「どんな人間にも差別意識がある」…この前提は差別への加担です

 どうも何だかなぁ、引っかかっているのが「差別意識」である。って、まだ引っ張るか? かといって引っかかっているものをそのまま放置して忘れるってのもなんとも気色悪いしなぁ。
 でね、何が引っかかっているかというと、「どんな人間にも差別意識がある」っていう言い方ね。これさ×第二名神さんがパージされたブログで、あ、失礼、バージはされてないんだっけかな?(笑)、「どんな人間にも差別意識がある」ってのを前提として論(??)が展開されていたんだけど、、、、それは何かが違うんとちゃうか、って感じたのが第一感ね。
 まあ、オイラも「己も差別者であることを自覚しよう」とか「己の中の差別意識を意識しよう」とか「己のなかの差別意識を意識しないのは差別に加担している」みたいなことを書いているから他人のことは言えないんだけど、「どんな人間にも差別意識がある」を大前提として話をしちゃ拙いだろ、とは感じたのさ。まあ、わざわざエントリーに挙げようと思ったのは、TBをくれた光るナスのアキラさんが、

僕らの自意識は、他との「差」を認識して自己の感覚を立ち上げている以上、差別する感覚というものはなくならないと思うんです。
それが社会的な領域へと流れ込んでいってしまうことも、出来れば避けたいことではありますが、避け得るかどうかと考えると不可能なような気がする。


って書いていて、アキラさんが書いているんで再度考えてしまったからなんだけどね。アキラさんの言葉を読むと「どんな人間にも差別意識がある」ってのが前提っぽく思えちゃうんだけど、今回はちょっと反抗させていただいて、そうかなぁ、と言っちまいます(笑)。
 確かに、自意識は他者との「差」を認識するんだろうけど、オイラはその「差」と「差別」は別ものと考えていて、「差別」ってのは後天的なもので学習(特に国家がさせる学習)によって刷り込まれるか、生活のなかで恣意的に吹き込まれるもの、って認識している。むしろ社会的な領域から自意識へ侵略していくものと考えるのね。そう、アキラさんがいってることは逆のような気がする。つまり「差別」ってのは社会のなかで捏造されて、さも当然かのように個々の意識を洗脳していくものじゃないかって。それで、個々の中にあるものが「差別意識」。
 そう、「どんな人間にも差別意識がある」ってのを前提で物を言うってことは、捏造された差別に洗脳された意識を前提にしている、ってことで、ここに引っかかりを感じたんだな、って書きながら思った。

 じゃ「社会」のなかで差別を捏造してなんの得になるの? って話になるんだけど、やっぱり「得」する人がいるじゃないのかな。この社会ってのが損得を生み出すシステムになっているから、差別されて「損」をする人がいれば、差別をして「得」をする人がいる。まあ、得といってもそれが金銭的得とか物質的得なんてくだらないものなんだけど。もっと言えば権力がオノレらがやりたいことを出来るように(大きく得するように)、大衆が連帯し攻められないように「差別」を捏造して大衆を分断させるとかさ。大企業の経営者が労働者同士の差別化をはかって連帯させないようにする、クレームの矛先を見えにくくする、とかさ。そんな風にして、女性差別は男が得するためにつくられ、障害者差別は健常者が得する捏造られ、被差別部落差別なんてもろ権力が大衆を分断させるために捏造されたものでしょ。

 大衆側は大衆側であの人たちより私たちのが「得」(差別を捏造しているもの比べたら微々たる得なんだけど)ってことで納得したり、洗脳されて差別したりで、権力の望む差別を助長させちまったりさ。こういうことを書くと、アキラさんの言う

