毒多の戯れ言

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zoom RSS 「コンビニ人間」村田沙耶香 @折り合い

<<   作成日時 : 2018/03/22 10:15   >>

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 吾ながらクドいと思いますが、まだ「折り合い」を引きずっています。
 とある友人の「社会はみなが折り合っていきている」に反発して「みなは社会に折られ合わせられている」としてみたものの、もちろんオールオアナッシングではないことは解っているので、かなり譲って「99は折り合うので、1つの折り合えないが合った場合は折り合いません」とし、その「1つの折り合えないことこそホントではないか」なんて言ってはみたものの、また一つの著書に考えさせらてしまったのだから、引きずるのも仕方ありません。
 上の言説はあくまでボクの感覚、つまり意識によって考え出されたもので、つまり社会で99は折り合うことができる人間がそれでも「折り合う」ことに疑問をもち頑張って反抗している風景、笑。
 そんな時に「コンビニ人間」です。(以下まいどのネタバレなのでご注意ください。)
 上の感覚が前提のボクとは違っていて、「コンビニ人間」は一般多数が形成する社会がまったく理解できずに、発話をやめてしまった人間が、なんとか「折り合おう」とするという物語なのです。
 主人公の古倉恵子には社会と折り合おうという意識はありました。子どものころ園庭に青い小鳥が死んで「皆」が悲しんでいても、焼き鳥好きな父のことを思い「小鳥を食べよう」と言い出し、小学校のころにはクラスメイトが喧嘩をしていて、誰かの「喧嘩をとめて」という声に応えて喧嘩をしている男子を椅子で殴り止めに入り、最近も赤ん坊の声がうるさいという妹の声に応えるように果物ナイフをみつめたりしました。そんな古倉恵子は社会の常識的な物語に自我を合わすことができずに、マニュアル通りにやれば周囲に認められ「合わす」ことのできるコンビニのアルバイトをすることで「折り合おう」としました。マニュアルがマニュアル以上の理解により働く喜びにまで昇華することができていました。
 古倉恵子の周囲の社会(両親、妹、同窓の知人、同僚)は、無意識に社会を構成している多数の人々でした。青い小鳥の死は可哀想であり、墓をつくって弔うのは当然であり、30を過ぎて結婚もせずコンビニでアルバイトすることは変であり、仕事をサボる人への怒りは共有すべきであり、好きでもない男と同棲するのは狂気であり、皆と歩調を合わせるべきであり、これらが理解できなければ病気であり、治療の対象でありでした。
 古倉恵子はこうした社会を理解できないながら不審がられないよう、極力普通に思われるよう「折り合おう」としました。靴などの趣味を周囲に合わせてみたり、解るふりをしたりしました。それでもふいに地がでてきて普通多数からすると「普通」ではない部分が露呈してしまいました。両親からは「心配」され、妹からは「治療」を強要され、同僚からは「嘲笑」され、同窓からは「疎外」されました。社会の空気をよめない「特別な一人」は許されませんでした。こうして結局はコンビニのアルバイトという立ち位置も奪われました。
(もう一人、心の底では社会と「折り合い」たいのに、優位に折り合えないため、折り合おうとせず現実逃避する男が、重要な役まわりとして登場しますが、今回は端折ります。)

 さて古倉恵子の「折り合い」はどうだったんでしょう?
 また世間一般の「折り合い」とはどうなんでしょう?

 古倉恵子はコンビニ人間(アルバイト)として、社会と「折り合う」ことができたのでしょうか?「折られ合わせられた」のでしょうか?
 コンビニ人間としては「折り合う」ことができたように読めます。ただ周辺と合わせて「普通」と思わせなければ治療、嘲笑、疎外に遭う。それは避けたいとする部分は「折られ合わせられた」とどうしてもボクには読めてしまいます。
 世間一般の「折り合い」とは「普通」という範疇から飛び出ることなく、喜怒哀楽を他者の感情にあわせ、空気を読む。これらを「折り合い」と意識することなく、また疑問をもつこともなく、考えることがなく振る舞えることです。そして、異物があれば治療して(折り合わせさせて)仲間として受け入れることです。治療不能ならば疎外し囲い込むことです。

