「教育基本法捏造の怒りを思い出せ!!」…今が闘いのときだ!!
2006.12.15 教育基本法が人間の悪意によって捏造された。
悪意を悪意と感じず、心がない「一部の多数」によって捏造された。
悲鳴と怒号のなか、人間より国家が大切というヤツラの「弱さ」が牙をむいた。
負け犬が、ラストチャンスとばかりに狂ったように暴れた。
オレといえば……、
昨日と同じはずの窓の外の風景が変わったように感じた、とエントリーを書いていた。
怒り…、落胆、のち……、虚ろな目をして窓の外の風景を見つめていたことを思い出す。
色を失い、モノトーンになった街を思い浮かべタメイキをついだ。
あれほどの落胆も実感しないまま、時は流れた。
妄想にまみれた「弱い」壷首相が霧散したこともあるかもしれない。
ただ、壷が割れても、「一部の多数」という民主主義のエゴは霧散していなかった。
記憶から薄れつつあるなか、kuroneko兄さんからコメントをもらった。
新学習指導要領案のパブリックコメントを募集している、らしい。
なんのことだろう、と訪れてみる。
驚いた。あれほどの怒りと落胆を忘れていた自分に驚いた。
多くのものが怒りを忘れ、実感のない間にじわじわと進んでいることに驚いた。
まさに今だった。
そう、あの怒りが、落胆が、虚ろな風景が現実となるかどうかが、まさに今だったのだ。
あの「改悪」教育基本法に毒された新学習指導要領がつくられるか、どうか。
子ども達が「国家」のためのパーツとして教育されるかどうかが、今、まさに進行中なのだ。
あらたなる学習指導要領(案)が発表されている。
その内容について、パブリックコメントを政府が求めている最中だった。
ちらっと読んでみる。
道徳……、
「第1学年及び第2学年」
4-(4)先生を敬愛し、…
「第3学年及び第4学年」
3-(3) 美しいものや気高いものに感動する心をもつ。
4-(6) 我が国の伝統と文化に親しみ,国を愛する心をもつとともに,外国の人々や文化に関心をもつ。
「第5学年及び第6学年」
3-(3) 美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。
もう何度もいってきた。「心」は教育するものではないのだ。
敬愛されたいならば、敬愛されるような先生になるべきだし、なろうとしなくても敬愛されるときには敬愛される。美しいものや気高いものに感動するのも結果として感動するものである。もちろん感動は自然に沸き起こるもので、教えられるものではない。国を愛する心も同じ、親しみ関心をもてる伝統や文化は、教えなくてもそのもの自身の存在で決まるのである。
人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ……、いったい何がいいたいのだろう?
細かいことをツッコミだせば、いくらでもでてくる。しかし「改悪」教育基本法に対してどうか?
今まさに闘いのまっただ中だったのだ。
敵は誰だ!? 「美しい日本」に殉じようとする「弱い」日本教育再生機構という、民間組織も自ら提出しただろうパブリックコメントを晒している。
まさに、あの2006.12.15の悪夢、オレたちの危惧をそのまま文言化したコメントである。
教育基本法が殺されたころの怒りを思い出す為にも一度訪れてもいいかもしれない。
ただ、ヤツラにしても不満はあるようだ。つまり逆に、新しい指導要綱は捏造教育基本法に完全には振り回されることなく、出来る限り改悪の色を抑えたという評価はできるかもしれない。現場もあのいい加減な捏造教育基本法には屈しないというのだろうか? ヤツラの不満の「9」。