自意識は、他との「差」を認識して自己の感覚を立ち上げている以上、差別する感覚というものはなくならない

 という部分もあるのかもしれないけど、例えば、人間は生まれつき「向上心」ってのはあると思うのね。それは個が向上していきたいという絶対的な向上だと思うの。たださ、社会のなかで「得」ってのを考えると、周辺を蹴落とせば自分が向上してなくても相対的に「上にいる」ってことになったりする。そういうのって、後天的に社会のシステムのなかで習得するものと思うの。それで編み出されたのが「差別」だと思うの。巧妙に差別は造られるんで、蹴落とされなかった側で喜んだりするの。「勝ち組負け組」なんていい例でしょ。
 だからさ、やはり「どんな人間にも差別意識がある」ってのを前提で物を言ってはいけないと思うのさ。それどころか「どんな人間にも差別意識がある」ってのを前提で物を言うこと自体、差別を捏造しようとするものに加担しているんじゃねぇの、、ってね。


 まあ、差別議論をしていて自ら分断しちまうなんて愚の骨頂なんだけどね、爆!!
 ここでは、そういう愚をおかさないようにしなくちゃね。気をつけよ(笑)
 

 

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この記事へのコメント

人生アウト
2009年11月21日 16:11
よし、ここは「人生アウトに差別意識はあるか」という点について。
「お前のこれは差別だ」「いや、そうじゃない」という嵐のような批判、どんと来い。
愚樵
2009年11月21日 16:41
ちょいとご無沙汰してます。面白そうなテーマですのでちょいとコメントさせていただきます。

アキラさんの言う差別感覚と差別意識とは、少し違うものだと私は思うんですよね。まず、差別感覚ですが、こちらは自他を区別するべく機能するもの。差別意識も区別ですが、区別の前に、まず自らを特定の他と同一視する作業がなくてはならない。オレは日本人だ、とかいったような所属の意識ですね(これはdr.stoneflyさんの言うとおり後天的)。

差別感覚が差別意識へと繋がってしまうのは、人間の弱さゆえだと思います。差別感覚で私たちは私たち自身の独立性を感得するのですが、誰もがひとりでは不安。だから、他との同一性を探すのでしょうね。差別意識の裏には、孤独への不安と集団でいることの安心感がある。

孤独であることに不安を感じない人は、差別なんてしなさそうですよね。が、そんな人がどれほどいるのか、まして、世の中の人すべてが孤独でも平気でいられるなんて...、ちょっと無理っぽい。
2009年11月21日 16:51
この話は護憲左派ブログ界の恥部である水騒動の論理に非常に似ていますね。
科学にはその性格上元々『正誤』はあるが『善悪』はないのですが、水騒動では『科学的正誤』の話を『善悪』に変換して他人を攻撃する輩が現れて大騒ぎになる。
差別もこれと同じで『善悪』ではなく元々は正誤の話なのです。『クジラは賢いから殺すな』など人間様と動物との差別を無くすなどは大間違いですよ。
記事で取り上げられている人種や身分や障害者などの差別は『間違い』で正誤に問題があるだけ。
『間違い』は正せば済むが『悪』は退治するか処罰は免れない。
間違い=悪とは自動的にはならないのです。

差別といえば福岡で暴力追放の運動に対して『子供が差別されてイジメに会う』として暴力団の組員が抗議したとか・・・
『差別=悪』だと言いたかったのでしょう。
人生アウト
2009年11月21日 17:15
>孤独であることに不安を感じない人は、差別なんてしなさそうですよね。

うを、私は無理だ! 私はいっつもいっつも、家族や友達のことばっかり考えて、一人でいると寂しくて死んじゃう!
みみず
2009年11月21日 22:19
差別は差に先行するというのは面白い見方ですね。
私は、差別はもちろん「差」という言葉自体も好きじゃないんだナー。「差」というと、どうしても上下が関連する気がして。「違い」でいいじゃん、って思ってしまう。

ムスメの保育園には障害を抱えた子も肌の色の違う子も結構いるのですが、子どもたちは「差」としては認識していないと思うのね。「違う」ところはあるけれど「同じ」おともだち、っていう認識だと感じる。

しかしまあ、パージとは物騒なことが起こっているのですね。同じ人たちがやってるのであれば、その人たちの問題だろうけど、別の人たちが展開しているのであれば、人権問題の議論にそうした「排除」がなされるのはデフォルトなのか?と悲しくなってしまいますね。
kuroneko
2009年11月22日 00:36
「どんな人間にも差別意識がある」なんて前提として議論ができるの? 「自分に差別意識がある」のを前提としているのならわかるけど。

