「科学と市民運動」…市民運動もカルトになるか?

♪オレが昔、唯物論者で無神論者だったころ~、妹はオウム信者で、オヤジはナンミョー信者だった、わかるかなぁ~、わかんねぇ~だろうなぁ~。シャバドゥビ~♪

 韻の踏み方が強引すぎるやんけ~、と反省しながら市民運動の頃を思い出している。当時オレがファッションとして唯物論者であり無神論者だと名乗っていたのは、セクト崩れの先輩の影響だったかもしれない。でもそれだけじゃなさそうだ。何か理由がありそうだ。たしかあの頃、片思いの彼女はキリストで、先輩はマルクスだった。運動に身を投じるにつれ、オレはキリストよりもマルクスに傾いていったのだ。やっぱキリストに運動は無理だわな~、と直感していたのだ。 わかるかな? わかんねぇ~だろうなぁ~。シャバドゥビ~。

 最近のブログのやりとりで、オレがいた市民運動は科学的かもしれないと思った。
 何故とつぜん科学的なのだ、たんに唯物論で無神論からの連想だけではない。科学的でないと運動はなりたたないのかもしれない、と思ったからである。
 オレたちの市民運動は青カンを助けよう、というものだった。当時運動のなかで、青カンが派生するのは、労働問題であり福祉の問題と決まっていた。もっとも世間的な青カンがうまれる理由は「落ちこぼれ、怠け者のため」だったのだが……。運動的には人間は仕事をするのがよいと決まっていて、健康で文化的な生活が良いというのも決まっいて、ニンゲンとして仕事を持ち健康で文化的な生活を目指すことも決まっていた。青カンを助けなければならないのは労働環境、福祉環境に問題がありその問題を解決することが運動だった。それが人間にとっての幸せかどうか、ということは問題ではなく、すでに問題は決まっていて課題も決まっていて、ブレずにそこを目指した。なぜなら問題の改善を目指す運動だったからだ。

 社会の問題を前提とした市民運動は青カンを「社会問題の被害者」とした。市民運動は「青カンは社会の被害者」として運動を展開するのが宿命で、そう思ってない青カンで自ら「落ちこぼれ、怠け者」と思っている青カンには、そう思わされているとし、「社会の被害者である」とオルグして回った。世間にも青カンは「社会の被害者」と訴えたが、それでも世間の連中は「落ちこぼれ、怠け者」というレッテルで一括した。
 青カンに対する市民運動と世間の見方は対立はするものの、構図としては市民運動も世間の連中も一緒だったかもしれない。市民運動は「社会の被害者」と一括し、世間の連中は「落ちこぼれ、怠け者」で一括した。
 ところが運動を続けるオレは、青カンを一括できなくなっていった。青カンのなかには、社会の被害者もいれば、落ちこぼれ、怠け者もいる。好きでやっているものもいれば、楽しそうなヤツも哀しそうなヤツもいる。自殺するものもいる。狡いヤツも純情なヤツも。仲間がいるものもいれば、孤独なものもいる。達観したものも、世間を見放したものも、ジタバタするものも、ムカつくヤツも、尊敬するヤツも、憧れるヤツも……。
 そんな青カンを世間が一括しレッテルを貼ったのは無知ゆえだろうが、運動もやはり青カンを一括したのだ。一括しなければ運動にならないからである。
 ところがだ、実際のオレは唯物論者でも無神論者でもなかった。そして科学的でもなかった。その市民運動をすればするほどオレはブレまくる。仕事があることが幸せか? 健康で文化的な生活であればいいのか? 何が幸せだ? 何故、人は存在する・・・。
 
 市民運動が科学的ってのは、飛びすぎていて科学者に叱られるかもしれないな。ただ、何を根拠にするかを決めて、それ以外はない。ブレない。という構図が同じなのかもしれないと思った。でもまあ、それは宿命。科学的根拠なしに科学はあり得ないし、市民運動的根拠なしに市民運動はありえない、ということ・・・。科学的根拠が唯一絶対の価値基準になればカルトになるように、市民運動的根拠が唯一絶対の価値基準になれば、やはりカルトになる可能性がある。
 科学にしても、市民運動にしてもそれが全てでない、と自覚できれば武器になるのだが、盲目的になって暴走してしまうと、、、、ヤバい。 

 
 というオレは、憲法9条を、数少ない絶対的価値基準として血肉化させ、つまりカルト化していることを自覚しているのだが……、爆×10!!



この記事へのコメント

えちごっぺ
2009年07月25日 19:26
こんばんは!

前記事は凄すぎて、皆さんのコメントをただただ読ませて頂いた私ですが、宴の後?のようでちょっと茶々入れさせて頂きます。

カルトとはなんぞやと言う問いに対して、私は人間を思考停止に導くものと考えます(稚拙?)
唯一絶対的価値基準がカルトかというと、そのことを当事者が認識するか否やに関わると思いますが、この基準は相対的であり個人の中でもさまざまな基準がありうると思うのです(なんのこっちゃ)
しかし、社会科学の中に自然科学が介入して恣意的思考を絶対視する為のツールになった時、それはカルトになり得るし、今までも多くの例が見受けられると思います。

>科学にしても、市民運動にしてもそれが全てでない、と自覚できれば武器になるのだが、盲目的になって暴走してしまうと、、、、ヤバい。 
私もこれにつきると思うんですが・・・

>というオレは、憲法9条を、数少ない絶対的価値基準として血肉化させ、つまりカルト化していることを自覚しているのだが……、爆×10!!