 こうしてみると「折り合う」か「折られ合わせられる」かは当人の意識の違いかもしれません。また「異物」を許容するか、拒否するかの社会環境の違いによるものでしょう。当人の意識、周辺社会ともの「折り合う」という意識であれば、それで「社会は折り合って生きている」といってもいいと感じます。
 ただ周辺社会が「折り合わせる」となると、当人がどのように「折り合おう」としても「折られ合わせられる」となりそうです。
 この本「コンビニ人間」は、社会が「折り合い」を許容するほど成熟してないことを物語っている本なのかもしれません。

 ボクは古倉恵子を理解、共生したい。君が無理に世間に合わせることで「生きながら死ぬ」必要はない。君が世間に合わせなければ唯我独尊を見ているような気がします、笑。

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コメント(29件)

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お読みになりましたか。

もし、古倉恵子が大空小学校に通っていたら、、、と想像してしまいます。
愚慫
2018/03/22 15:15
おはようございます。
毒多さん「コンビニ人間」もう読んじゃったんですか?速いですねぇ。古倉恵子、いじめられますね絶対。私も多かれ少なかれ、恵子的少女だった中2の時、「小鳥を食べよう」的な事を言ってしまって、それからクラスの女子から村八分にされ、それで気軽に言葉でなくなって、相手の気持ちばかり考えるようになっていく。その後ずっと引きずることになる。と、私のことはここまでで。(^ ^)

>コンビニ人間としては「折り合う」ことができたように読めます。

ずーっと後になっても、爆発するとか、心が壊れるといった状況にならなければ、折り合えたことになると思うのですが、どうなんでしょうね。

ところで、
昨晩、映画を観て来ました。「僕と世界の方程式」というので、世界自生症啓発デー(4/2)の一環で行われた上映会なのです。
主人公の男の子が自閉症スペクトラム且つ数学の天才、数学オリンピクにイギリスの代表として参加する経験の中で、数学だけでなく様々な出来事に翻弄されながら成長し、感受性の変化があり、掛け替えのないものをみつけるというお話。
主人公の男の子は「折り合い」してたのかなって、考えてみました。
冬穂
2018/03/23 07:01
彼は、変わりもので数学の天才、音や臭いにとても敏感で、スキンシップが苦手で握手ができない。色々な場面でいじめられたり、普通の人が感じないことに違和感を感じたりするのだけれど、それらが原因で起こるネガティブごとを拒否しないし逃げもしないで、じっと見つめたり感じたりしているように見えて…。そして与えられた自分の特性を持って、周囲の状況の中から好きな方向を選んでそちらに進む。それだけで、何かに抵抗したり訴えたりしないけど、我慢もさせられていない自然体で、与えられた場所で何かを感じとりながら懸命に考えながら生きているだけに見えた。

>世間一般の「折り合い」とは「普通」という範疇から飛び出ることなく、喜怒哀楽を他者の感情にあわせ、空気を読む。これらを「折り合い」と意識することなく、また疑問をもつこともなく、考えることがなく振る舞えることです。

この映画の主人公は、「この世間一般の『折り合い』と意識する事無く」の真逆折り合いなのかなって考えに辿り着きました。普通じゃなく、誰にも合わせず、空気も読めないけど、折り合いを意識する事無く、考える事無く振る舞える、これはほんと特殊なケースなのでしょうね。

でも、映画を見終わった感想は、主人公が自閉症スペクトラムだという特殊なケースの物語だと言う感じは残らなく、どんな子にも同じことが言えるな、「懸命に逃げないでしっかり自分の心の声を聞いて、状況を見つめて生きるのがいいんだね」こんな考えが残り、うるうるしながら、帰ってきましたよ〜(T_T)
冬穂
2018/03/23 07:02
愚慫さん、ご紹介ありがとう。いい本ですね^^
もともとのマイブームである「社会はみなが折り合い…」は、「もし海部町の一人がA町(普通・一般・多数)で住むことになったら?」という問いかけからの一意見でした。「もし〜だったら〜」ってのはつい考えたくなってしまいますよね\(^o^)/

で、もし古倉恵子が大空小学校に通っていたら、もっと自由に生きていけたような気がします(願望を含む)。実際に(といってもフィクションですが^^;)古倉恵子の居た環境は誰も理解しようとするものがいなかった、に尽きる気がするんです。「折り合い」が一方通行の個人の努力(自己責任)でしかなかった。双方に折り「合う」でないので、「折られ合わせられる」感が消えない。・・・もっとも古倉恵子の「コンビニ人間」にその次元を超えアートさえ感じさせボクの心を揺さぶりますが、、、笑。
毒多
2018/03/23 09:30
冬穂さん、おはようございます。