A県B市C町大字D字Eに住んでいるFさんに差別意識があるのかないのか、なんてわからないんじゃないかなあ。
それとも「ウソを一度いたことのない人はいない」というような命題なのかな。でもそれが真実らしく思えるのは何故だろう。
naoko
2009年11月22日 05:00
どんな人間でも差別という罠にはまる可能性がある、ということかな。
この差別を生み出すもののひとつが、「先入観」かもしれない。
そして、それぞれが、「自分(たち)より下」がいるという思い込みと優越感を楽しもうとすると差別は強烈になってくる。
そのための道具として、教養とか知性とかお金とか社会的地位・名声とかが利用される。
差別する側は、ほとんど無意識にそうした‘装飾’を身にまとっているが、当人はほとんど気にも留めていない。
差別される側は、逆に強烈に意識させられるが、そのため必死に差別する側にまわろうとする者もいる。
こうして差別は再生産されるが、一方では、どん底の差別を受けた経験から、他者の痛みに過敏な人たちがつくられる。
人生の修練が、彼らに優れた人間知と洞察力と共感能力を与えることもある。
そうした者達もまた他者・社会に深い影響を与えるかもしれない。

などと、少し考えてみました(笑)。
そうすると、もっとも反差別的な意識は、自分自身と他者の人間性への深い関心かもしれません。人文主義(ユマニズム)?
愚樵
2009年11月22日 06:16
みみずさん

>「違い」でいいじゃん、って思ってしまう。

差異、ですね(笑)

>「違う」ところはあるけれど「同じ」おともだち、っていう認識だと感じる。

いいなあ、それ。純粋で。が、そうした無垢は、簡単に穢すことができるんですよね。

もし親に差別意識があれば、子も容易に差別意識を持つでしょう。その時分の子どもにとっては、友よりも親の方が大切だから。親との同一性を保持するために、子は容易に差別に走る。これもまた純粋さゆえ。

純粋さを穢すのは悪のように感じますが、それは往々にして善意によってもたらされます。子に親への愛着がなければ差別意識が伝染することもないでしょう。また、子はいずれ親以外の者にも多かれ少なかれ愛着を感じるようになり、それはとても良いことなのですが、全員に平等に愛着を感じるなんてのは無理です。それは孤独と同じだから。

人は善意を持つものです。しかし、その善意は全方向に同濃度で放射されるものではなくて、どうしても濃度差が生じる。悪意はその濃度差から生まれる。差別意識は、そうした悪意のなかのひとつに過ぎません。

人は生まれながらに差別意識を持つものではありません。が、その生育過程のなかで否応なく身につけてしまうものです。
dr.stonefly
2009年11月22日 09:13

人生アウトさん
とりあえず、
>「お前のこれは差別だ」
ってのが思い浮かびません。

dr.stonefly
2009年11月22日 09:13

愚樵さん
 ちょいご無沙汰です。でも、やっぱり愚樵さんだ、うれしくなっちゃうね(笑)。本文には書かずにいて引っかかっていたことを、指摘されちゃう。
 というのは、差別意識は捏造して押し付けられたものだけではなく、そして損得だけではなく、自ら区別してさらに差別して自己を認識する(まるっとアキラさんの言葉だな)ことはあるかな、と思いながらエントリーには書かずにいました。それはアイデンテェテェってことでしょうか。そしてアイデンテェテェの根因は「人間の弱さ」ってことですか。まさに安心感ですね。確かにそれはあるでしょう。それがあるからこそ、捏造された差別でも、いとも簡単に信じ込んでしまう。
 ただね、集団に属している安心感ってのは、集団に属しているってだけで得られるものじゃないのかな。他集団との差(優位性)によって得られるものなのだろうか(そうじゃないだろ)?ってのは考えたんだけど、やっぱり「青カン」という集団や「障害者」という集団がアイデンテェテェにならない(なりにくい)ところをみると(オイラはなると思ってるんだけど、爆!!)、ただ集団に属しているだけでは安心できないのかもしれないな。とすると、「どんな人間にも差別意識がある」というテーゼは成り立ってしまうのかしら。
 でもその「安心感」が「偽物」ってのを自覚しなければならない、と思っています。「偽物」ってのは言い過ぎかもしれないけど、他愛もない側面を信じ込んでいる自分を疑わなければ駄目でしょ。ちゃんと考えれば他愛もないものだと解るはず。とうぜん解ったときには孤独を感じる。人が存在するってのは本来孤独なんです……、だんだん池田明子じみていくな、爆!!
 ちなみにオイラはアイデンテェテェってのが大嫌いです。

