毒多の戯れ言

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zoom RSS 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」内山節著

<<   作成日時 : 2018/05/10 10:04   >>

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先週末のこと、仲間と森のなかを歩いていた。
ボクが先頭を歩いていたのだが、通り過ぎた土手にヒキガエルがいるよ、鳥の巣があるよ、と教えられるということがあった。
教えられて過ぎた土手に戻り見直したのだが、それらは土と同化していたのだ。
ボクにはまったく見えていなかったものが、観ることができる人には見えていた。
家に帰り、その出来事を思い出しながら、それは「森歩き」だけじゃないよなぁ、と思索にくれることになる。
くしくも、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったか」(内山節著)を読み終わったこともあって、しみじみと「観ることが出来ない」自分を鏡でみつめる。sigh orz

昔、、、といっても1965年以前なのだけど、田舎では「キツネにだまされた」ということが普通にあったらしい。ぎりぎり生まれていたボクは「キツネにだまされた」というフレーズは知っているものの、実感として「だまされた」ことはない。
ど田舎に生まれたものの、街からの流れ者が住み着いた切り開かれた新興集落でそれ以前の歴史はなかった。新興したのは、もう既に「キツネにだまされなくなった」時代だったのだ。
時代は高度成長期であり、合理主義、発達主義が浸透するにしたがって、個人が自然から切り離された。自分が自然の一部ではなくなり、人間と自然が切り離されて客観視されたことが「キツネにだまされなくなった」という、著書でかかれた内容と同じような時と土地だったのだ。
つまり自然の一部として暮らしてきた生活がなかった、ということだろいう。
その集落の住民はみなサラリーマンで住まいだけがど田舎だった。自然豊かだったがそれをことさら意識した記憶がある。
「キツネにだまされる」とは、たとえば里山をつくり村人が自然の一部として生きていて、「自然」という言葉さえ使われなかったのかもしれない。
単純にはいえないのかもしれないが、「キツネにだまされない」ボクだからヒキガエルも鳥の巣も気づかずにスルーしてしまった気がしてならない。
とはいえ、ヒキガエルが、、鳥の巣が、、と教えてくれた仲間が「キツネにだまされた」経験があるかどうかは知らない。今度聞いてみたいと思うが、おそらく「ない」と言うだろう。それでもボクよりもずっと自然と同化しようとする「感性」が働いていたとは思う。
そんな感性が麻痺しているボク自身が哀しい。

まあ当然といえば、当然かもしれない。
ボクが生まれ育った時代は、近代であるし発達至上主義である。個人主義だし権利主義でもある。国民国家であるし法律と制度でつながった人間関係である。文明開化であるし科学が真理なのだ。
そういう時代だったし、そういう教育だった。
そういう価値観しか知らされず、それが唯一価値のある「統一された」イデオロギーだった。いくらそういう価値観に反発し社会運動などしてみたところで、そういう価値観を前提にした軌道修正(にもならない)のような反抗にすぎなかった。むしろ反抗するほにその価値観に浸っていた。
そこにヒキガエルがいること、鳥の巣があることの想像さえつかない、思いもしない、そも「ない」ボクにはそれ以外の「何か」が解るはずもなかったのだ。
それがいくら「不自然」」であったとしても。
それしか知らなかったのだから。

国民国家、すなわち人間を国民として一元的に統合していく国家は、国民の言語、国民の歴史、国民の文化、国民のスポーツといったさまざまなものを必要とした。(同著131pより引用)

ボクは日本国家に統合されていた。そのように教育され、そのように育ってきた。
国民国家とは唯人間主義でもあった。「人権至上主義」であり「人権」のためなら自然は切り捨てられても仕方ないとなっていく。自然が切り離され、捨てられ、客観視された。つまり人間はどんどん「不自然」になっていった。
いくらボクが何度も森のなかを歩こうとも「不自然」しか知らず生きてきたのだから、根本的な何かが変わらない限りヒキガエルも鳥の巣も見えないに違いない。

日本においては、自然とともに、自然の近くで暮らしていた人々にとっては、たえず自然の姿がみえているからこそ、自然のままに生きることのできない人間の問題もみえていた。しかもなぜ自然のままに生きられないのかは、人間の本性に根ざしている。その本性とは生のなかに「自己」や「我」、「個我」を内在させていることである。生を自己の生ととらえ、そこから不安が生まれる。そしてそうであるとするなら、自然は清浄である。なぜなら必要以上に自己を主張することもなく、春になれば花をつけ、秋が深まれば枯れる、ただそれだえけの自然の営みを不安をいだくこともなく受け入れているからである。(同著 p95より)