実は私も同じなんです・・・・爆×10000000!!
2009年07月25日 19:48
  一般法則論のブログを読んで下さい。
  一般法則論者
とみんぐ
2009年07月26日 13:30
う~ん
>一括しなければ運動にならないからである。
ごめんなさい。ひょっとするとdrの逆鱗に触れるかもしれない…。

ここんところ、ちょっと私と感覚が違うかもしれない。
いや、確かにそういう側面はあると思う。
駄目になる(というか)、結局運動を担っていた仲間が散り散りになるような、あるいは華々しく「玉砕」するような「運動」ではそういうところがあるかもしれない。
じゃぁ、どうするんだ…といったとき、私はこう思ってる。
「結局、他人事じゃ駄目なんだ。自分の事として課題をとりこむことだ」
…と。

入っていくきっかけは何だっていいと思うんですよ。「かわいそうな人(他人)を助ける<なんちゅう上から目線」だって、構わない。
持続するためには、そのことがどれだけ自分の事と考えられるか、自分のこととして考えられなくなったら、一旦離れてそれまでの活動を客観視したほうが良いんじゃないか…そうしないでずるずる行っちゃうと、運動の継続自体が目的と化してしまって、自分が破綻する(つか、私は破綻した)。

で、やっぱり、自分のこととして考えるには「想像力」が大事かなぁと、その想像力が客観性を持ちうるか否かの一つの分かれめは、科学的分析なのかもしれない。その点で科学(社会思想史等々)は重要だと思うんですよね。
とみんぐ
2009年07月26日 13:34
だから、
>オレは、憲法9条を、数少ない絶対的価値基準として血肉化させ
というdrさんのスタンスは必ずしもカルトじゃない…というのが私の思いですわ。
戦争の否定は人類の歴史の悲劇の中から抽出されたエッセンスの一つなんですからね。
dr.stonefly
2009年07月26日 16:58

えちごっぺさん
ちょい無理目なエントリーに付き合って頂いて申し訳ないです。
まあ、世の中なかなか難しいもので、っていうかワタシでも、何かについては「ワタシの価値基準」をもっちゃっていて、ちょっとやそっとじゃ動かない、というか、聞く耳を持たないことがある。普段は多様な価値基準を認めるなんていいながらですよ……爆。
市民運動のなかにも多様な価値基準を認める人は多いですがね・・・

9条は唯一絶対の神ということで、カルト結成!! 爆!!

dr.stonefly
2009年07月26日 16:58

とみんぐさん
誰が鱗を逆立てるんですかw!! じゃあるまいし。
ここの皆様には、いつも教えられていますよ。

他人事じゃなく、自分のこととしての市民運動ならつづく、ってことですが、まあ社会のなかの差別とか不公平とか、生きにくさ、ってことであれば、そうだと思います。市民運動は社会のそういう面を是正しようとするものでしょうから。
ワタシが、他人事としてでなく自分のこととして接したかどうかは解りません。どれだけやっても、とても「自分のこととして」なんて言えないし、考えられない。
ある時点で、自分のこととして考えることを諦めた。自分の事として、ってのがやはり嘘っぽいからね。
dr.stonefly
2009年07月26日 16:59

というのとは別に、「社会のそういう面を是正」という価値基準は社会を基準にしている。社会が基準ってのは、どうだろう、ってのをホームレスに教えられたんです。すっごく哲学的になっていって「社会が基準」って前提そのものに疑問をもってしまったわけです。ホームレスの支援運動をするのに、青カン村のほうが真理がありそうだから、みんなでホームレスになろう!! とか、そも健康で文化的な生活ができれば、「生きている」と言えるのか?? なんて言い出したら市民運動になりやしない。

あれ、何をいってたんだったっけ?

そうそう、市民運動も、たとえば「健康で文化的な生活」が絶対で、そこに疑問をもち思索しなければカルトと、……、って思った次第です。

分けわかめなレスで御免よ。


dr.stonefly
2009年07月26日 18:00
ちょち訂正

>「社会が基準」って前提そのものに疑問をもってしまったわけです。

疑問ってより、前提以前が見えてしまった、って感じです。
余計にわかりにくいかな、、、爆!!


×第二迷信
2009年07月27日 21:48
これは、何のためにやってるんだろう?
そのために、何が不足してるんだろう?

そういうことを考え続けてる限り、「科学的」な思考です。ね。
えぼり
2009年07月28日 03:09
ボリビアのエボ・モラレス大統領も日本の憲法9条は高く評価していて、今回の改憲の際にも盛り込みたかったらしいんですよね、ただ現在の日本の動き(自衛隊の派遣とか)を見ていると、もうちょっと練った方がいいと判断したようですけど。
2009年07月28日 05:50
dr.stoneflyさんととみんぐさんの議論に割り込む形で。

あくまで私の憶測ですが、dr.stoneflyさんが市民運動にいられなくなったのは、「自分のこととして考える」ことを始めたからではないのかな、と思うのですね。

>青カンのなかには、社会の被害者もいれば、落ちこぼれ、怠け者もいる。好きでやっているものもいれば、楽しそうなヤツも哀しそうなヤツもいる。・・・

こういったことは、「自分自身のこと」にしっかり軸足が定まっていないと見えないことだと思うのですね。自分の軸足が定まるから、他者が見える(←「差異共振性」なんて言ってますが)。他者が見えると、その多様性は括りようがないということが見えてくる。ところが、dr.stoneflyさんが仰るように、一括しなければ運動そのものの意義が失われてしまう。

dr.stoneflyさんは、個々人の多様な差異と共振するなかで運動の意義を見失ったのだと思うのです。そして、どんな形であれ、「一括すること」にカルト性があるのではないかと疑ったのだ、と。
愚樵@つづき
2009年07月28日 06:23
私はカルトは「近代」の産物だと思っています。

「近代」は、いろいろな側面がありますけれども、その一面は合理性で一括する時代精神です。国家とか民族とか、資本家とか労働者とか、近代以前にもさまざまな「一括」は在りましたけれども、近代に入ってからその「一括」の数は急増し、それも合理的でなければならないとされた。

