「全て解決した世界」…そこでワタシは何をする?
最近、政治や社会問題を主題にしているブログを徘徊していて、ふと思ったことがある。みんな、結局、どうしたいのだろう?ってこと。いや、「みんな」なんて人ごとではない。ワタシ自身への問いである。政治はともかく、社会問題なんかを散々言ってきたワタシ自身こそ問われることなのだ。
ホントはここのとこの社会問題ブログや政治ブログを読んでいて思ったのではなく、正確にはそうしたブログを読んでいたら以前考えていた事を思い出したのだ。これを考えていたのは随分昔のことで、当時のワタシにとっては重要な問題だった。もちろん今も重要であるけど、ついつい忘れてしまう。それを思い出したので記録しておこうと思う。というか、なんとなく無性に書いてみたくなった。
昔まだ、ワタシが市民運動の活動のなかにいたころのことだ。そこには何人かの「熱烈な活動家」がいた。いやべつに活動家でないのかもしれないのだけど、兎に角一生懸命な人が何人かいた。その一人を仮にAさんとしよう。Aさんは特に力が入ってた。もちろん真剣にやるべき運動だったし、そうした意味では敬意を払っていた。でもAさんは、言動をみていると、まさにその運動こそが「生きがい」のように見えた。もし、その問題が解決しようもんならAさんは真っ白な灰になって死ぬんじゃないかと思った(笑)。
根性の悪いワタシは酒を飲みながらAさんに言ってみた。
青カン(ホームレス)の問題が解決したらAさんはどうすんの?ってね。
生きがいがなくなり、死んだりして……、てさ。
するとAさんは言う。
この社会に存在しているのは青カンの問題だけじゃないんだ。
ありとあらゆる問題が存在している。
じゃあさ、全ての問題が解決したらどうすんのさ。
………
もちろん全ての問題が解決することなどありえない。
Aさんは今は青カンじゃない問題で走り回って喋りまくって怒りまくっている。
また、同じく青カン支援の別のグループでBさんという教会の人がいた。Bさんは「炊き出し」を主宰していた。炊き出しの日には信徒さんとともに仕込みからー炊き出しー片づけまで、奉仕でしていた。弱き者とともにいるというキリストの愛の実践である。
またまた一緒に飲んでいるBさんに言ってみた。
青カンがいなくなって炊き出しをしなくてよくなったらどうすんのさ、って。
はっきりいって困るよなぁ、とBさんは苦笑いしながら言っていた。
社会問題は、どこの国の歴史のなかで全てが解決したことなどなかったし、これからも解決しないだろう。解決しなければならない社会問題は、社会が存在している限り解決しないというパラドックスなのかもしれない。
それでもやはりAさんにしてもBさんにしても、ワタシたちにしても、今、政治や社会のことを語っているブロガーにしても、ある意味、右だろうが左だろうが問題を解決しようとしているわけだ。解決したいと思って居るわけだ。解決を目指してエントリーを挙げたり訴えたりしているわけだ。無理だとわかっていてもやはり解決されることを目的としているわけだ。
でさ、解決しようとする行為は「プロセス」のわけだよね。「問題のない社会」を目指す過程なのだ。
プロセスも大切だということは解るのだが、プロセス自体が目的化されるのはなにか違っている気がする。
なんといっても目指しているのは結果であって、プロセスはあくまでも過程なのだから。
では、目指す結果である「問題のない社会」実現したとしよう。一体そこで何がしたいの?
「問題のない社会」で何かがしたいから、そこを目指したんだよね。
まさか「問題のない社会」そのものだけを目指したわけじゃないよね。
……なんちゃってね。
仮に、みんなの努力で「問題」をすべて解決し、みなの目的である「理想郷」になったとき、個々は何をするのだろう?? 何がしたくて「理想郷」を目指しているのだろう? ということを考えてしまうわけさ? 問題が全て解決した、例えば「誰もがお日様の下でのほほんと満たされて争いのない社会」で、何をしたいと思って、今声をあげたり行動したりしているのだろうか?