人間が「不安」を感じ、それを「悩み」として抱えこむ。ときとして「不安」「悩み」に耐えられなくなり自殺をはかる。不自然なんだなぁ、と思う。逆に、とっても近代的て都会的で合理的で国家的なのかもしれない。自然がみえなくなった人間の生の帰結なのだろう。
それでも【そこ】に殉じて「自然が見えなくなり」「【安心】して満足する」ことなく、「不安」と「悩み」を抱えることができた。裡にある自然の発露かもしれない。そうであるなら、その「自然の発露」を傾聴することがあるならば、それは歓迎することとして「自然の清浄」へむかうベクトルの傾聴を考えてしまう。
きっとヒキガエルも鳥の巣も見える日がくると信じて。

>人は向かい合うより、自然の方を見ながら共に歩むべきだろう

これは最近、友人に教えられた言葉である。観えている人には見えているんだな。
このセンテンスをみながら、不自然を拭いきれなくとも、今からでも、いや、今だからこそ「キツネにだまされたい」と考えている・・・そんなボクがいる・・・

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは、

色々考えさせられる内容ですね、考えていたらこんな時間に…(笑)

今思うと、森のヒキガエルと鳥の卵、見つからないように命がけで周りに同化して息を潜めていたのに見つかってしまってきっと焦っていたと思うよ。シュンランにしても、身を守る為に懸命に見つからないようにしてるのだから、森の生き物たちからしたら、見つけられなくていいのでは?その方が自然かもしれない。
森の樹々や草なども皆いい具合に身を捩ったりしながら共存してますね。文句言わずに除け合ってるし、陽が当たらなくてひ弱に育ってしまっても自分に満足しているかのように生きている。
「見つけたい人」からしたら、「見つからない」は「自然が見えてない」になるのかもしれないけれど、隠れてる方からしたら、「ここは自然と見逃すところでしょう、なのに見つけて邪魔をする本当に人間て奴は…」なんて思ってるかもしれませんよ。

生きる上で見えなくてもいい事もあるのかもしれない、と言いますか、見えないままでいることを選ぶことも出来ると思います。見えないままを選ぶことが出来るというのは、全体が見えてるってことかもしてない…、なんて今、思えてきましたが…(^ ^;

あれだけ考えてたのに、これしか書けない…なんだろうこの感じ、分からなくなってきました。

う〜ん、眠れなくなってしまいました、一杯呑んじゃおうかな〜。(笑)


冬穂
2018/05/11 00:58
冬穂さん、おはようございます。
思索して夜更かしは楽しいですねぇ、アタシは場末の居酒屋で呑まれてました^^;
夜中に覚醒めてコメントを見て眠れなくなりました、笑。再度思索する機会をくれてありがとう。

冬穂さんがいわれていることは、このエントリーを書く時に考えていました。ちょっと考えてすぐ棚上げしてしましました^^;
もう一度、棚から下ろして考えてみます。
おっしゃられるヒキガエル、鳥の巣の側に立った側面は確かにありますよね。自然ですね。一方でシマヘビは鳥の巣の卵を食べたくて「見つけたい」側ですね。これも自然です。
人間は俯瞰して卵の立場とか蛇の立場として観ることができる。自然ではなく人間的です。自然の中に自然にいて、とりあえず、立場に立つのをやめて自分の本能のまま言葉にするなら、「見つけたい」と感じている自分がいました^^
今、みつけた卵を食べることはありませんが、きっと自然のなかそのもの(例えば野垂れ死ぬために森を彷徨っていた)なら食べていると思います。タラの芽をみつけたい、キノコをみつけたい、・・・この辺りも実は本能(自然)なのかもしれません。

でも自然ではなく人間なんですよね。個体差というか性格があるのかもしれません。で、人間としてもボクの場合はやはり「見たい」です^^;
それが「森歩き」だけでなく「人生歩き」とつながり、社会でも同じになってしまいます。人間の正体を「見たい」となります。
毒多
2018/05/11 09:39
>生きてく上で見なくていいもの、、、見えないことを選ぶ、、、

これが出来ないのでボクは「面倒くさいヤツ」なんだろうなぁ^^;
傾聴も「見たい」ですし、ボクはしてませんがゲートキーパーも「見たい」ではないですか? ホームレスの世界観も「見たい」でしたし、障がい者だから見えているものも「見たい」です。
隠されたものをみなければ、「知らない」で安穏と済んでいくのでしょうが、ボクには出来ない。剣呑です。見ないでいて、自らの弱さを隠して、社会的に「幸せ」と思い込んでいる人は多数います。周辺のほとんどがそうです。でもボクには「弱い」としか見えない。
発達障害を知らない人は、みないくていいのでしょうか? ボーダー(境界性パーソナリティ障害)を知らない人はみなくていいのか? 「見ないことを選んだ」彼ら彼女らから発せられる言葉に傷つけられる、解ってもらえない、、、そうした言葉を聞くたびにボクは「見たい」「知りたい」と強く感じてしまう。