「コンビニ人間」は容易な文章で短く、面白く読ませますので割に早く読めると思います。
 古倉恵子も子どもの頃はやはり「黙る」ことで「いじめ」から予防線をはったようです。コンビニアルバイトの話しはその後のことで、「マニュアル通りなら喋ってもいい」がキーポイントになっています。
 コンビニを一旦辞めさせられるときに「壊れる」のですが、その後コンビニアルバイトに喜びを感じることを確認する。これがこの物語の肝で、ボクはもしかしてエイティピカルとは「普通/一般から迫害だけを受けている」という固定観念をもっていないだろうか? オマエはそういう「物語」に縛られているだろ!! と、古倉恵子に問い詰められている気持ちになってきました。
 たしかにボクはエイティピカルという枠で括ってきたのかな?^^; 誰であろうと枠で括られる以上に個があるんだ、と再度考えさせられています。
 もちろん解っているのですが、思索に入るとついカテゴライズしてしまいます。
 「小鳥を食べる」ってのは個性なのにね。しかもかなり本質的なことを確認している。一般多数は「それは悲しむ場面」というマニュアルに洗脳されているだけのような気がしてなりません。しかも古倉恵子のように「マニュアルを超えること」が出来ない。ボクはそんなマニュアルに洗脳されずに、「食べよう」という子どもがいたら、かなりウキウキしてしまいます。
毒多
2018/03/23 09:31
 という意味では、ご紹介の映画の主人公もまた、古倉恵子という個のように個があり、それが「特殊」ではなく、すべての人は枠で括れないということで映画と本が呼応しあっている気もします。ボクもニューロティピカルという枠で括られることに非常に抵抗があります。と同様ですね、^^
 ちょっと「僕と世界の方程式」をググってみましたが、すでにDVDもレンタルもあるようにですね。観てみたいと思いましたよ\(^o^)/
毒多
2018/03/23 09:31
「いい本」ですかw? 優れた作品はまちがいない。が、心地よいかというと、違いますよねぇ...。言葉は難しい。

ぼくは、古倉恵子の最後の「覚醒」は、『あん』の徳江さんのコンバージョンと生反対のものだと思ったりしています。どちらも「声」を聴くんですよね。片や月の声。片やコンビニの声。
冒頭の描写はコンビニの「音」から始まっていますが、それが最後に「声」になる。


徳江さんも、また、社会と折り合おうとしたのだろうと思います。恵子もそうだろうと思う。でも、方向性はまるで違う。

「いい」という、ごくごく基本的な言葉にすら多様なニュアンスがあるように、「折り合い」という言葉にもそれはある。ゆえに〈折り合い〉や【折り合い】のように表記したくなる。

海部町、大空小学校、それから『あん』。これらには何か共通点があると感じられます。同時に、A町やコンビニにも、正反対の共通点がある。現実は、それらの違いが微細な部分にまで分かち合いがたく入り交じっているけれども、よくよく観察をすれば、感じ分けることができるものです。優れた芸術作品は「感じ分け」への手がかりを提供してくれます。
愚慫
2018/03/23 10:02
なるほど「いい本」がツボなのですね。
言われることは解りますが、ワタシにとっての「いい」は「心地よい」だけでなく、優れたも入りますので語感の違いでしょう。
別に愚慫さんの語感を否定するわけではありません。
まあ、「折り合い」をボクに提供してくれた方も、何こいつその言葉にどんだけ拘っているんだ、と思っていると察してますが、笑。

たしかに、海部町、大空小学校、あんにくらべて「コンビニ」からの安心感、到達感にはボクは違和感があります。
で、その「ボクの」違和感を古倉恵子に押し付けていいのか?ということです。古倉恵子の幸福感は「押し付けられた」故の偽物だ、とは言えないでしょ。
というかちょっと解らないんです。
たとえばクラッシク音楽がボクには解らない。
クラッシックとは音符どおりに正確無比に再現するもの、と聞くわけですが、それってマニュアル?とか思っちゃくくらい解らない。感覚的にはマニュアル否定派なので、マイナスの感覚。
ところが古倉恵子はマニュアルなのだが、マニュアル以上の何かを感じた。
まったく解らないクラッシクもマニュアル以上のなにかを感じるものなの?となる。
古倉恵子のマニュアル以上の何かはクラッシックと通じるもの??というように、ボクには解らないことを妄想させます。
かなり飛躍してるとは思いますが、解らないことの可能性は解るまでは持ち続けます。その提供を「いい」とボクは表現します。