昨年11月15日に開かれた全国中学校社会科教育研究大会で、学習指導要領を作成する文科省の大倉泰裕・教科調査官は「教育基本法は基本的に変わっておりません」と発言している。文科省の越権行為は明らかで、すでに改正された上位法を下部機構の恣意的な法解釈よって骨抜きにし、空文化するネグレクト(否定・無視行動)である。
ほんとうのところは解らないが、まだ教育基本法が殺されていないと感じさせる。
いずれにせよ、今が闘いのときなのだ。
ヤツラと同様のコメントが多数を占めれば、それが国民の意志と誤解されかねない。
「案」が大きく変わる可能性も否定できない。
2006.12.15の屈辱、怒り、落胆、、、を思い出そう。
一人でも多くの声を結集させよう。
パブリックコメントをおくろう。
街の色がモノトーンに変わらないように……
子どもたちが殺されないように……
心の自由を奪われないために……
悪意を悪意と感じず、心がない「一部の多数」によって捏造された。
悲鳴と怒号のなか、人間より国家が大切というヤツラの「弱さ」が牙をむいた。
負け犬が、ラストチャンスとばかりに狂ったように暴れた。
オレといえば……、
昨日と同じはずの窓の外の風景が変わったように感じた、とエントリーを書いていた。
怒り…、落胆、のち……、虚ろな目をして窓の外の風景を見つめていたことを思い出す。
色を失い、モノトーンになった街を思い浮かべタメイキをついだ。
あれほどの落胆も実感しないまま、時は流れた。
妄想にまみれた「弱い」壷首相が霧散したこともあるかもしれない。
ただ、壷が割れても、「一部の多数」という民主主義のエゴは霧散していなかった。
記憶から薄れつつあるなか、kuroneko兄さんからコメントをもらった。
新学習指導要領案のパブリックコメントを募集している、らしい。
なんのことだろう、と訪れてみる。
驚いた。あれほどの怒りと落胆を忘れていた自分に驚いた。
多くのものが怒りを忘れ、実感のない間にじわじわと進んでいることに驚いた。
まさに今だった。
そう、あの怒りが、落胆が、虚ろな風景が現実となるかどうかが、まさに今だったのだ。
あの「改悪」教育基本法に毒された新学習指導要領がつくられるか、どうか。
子ども達が「国家」のためのパーツとして教育されるかどうかが、今、まさに進行中なのだ。
あらたなる学習指導要領(案)が発表されている。
その内容について、パブリックコメントを政府が求めている最中だった。
ちらっと読んでみる。
道徳……、
「第1学年及び第2学年」
4-(4)先生を敬愛し、…
「第3学年及び第4学年」
3-(3) 美しいものや気高いものに感動する心をもつ。
4-(6) 我が国の伝統と文化に親しみ,国を愛する心をもつとともに,外国の人々や文化に関心をもつ。
「第5学年及び第6学年」
3-(3) 美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。
もう何度もいってきた。「心」は教育するものではないのだ。
敬愛されたいならば、敬愛されるような先生になるべきだし、なろうとしなくても敬愛されるときには敬愛される。美しいものや気高いものに感動するのも結果として感動するものである。もちろん感動は自然に沸き起こるもので、教えられるものではない。国を愛する心も同じ、親しみ関心をもてる伝統や文化は、教えなくてもそのもの自身の存在で決まるのである。
人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ……、いったい何がいいたいのだろう?
細かいことをツッコミだせば、いくらでもでてくる。しかし「改悪」教育基本法に対してどうか?