多分、ヒキガエルや鳥の巣が見えなくていい、、、から、随分とんでしまって「とんでもない話」になっていると思われているよね、^^;
でもボクのなかでは繋がっていってしまう。
森のなかの「弱い」から見えないようにする、と、社会のなかの「弱い」から見えないようにする、というのを比較して考えてしまいます。
鳥の卵は弱いから「隠れる」と、人間は弱いから「隠す」は、まるで別物と“ボクは”考えてしまう。土と同化して「弱さ」を隠す鳥の巣の「強さ」、【アイデンティティ】によって「弱さ」を隠す人間の「弱さ」。どちらも見てみたい。

ごめんなさい。こういうヤツなんで、ホント面倒くさいヤツなんです。
しょーがないなぁ〜、今夜も場末で一杯呑んでいそう、^^; 爆!!
毒多
2018/05/11 09:40
またもや、考え込んでしまうレス、ありがとう。一日中考えていました、そして今日もこの時間…笑…。

毒ちゃん、ほんと面倒なやつ…って、前は思っていたけど、最近思わなくなりました。慣れたのかな(笑)

そうですね、生きる上で見なくてもいい事なんて、無いです、と思えてきました。見れるものなら見た方がいい。

シマヘビが卵を食べたくて見つけるのと、人が卵を見つけたいと思うのは、意味が違うでしょうと思っていました。前者は生きるため、後者は心の欲求を満たすため。

でも、そうじゃなかったんですね。同じだったんです。毒ちゃんにとって「見つける」「見る」「知る」は「生きる」なんだね、少なくても生きる事に直結してることなんじゃないかと、読んで考えているうちに思えてきました。

「○○したい」っていう気持ちは、生きるための原動力ですから。私は全く何もしたいことが無くなってしまった時期があったのですが、それこそ死にたいとも思わなくなって、でも或る日突然、マンガが読みたくなって、それも凄く下らない今までなら絶対読まないようなマンガなんだけど、でもその時、その気持ちがすっごく嬉しくてバンバン読んで、それまで、意味も無く○○したいってのは、煩悩だから、良くないことって思っていたのを改めたんですよね。余談ですね…笑。

私にとっての「生きる」は、たぶん「感じる事」。何でも感じたい、嬉しさ、悲しみ、痛み、美しさ、汚れ、ぬくもり、冷酷等すべて。何も感じなくなった時の虚しさはもう二度と味わいたくない、あれは死んでると同じって思っています。

と、人それぞれの「生きる」があるのかなと思いました。
冬穂
2018/05/12 00:37
>隠されたものをみなければ、「知らない」で安穏と済んでいくのでしょうが、

意識の外にある事なら、確かに知らないで平穏です。でも「見ない選択」は、意識の中にあるもの、見ようとおもえば見えるものであり、見たいものでもある、でも見ないでおこうという選択をするという意味です。これはけして平穏ではなく、時には酷く苦しい、でもそうしなければならない時もあると思うのです。
見てよ、聞いてよって、意思表示しているのに、見たくないものだから、見ようとしないのはどうかと思いますが、見ないでよ、こっちこないでって、必死に拒否してるのに見に行く訳にいかないでしょう。
また、何かを傷つけないため、守るために見ないでいるという選択、こちらもけして平穏て訳にはいかないです。

一生懸命考えたけど、こんなとこまでしか分からない。まだ、何かすっきりしないでいます。考えが定まらないでいるので、考え続けます。またそのうち、ぐちゃぐちゃな話を聞いてください。

こんなちょっとした心の中の引っかかりは、今までだったら気にならなく、やり過ごせたり、またはぐるぐるスパイラルにはまりこんで、布団に包まってしまってたと思います。

今は、しみじみ考え続けることができるんだ、私もホント変わったな、毒に染まったな…。笑

くれぐれ、呑みすぎないようにね。(^_-)



冬穂
2018/05/12 00:38
たしかになぁ、、^^;、テレビワイドショーや週刊誌でこれでもか!!と「見せられる」と、もういいだろぉほっとけよ、と言っているボクがいるし、事件の被害者がセカンドハラスメント的に「見せられる」ことを押し付けられると「見たくない」と強く思います。
「見る」「知る」にもいろいろありますね。
単純に「見る」「見ない」の切り口で考えたのは稚拙でした、ただ鳥の巣を見たいことの正当化をでっち上げただけかな?反省orz

でもなんか引っかかるんです。なんだろうね。
「見る」ことで幸せになれることは「見たい」
「見る」ことで気分が悪くなることは「「見ない」
いや気分が悪くなることでも「見なければならない」こともあるだろうし、鳥の巣を見ることでボクは幸せに感じるが、鳥からしたら気分が悪くなるだろうなぁ、、、、^^;
ちょっとよく解らなくなって来ました。
とりあえず「見たい」と思う肌感覚を信じて節度をもって見ることにします。ロジックは保留しとこ、っと、笑
毒多
2018/05/12 15:22

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