「どんな人間にも差別意識がある」(2)…差別ベースの社会・意識からの脱却

 前エントリーで、コメント頂きました皆様、お付き合いしていただきそしてご教授いただき感謝です。ちょっと個別レスすることが難しくなってきたうえに、やたら長くなってしまったので、新たにエントリーを挙げます。

 コメントを読みながら、ひとつに「差別」という言葉の捉え方の差異がある、ということが解りました。ワタシのなかの「差別」という言葉は「社会的差別」というか、社会ゆえにある「損得」を規定するシステムから発する「差別」という意味でとらえ、エントリーも書きました。特に「社会的」とつけなくても「差別」と言うだけで「社会的差別」のことという捉え方です。で、その前の段階を「区別」と捉えています。kuronekoのアニさんがいうところの「バラの木」「ミカンの木」ってのは「区別」と捉えています。
 これが正しいかどうかは検証しなければならないのでしょうが、あまり話があちこちにいってしまうとややこしいので、ここでは、いわゆる「社会的差別」を「差別」としてコメントします。

問題は
1.「社会」というのは「損得」を規定するシステムか否か?
2.「人間の性」というのは「差別」「優位性」でもってしか自己同一性(安心)を持ち得ないのか?

 この二つが相俟って、「差別意識」は全ての人間にある、ということになるのでしょうか? えちごっぺさんも「人間の性」という部分も含んで考えるべし、っていうふうにコメントしているしなぁ。考えどこです。
 とりあえず、ワタシとしては、1.の「社会」というのは「損得」を規定するシステム?ってのを否定したいのです。否定できると「信じたい」。
 これまでのワタシは「差異」→「区別」→「差別」を逆にたどり、差異さえも「乗り越えよう」と考えていました。「差異を乗り越える」というのは、逝きし世の面影さんの言うところの(例えば)「同化」という捉え方ではなく、差異があるという認識を持った上でそれは「単なる」差異なんだと認識する、という意味で言ったのです。ただ、逆に流れるということは「区別」(「バラの木」「ミカンの木」)も解体しなければならなくなりそうです。また愚樵さんの言う「我即神」ですか?無我の境地に入るってかんじになるのかな。確かにワタシのような凡俗にも無理そうです。「区別」ってのがあって社会は成り立っているってことまでは否定できない。これを否定してしまうと「社会」という概念そのものが成り立たなくなりそうだ。「区別」までなくすということは、逝きし世の面影さんの指摘にある「民族差別」「同化」による文化の殺害につながる。さらに「区別」までは「優劣」や「善悪」もないことを考えなければならない。
 ようは問題は「区別」から先で、「差別」を否定するなら「差別」以外ではなく進めなければならない。と考えました。で、思ったのが「共生」です。この辺りも既に言われていることかもしれませんが、自分で考えるのは意味があると思いますので、、、
「差異」→「区別」→「共生」です。
「差別」が「損得」のために「優劣」「善悪」を恣意的につくりだされたものならば、「共生」は「認め合う」ことではないでしょうか、また「尊敬し合う」ことかもしれません。では「損得」がなくなるのか? 金銭的物質的な損得はなくなるかもしれませんが、全体としては、さらに大きな「得」が得られるような気がします。以前アキラさんのコメントから「win-winの関係」って言葉を聞き、両目から鱗がパラパラと落ちましたが、「共生」から産まれるwin-winの関係では既にwin(優劣)がなくなっていて「優」のみだ、と思います。これは社会全体では大きな得でしょ。逝きし世の面影さんの言うところの「異文化」を尊重しあうなかから生まれるものは素晴らしいでしょ。
 とみんぐさんの言う、「受け取り方」も「差別」を前提にした「区別」と「共生」を前提とした「区別」では、おのずと「言葉」も「態度」も変わってくる。「共生」を前提とした発話と受け取り方をすれば、相手にとって差別であると感じないのではないでしょうか?