でも、人間は合理的な存在ではありませんよね。だから当然、非合理的な集団も生まれるわけですけれども、そうしたものを近代は非合理的だと「合理的に一括」してカルトと呼ぶのですね。

カルトを「非合理的だとの合理的な一括」だとすると、市民運動や科学などはカルトの定義からは外れることになります。一般的にはこちらですね。しかし私などは、この定義から“非合理的だとの”を外して議論をします。そうすると、市民運動や科学も「カルトと同じ」になる(笑)

この議論をやってみてわかったのは、感情的な反撥が非常に強いということ。すなわち、合理的な否かという部分に感情的な思い入れがあるということですね。しかし、感情的な思い入れは合理的とは言えませんから、「非合理的だとの合理的な一括」もまたカルトとしての性質を備えているということが言えるのです。

それがカルトと呼ばれないのは、単に規模が大きいからでしょう。キリスト教などの大規模な集団がカルトとは呼ばれないように。
人生アウト
2009年07月28日 08:03
では私は、セクト的なるもの、ゲバルト的なものを積極的に肯定しましょう。
というのも私は、「勝てば官軍」の立場に立つからです。何かしら目的をもって挑む時、それは「負けてもいいスポーツ」ではない。一生懸命がんばったけど駄目でした……で済ませることはできない。
ある運動なり努力なりは、きっかけとなる「感情」があります。私はこのきっかけの感情を唯一神とする。怒りから出発したなら、それが晴らされる時まで、ただ怒り以外のどんな感情も持つことを自分に禁ずる。
それは裏返せば、余計な嫉妬や敵意を持たないということです。だって、スタートの感情のまま心を凍りつかせているのだから、もはや一切の感情をぶれさせず、機械のように動くだけ。
人生アウト
2009年07月28日 08:04
これは、限定的に有効な手段です。
スタートとなる感情をもつ

目的までの計画を立てる

成功までにどんな課題を克服すべきか見越す

計画通りに邁進する

達成されたら解散

人間は、非常に気まぐれな生き物です。善意や愛情から始めたアクションが、途中で妬みや恨みに染まることは日常茶飯事。それでも「努力はした」ことに変わりない。
くだらねえ。
人間の感情なんざゴミみたいなもん。

とどのつまり、目的をもって行動するということは、「感情的」であり「セクト的」なんですどうしたって。
だったら、自分がどんな感情に基づいてスタートしたか忘れてはいけない。徹底的にセクト的に、しかしあくまで手段として。予定が達成された場合には、怒りも友情も恨みも共感も、ノーサイド。
当初の目的を優先することなく、感情がブレまくるから、集団なるものは混迷するのです。私は自分のスタートとなる感情を忘れないから、余計な怒りをもつことは無駄だと感じる。
人生アウト
2009年07月28日 08:06
それが厭なら、最初からゆるゆるダラリと自然体で生きてくしかないねえ。スタートの感情・正統性・錦の御旗を捨てる人ならば、途中で怒ったり泣いたり笑ったりして良い。スタートもゴールもなく、今を生きる。
しかし錦の御旗を持つ時には、逆に「錦の御旗以外の全てを捨てなければならない」んだ。スタートとゴールはあるが、それ以外の一切は捨てなければ、不覚悟となる。すると負ける。失敗する挫折する敗北する。

一番いいのは、
・ベースはゆるゆるだらり
・短期間のみ限定的にセクト
かなあ。硬軟織り交ぜて。
さめ
2009年07月28日 14:58
科学と魔法の区別がついていなくて、「科学は夢があるもの」と思いこんでいる人が結構多いです。(鉄腕アトムに妙な妄想を抱いている世代がいるらしい)。本人達は科学という言葉さえ混ぜ込めば論理的思考になると思いこんでいるところがこわいです。

そういう人たちは私のところに来て、うちも一丁科学に絡んで手柄をあげたいから協力してくれ、みたいなことを言う。片手間でうちの調査もやってくれとか半日でうちの若いもんが科学的調査が出来るように訓練してくれとか無謀なる要求がなされることになります。

科学者というのも(他の職業と同様)相当な時間をかけて技術を身につけて一人前となるものなので、いきなり半日で訓練しろとかなんて無理。ただ、時間をかけて調査回数を増やせば(現役の研究者にはこの辺が無理だから)素人でも出来るような調査方法が意味を持つこともあるのでこちらからできるのはそういうシンプルだけれども忍耐が必要な調査方法の提示。

そうするとたいてい、「お前はわしを低学歴だとばかにしおってー!そんな単純作業の繰り返しなど出来るかー!」という反応となります。科学は夢じゃなくて現実なのですからどんな方法でも単純作業の繰り返しの部分の方が多いですよ。結果が出るまでに相当な手間がかかるのですけれどもなかなかそれは理解されません。なにせ魔法扱いなので。
dr.stonefly
2009年07月28日 16:24

×第二迷信さん
うん、だから、市民運動ってのは、
>何のためにやってるんだろう? そのために、何が不足してるんだろう?
ってのを考えるでしょ、だから科学的なんですよ。

でも、科学的って手法が悪い訳じゃないし、科学は科学でしかない。科学に裏付けられて価値を一括してしまうことが、、、ねぇ。

ちなみにボクはコンプレックスはありますが科学が嫌いじゃありません。
所サンの目が点、って番組なんか、結構おもしろがって観てましたからね。

dr.stonefly
2009年07月28日 16:24

えぼりさ~~ん、やぁ、元気ですか?
遠いところから、コメントもらえるなんて、メチャうれしいなぁ。
ありがとうございます。って、オレにとっては、今迄とあまり変わらないか、、ほんとネットって遠近感がないなぁ。(笑)