実は、みんな目の前にある問題を叩く事、これがエンドレスでつづくのだけど、そんな問題を解決することに夢中になり、ほんとうは何がしたいかなんて考えてなかったりして。いや社会や政治に問題があることをいいことに、それだけを声高に叫ぶことで、人生でほんとに何がしたいのか、何をすべきなのか、なんのために人生が存在するんだろう、なんてわけのわかんないことを考えることを放棄していたりして……。
ワタシ自身は今のとこあまり問題もなく生活できているけど、ワタシは存在してなにをなすべき、何故存在しているのかという根源的な思索を放置して、なんとなく都合よく、社会問題やら政治やらを叩くことで自分が存在していることの根本を誤摩化していないだろうか?って自問自答してしまうよ。
もちろん、いろいろな問題から目を背けることではないし、そこから見えてくる己もあるかもしれない。
でもさ、そんなときに真摯に自分に問わなければって思っちゃうのさ。目のまえの「この世」的な煩雑なこと、問題や政治、そこを対峙してさえいれば己の存在価値があるのさ、と勘違いしないようにね。
我ながら「難儀なやっちゃなぁ」と思ってしまうのだけど……(爆)
ホントはここのとこの社会問題ブログや政治ブログを読んでいて思ったのではなく、正確にはそうしたブログを読んでいたら以前考えていた事を思い出したのだ。これを考えていたのは随分昔のことで、当時のワタシにとっては重要な問題だった。もちろん今も重要であるけど、ついつい忘れてしまう。それを思い出したので記録しておこうと思う。というか、なんとなく無性に書いてみたくなった。
昔まだ、ワタシが市民運動の活動のなかにいたころのことだ。そこには何人かの「熱烈な活動家」がいた。いやべつに活動家でないのかもしれないのだけど、兎に角一生懸命な人が何人かいた。その一人を仮にAさんとしよう。Aさんは特に力が入ってた。もちろん真剣にやるべき運動だったし、そうした意味では敬意を払っていた。でもAさんは、言動をみていると、まさにその運動こそが「生きがい」のように見えた。もし、その問題が解決しようもんならAさんは真っ白な灰になって死ぬんじゃないかと思った(笑)。
根性の悪いワタシは酒を飲みながらAさんに言ってみた。
青カン(ホームレス)の問題が解決したらAさんはどうすんの?ってね。
生きがいがなくなり、死んだりして……、てさ。
するとAさんは言う。
この社会に存在しているのは青カンの問題だけじゃないんだ。
ありとあらゆる問題が存在している。
じゃあさ、全ての問題が解決したらどうすんのさ。
………
もちろん全ての問題が解決することなどありえない。
Aさんは今は青カンじゃない問題で走り回って喋りまくって怒りまくっている。
また、同じく青カン支援の別のグループでBさんという教会の人がいた。Bさんは「炊き出し」を主宰していた。炊き出しの日には信徒さんとともに仕込みからー炊き出しー片づけまで、奉仕でしていた。弱き者とともにいるというキリストの愛の実践である。
またまた一緒に飲んでいるBさんに言ってみた。
青カンがいなくなって炊き出しをしなくてよくなったらどうすんのさ、って。
はっきりいって困るよなぁ、とBさんは苦笑いしながら言っていた。
社会問題は、どこの国の歴史のなかで全てが解決したことなどなかったし、これからも解決しないだろう。解決しなければならない社会問題は、社会が存在している限り解決しないというパラドックスなのかもしれない。
それでもやはりAさんにしてもBさんにしても、ワタシたちにしても、今、政治や社会のことを語っているブロガーにしても、ある意味、右だろうが左だろうが問題を解決しようとしているわけだ。解決したいと思って居るわけだ。解決を目指してエントリーを挙げたり訴えたりしているわけだ。無理だとわかっていてもやはり解決されることを目的としているわけだ。
でさ、解決しようとする行為は「プロセス」のわけだよね。「問題のない社会」を目指す過程なのだ。
プロセスも大切だということは解るのだが、プロセス自体が目的化されるのはなにか違っている気がする。
なんといっても目指しているのは結果であって、プロセスはあくまでも過程なのだから。
では、目指す結果である「問題のない社会」実現したとしよう。一体そこで何がしたいの?
「問題のない社会」で何かがしたいから、そこを目指したんだよね。
まさか「問題のない社会」そのものだけを目指したわけじゃないよね。
……なんちゃってね。
仮に、みんなの努力で「問題」をすべて解決し、みなの目的である「理想郷」になったとき、個々は何をするのだろう?? 何がしたくて「理想郷」を目指しているのだろう? ということを考えてしまうわけさ? 問題が全て解決した、例えば「誰もがお日様の下でのほほんと満たされて争いのない社会」で、何をしたいと思って、今声をあげたり行動したりしているのだろうか?