このラインでいけば、2.の
「人間の性」というのは「差別」「優位性」でもってしか自己同一性(安心)を持ち得ないのか?
もクリアできる気がしています。異なる文化のある面は「優れている」を認めあう。

アキラさんがいう、
>「区別」からさらにもう一歩踏み出すときに「評価」が入ってくる
というのも、
「評価」けっこうじゃないですか。「共生」の上にある「評価」は「優劣」によって「優」が得をし、「劣」が損をするにはなりません。「優」を認め分かち合う、となります。アキラさんもおっしゃってますが「教育」が大切なのはここではないのでしょうか? 現状の「差別」にのっとった教育を「共生」をベースにした教育に変えなければならないでしょう。
 それができるなら、やはり「人間の性」によって「差別」が不可避と考えなくてもいいでしょ。「共生」でいけばいい。
 アキラさんの言う人間の感情や情動また嗜好も、共生ベースの社会から滲み出るものでは、現状の「差別ベース」の社会から排出されるものと変わってくる気もするんですね。

 ただ、権力はそれをしたくない。「差別」ベースの「優劣」「善悪」で大衆を操作したい。×第二名神さんがいう「部落差別」が特別な理由ってのは、特別ってのが捏造で、捏造された差別に大衆が乗ってしまった、ということでしょ。乗ってしまう理由は「人間の弱さ」か、、、な。「差別」が前提で考えてしまうからそうなるんじゃないの、という論です。「どんな人間にも差別意識がある」のは差別が前提の社会だからで、「共生」が前提の社会では「どんな人間にも差別意識がある」とはならない。

 このあたりは、9条護憲と似ていて、現実に軍隊をもっているから9条のほうを変えなければならないのか、9条に合わせるように現実を変えていくのか? =現実は「差別ベース」だからそれにあわせて考えなければならないのか、根本から「共生ベース」に変えてこうとするのか。ワタシは9条に合わせ現実を変え、共生ベースに変えていく、ってことでいいのだけど、さて、ここで問題が「差別」を前提にしたい人間がいる、ってことだよね。「差別」を前提に「得」したい人間がいる。こういう人間を「排除」しなければ「共生」ベースの社会ができないのか? ってのは課題になってくるな。そうした「人間を排除」というのは差別よりさらに悪いのではないか、、「差別主義者」と「共生主義者」が認め合うこと、ってのは矛盾に満ちているよな? 、×第二名神さんのいうところの「アホ差別」か? うーん悩ましい。さてどうしようか・・・・・。

ただ、とりあえず「どんな人間にも差別意識がある」を前提での話は否定したくて、「どんな人間にも共生意識がある」が前提になっていくといいなぁ、、とお花畑全開かもしれませんが・・・。

 
ps >naokoさん。
沖縄差別の民主の嘘は許しがたい。
 

 

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この記事へのコメント

×第二迷信
2009年11月24日 20:02
お食事中の方はご遠慮いただいで・・・。

「クソミソ」というのは、
クソとミソの「区別」ですよね。
「食えるか?」というモノサシで、「ミソ」が優先されるけど、
べつにミソがクソより偉いわけじゃあない。

畑にミソを撒いたら、野菜が枯れます。

と、まあ、とりあえず、他のコメントの後では書きづらいねたを・・・。
えちごっぺ
2009年11月24日 22:31
こんばんは!

論客の皆様がいらっしゃる前に書き逃げ致します(また、こういうこと書くからダメなんですよね)
「人間の性」なんて言ってしまいましたが、これを言い出すと何でもここに収斂できてしまうような気がして、ちょっと気が引けております・・・
まるで、「○○の原因は○○の陰謀だ!」に近いかも?(近くないか)
「共生」いいと思います。
「優劣」といった概念をつき抜けることができるか?まさに人間というものの真価を問われるのではないでしょうか?
「戦争は人間の本能だから仕方がない」とはよく聞く言葉ですが、私はそうは思いません。
そんなことで思考停止するほど人間が愚かとは思いたくないので・・・
「差別」を無くすってのは大事かもしれませんが、「差別」の存在が無意味な社会(共生社会)を目指すことを目標にしたいものですが、いかんせん方法論が出てきません・・・
またしても、脳内お花畑全開、意味不明で失礼いたしました!