9条を高く評価してるなんて、ボリビアは偉いなぁ、しかも9条を無視する日本の現状まで参照にするなんて、なんて大人な政府なんだ。なんだか、9条をもちながら、それを誇れない日本がとっても惨めに感じて来たよ。

dr.stonefly
2009年07月28日 16:25

愚樵さん
正直にいって市民運動にいられなくなった直接の理由は、もっとドロドロした現実的なことなんですが、まあ、決まった価値(愚礁さん的にいえば近代的合理主義ですかね)を基準とする市民運動自体に疑問をもってしまったので、遅かれ早かれだったと思います。
言い換えると、近代的合理主義社会によって放り出された人を、その放り出した社会に戻そうとしてどうするのだろう? ってことですかね。まあ、そのもとの社会を修正しようとはするのだけど、まずその前提(近代的合理主義)はある。その前提のうえでなんとかしようとするわけです。ところが幸いなことに、放り出された人のなかには、その前提を乗り越えてしまう人がいた。そういう人に会える事はやはり幸いかもしれません。

ただ、ワタシも市民運動をやっていなければ、そんな人に出会わなかった。ほんとうのことが何だろう、という発想さえもたなかった。つまり、表面的な市民運動の意味とは違い、市民運動を通して教えられること、思索できること、見えること、が多々あるのです。弱者になにかをしてあげるつもりが、その何倍もの思索を与えられる。これが市民運動の本当の意味だと思っています。この自覚があれば、市民運動はけっしてカルトにはなりません。

dr.stonefly
2009年07月28日 16:25

人生アウトさん
感情の持続はなかなか難しい。そういう意味では短期決戦ってのは、そうですね。
ところが、どれだけ集中しようが、どれだけ戦闘的になろうが、決着がつかないものはつかない。ワタシがいた市民運動などホームレスをなくそう、とか、ホームレスが生まれる社会を変えようってのは、ホームレスがいなくなったことは有史以来ない、と言われていますから、もう絶望的に決着しない。ますます酷くなる。
運動の意味があるのか、ないのか解らない。
ただ、運動が本来の運動からはなれて教えられる場、考える場という側面を見せ始める。
というか、それも市民運動の価値かもしれない。
というか、その価値のほうが大きい。
それはそれで短期決戦かもしれませんが、ワタシなんぞ10年もかかりましたからね。
また、何十年も活動している人もいます。もう生活です。
そう、ゆるゆるダラリと自然体の運動であり生活のようです。
カルトにならなければ、それはそれでいいのじゃないか、と思っています。

まあ、錦の旗を掲げるってのは、カルトっぽいですねぇ。

dr.stonefly
2009年07月28日 17:21

おお、さめさん、お久しぶり、懐かしいよう。
と、同時にドッキリ、です!!
本物の科学者で市民運動家のさめ博士には失礼はエントリーを上げてしまった、とヘタレの偽物ドクタはタジロイでしまいます。
でも、面白い。
本当の科学に対して、カルトチックなアプローチがいっぱいあるってことですね。こうして、科学を魔術と勘違いしているメンタリティは意外と多いのかもしれないな。

>科学という言葉さえ混ぜ込めば論理的思考になると思いこんでいる

ククク、なるほど。確かにそういう人々は確かにいそうです。
ワタシなんかが、カルトになりうると思うのはこういう類いの思考かもしれない。
実際の科学的アプローチは地味で忍耐のいるものですね。
ちょっと前のコメントでも書いたのですが、この前ノーベル賞をとった何とかって言う人、来る日も来る日もクラゲを捕り続けた、って人。さめさんもそうですが、本物の科学者ってのは、見ている次元が違うような気はしています。淡々と事実の究明をする。ウーン地味だ。でもその積み重ねから見えるものは、結果のみにとどまらない、真理のようなもの、、と勝手に想像しています。


そうそう、たまには、コメ欄ででも遊んでやってください。


ニケ
2009年07月29日 08:09
こんにちは~^^

一番目のコメントで、えちごっぺさんが「宴の後?」と感想を述べておられたけど、「うまいこと言うなあ」と感心してました。(笑)
私も同じように思っていて何か書きたい衝動がありました。でもそれは杞憂に過ぎず、どんどんコメントが集まってきて読み応えのあるコメント欄になりましたね。(^^)

記事違いにならないように・・・。私も過去の経験から自分も同じように感じていたと書きます。

市民運動にせよ労働運動にせよいわゆる左派というかリベラルというか、はたまた共産主義者というか、反権力やら行政批判や社会の矛盾に目を向けて行動をする人たちが共通して持っている、「科学的な世界観」というものにどうしても感化もされ、また自分自身もそれを受け入れる素地というものがあったりします。
しかし水伝騒動に見られるように、単に科学的な知識だけを振り回して悦に入っている単細胞頭脳の持ち主や、さめさんのおっしゃるような「>科学という言葉さえ混ぜ込めば論理的思考になると思いこんでいる」勘違い野郎の多さにはこれまた驚きました。しかも彼等がいわゆる左派・リベラルと称される分類に属していることが多く、私は彼等をまとめて「科学バカ」と決め付けています。w
ニセ科学批判者は科学バカです!www
ニケ
2009年07月29日 08:09
今回の臓器移植の議論でも科学バカが大いに活躍して顰蹙を買ったのではないでしょうか?

