいつも言っていることと同じのように思います。

わざわざ「言う」と「」を付けられましたけど、この意味は大変重要です。「言う」というのは「規定」ですよね。定めて「実」とする。「実」だからそこを目指すことが出来る。

でも、この「目指す」ことがもうすでに呪縛をはらんでいる。だって「規定」を目指すんだから。

私はこの「実」「規定」を指して「虚構」と定義しているんですよ。対して毒多さんは、「規定」できないものを虚構としている。「心」は「規定」できないから虚構。私は「規定」を虚構とするから「心」は「虚構」ではない、となる。

となると、

>サラエボの女が「稀」な存在

というのはどうですかね? 事実そうだったのかもしれないけど、そこを「稀」と規定するところから出発するのには私は賛成できない。「稀」という事実は受け止めるとしても、そこを規定せずに「稀」でなくするためにはどうすればいいか。

このことは、私がずっと追いかけている問題でもあります。

愚樵
2011年05月14日 06:29
これも記憶が曖昧で、たしかサマセット・モームの小説だったと思うんですけどね、タイトルも忘れました。次のような話です。

その話でも話の始まりはレイプです。ドイツ兵がフランスの家庭に乱入して、そこの娘に乱暴した。娘は身籠もってしまった。

娘は堕胎を望んだが、阻まれた。サラエボの方は阻んだのは娘にとっては敵の方ですが、こちらは見方だった。カトリックは堕胎を禁じている。だから許されなかった。

娘を乱暴したドイツ兵も後に自らの所業を反省し、娘に結婚を申し込む。家族は歓迎しますが娘は頑な。最後は、生まれた子どもを池の中へ投げ込んで殺してしまう。

この話は、サラエボの方では「稀」とされたものが宗教の規律として「規定」され、多数がそこを「目指した」んです。善意でもって。

「規定」に従えば、最後の娘の行動は悪です。でも、そのような「断定」には違和感を感じざるを得ませんよね。悪であることには間違いないだろうが、「断定」は違うと思う。

娘が受けたのは、「呪い」です。そして「規定」には「呪い」を解く能力などない。

システムというのは「規定」で構築されるものです。「規定」は「呪い」になりこそそれ、「呪い」を解く力はない。だからシステムはダメだというんです。

でもね、人々は自ら進んでシステムの中へ入っていくんです。システムだって絆ではあるんだから。

「呪い」を解く力があるのは、システムではない強い絆です。でも強い絆は同時に強い「呪い」をかける力もある。だから絆の強い社会ほど犯罪も多い。

本来、心や絆は「規定」できないもののはずです。そこを「規定」してしまうと「呪い」になる。私は「規定」を「虚構」と定義しました。そして「虚構」が絆を変質させると言ったんです。
毒多
2011年05月16日 17:01
休みのあいだバタバタしているうちにレスが遅くなってしまいました。レスが遅くなっただけならいいのですが、何かしら考えていたことが吹っ飛んでしまいました。脳がメルトダ、、、。


で、再読しながら、、、

「心」は「虚構」でない、、、で、結構です。

>わざわざ「言う」と「」を付けられましたけど、この意味は大変重要です。

「言う」のではなく、「本当は」「自ら湧き出てくるもの」、と考えています。(どうも、いろいろ考慮して書くと「」だらけになってしまうなぁ。笑)
でも、「自ら湧き出てくる」と「言葉(=虚構)」にした時点で「規定」になってしまう。ということでつまり言葉にすることができない、という感じですかね。
「稀」というのは「規定」したのではなく、実感ですね。ただ「稀」と言葉にした時点で「規定」といわれればそれまでで、つまり全てが言葉にしてとこで「規定」になってしまう。つまりは何も言えなくなってしまう、と思えます。

>規定せずに稀でなくする

「察してくれよ」って言ってしまうのも規定となるとすると、漠然と、、祈る、、、ですか?(笑)
おお、「祈る」ってのは「呪い」と同種、若しくは表裏のような気がしますねぇ。「呪い」も「祈る」も規定ではなく心、、、ね、なるほど。

すみません、ちょっとこの後の展開できない、、、

この記事へのトラックバック

  • 米特殊部隊ビン・ラディン謀殺、真相と動機を考察する

    Excerpt: 『段々判って来た真相』 最初のマスコミ報道とは様相が大きく違い、最初から殺害を目的にしてCIAが指揮して米軍特殊部隊が半年前から訓練していて満を持して暗殺を実行している。 インド洋への水葬も『24.. Weblog: 逝きし世の面影 racked: 2011-05-10 10:45
  • イージス艦無罪判決に遺族呆然、海上自衛隊唖然、

    Excerpt: 『死人に口なし』 イージス艦あたごの重大な過失(操船ミス)を認め、漁船沈没による2名死亡の責任を認定している防衛省・海上自衛隊では、『こういう結果になるとは……。理由を聞いてみないと何とも言えな.. Weblog: 逝きし世の面影 racked: 2011-05-13 12:28