とみんぐ
2009年11月25日 00:22
drさん
中島みゆきさんの新しいアルバム
DRAMA!
もう聴きました?
なんか、ここの考察のヒントになりそうな歌が結構あるように思えました。
(書き逃げ(^^ゞ)
愚樵@中島みゆきは結構好き
2009年11月25日 05:09
なんだかなぁ、コメントしにく雰囲気なんですが...(^o^; 気にしないことにして。

drさんの新しい仕切に則って、

「差異」→「区別」→「共生」

ですね。問題は「区別」が「共生」に行くか、「差別」に行くか、この境目でしょう。

ええっと、まず「差異」というのは感覚だと思います。「区別」は意識です。人間は「差異」を感じ「区別」を意識という流れで他者を把握します。感じるのは身体的で、意識は意識的です。

で、これで終わりかというとそうではなくて、意識した後に身体へフィードバックがあるんです。例えばです。車を運転していてパトカーが後ろについた。それを意識すると緊張します。緊張は身体的です。その緊張が、速度は大丈夫かとか、シートベルトはしているかとか、そういったところへ意識を誘導する。これはごく自然な反応ですよね。

また逆に、例えば親しい友人や恋人なんかと偶然に道で出会ったとする。すると、それまで何か不愉快なことがあって身体が強ばっていたのが、急にリラックスできたりする。これもまた自然な反応です。

「区別」が「共生」に進むのは、意識された区別が身体にフィードバックされた時に、それが緊張をもたらすか、弛緩をもたらすかの差に拠るのではないかと思うのです。弛緩だと「共生」の方向へ向かうことになる。緊張だと「差別」に向かうことになる。

人間にとって知らないことは基本的に恐怖です。いえ、無垢な子どもは知らないことに恐怖しませんが、大人になるにつれ、知らないことに恐怖を感じるようになる。これは自然な姿です。これがもっと進むと、「知らない」「知り得ない」と知ることで、「区別」の意識が恐怖、つまり身体を緊張させる方向へ誘導することになる。これもまた自然な形なんですね。
naoko
2009年11月25日 05:39
dr、わたしは辺野古容認なのです。
沖縄北部は県内でも最も失業率が高く、地元にともかく仕事が欲しい。
さらには、県内の中堅建設業者がばたばた倒れている現実があります。自殺も急増していて、わたしの周囲でも、「だれそれが首をくくった」という話が後を立ちません。
名護市長選の行方も、辺野古推進派に傾くのではないでしょうか。
グリーンニューディールといっても、今の世の中、仕事がなければ、故郷には残れません。誰も人のいなくなった故郷に自然が残されても、仕方がありません。
それでは自然との「共生」も、人間の淘汰の上に成り立つものとしか思われません。
‘無能なものは死ね’という社会的なメッセージを感じます。
そうした意味でも、「差別」はあるのですね。
愚樵@つづき
2009年11月25日 05:56
そうすると、「どんな人間にも差別意識はある」というのは「どんな人間も「区別」に恐怖する」というふうに言い換えることができて、「差別」とは、「区別」からくる恐怖への無意識な防衛意識だということになる。こうした無意識な意識は、やっぱり誰にでもあるということになると思うのです。

ここまでの「差別」は、いうなれば個人的差別です。一般にいう「差別」は社会的差別であり悪ですが、個人的差別は悪とは言い切れない。悪の方向へ向いているが、悪にはなりきれていない、「メタ悪」とでもいう状態でしょう。このメタ悪を糾合して社会的差別に格上げする、身体的にいうならば、「区別」の恐怖によって緊張した身体の緊張度を恐怖の共有で更に高めるような行為は、悪ということになる。