科学的思考のつもりなのかは知らないが、とかく安易に二択で敵味方と決め付けたりして闘争方針を決定することが多く、私も労働運動に加わっていたときには社内の職制に過ぎない人にに対してもずいぶんいじめ的な行動に参加させられました。

ある闘争が存在するときに「勝利」を目指すことは当然ではありますが、勝つために本来味方でもある人たちを敵に回す闘争方針には矛盾を感じて興味を失っていきました。ま、原因はそれだけではなく「労働貴族」の問題やら私怨を紛れ込ませる幹部の考えなどが見えたりしたこともあります。また社会党・共産党・民社党などの近親憎悪のような関係も見えてきて、結果、日本の左翼運動家達が小児病的だと感じたことも理由でした。

私はいまだに自分が唯物論者であると自認してますが、しかし科学バカにはなりたくないものだとも思っています。(笑)
dr.stonefly
2009年07月29日 13:25

ニケさん、こんにちは

>「宴の後?」
うふふ、ひっぱりますよ~。

やはり、運動をしていた人はある種の違和感を抱くものでしょうか? コメントを読まさせて頂くと同じような感じだったかもしれません。

>安易に二択で敵味方と決め付けたりして闘争方針を決定することが多く
そういえば、闘争方針かどうかはしりませんが、ブログ界でも吹き荒れましたね。渦中でいろいろな可能性など言おうものなら「あちら側」指定されちゃう世界ですからね(遠い目)。まあいいや。

で、まだ、ひっぱるつもりなんですが、
愚礁さんとこでLさんは「多様な価値観を認めて欲しい」と書かれてました。で、考えたのですが、ワタシは左派リベラルで多様な価値観を認める位置にいるはずなのに、何故、Lさんの言う事を認めたくないのか、ということです。ちょっと面白そうじゃないですか?

ごん
2009年07月29日 17:09
砂漠の民の「水泥棒には死を!」という掟がどんなに合理的でも、現在の日本では違う。

同様に「脳死者には死を!」という言葉をいろんな状況を想定しつつ考えてみる、

そうすると、わたしの心はそのこと「脳死者には死を!」を是としない。

たとえわたしの文化的未成熟がそうさせるのだとしても、つまりはその考え「脳死者には死を!」に反発することが、この先、否定されるようになるとしても、あるいは、すでにわたしの反応が一般から遠く離れているのだとしても、

わたしは、それを是としない。

もちろん、これは、わたしの個人的な思いであるのだから、後の世で「こんなことで悩んでた人もいたんだ」と笑われても、いっこうにかまわない。むしろそういう世になることは望ましい。だれも泣くことなく、その制度なり人為なり(ここでは脳死者と判定された子どもからの臓器移植)の恩恵が存分に保障される世の中になれば、それでいいのだと思っている。

ごん
2009年07月29日 17:10
しかし、今は、そうではない。

今、臓器移植について各方面から様々な問題点があげられている。わたしは、臓器移植に反対するものが、一様に、口をそろえて同じ問題点をあげるのなら、Lさんの「考え」の価値を、今以上に認めてもいいのだと思う。

だが、現状では、Lさんの論理(子どもの臓器を提供してもよいと考えている親もいるという)が、臓器移植に「反対・賛成」にかかわらず「よくわからない」という人も含めて、それ以外の、あまりにも広い範囲のいろいろな命のありよう、社会としての脳死判定を受けた者への向き合い方、倫理的にいくらでも分岐・発展するはずの医療オプション、それらを、そっくりはぎ取ってしまっている。

「脳死者を死んだと見なす」という前提は、この世界からあまりにも多様なものを切り落としてしまっている。

わたしは「水泥棒には死を!」という掟を尊重する。だがそれはもちろん、それが砂漠の民を射程に置いた掟だからだ。

そこでは、その掟を適用されるみんなが、その掟の妥当性を疑っていないからだ。

ごん
2009年07月29日 18:17
ああ、運動の話しでしたね。

たとえば、実際に子どもへの臓器移植の有用性をみなに浸透させるためにドナーカードを持って戸別訪問をするような団体がいたら、違和感をおぼえる方が多いと思う。

だけどそれは、メディアを使って一方的に情宣したり、国会でろくな議論もせずに採決したりすることよりは、はるかに穏便な「運動の方法」だったはずだよね。

おかしいのはあたしら「世論」の方なんだよ。

面と向かってその選択肢を突き付けられたら「おかしい」と感じることを、メディアで集約してもらい、国会で決めてもらって平然としている。

みんな勝敗と合理に麻痺している。

この『民主主義』の社会では勝ち馬に乗ることがもっとも理にかなっているから。

それで、当初の目的を忘れた運動体は、「勝つための合理性」を第一義に置くようになり、最終的には、いろいろあったYES・NOを、組織のYESに意思統一していく。

そうして戒律をつくってそれに恭順の意を示さないものを排除し出すようになる。

それで結局「あたしはそのやり方じゃイヤなんだ」「おれはこういうふうにしたいんだ」という多様性を失ってしまい、カルト化するんじゃないかな。

あたしが問題に思うのは、別にカルトでも科学でも宗教でもなくて、

「あたしはそのやり方じゃイヤなんだ」「おれはこういうふうにしたいんだ」という多様性

それを市民運動が否定したら、

いったい誰がそれをするのか?