自分の感覚に疑問をもつのはボクの癖なんでしょう。
おまえには「感じ分け」ができてない、と断定されてもボクは否定しませんよ^^
毒多
2018/03/23 15:17
そうですねぇ、クラシック音楽については『蜜蜂と遠雷』を読んでいただければ(と、どんどん勧めるw)。

言語感覚が違うのは、当然ですよね。といって、そういう違いをあからさまにするにはマナー違反なのかもしれません。となると、先のコメントは失礼にあたるのかな...。スミマセンorz

『コンビニ人間』と『あん』および『みんなの学校』の差異については、ぼくが思っているところをなるべくわかっていただけるように努力して、別所で提示してみますね。


>古倉恵子の幸福感

ここは「ニセモノの自己」「ホンモノの自己」というラインが話をしやすいような気がします。

「ホンモノの自己」などない。ないけれども、それは「ファイナルアンサー」です。いろいろ惑った挙げ句に辿り着くところ。最初から「ファイナルアンサー」が与えられては、それこそ意味がない。「どうせ死ぬんだから」というのと同じことです。

彼女は最初から「ファイナルアンサー」の探究を放棄した。そして、惑った挙げ句、「ニセモノの自己」を「ファイナルアンサー」にすることで幸福を得た。もちろん、そのこと自体は誰の押しつけでもありません。

では、その「幸福」はホンモノなのだろうか...?

それは、読者が感じ取ることでもあるんですが、いかがでしょう?
愚慫
2018/03/23 16:22
もちろんクラッシクの発想がでてきたのは、「蜜蜂と遠雷」を読んだからです。読後感想はどこかでUPしました。
ボク自身は自由な感性で弾く「塵」(アンチテーゼ)派です。ただ、クラッシックの本来の味わいという従来からの視点(テーゼ)が在る。それをボクは解らないのだけど、古倉恵子のマニュアルだけどマニュアルを超えた「生き生き」と繋がるのだろうか、と仮定したわけです。
まあ、クラッシックにつなげるのは、かなりボク独特の感覚で一般性はないかもしれませんが。

はっきりいいましょう。
ボクの感覚でいえば古倉恵子は幸せではない。
敢えて使いますが、「真の自己」ではなく「偽の自己」です。
まさに「折られて合わせられている」
しかし、ボクの感覚が全てではない、ことを考えさせられるのです。

いったん馘首、死んだあとの最後の古倉恵子は「生き生きさ」を感じる。
その「生きいきさ」もやはり偽です、とはボクは感じるけど言えない。ボクの解らない何かがあるかもしれない。「真」のボクの率直な感想を言っているわけではなく、当人の感覚はいかなるものかを考えています。
毒多
2018/03/23 16:49
解らない何かがあるかもしれないと保留しつつ、「偽だろう」と意見表明するのはありだと思います。

先のコメントでファイナルアンサーを云々しましたが、でも、本当のところはそれだって偽かもしれません。思索(感じて考えること)を止めない限り、「(現時点で)わからないことがあるかもしれない」は大前提だとぼくは考えています。

だから、自信があるなら言い切る。言い切ったとしても、新たなことが感じられたのなら訂正する。これでいいのではないかと思っています。

最後の古倉恵子に「生き生き」を感じるのは同感です。表現が生き生きしている。でも、だからこそ、寒気すら感じられる。大きなギャップがあるから。

「感じること」には自信をもっていいのだと思います。「自信を持つ」ことと、わかっていない何かの「可能性を持ち続ける」ことは矛盾しません。それは自愛の裏表です。

「知之為知之」のも、「不知為不知」のも、どちらも自信をもって為されなければ、新たな「是知」は生まれてきません。
愚慫
2018/03/24 04:46
愚慫さん、毒多さん、おはようございます。

私はまだ「コンビニ人間」を読んでないですので、的外れな事になるかもせれませんが、感じた事を書かせていただきます。

恵子さんがコンビニの仕事で生き生きできるのは、マニュアルが詳細ではっきりしてるからではないでしょうかね。だから努力の方向が見えて、現況と折り合いつけて納まりやすい、これはずっと納まれないできた人にとっては、嬉しい感じあると思います。