が、始末の悪いことに、恐怖によって緊張した身体の緊張度を恐怖の共有で更に高めるような行為は、これまた人間にとって自然な行為なんです。この行為は戦闘態勢へ入るための準備行為であって、原始時代に集団での狩猟をする必要があったことから生じたものでしょう。ならば、緊張を高め合う行為も、それ自体悪とはいえない。ここでやっぱり「差別」の悪は、どのように「区別」するかという問題に舞い戻ってくることになります。

いきなりまとめますと、「区別」から来る緊張は、一次的には避けられない。だが、二次的には避けられるかもしれない(互いによく話し合ったりするということ)。社会的差別とは、一次的な緊張を根拠に、二次的な緊張緩和を阻害しようとする恣意的行為といえるでしょう。
naoko
2009年11月25日 05:58
では、そうした辺野古容認の声が、県内でさほど(?)高まらないのはなぜでしょう。
 そこに、県内における強い学歴差別の影響があります。県外移設を叫ぶ方たちの中心は、大学関係者、マスコミ関係者、教員などが多いのですが、いずれも知識人です。市井の‘愚鈍’は相手にしないし、また、市井の人々も彼らの前では口を噤むか同調してしまいがちです。
「偉い先生たちが言うことだから」と。
しかし、生活者としての本音と、県民としての建前は、かなりずれています。
そうした市井の人々の自信のなさや気の弱さを理解できない者たちが、「沖縄総意の声」を自負することに、わたしは怒りを感じます。
そこに、市井の人々への侮りを感じるからです。
愚樵@ちょっと付け足し
2009年11月25日 05:59
二次的な緊張緩和を阻害しようとする恣意的行為を「差別」だとして、「どんな人間にも差別意識がある」かどうかと問うならば、そんな差別意識は、一部の者の所有物だということになるでしょう。
2009年11月25日 11:19
愚樵さんのコメント、僕がもっと考察したかったところの考察ですねぇ。すごい。
僕にとっては非常に分かりやすく、かつ納得です。

「どんな人間も「区別」に恐怖する(傾向が強い)」ということ、身体へのフィードバックのこと、そして『「差別」とは「区別」からくる恐怖への無意識な防衛意識だ』ということ、また この『個人的差別は悪とは言い切れない』に同意です。
恐怖までいかなくても、漠然とした不安くらいなのかもしれません。

また、『「区別」による一時的な身体的緊張(恐怖)』が元々はなかったのに、二次的な「後付けの認識によって惹起させられた恐怖の共有」から、逆に「一時的な身体的緊張(恐怖)」が起こってしまうことも往々にしてあると思います。
そういうことを、ワザと狙って煽る輩も世の中にはいるということですね。

そして「社会的差別」=(僕の場合は)「緊張(一次的であれ二次的であれ)緩和を阻害しようとする恣意的行為」に使用される「ある“恣意性”」に対してのリテラシーのようなものを、「教育」によって培う必要があるように思います。
また僕自身は、『「区別」に恐怖しやすいそもそもの傾向(一次的)』自体も「教育」によってある程度変更可能だろう、と思っています。
dr.stonefly
2009年11月25日 14:36
×第二名神さん
もちろん糞と味噌に「優劣」はないでしょう。そう考えると「月とスッポン」にも「掃き溜めと鶴」にも「優劣」はないはず。それなのに昔からの「(差別的)優劣を表す言葉がある」。これはこれで考えさせられる。教育以前の人間の心性をみせらたようです。人間が差別ベースの思考から脱するのは不可能なのか、ってとこに繋がりそうです。


えちごっぺさん。
書き逃げしなくてもいいじゃないですか(笑)。
「共生」いいのですが、やはり難しいのかな、とさらに考え込みそうです。ほんと
>まさに人間というものの真価を問われるのではないでしょうか?
というところでしょうか?
下の愚樵大師の教えに納得しつつ、ウームと考え込んでしまった朝です。