ということなんだけどね。それでメディアや国会の連中に好き放題やられてるんでないかい。あたしらは。

dr.stonefly
2009年07月30日 11:11
ごんさん

 ごんさんが文化的未成熟とは思えないけど、そも文化とは何だろう? 科学が基準となる文化が絶対かなぁ、、そも科学と文化が繋がるのか、、、と考えかけてレスがとんでもないとこに行きそうになったのでやめよ。
 愚樵さんのとこでは、Lさんのほうが孤軍奮闘していたようだけど、日本としてはLさんの希望する方向に走りかけてしまった。しかも大切なことに蓋をしたまま、というか、気づこうともしないまま、という印象だな。危惧する様に、そのうち脳死は死として臓器移植が国内で普通に行われ、そこに賛同できないものは非国民としてプレッシャーを受けることになりそうだね。Lさんがいくら否定しても、この社会ではそういう面は嫌というほど見て来ているから。「国家のために我慢するべきで、できないヤツは非国民」ってね。
dr.stonefly
2009年07月30日 11:11
> 「脳死者を死んだと見なす」という前提は、この世界からあまりにも多様なものを切り落としてしまっている

 これがあるからLさんの言葉を「多様な価値」として受け入れ難い。ワタシのなかでは、「脳死を死として臓器移植」が、そも「価値」か?という疑問が拭いきれないのだけどね。

> みんな勝敗と合理に麻痺している。

まさにこれを感じている。
勝負と合理が基準であるのは、前提になっているんだよ。ちょっとちゃんと考えたい。

そういえばね、うちのツレアイに、息子に臓器移植が必要になったらしたいか?と聞いたら「する」と断言した。では、脳死で臓器をあげるほうになったらどうするの? と聞くと「いやだ」と答えた。
やはり合理的に割り切れるものじゃないし、割り切らなければならないものとも思わない。それが人間。


naoko
2009年07月31日 03:58
ブレないのがカルトとするなら、そのブレない(つまり、頭がしょうもなく固い)理由は何だろうと考えてしまいました。
愚樵さんのところで、人生アウトさんが「肉体への蔑視≒他者への蔑視」というコメントをされているのを見て、これだ!と頷いてしまいました。
裏を返せば、理性・知性信仰ということになります。

理性・知性に偏れば、他者への蔑視を精神に住みつかせてしまう恐れがあり、同時にそこから生じる感情は、ひどくいびつなものになる。

そういう時は、感性と直感を開放して、もう一度自分の感情を精査できたらよいと思う。

みんながそうできたならカルトは生まれない。
naoko
2009年07月31日 04:18
それから、もうひとつ。
実は、一番ブレない世代って、今の60代の方達のように思うのです。
例えば、今回の「脳死は人の死」の法定に関しても、賛成の割合が最も高く、70%近かったんじゃないかと思います。(反対は20%ほど。)
逆に40代・30代は賛成反対が共に40%ほどで拮抗していました。

あの世代の方達って、概してグローバル・スタンダードとやらに、めっぽう弱いような感じがするのは気のせい?
dr.stonefly
2009年07月31日 08:44
naokoさん、おはようございます。
人生アウトさんのいう「肉体は他者」ってのは、混乱しそうな思索のひとつの答えになっていて、頷きました。・・・肉体=他者であるなら、肉体の一部が他者に移っても問題なし、ともとられそうですが……(笑)

ところで、コメントを読みながら、ちょっと考えてしまったのですが、
感性とか直感ってなんでしょうね? >精査、できるものなのかな?
また、理性知性と感性・直感は相反するものなのでしょうか?
理性のうえでの思索の積み重ねの上に育つのが感性・直感かもしれない、とも思ったりして……、理性のうえで積み重ねられる思索が真理に向いていれば、初めて出会う事象にたいする感性・直感を信じられるけど、積み重ねられた思索が誤った方向であれば、その感性・直感もやっぱり取るに足らないものになるのかもしれません。
 真理に向おうとする意志にブレがあってはならないと思いますが、その過程でウロウロするのはブレとは違うんでしょうね。真理に向わずにブレることのないのがカルトに繋がる可能性が高そうです。
dr.stonefly@つづき
2009年07月31日 08:45
 真理にむかう理性知性の積み重ねのうえに信じられる感性・直感がある、って言い方をすると理性知性偏向みたいですね。どうしようか??? 無思索な人の感性・直感ってのは信用に足らないでしょ?
 >一度自分の感情を精査できたらよい
ってのも、結局、自分の思索(理性・知性)が真理に向っているか、確認しなさい、ってことを言っているような気がする。

 ワタシもよく理性知性で説明できないことを「肌感覚が……」と言ってしまうのですが、やはり後にはその肌感覚を理性、知性で検証してしまうんですよね。うーん、もう一度考えてみます。


 60代の人、云々ってのは、世代で語るってクレームがつきそうな気もしますが(笑)……、結局、全共世代でしょ、上のエントリーに繋がりそうな気も、、、(笑)きゃぁ、クレームが来そうだ.


ニケ
2009年07月31日 11:28
こんにちは~^^

>きゃぁ、クレームが来そうだ.

いやクレームではないつもりですが、一言。(^^)

先ずnaokoさんの「あの世代の方達って、概してグローバル・スタンダードとやらに、めっぽう弱いような感じがするのは気のせい?」ですが、
気のせいじゃなく有るでしょうね。日本が無謀な戦争で負けてアメリカという窓から世界を見させてもらうようになった時代が大きく影響しているのでしょう。物心ついたときにはすでに経済大国になっていた日本から世界を見るのとは違って外国は何かと憧れの対象でもあり、世界に中でも負の側面はあまり伝えられず、世界中の人たちと仲良くやって行きたい願望を多くの人が共有してたと思います。

トレンドなどというものに弱く「欧米ではこうだ」といわれると元々強固な自説などない人は簡単になびいてしまう。臓器移植問題にもそれが影響しているのでしょう。
しかし20%の人たちが反対だったということは私には救いです。まだ捨てたものじゃない。(笑)

さて話はずれますが、naokoさんとdr.stoneflyさん、また他の方たちの間で理性の問題が語られていますね。本当にずれた視点というかまったく話し合われていることと違うのでしょうが、理性的という言葉について疑問があるので書きます。
ニケ
2009年07月31日 11:28
理性的と感情的。これは反対語というか⇔で説明されたりします。理性的でないのは感情的。w

で、理性的といえば少なくとも罵倒用語では使いません。論理的も同じようですが。(笑)
方や感情的というのは理性が欠けた人間の行動や言動として扱われたりします。多くはですが。^^

ここで問題。
・ 戦国時代に武士の女房が敵将の首級を丁寧に洗ったりする行為は理性的か感情的か?
・ イスラエルがパレスチナの一般市民を無差別攻撃したのは理性的か感情的か?
・ アメリカが日本に原子爆弾を投下したのは理性的か感情的か?
・ 犯罪者に死刑を宣告し、法律に従って死刑を執行することは理性的か感情的か?