dr.stonefly
2009年11月22日 09:14

 逝きし世の面影さん、おはようございます。
 >護憲左派ブログ界の恥部である水騒動
 がはは、ほんと(自戒もこめて)恥ずかしい限りです。
 ずっと昔にこのブログで「差別についての三部作」を書いたことがあります。そのときに、社会では「差異」→「区別」→「差別」と流れていると書きました。面影さんのいう「正誤」「善悪」はそれぞれ「区別」「差別」にあたるのだと思います。「差異」は「事実」ってことでしょうか。
 「善悪」というのはまさにその通りだと思います。差別を利用しようとするものは「善悪」という観念を伴わせて差別を浸透させる。それが事実も正誤も関係ない。なんでもいいんです。「悪」を仕立て上げることで、オノレらの「善」が満たそうとする。愚樵さんの言うところの「人間の弱さ」につけ込んで、仕掛けてくる。ようは仕掛けてくる者がいる、ってことです。その仕掛けてくる者はオノレの気持ちが満たすために、得をするために、仕掛けてくる。ってことですね。

dr.stonefly
2009年11月22日 09:15

 みみずさん。コメありがとう。
 上の面影さんのとこで書いた差別三部作(笑)でいいたかったのが、「差異」→「区別」→「差別」を逆の流れでいこう、ということでした。事実である「差異」も乗り越えて「同じ地平に立とう」ってことです。愚樵さんに「純粋」っていわれちまったけど、「純粋」が悪いわけがない。そこを目指さずにどこを目指すんだよ、って感じです(笑)。
 それにしても保育園の子どもたちってのはいいなぁ。うちの場合は朝の8時から夕方7時までだったんですが、そこでほんと、いろんな子ども「生活」するんですよね。うちにも障害をもった子も肌の色が違う子もいましたが、そこで0歳から6歳まで「生活」しました。これはすごい生育環境だと思っていて、卒園の時、この子たちの将来が楽しみだなぁと話し合ったものです。
 >パージ
 ×第二名神さんが絡んでいたので、読むことになったのですが、パージと感じたのはオイラだけかもしれないので書くことじゃなかったかも、です、ゴメンチャイ。
dr.stonefly
2009年11月22日 09:16

kuronekoのアニさん
>それが真実らしく思えるのは何故だろう
まさにここなんですよね。オイラも、なるかもしれない、と思っているってことでしょうか?
>「どんな人間にも差別意識がある」なんて前提として議論ができるの?
を前提にしてエントリーを挙げているわけですから。
真実らしく思えるのは、アキラさんや愚樵さんがいうようなことかもしれません。

dr.stonefly
2009年11月22日 09:17

naokoさん、おはようございます。
>「自分(たち)より下」がいるという思い込みと優越感を楽しもうとすると差別
「楽しもう」なんてもんじゃないでしょ。
愚樵さんにいわせりゃ人間の性だけど、オイラにいわせりゃ恣意ですよ。
やはり乗り越えるものだと思うんですね。(愚樵さんは乗り越えた先は孤独が待っている、って言うかもしれないなぁ、笑)

>人生の修練が、彼らに優れた人間知と洞察力と共感能力を与えることもある。そうした者達もまた他者・社会に深い影響を与えるかもしれない。

これは前のエントリーで言いたかったことです。
ただ、やはり「人間の性」という部分まで含み、差別の本質をつかみ「純粋」に「差別」がない方向へ学習され、習得されていくのが本筋だと思っています。