とみんぐさん
そうか、中島みゆきがアルバムを出したんですね。聞いてみよ、と言っても金ないしレンタルされてからになるかなぁ~、sigh
それと、逃げたらアカン、、、爆!!

dr.stonefly
2009年11月25日 14:37
朝起きて、愚樵大師とnaokoさんのコラボ、「思索と現実の曼荼羅」にぶっとんでしまいました。

まず愚樵大師、非常に解り易いお教え感謝にございます。
「一次的差別」と「二次的差別」という部分において、おそらくワタシは混同して混乱していたと思います。なるほど解り易い。
>恐怖への無意識な防衛意識
かぁ、なるほど。心理ですね。
ワタシが語るのですから「ホームレス差別」になるのかな。
おそらく、一般的にはホームレスは恐怖なのでしょう。ホームレス自身に対する恐怖もあるでしょうが、今のような状況だと自分がホームレスになる恐怖があるかもしれません。そこに区別から強烈な差別意識を産む。二次的差別につながる。
>戦闘態勢へ入るための準備行為
ホームレスに対する襲撃が行われる。
ホームレスになるかもしれない恐怖に多くのひとが晒される昨今は集団的緊張状態にあり、攻撃対象という二次的差別になっている。
根本には
>知らないことは基本的に恐怖です。
かな、ホームレスを多少知っているワタシは恐怖を感じません。
(知ることを恐れているというこもあるのかもしれない、この辺まで考えるとまたややこしくなりそうだ)
dr.stonefly
2009年11月25日 14:37
(つづき)
やはり二次的差別の解決は「知ること」(無知の脱却)になりそうですね。
しかけられた二次差別も「知ること」が大切なのは言うまでもありません。

でね納得したうえで、ちょっと思ったのですが二次的差別の克服することで一次的差別をも克服できないだろうか、(しつこいですね)、、、結局ここにこだわっている自分がいるんですが、先天的な「恐怖」を克服するのは無理なのだろうか、ってね。まあ、一次的差別=個人的差別は「悪」でない、ということには納得するので克服しなくてもいいのかもしれませんが、なんとなくね。
あ、そこを克服することはまた「孤独」への道につながっていくのかいな??




dr.stonefly
2009年11月25日 14:38


アキラさん、前のエントリーではお礼も申し上げないで失礼しました。
ビビビっとくるセンテンスをいただき、思索することができたことに感謝します。

>二次的な「後付けの認識によって惹起させられた恐怖の共有」から、逆に「一時的な身体的緊張(恐怖)」が起こってしまうことも往々にしてあると思います。
言いたかったことはまさにこれです。

ホームレス話のつづきになりますが、公園で生活しているホームレスに対して子どもは恐怖を感じていません。子ども好きなホームレスならば一緒に遊んでいることさえある。ところが「親が危険だと教える」、教えられた子どもは緊張を覚えるでしょうね。やはり「事実を知る」教育をすべきだと考えています。

>『「区別」に恐怖しやすいそもそもの傾向(一次的)』自体も「教育」によってある程度変更可能だろう

これこれ、上で愚樵大師に問いたかったのはこれです。ワタシもこれを信じたい。
dr.stonefly
2009年11月25日 14:38

naokoさん

うーむ、絶句。・・・絶句するしかないのかな。
なんとなく、机上で論議していることがnaokoさんのコメントにいる知識人と重なってしまってズシンと胸にささります。ワタシも図らずも「大衆」という言葉をつかっていましたね。この深層心理は「市井の愚鈍」と繋がるものがあるのでしょうか。そんなつもりはなく、共生ベースによる二次差別の克服も全ての人がしなければならないと、思っているのですが・・・。