実は、みんな目の前にある問題を叩く事、これがエンドレスでつづくのだけど、そんな問題を解決することに夢中になり、ほんとうは何がしたいかなんて考えてなかったりして。いや社会や政治に問題があることをいいことに、それだけを声高に叫ぶことで、人生でほんとに何がしたいのか、何をすべきなのか、なんのために人生が存在するんだろう、なんてわけのわかんないことを考えることを放棄していたりして……。
ワタシ自身は今のとこあまり問題もなく生活できているけど、ワタシは存在してなにをなすべき、何故存在しているのかという根源的な思索を放置して、なんとなく都合よく、社会問題やら政治やらを叩くことで自分が存在していることの根本を誤摩化していないだろうか?って自問自答してしまうよ。
もちろん、いろいろな問題から目を背けることではないし、そこから見えてくる己もあるかもしれない。
でもさ、そんなときに真摯に自分に問わなければって思っちゃうのさ。目のまえの「この世」的な煩雑なこと、問題や政治、そこを対峙してさえいれば己の存在価値があるのさ、と勘違いしないようにね。
我ながら「難儀なやっちゃなぁ」と思ってしまうのだけど……(爆)
この記事へのコメント
私の言葉だと「きれいごと」papillonさんなら「ロマン」というでしょうか?
目指すべきは問題のない社会。うん、でもこれは、問題が起こらない社会ということではないと思います。問題が起こっても、自然に上手く収めることができる社会ではないでしょうか。まるで私たちの身体のように。
私たちの身体は常に様々な外敵にされされ、外敵が引き起こす様々な問題と日々闘っています。健康であるということは、それが意識に登るような大きな問題とならないというだけ。そんな健康な身体のような社会が、私たちが目指すべき社会ではないでしょうか。
そんな社会では、現在の意味での活動家の役割はもはやないでしょう。でも、日々の小さな問題の解決からは解放されることはないはずです。
そうした小さな作業が、ちゃんと繋がっていると実感できる社会。私の中の健康な社会のイメージは、そうした社会です。
えっと、一つ他の方にも勘違いされるといけないので、断っておきますね。今のワタシは活動家でも運動家でもなく、ただの小市民ですよん。しかも負け犬(爆)。
「問題のない社会」でなく「問題を解決できる社会」ってのは、解りました。で、そうして到達した「問題を解決できる社会」で「ワタシは何をするのだろう」ってのがミソなんですよ。そんなもん個々で考えろよ、って言われればそれまでなんですが、それでは人間の存在理由は個々で答えが違うもので、普遍的な答えはないのだろうか? とかね。
あ~、難儀、難儀、ホントに難儀ですみません。
でもね、人々(ブロガー)はそういうことにを考えずにどこを目指しているんかなぁ、それとも考えているのかぁ、と疑問に感じてしまったものですから。
えっ、「ムカッと売りろんのカッっと」??なんだ、なんだ??
もちろんすべて解決しても世界には美しいものはいっぱいありますね。そうした外的要素はそれでいいのですけど、ワタシ自身の存在は……っ、そして、なぜワタシは存在しているんだぁぁ~~、もういっか(笑)。失礼いたしました。
それは仰るとおり、個々人で見つけるしかないでしょうね。いえ、もし仮に普遍的な回答があるとしても(私はあると“信じて”いますが)、おそらくそれは他人から教えられたのでは意味が無いというか、そのご本人は納得できないでしょうから。最終的には皆同じ回答に仮に至るとしても、それは自分で回答するしかない。数学の問題の答えと回答を暗記しても、数学を身に着けたことにならないのと同じでしょう。
「問題が解決する社会」においても、dr.stoneflyさんもそして私もきっと、問題を解決するために取り組んでいると思いますよ。だって「生きている」ということがすでに大問題ではないですか。そして余力があるなら自分以外のところで生じている問題にハナを突っ込む(笑)。そうせずにはいられないと思います。
ちょっとハズしたかな?
私は人為的にサンゴがいるところを埋めるバカがいなくなってもちゃんとしたいことはあるのだ!
別にドロドロしていたいわけじゃないんだけど……(爆)
Ladybirdさん、いやいやハズしてませんよぉ。
というか、何が当たりで何がハズれかも解りません。
でも、「楽しい人生だった.人はいつか死ぬものさ」という台詞をさらりと言える人は、存在のなんたるかを知っていたる気がします。アタシャまだまだです。
さめさ~~ん、こんにちは~~。
なんとなく、海に向かって呼んでみました(笑)。
紹介の件は、どこの市民運動でも例外なくおきる騒動ですね。権力争い、分派活動、なんなんだろうなぁ。大局をみようよね、みんな。分断して喜ぶのは権力だけなんだからさ、って言いたいです。
>私は人為的にサンゴがいるところを埋めるバカがいなくなってもちゃんとしたいことはあるのだ!
いいですね、運動(=プロセス)ばかりを追っていても、なんだかなぁ、と思ってしまいますね。
このブログでは頻発する単語で、そのつどカッコ書きをしてきたんですが、たまに書き忘れることがあります。
青カンとは、世間一般では「ホームレス」と呼ばれている人のことです。個人的に「ホームレス」という言葉への違和感から「青カン」と表記しています。
詳しくは、左のカラムの「知ったかぶり用語辞典」の「寄せ場・ホームレス編」を読んで頂くと幸いです。