えちごっぺ
2009年11月22日 10:59
おはようございます

錚々たる論客の皆様の後で(こういうこというからダメなんですが・・・)私などものいうのは気が引けますが、毒多さんもいわれるように差別とは「社会的なもの」であるとともに「人間の性」というものも含んで考えていかなければならないんでしょうね。
誰しも「差別」はいけないことだと分かっているのになくならない、ここにこの問題の根深さがあり、必要悪だなんてはとてもいえないです。
ただ「差別」というのはこれだけが一つの問題としてあるのではなく、社会の有り様を示す一つの鏡のように思います。
そんなものがいかに下らない事かを一人一人が気づく社会を目指すことがまず第一ではなかろうかと脳内お花畑の私はふと思いました(苦笑)
2009年11月22日 11:23
みんな、「差別」て日常で使われる言葉だと思って言っているけど、社会科学用語と「差別」と、日常で幅広く使われる、人によって意味の範囲が違う「差別」って言葉と、違うのでは?って論点にはならないのかなあ。
わたしは「差別」ていうと、バラの木にバラの花が咲き、ミカンの木にミカンの花が咲くことも「差別」と思うしね。(ただ仏教語の「差別」は「しゃべつ」って読むけど)
言葉の意味の問題としては、同じ「差別」と言われ同じ面もあるのでしょう。社会的差別(人種差別など)と、「入試競争倍率や偏差値の低い大学の学生は銘柄大学の学生より劣る」と発言されたり、「背の低い男はルーザー」と女子が発言する「差別」と。
でも社会問題として、差異もあるのではないかなあ。
愚樵
2009年11月22日 11:34
乗り越えた先には孤独が待っている(爆)

ええ、そうです、そうです。でも、それだけではないと思います。それだけないと私は信じています。

ここから先は、信じるかどうかが問題です。私は孤独だ。孤独というのは、子どもの純粋無垢とは違った意味で純粋なんです。それは恣意だとかなんだとかが削ぎ落とされた純粋です。

しかし、それでも純粋は純粋ですから、やはり危うい。自分は孤独だと思い知って、それでも信じることが出来なければ人は虚無の中へ沈んでいくことになります。
(dr.stoneflyさんはもしかしたら、昔の活動の中でそんな人と出会っているかもしれませんね)

では、何を信じるのか? 孤独ですから「私」しかありません。「私」の意思です。孤独と思い知っても、それでも他者と繋がりたいという意思。それが「私」のなかにあるのかどうか。

あるとしても、そんなものはリアルな実態としては存在しませんから、信じる他ない。誰も確認などしてくれません。

(神の存在を信じている人は、孤独であっても神が確認してくれると信じます。神が確認してくれると信じるのも、自分で「私」を信じるのも、たぶん同じことです。ですから、我即神です(爆))

ここから出発することが出来れば、差別の罠になど堕ちることはないでしょう。が、その出発点にたどり着くのが大変です、凡俗には。

ちなみに私ももちろん凡俗です。ただ、こんなこともあり得るだろうな、と推測するだけです。
2009年11月22日 17:44
うわぁ 錚々たる面々の錚々たる「議論」ですなぁ。
(書き込み辛い(^^ゞ)

ドクターも書いておられる訳ですが、
「差異」と「区別」と「差別」
この違いをどう説明するか…なんじゃないでしょうか?
「差異」は事実そのもの、ここまではついていけるんですが…じゃぁ「区別」はどうなの?というところで引っかかってます。
「区別」は差異を認識するところまでってのが、私の感覚でして。
そこには評価は入ってこないと思うんですよ。
むしろ、区別というのは差異を認めることであって、あんまり否定的な感じがしない。
それこそ、自分と他人は夫々違う部分があることを認識する=個の尊重につながりうる段階が「区別」なんじゃないか…と。差異を認識した段階では自他の区別はあまりしていないように思えるんですがね。