私はこれらを理性的な行為と見るのですが、皆さんはどうなのでしょうか?
理性的という言葉から良いことだけが感じられるという人は、世の中が悪くなっているのは感情的になっているからだと思っているのでしょうか?
私は世の中がほとんど理性的に動いていると考えています。そしてその理性的とは非常に冷酷なものだと感じています。

人間があまり理性的になっては危険だとさえ思っています。

計画的な犯罪は死刑あるいは極刑。一時の感情的な犯罪は情状酌量の余地あり。(笑)
dr.stonefly
2009年08月01日 06:04
ニケさん、おはようございます。
コメント頂いたてから考えていたのですが、「理性と感情」の関係が、どんどん解らなくなって行きます。
ほんとに、理性⇔感情なのかなぁ、、、と。
以前挙げた死刑制度のエントリーで、「自分の身内が殺されると感情的になり思考できなくなるので、今、理性的なうちに考えておこう」と書いたことを思い出しました。この辺りは「理性⇔感情」なのかなぁ。
ニケさんが挙げた4つの例は、ワタシも最初、理性かな、と思ったのですが、感情のうえの理由づけの理性かもしれないと、思ったり。
人間ってのは感情的な動物なのでしょうね。先ず感情が走る。その感情の意味を知りたくなり思考する、それが理性。上でnaokoさんのレスで「理性的な人の感情は信用できる」などと書いてしまいましたが、理性は感情を押さえるためのものかもしれない。理性は感情のうえにしか存在しない。
感情がなければ理性もない。理性の元は感情。
感情は剥き出しの人間的な反応。
理性はそれを恥ずべきことと考え出した。
理性による感情の否定……、感情がなければ理性はないのに。
よって、理性のみであれば、人間性の喪失。
感情、恥ずべきどころか、そこから始まるのに。

うーん、もう少し・・・・考えます。

ニケ
2009年08月01日 22:28
dr.stoneflyさん、こんばんは。

>コメント頂いたてから考えていたのですが、「理性と感情」の関係が、どんどん解らなくなって行きます。

すみません。無価値な問いを振ってしまって、悩ませてしまいました。
でもありがたいです。
>人間ってのは感情的な動物なのでしょうね。先ず感情が走る。その感情の意味を知りたくなり思考する、それが理性。
の後半は特に参考になりました。

私は、感情的になって人に対するときに、自分を抑えるのが理性というものかと思ってましたが、場合によるとその感情を隠し理性を装って冷酷なことをするのもあるなあと感じてから、あまり理性的という言葉を良い意味ばかりには使えなくなりました。

議論好きな人の話を読んでいて時々いやになるときがあります。本来なら怒りが沸々と湧いてくるはずのところで冷静さを保ちながらやり過ごし、よりいっそう残酷なことを言う。「とにかくそんなのはいやだ!」と感情的に言うのを嫌う人ほど冷酷な感じを隠している。そういう人の感情というのは一体なんなのか?理性的というのは感情を隠すことに長けているだけかもしれない。
そんなことを考えたりしてたものですから・・・。

お邪魔しました。もっと明るい話題の方がいいですね。では~^^
naoko
2009年08月02日 05:00
>ニケさん
感情面が未成熟なゆえに極めて理性的で、時に「冷酷」に見えるという人もいます。
『恐るべき子どもたち』ですね。

逆に感情を隠すことに長けている人は、むしろ内面の喜怒哀楽が激しすぎるので、あえてそれを隠して理性的に振舞おうとする癖がついているということもあるでしょう。

さらには感性が豊かで、自分の内面も他者の内面も察するのに長け、同時に他者の深い感情の襞まで理解する力があるために、
冷静に理性的に振舞えるということも。
逆に、そうした判断から激情をぶつける事も、あるかと。
その場合は、冷静に行くか、激していくか、直感的な判断が裏にあるかもしれない。

その判断が、小ざかしいものになるか、英知に結晶するかは、直感の裏に‘祈り’があるか否かだとわたしは見ています。

また感性、直感と言っています(笑)。
Dr、わたしの使い方、違和感ありますか?
ニケ
2009年08月03日 08:12
naokoさん、ご意見ありがとうございます。

理性とか知性とかにあまり偏りすぎると人間性を失うように感じていたものですからつい書き込んでしまいました。

人間は時として感情を殺して行動する必要に迫られます。科学によって未知のものへの探求が進み表面的なものと実は実際はそう見えているだけの隠れた裏面の両方を知ることで知性は豊かになった。
しかしその分、矛盾も抱えることになった。

地球上の生きとし生けるものに共生の感情を持つ反面、食事が生物に代わるものがなく他者を殺して生きなければならない。
これは理性という名で感情を殺して行わなければとてもできることではない。

「この魚おいしいね。でも、痛かっただろうな」などと思わないようにする。

そこで科学者達は「研究した結果、魚には人間ほど痛いとか苦しいとか感じない(筈w)」と説明しそれが非常に都合がいいから取り入れる。(笑)

もちろん私も「痛かっただろうに」などと考えないようにしている。そんなこと思ったらとても生きてはいけない。(爆)

要はバランスなのかもしれないが矛盾しながら生きるより仕方が無い。
ニケ
2009年08月03日 08:15
自分の都合の良いように他人に理性的な考え方を押し付ける人の隠されたものは何か?
そうした人は結局何を得ようとしているのか?それがわからない。