思索したことが「現実にとってどうなんだ」と突きつけられる。今、現実に基地がなければ食ってさえいけない人がいる、、、おまえらの理想やら思索やらで食っていけるのか、、、という怒りが、、、。
さらには自然保護だ、珊瑚だと、戦争反対だ、と言っている内地のものこそが差別を助長しているのじゃないかって、声にならない叫びが、、、。
それでもワタシは、基地か生活かの選択を強いるやり方にNoと言わざるえない。基地(戦争)をベースに成り立つ生活がどうしても豊かとは考えられないからです。ここで妥協しては(二次的、恣意的、誰かの犠牲のうえになりたつ)差別ベースの社会は変わらない、と考えるからです。
そうした声を挙げるワタシは、差別されていない、現地で生活してない人間が何を言うか、という声を無条件に受け入れなければならない、と思っているし、そう思っていると言っても「実際には何の苦痛も感じていないだろ」といわれればその通りかもしれません。
やはり黙ることはできそうにありません。
謝るしかないです。申し訳ありません。

2009年11月25日 23:54
dr.stoneflyさん、こちらこそ思索を深める機会を与えてくださって、ありがとうございます。
皆さんの意見が、すごくためになっています。

人というのは、もちろんほかの動物もそうだと思いますが、未知のものに対して「興味」と「警戒」とを抱くと思うんです。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/7736627.html

愚樵さんが仰ってるのは、この「警戒」の方だと思います。
一方で「興味」を抱く面もまたあるわけで。
公園で生活しているホームレスに対して子どもが恐怖を感じていないのは、そのファースト・コンタクトのときに「警戒」よりも「興味」を強く抱いたからなんじゃないかと思うんです。
そのあたりもひとつ、これからのヒントになるのではないかな、なんて感じました。
アキラ
2009年11月25日 23:55
(つづき)

「食う」ってのは、単純化して考えられるいい例かもしれませんよね。
臆病からくる「食わず嫌い」はすでに「警戒」でしょうし、「擦り込まれた食わず嫌い」もあるでしょう。
「興味」が勝れば未知のものを口に入れて試す。
それで苦くてたまらなくて、次からはそれや似たものに対して強い「警戒」を示す。

その苦くて嫌いだったふきのとうも、経験を積むことによって味覚が変わってきて、そのうち「美味い」と感じ出したりもする。
『「区別」に恐怖しやすいそもそもの傾向(一次的)』自体も「教育」によってある程度変更可能だろう・・というのは、そういう感じだと思うんです。
だから可能だと思う。

ただ、一次的に起こる「警戒(恐怖)」を完全になくすということは、未知のものとのコンタクトのときにまったく警戒しない・・ということと同義だと思うので、これは実際には危害を加えられて死んでしまう可能性を含んでいますよね。
ですから、『一次的に起こる「警戒(恐怖)」を完全に克服する』ということは、「今 死んだっていい」という境地になっていることなのかな?とか思ったり。
×第二迷信
2009年11月25日 23:56
なんだかんだ言っても、人間、だれしも「いろんな価値観」を持つのは当然で、
「思想信条の自由」は、憲法にも保障されてるところです。

それを他人に押し付けさえしなけりゃ、問題にはならないんでしょう。

(いつかの冬季五輪で、アルペンやノルディックの選手が、「カーリング」を見て「俺らの金メダルはアレと同じ価値なんか?」とおっしゃったそうですが、まあ、裏話で伝わってるぶんには笑いネタでしょう。 部活で予算獲得のときに「三流スポーツ」とか言ったら問題になります)

 私の「アホ差別」というのも、じっさいのところ、向けた相手というのは、
私が例年通り「年賀状」を書くのに対して、自分は忘年会で酒盛りなどしてるくせに「喪中」だと非難する弟だったりします。
 (「葬式の塩まき」を認めながら「同和」を語るのもそれと同じレベルだ・・というと、また難癖つけられるんですが)
naoko
2009年11月26日 02:58
drはあやまっちゃダメですよ。
もしかしたら、毒多が謝った相手は、世界中の声なき被圧政者・被差別者の方たちへなのかもしれない。でも、コメントをしている側としては、自分に謝られたようで、居心地がわるいです。少なくとも、わたしは。