対して、同じようにしばりあるA町では、苦しいだけです。なぜなら、縛るものが、慣習とか暗黙の了解といった曖昧なもので、自分で感じ取って実践しなさいというもの。はみ出ても表ざたに罵倒されることはなく、じりじりと排除されていくようなのです。これはほぼ耐えられないです。折り合いたくても、たぶん恵子さんも私もですが、方法も方向も見つけられない、はみ出てしまって辛くなるだけだと予想します。世の中、このパターンが多いので、コンビニの方が比較すると幸せな世界なのかもなぁと思いました。

自由に振る舞えないところに合わせて暮らしていくのは、本当の幸せではないのかもしれませんが、疲れてばかりでは苦しくなってしまいますから、ちょっと諦めて…。この辺、今の若い世代の諦め感みたいなものを表しているのかな…と感じました。

次は「コンビニ人間」ですね…、読みたくなりました。わ〜い(^ ^)/
冬穂
2018/03/24 09:06
愚慫さん
最初の「いい」に戻りますが、「社会はみなが折り合っていきている」というのは、ワタシにかなり考えることを促した。だから「いいセンテンス」かどうか、と考えたらやはり「いい」とは思えない。このあたりのワタシの語感が愚慫さんの今回の「いい」への語感は似通うのかもしれません。
「いい」とはおそらく「よい」という言葉の変化でしょう。そして「よい」には「善い」と「良い」がある。
古倉恵子のコンビニを通しての折り合いは「善い」とは思えませんが、思索を与える「本」として「良い」と言い直します。

>だからこそ寒気を感じられる

ここですね。おそらく作者の意図もそのあたりなのかもしれません。
毒多
2018/03/24 13:54
冬穂さん
古倉恵子の気持ちの解説ありがとう。
ボクなんかだと、はみ出して世間とズレてもいいじゃないか、と考えるのですが、実際にそうなったなら、そこにいる辛さはあるのでしょうね。
その辛さが実感でなく想像だから、「解らない」になってしまう。

>疲れてばかりで苦しくなってしまいますから、ちょっと諦めて…

これがまさに「社会はみな折り合って生きている」に繋がるような気がします。そしてボクがどうしても反抗したい部分です。
ボク自身は諦めたくありません、、、、が、
それでも、今回はそのボクの価値観を古倉恵子に押し付けることが果たしてできるのだろうか?と考えてしまっている部分です。
ボクが実際に古倉恵子の世界にいたなら、古倉恵子にボクの価値観を押し付けることはできない、だけど周辺に解らせて変わらせようとしているす気がしています。

「コンビニ人間」はお持ちしますね^^
毒多
2018/03/24 13:54
言い訳のひとり言

>自信をもって為さなければ、新たな「是知」は生まれません。

同意する。そしてワタシがコメとして書いたことに「自信なさげ」な雰囲気が漂っていていると「感じられる」ということも解る気がする。
とはいえ、別に自信がないわけではない。というか自信はある。
では、なんだろう?と自己分析。
おそらく「傾聴」のせいなんだろう。
傾聴には対話者の発話を「一旦、全面肯定する」ということがある。
ワタシはきっと古倉恵子を傾聴の対象者として話を聞いて(読んで)いた気がする。
毒多
2018/03/25 06:23
いいえ、ひとり言は許しません (^o^)

>傾聴には対話者の発話を「一旦、全面肯定する」

ああ、そうなんでしょうね。
では、その肯定は「正しい」の肯定なのでしょうか?

しつこいですが、論語を補助線に続けさせてもらいます。

傾聴における「肯定」は、論語の「知之為知之」を後押しする行為なのではないか。

古倉恵子はコンビニ人間へとコンバージョンした。それが彼女にとっていいこと(好いこと・善いこと)ことなのかどうかは、実は彼女自身が一番よく知っているのではないのか。耳を傾けて肯定することは、「彼女が一番よく知っている」ということを肯定することではないのか。