>その判断が、小ざかしいものになるか、英知に結晶するかは、直感の裏に‘祈り’があるか否かだとわたしは見ています。

「小ざかしいものになるか、英知に結晶するか」は他者から判断される。つまり人間性が豊かな人なら、人はその人の意見を受け入れてくれるはずで、四面楚歌の状態になる場合は本人も反省して欲しいものだと考えています。
‘祈り’があるか無いかは重要で科学だけでは人を納得させられない。(単純な科学実験の世界以外では無理ですね)

感情を大事にしない世界になど住みたくないと思わないのかなあ~と感じたからズレた話を書きました。(笑)
dr.stonefly
2009年08月03日 09:33

ニケさん、おはようございます。

>無価値な問いを振ってしまって、悩ませてしまいました

全然です。むしろ思索させていただいて感謝してます。
はっきり言って面白いです。明るい話題よりもわくわくします。爆!!

>感情的になって人に対するときに、自分を抑えるのが理性
>理性を装って冷酷なことをする
>冷静さを保ちながら…残酷なことを言う。

うーん、面白い。
これは、ほんと死刑制度廃止を言うエントリーのときのワタシの態度だ。よく感情的なコメントがつく。その感情的なコメントにどういうレスをしているか振り返らなければならないな。
やはり感情では思索はできない。理性偏向として感性を殺してはいけない。もとより人が感情の生き物であり、感情が豊かだから人間なんだ、というのを忘れてはいけないと自戒。

理性ばかりに嵌まっていると、感性の理由とか感性の抑制とかだけじゃなくて、ホントに退化している、というのはあるかもしれません。
理性的なワタシは気をつけることにします(爆)

dr.stonefly
2009年08月03日 09:34

naokoさん
違和感があるというより、面白い。いろいろな人、いろいろな場面が思い出されます。もちろん自分自身の苦い思い出も。

感情面が未成熟ってのは凄いですね。理性的思考とか理性的態度が未成熟ってのは解ります。感性が未成熟ってのも解ります。本来、自然にもってきているはずの感情が未成熟ってのは、生育環境を考えさせられます。極端に言えば虐待によって感情を殺されたような……、極端に言わなくても感情を出させない様な社会環境。
ワタシが思っていた、またニケさんが言った、理性は感性の理由付けとか感性の抑制ってのとはまた別の理由。うーん、また考えさせられます。

それとは別に「理性的態度」である理由は、それぞれに解り、おもわず「ある、ある」と呟いてしまいます。

‘祈り’かぁ~
ワタシはその言葉は思いつかなかったけれど、そんなものかな。
解って欲しい気持、ってのは、言葉に表れますね。
同じことを伝えようとしても、けっして理性的でなくても伝わる言葉(人)もあれば、たとえ一部の隙がない論理でも伝わらない言葉(人)もある。
相手に喜びのベクトルで伝えようとするか、苦痛のベクトルで解らせようとするか、かもしれません。そんな部分が「祈り」ならば、そうかもしれないなぁ~。

それと「毒多」の英語表記は、「dr」にして下さいね。「d」が「D」だとある種の権威と誤解されますから……笑


dr.stonefly
2009年08月03日 20:40
ニケさん
すみません。二日ほど家をあけて、今朝まとめてレスさせて頂いたと同時にニケさんにコメを頂いたことを知ったのですが、朝はタイムリミットでした。

で、レスした後にニケさんのコメを読んで驚いたのですが、被ってますねぇ。びっくり。
愚樵さんとこのコメ欄も違う表現なのですが、被っていてまたビックリしました。しかも、愚樵さんとこの最新エントリーのコメ欄のKYDさんのコメを読んでさらにビックリしました。
生育歴により「感情を育てられる」機会を逸し、理性にたよらざる得なかった……。
ちょっと感情と理性というテーマに取り憑かれそうです。


ニケ
2009年08月04日 08:50
dr.stoneflyさん

確かに被ってしまってましたね。よくよく書き込みの時間を見てみたら新しいコメントに対するものでないことはすぐにわかりましたが。(笑)

>愚樵さんとこのコメ欄も違う表現なのですが、被っていてまたビックリしました。

やっぱり皆さんが、なんとも説明のしようがないけど何かが変だと思っているのでしょうか?

>しかも、愚樵さんとこの最新エントリーのコメ欄のKYDさんのコメを読んでさらにビックリしました。
>生育歴により「感情を育てられる」機会を逸し、理性にたよらざる得なかった……。

いやホント!あれはショックでした。私自身も自分の書き込みが知らない誰かを傷つけているかもしれないぐらいはうすうす感じながらも、「この程度は許されるか」とか思いながら書いてます。
しかし自分が想定してる世界がどうしても限界としてあって、そこを越えたところまでは思い至らない。

「生育歴により「感情を育てられる」機会を逸し」ということには重く受け止めざるを得ません。これも社会問題でもあるのだけれど今の社会の進み方を見ていると解決とは程遠い、益々暗黒の世界へと向かっているようにも思います。
またKYDさんへの愚樵さんのコメントから去年の記事も読みましたが、個々人が持っているさまざまな過去と心の傷に対しては安易に発言できるものではなく黙るより方法がない。これは無責任なのか?そんなことを思わせてもらった一連の流れでした。
dr.stonefly
2009年08月04日 16:58
ニケさん
誰かを傷つけることを畏れていたら、ブログは書けないでしょう。特にワタシのようなブログは。表向きお笑いブログと言っているのは、誰も傷つけないための予防線かもしれません。
これがいいのか、悪いのか……。
KYDさんがああしたコメントを書いた(引き出した)愚樵さんとの関係は、すごいですね。傷つけ合うことを乗り越える気がしますね。

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