沖縄も日本の一部です。
ですから、本当に豊かな生活を目指す上で、直面している課題は、内地とそう変わりないと思いますよ。
ある面で特に冷遇されているとしても、別の面で優遇されていることもあるでしょう。
その生活・文化風土にも、長所も欠点もありますが、言うまでもなく、周辺外国に比べたら、やはり本土にはるかに近いです。
ですから、日本の問題は当然、沖縄の問題でありえます。差異が「区別」されるべき点もありますが、実感として同列で論じるべきことの方が多いです。
愚樵
2009年11月26日 06:25
>『「区別」に恐怖しやすいそもそもの傾向(一次的)』自体も「教育」によってある程度変更可能だろう・・

というアキラさんのご意見には私も賛成です。

まず、「興味」と「警戒」という話ですが、これも身体の弛緩と緊張に結びつけることができると思います。つまり、身体が弛緩している状態では人は自然と「興味」の方に惹かれ、緊張していると「警戒」する。これは人間を含んだ動物のデフォルトの設定でしょう。つまり一次です。

ただ人間は、このデフォルトに上書きすることができる。「緊張」と「興味」とを繋げることが出来るんですね。これは同時に緊張と弛緩を自分の意思で制御することでもある。こうしたことを学ぶことができる。教育できると思うのです。

これは、教育に文武両道あるとするならば、「武」の領域でしょう。今の日本の教育に大きく欠けているところ、ですね。
naoko
2009年11月27日 04:48
食事をするとき、何度注意しても一品ずつ順番に平らげていく癖が直らないという子どもが今増えていますが、愚樵さんやアキラさんの言う、外界への「不信」と「緊張」に関わる問題ですね。食事に対しても「緊張」してしまうぐらい余裕がないというんでしょうか。
最初に口をつけるとき緊張するので、とりあえず、安心できた料理から片付けるという面と、ともかく味が混ざるのを嫌うという面があるようですが。
今の子どもの成育環境は、それを助長している気がします。大人自体が、家庭の外へ出ると、「緊張」することが多いので、子どもはそうした大人の背を見て育っているのでしょう。
dr.stonefly
2009年11月27日 08:28

今回は思いがけなく勉強させていただき、コメント頂きました皆様に感謝します。考えつかなかった思索をいただき深めることができました。
社会状況や差別の根因を興味、緊張、警戒、、、を「食」とからめて考えていく、というのは面白そうですね。実はこの差別とからめて書きたいことがあるので、またの機会によろしくお願いします。……本当はそっちのエントリーを挙げる前段として、前の差別エントリーを書いてみたという部分もあるのですが、予想せず盛り上がり驚きとともに思索を深めることができたことを喜んでいます。

naokoさん、あやまって、、、ゴメン、、という謝罪スパイラルに陥るまえに謝罪は撤回します。謝罪してしまうオノレの心理は切開しなくちゃならないかもしれませんね。
2009年12月02日 17:22
dr.stoneflyさん。このまとめでは不味いのではありませんか。?
naokoさんの話も・・・・あれは不味いでしょう。
其れを認めてしまうと今のデフレ不況と新自由主義改革による不況とのダブルパンチで苦しんでいる東京以外の全ての道府県に当てはまります。県庁の駅前のメインストリートだったところは何処もかしこもシャッター通りで見る影も無く廃れています。
徳島県の外れの高知県境にある東洋町が原発の核廃棄物の最終処理場として名乗りを上げたが、理由はnaokoさんの説明する沖縄北部の話と全く同じです。