そのような肯定を受ければ、人間は自ずと

「知之為知之」
「不知為不知」

の両方を同時に、つまり〈知〉をはじめる――

まあ、これは、ぼくが「そのように信じている」という話なんですけれど。
愚慫
2018/03/25 07:42
こちらのコメは、別筋。

『蜜蜂と遠雷』への所感は上げておられましたね。失礼しました。

>ボク自身は自由な感性で弾く「塵」(アンチテーゼ)派です

それはぼくも同じです。コンクールにでるような技術を【勉強】した人達はどうだかわかりませんが、ただクラシック音楽が好きだという者のかなりの割合が、風間塵フェイバリットではないかと想像します。栄伝亜夜と人気を二分するのでは。コンクールで優勝したマサルよりも両人の方が人気があると思います。【勉強】途中のプロ予備軍にはマサルが一番のような気がしますけれど。

『蜜蜂と遠雷』は【勉強】ということの意味を俎上に上げた小説ではないかと思っています。その意味において、『みんなの学校』と共通する部分がある。

http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-1012.html

手前味噌で恐縮ですが、上の記事はそのあたりに触れたつもりです。【勉強】の効用は「威張る」ということ。

毒多さんが感じておられる「アンチ」はクラシックにどうしてもありがちな「威張り」に反応しているのでは、と思ったり。
愚慫
2018/03/25 07:56
>ひとり言は許しません

よほど、ツボにはまったのですね^^
もちろんエントリーを上げたわけで、「ひとり言」にも反応していただける以上、対話いたしますよ。

傾聴における肯定は「正しい」に対する肯定ではありません。
そも普遍的な「正しさ」はありません。
「正しさ」は個の裡のなかで生成される個の「正しさ」です。
なので、古倉恵子の「正しさ」は古倉恵子の裡なる対話で生成されます。
傾聴は「裡なる対話」をすることの肯定ということになるのでしょう。

古倉恵子について愚慫さんの、>「実は彼女自身が一番よく知っている」 ということには同意します。
一番よく知っているにもかかわらず、その知っていることが疎外され隠匿される。
周囲の無理解から本心を隠匿させられる。
その二つの自己が裡で対話する。のちにオノレの「正しさ」が生まれる。
毒多
2018/03/26 09:11
現状の古倉恵子が、ワタシはワタシの感覚で「正しい」とは思いません。
おそらく「生き生き」しようとも周囲の反応は変わらず、繰り返しになるでしょう。
それでも人は繰り返さなければ解らない。
という意味で古倉恵子(本の終わり方)はプロセスです。
他の(愚慫さんの言う「いい本」)は、プロセスを経たのちに、共感できる解放された「正しさ」まで描かれている。
に対してコンビニ人間はプロセスで中断させられる。
毒多
2018/03/26 09:13
もちろん、古倉恵子もまた>彼女が自己を知っている、に従い、この先、周囲とそこに合わせようとする自己から解放されるとワタシもまた
>信じて
います。
傾聴はこの「信じる」がなければできないことで、このあたりは愚慫さんの「信じる」は同意します。
おそらく、「対話」にしても、個が「裡なる対話」の後、自己が納得した「正しさ」に至るということで、言い聞かせて納得させるものではないでしょう。
それと、今の古倉恵子はワタシにとって「傾聴」の対象者であり、全部言葉にして吐き出させてあげたいと思わされます。全部吐き出したあとの彼女がどこにたどり着くか観てみたい、というのがワタシの本音です。
毒多
2018/03/26 09:13
といういうことを一旦言ったあと、繰り返しになりますが、疑問を持ったのは、クラッシックで「テーゼ」とされている「譜面に忠実」の先にあるものです。ワタシには未知の世界です。
愚慫さんは【勉強】と断定しますし、ボクもそう感じてはいるのですが、そもテーゼとして長らくあるものがそう断定できるのか、ワタシはやはり知らないので断定できません。
内田樹のいう「先生は偉い、先生の言うとおりやっていれば間違いない」も通じるものがあると思うのですが、これもワタシには不知です。
古倉恵子のマニュアルを完璧以上にこなすところにワタシの不知の何かがあるのかないのか?、というワタシ自身の疑問です。(ワタシは愚慫さんではありません)、、正直今、ワタシの裡の疑問を解決しようとは思いませんが、それが重要であればいつかそうした場面でまたワタシの裡で浮上すると思っています。
毒多
2018/03/26 09:14
長くなりますが、今回はひとつ重要な体験をさせてもらいました。
「傾聴」についての相手を肯定して「聴くだけでよい」ということについてです。
一番うえのほうの愚慫さんのコメント、>いい本ですかw? という否定と「w」という嘲笑について、ワタシはかなり怒りを覚えました。
ワタシはワタシの裡での疑問を対話させていましたが、愚慫さんの否定と嘲笑に対する「反抗心」でつまらぬところで意地になり、かなり遠回りしました、という体験をさせてもらいました。
もちろん、コメ欄は「傾聴」ではないので責めているわけではありません。
ただ、傾聴の「聴くだけでよい」というのはこういうことなのだ、と実感できました。
古倉恵子のようにホントの「正しさ」は実は知っている、を信じています。
「正しい」は他者から与えてたりアドバイスするものではなく、自己の裡から生成されるもので、それが自信であり強さとなるのでしょう。
「対話」となると微妙に「方法」は変わるのかもしれませんが、やはり個の裡から生まれる「正しさ」が納得できるものである、ことには変わりないと思います。
毒多
2018/03/26 09:14
おはようございます。