「区別」→「差別」というのは、「差異」→「区別」に比してかなり大胆な思考の飛躍が必要なんじゃないかなぁと考えます。
そこには「正誤」「善悪」(これ、この記事内容からは似ているものに思います)という「評価」が必要になる。そして、その評価軸は社会から切り離された個人の意識の中からは生まれにくいと思うのです。
だからこそ、社会的な背景というか同調圧力が加わらないと、「区別」は「差別」にはなりにくいようにも思うのです。

ただ、この論の欠点は「現に差別をされた」という個の認識に対抗できないことなんですけどね。
自分では「区別」のつもりで出した言葉が、相手にとって「差別」であった場合…これがしばしば面倒を引き起こすんじゃないかとも…
2009年11月23日 10:24
とみんぐさんの>『自分では「区別」のつもりで出した言葉が、相手にとって「差別」であった場合…』<
この話、何かに似ていると思いませんか。?
そう。セクハラ問題と『悩ましさ』がそっくりですよ。
同じ行為、同じ言葉でも相手が嫌な異性の上司ならセクハラになるが同性の同僚なら問題なしで、密かに好意を寄せている異性なら飛び上がらんばかりに喜ぶ。

全く同じ行為や言葉でも三者三様で全く違ってくるのです。
何故そうなるかと言うと、この場合の『セクハラ』も『差別』も全く同じ『個人の内心』のことを考えているからです。
現実の『社会的制度としての差別』を問題にしているのではなく、個々の個人の内面にある心の中の差別意識『内心』を問題としているのです。
だから悩ましい。しかしこれは言葉の定義が混乱しているのです。
「差異」や「区別」は現実に存在していて決して無くならないし、なくならないどころか『差異を無く』すとは『個性を無くす』と同意語なので『無くす事』は良いとはいえない。
『区別も無くす』も民族差別は悪ですが、異民族に対する全ての『差別』(区別)を無くす同化政策は対象とされた異民族にとっては将来の民族絶滅につながり民族差別以上の極悪なのです。
日本は旧土人保護法などで、独自の優れた文化を持っていた国内のアイヌ民族に対して徹底した同化政策をとった結果、現在はアイヌ語を母語とする民族集団も文化もほぼ絶滅しています。
明治時代に植民地化した台湾や朝鮮に対しても同じ方針(同化政策)で臨み、これ等の地域でも日本と同等の(差別のない)教育をしようとした。
×第二迷信
2009年11月23日 22:00
「どんな人間・・」というのが、「一億総懺悔」みたいな雰囲気になっちゃいますが、
実はしんな「深い」ネタではないはず。

結局は、「ひのえうま差別」や、「喪中差別」にくらべて、
「部落差別」だけが「特別」な理由、というのが、
ようわからんのですよ。
(違うのは「利権が絡むか否か」だけだと思うんですが。)

・・というだけで、「差別だ差別だ・・」ということになっちゃう。
 「先祖がけがれ身分」は差別だ差別だ・・と言いながら、
「葬式はけがれ」を認めて塩を撒くのは平気、という、アンバランス。

 それだけのこと。のはず。
×第二迷信
2009年11月23日 22:37
深い意味で「お前に差別意識があるか・」
といわれたら、
「そりゃ、21世紀にもなって、ひのえうま迷信やら、葬式の塩まきやら、けがれ職業やら言う奴は、アホやろ・・・」

ということ自体、「アホ差別」してることには違いないです。
 さすがに、お釈迦様ではありませんのでね・・・。
2009年11月23日 22:56
こんにちは。
すみません、TBもいただいて、こんなにいろいろな方が議論されていたのに、ロードに出ていて自分のブログのコメント欄だけケータイでチェックしていたので、こちらにまったく気づきませんでした。
ごめんなさい。
dr.stoneflyさん、記事内にリンクがあるので、こちらからはTB返しはしませんね。 (^o^)