差別についてですが、・・・・これはやっぱり不味いでしょう。
皆さんが基本的に論じているのは政治制度の差別問題ではなく個人の『内心』の話ですよ。
しかし近代民主主義とは個人の『内心』を聖域として守る(他人が論じない)ことが原則で、憲法での何回も色々な条文で守ろうとしています。
みんなで論じる共通言語としての差別問題に『内心を入れるべきではありません。
dr.stonefly
2009年12月04日 08:45
逝きし世の面影さん
コメント及びご指摘ありがとうございます。

>みんなで論じる共通言語としての差別問題に『内心を入れるべきではありません。

そうかもしれません。が、どうもこのブログの、というか管理人の興味もあり、人間の内面を思索に行ってしまいました。
社会というのも個々の集まりであるので、もし「全ての人間の性」というものがあるなら、その上に「社会」が成り立っているのなら、・・・と考えると、「社会的差別」の本質も見えてくるのではないか、と考えました。
おそらく権力は、こうした「人間の性」を知りつくしたうえで、「(あるかないかわからないような)不安を煽り」差別の捏造していくのだと考えています。

>みんなで論じる共通言語

うーん、難しいなあ。あまりブログで制約をつくっても面白くなさそうだし、、、。

>naokoさんの話

向かうべき場所に、決意をもって向かうかどうか??
現実の生活を犠牲にしてでも、真理に向かうのかどうか?
個々の決意が必要でしょう。ワタシは持つべきとも思います。ただ、他人に対してそう言い切れるかどうか、言っていいものかどうか、という自分がいます。寄せ場周辺でウロウロしていた頃のワタシなら言ったかもしれません。どうも最近駄目なんですよね。思わず謝ってしまう。差別者に甘んじている自分が見えるからかもしれません。

2009年12月08日 11:50
ブログとは不思議なツールで駅頭で大勢に向かって演説しているようでもあり、密室で親しい人と秘密の隠し事を語っている様でもある。

つい最近、ブログ市長として有名な鹿児島の阿久根市長が『高度医療と障害』の関連性を書いて『差別問題』として問題になり村野瀬さんもブログで記事にしています。dr.stoneflyさんは如何思われますか。?
一般に広く公開されているブログで市長という公人が書いては駄目でしょう。これでは忌まわしき優生学そのもので道徳的には間違っている。
ところで科学的事実としてはには如何でしょうか。?
事実は今の高度医療が高度障害を生んでいるのは医療関係者なら誰でも知っている。
命を助ける程度の技術はあるが治療するまで達していない未熟な発展途上段階にあるのが残念ながら現実です。ですから阿久根市長の発言自体は真実だが、『公開の場では言ってはいけない』ことなのです。
dr.stonefly
2009年12月08日 17:04
う~~ん。
これは困った。
まずね、ブログでの発言ってことでいえば、ワタシが市長であれば、ほとんどのエントリーは問題になりそうです(笑)。「差別の効用」なんて大問題でしょ。
ただ件のニュースでいけば、本性を隠して市長を続けるより、本音を書いてくれたほうが判断しやすい、適正があるかどうかを判断しやすい、ということはありそうです。

逝きし世の面影さんが、挙げてくれたので、再度その市長のブログを読み直してみたのですが、これは結構深いですね。「高度医療」が「高度障害」をうんでいる、、かぁ。この事実は思索しなければならなさそうだ。

ちょっと時間をください。





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    Excerpt: 東日本大震災:福島第1原発事故 拡散予測、公表せず 保安院、東電のベント前報告   東京電力福島第1原発1~3号機で、原子炉格納容器を守るため圧力を下げる『ベント(排気)』をする前に、東電が原発周.. Weblog: 逝きし世の面影 racked: 2011-06-27 09:40
  • 原発村の度し難い「やらせ」体質

    Excerpt: 『原発安全神話、政官産学報、既得権益鉄の五角形』 九電による『原発安全神話』やらせメールが発覚したと思ったら、やっぱり中部電力でも発覚。四国電力でも同じことをやっていた。 『やらせ』は前代未聞の.. Weblog: 逝きし世の面影 racked: 2011-08-01 08:43