今まさに闘いのまっただ中だったのだ。
敵は誰だ!? 「美しい日本」に殉じようとする「弱い」日本教育再生機構という、民間組織も自ら提出しただろうパブリックコメントを晒している。
まさに、あの2006.12.15の悪夢、オレたちの危惧をそのまま文言化したコメントである。
教育基本法が殺されたころの怒りを思い出す為にも一度訪れてもいいかもしれない。
ただ、ヤツラにしても不満はあるようだ。つまり逆に、新しい指導要綱は捏造教育基本法に完全には振り回されることなく、出来る限り改悪の色を抑えたという評価はできるかもしれない。現場もあのいい加減な捏造教育基本法には屈しないというのだろうか? ヤツラの不満の「9」。
昨年11月15日に開かれた全国中学校社会科教育研究大会で、学習指導要領を作成する文科省の大倉泰裕・教科調査官は「教育基本法は基本的に変わっておりません」と発言している。文科省の越権行為は明らかで、すでに改正された上位法を下部機構の恣意的な法解釈よって骨抜きにし、空文化するネグレクト(否定・無視行動)である。
ほんとうのところは解らないが、まだ教育基本法が殺されていないと感じさせる。
いずれにせよ、今が闘いのときなのだ。
ヤツラと同様のコメントが多数を占めれば、それが国民の意志と誤解されかねない。
「案」が大きく変わる可能性も否定できない。
2006.12.15の屈辱、怒り、落胆、、、を思い出そう。
一人でも多くの声を結集させよう。
パブリックコメントをおくろう。
街の色がモノトーンに変わらないように……
子どもたちが殺されないように……
心の自由を奪われないために……
この記事へのコメント
「明治以後の歴史」と、「神話」をつないで「伝統」というのが、「美しい国」の歴史ですわ…。
>敬愛されたいならば、敬愛されるような先生になるべきだし、なろうとしなくても敬愛されるときには敬愛される。
その通りです!根津先生のような敬愛される先生を排除しようとしている都や国は、神話の世界が真実で、日本の戦争は良かったという考え方が、美しい国の教育のあり方だと思っているのは明らかですね。
護憲派は何ができる。考え、行動しなければ……。
まったく。「家制度」は明治以後、戦前までで、国歌「君が代」だとか、「靖国」だとか、「天皇陛下万歳」だとか、
戦後60年以上も引きずってどうすんの?
…です。
(「領土」の線引きの歴史も)
というのはまったく矛盾しないが、
「基本的人権なんて守られなくていいよね、警察がいれば」
という人は矛盾するかどうかはわかんないけど、ヘンタイ。
日本国憲法は何を守るのか。警察は何を守るのか。国家は何を守るのか。それをわかってないで税金を納めている人はヘンタイ。警察&国家フェチ。制服フェチ。行進フェチ。勲章フェチ。ハーケンクロイツの団体と同じ。
だから憲法には基本的人権を尊重しましょう、というようなことを書いてあるのだと思うがなあ。人として当然のことなんだけど。
でもヘンタイ趣味でみんなと話そうというのはちょっと「虫」がよすぎる。公開の場でコメント拒否やトラックバック拒否をされたくなかったら、ヘンタイのままではいけない。これは社会常識。くだらない妄想を晒すのは変態趣味の仲間うちだけにしてくれ。
(国家を否定しているって誰が? などのツッコミは別の方にお任せして)
本当だ。やっっぱり武力によって海兵隊を追い出そうとしている。
国家の主体たる国民個人の自由や財産権などの諸権利を侵害するようになったものは、特に超国家主義 ultra-nationalism(ファシズムと同義)と呼ばれるようになった。(現在ウィキ先生)
>国家を否定しつつ、憲法を肯定している。
どこの何がそういうふうに読み取れるのかわからんけど、国も憲法も絶対じゃないんだから、何の問題もないよね。「国家を否定しつつ、憲法を肯定」するのは。
人間社会の「よりよいありかた」っていうのをみんなで語り合う気はないのかなあ。
という問いに答えるには、まず、ここでいう「国家」そして「国家を否定する」が何を指すのか説明していただく必要がありますね。
プラトンの考えていた「国家」なのか、マキャベリの眼前に存在した「国家」なのか。いろいろござんす。
何も知らないんだ、やっっぱり
そうなんですか。「答えられないんだ、やっぱり」と告白なさるんですか。
でも、答えられないではなく説明なんですけど、それでもお返事はありませんか?
みなさんに楽しんで頂けたと思ったのですが、そろそろ潮時でしょう。これで終了とさせて頂きますのでよろしく哀愁。
罵愚さん、もう十分でしょ。これ以上、言い足りないことがあれば、ご自分のブログでどうぞ。ちゃんとしたエントリーには読者がつくと思いますよ。
ただ、あんちゃんの(もうひとつのエントリーのほうの)「国家」についてのコメントは勉強になりました。よーく、考えてみたいと思います。これからもよろしくね。