ここまで議論された後にコメントするのは、完全に後出しジャンケンで申し訳ないのですが、皆さんの指摘を読んでいて、なるほどなと思うことが多かったです。
dr.stoneflyさん、記事を立ててくださってありがとうございます。
ので、後出しジャンケンながら、そのへんを少々コメントさせていただきます。 (^_^;)

この「(社会的な)差別意識」問題、僕はまだよく考えていないことで、ですので僕の方の記事がけっこう軽率な内容になってしまっていたりするのですけれど。
dr.stoneflyさんが引用してくださった部分を含め、僕の方の記事で一番問題だったと思ったのは、「差別」という語を筆頭に言葉の意味合いを非常にあいまいに、よく考えずに使っているということですね。
「差別する感覚」と書いている中には、「区別し認識する」感覚ということと、それとは別に「その区別を社会的に評価し、差別する」感覚ということが、ごちゃまぜになっています。
政治的にもごちゃまぜな記事でしたが、言葉的にもごちゃまぜな記事なわけでして・・・
お恥ずかしい限りです。
2009年11月23日 22:57
(つづき)

僕自身の「悩ましさ」は、11/22 17:44のとみんぐさんのコメントに一番近いです。
「区別し認識する」ところからもう一歩踏み出すときに、必ずそこに「評価」が入ってくるとは思うのです。
「正誤」や「善悪」を含め。
そういう「評価」の「物差し」になるものは、皆さん仰っているとおり、必ず「社会的なもの」だと思うんですね。
この「物差し」は、とみんぐさんが仰る「評価軸」ですよね。
で、これが「社会的なもの」なんですから、dr.stoneflyさん仰るように、どうしたってそこに「ある“恣意性”」があるわけです。

で、社会が社会として成り立っている以上、その「ある“恣意性”」がないということも、またあり得ないわけで。
ですから、抽象的、あるいは理想論的に言えば、その社会にある「ある“恣意性”」を変更すれば済む・・という話になるんですが。
ところが社会には今まで積み重なってきているものがあるし、生まれ落ちた環境や社会的な位置などによって、気がついたらすでにそれをまとわされていたということもあるわけです。
加えて、人間には感情や情動がありますし、語り継がれる社会的な感情や情動もまたある。

さらに、「区別し認識したもの」を「評価」するときに、どうしたって個々人の嗜好が絡んでくると思いますし。
その意味では、教育の問題はとても重要な問題だと思います。

この先を考え出すと本当に悩ましくなってしまうのですが、僕が今感じていることは、その人のそもそものデフォルトの状態が、「社会的差別をされている位置」かそうでないかで、これらの問題への感覚がものすご~く違ったものになるんじゃないかな?ということです。
それ以上のことが、まだ何も考察できない状態です。
少なくとも
2009年11月24日 02:11
直接的に社会的差別にさらされているか否か、またはそういう経験があるかどうかは、当人の感じ方に大きな差異をもたらすでしょう。
その差は極めて大きいということを知っていることに意味があるのではないでしょうか。
傍から見たことがあるというのと、当事者として感じるものはあまりに違いすぎる。
真っ正直に「自分はそのような経験はない」という言葉が、偉そうに聞こえてしまうのは、当人はそんなつもりはなくても、聞いている側には、そのことを誇っているように聞こえるからです。
逆に、わざと「そんな経験ないね」と、確信犯的にウソを言うばあいには、相手を見て予防線を張っていることもあるでしょう。
ウソを言わなきゃ生きていけない。生まれてこの方本当のことなんか言ったことない、という人もいるでしょう。
嘘つきほど社会が公平ではないことを良く知っている。
naokoでした
2009年11月24日 02:36
ただ、かわいいウソと可愛くない嘘があるのも確かかなあ。

dr.stonefly
2009年11月24日 18:00
みなさんのコメントありがとうございます。
新たな視点を与えていただき教えられることばかりです、感謝します。
個別レスするものかどうか悩み、というか難しく、議論のなか一人として書き始めたのですがやたら長くなってしまいました。
管理者の特権として、コメント欄がわりに新たにエントリーさせて頂きます。
みなさんには、分割してコメントしてもらっているのに申し訳ありません。

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