>否定と「w」という嘲笑について

腑に落ちました。
毒多さんの怒りは、何となく察してはいたのです。

理由はそこだったのですか。
これもまた言葉の行き違いだろうと思います。

「w」には、確かに嘲笑の意味があります。某掲示板が発祥で、当初は「嗤」の短縮形の意味でした。でも、現在はそこに留まっていないというのがぼくの感触だったりします。「w」には「笑」のニュアンスが入り込むようになっていると、ぼくは認識しています。

この文脈では「w」は「ニヤリ」というようなニュアンスのつもりでした。挑発を含む笑いでしょうか。

ですが、ぼくの「つもり」は上手く伝わらなかったようです。ここはぼくの軽率というものでしょう。お詫びします。
愚慫
2018/03/26 10:16
おそらく同じセンテンスでも、伝わるときと伝わらないときがあると思います。
それは理屈ではなく、双方の微妙なニュアンスの行き違いで、どちらが悪いというわけでもどちらかが謝るということでもないのかもしれません。
今回もワタシが最初に確認すればよかったともいえます。
まず拒否の感情がたつのは「自己の裡にそれ以外の何かある(痛いところを突かれた、とか)」ともいえるのですが、笑

いずれにしろ確認しあえるというのが「対話」なのでしょう。
「傾聴」だと、聴いて全てを受け止めてあげるなかで、相手の「裡なる対話」が進むことを信じる、ということになります^^

ところで、愚慫さんがコメ欄を通して主張するのは、例えば、今回であれば、なぜ主張しているのですか?

1.古倉恵子に言っている。
2.毒多(と無言のウォッチャー)にむかって教えようとしている。
3.毒多(もしくは古倉恵子)を通して言うことで自分の主張を自己確認している。
4.その他

傾聴に興味のある今のワタシの勝手な興味本位な質問です。
お答えいただくかどうかは自由です。
スルーしていただいてもなんの問題もありませんm(_ _)m
毒多
2018/03/26 11:43
>まず拒否の感情がたつのは

これこれ、これです。この作用の原因となるところを【怨】とぼくは言っています。あくまで独自の考えですけれど。【怨】がなければ〈対話〉は滞りなく進む。けれど、どうしても【怨】は生まれてしまうので、そう簡単にはいかない。それが「剣呑」です。
(「剣呑」という言い方が相応しいのかは疑問)。

それでもまだ、簡単ではなくても〔対話〕が進むのならいい。〔対話〕が阻害されてシステマチックに事態が進行する世界を「残酷」という。

――というのも、ぼくの主張です。では、なぜ主張するのか? 2.であり3.であろうかと思います。

このような主張コメントは、顕在的な意識としては毒多さんに語りかけているつもりです。でも、それは、実在の毒多さんというよりは、「ぼくの中に棲んでいる毒多さん」です。ぼくの言い方で言えば、ぼくの中に存在する毒多さんの〔霊〕です。〔霊〕に語りかけることは、実は自身に語りかけることです。

実在の毒多さんと、ぼくの中に存在する〔霊〕は、ぼくの感性というフィルターを通じて複製されたコピーです。これまた「偽りの自己」を形成するパーツといいかもしれない。「偽り」への語りかけがホンモノにそのまま届くことがないのは、道理というものでしょう。
愚慫
2018/03/26 12:26
それでは愚慫さんの言い方に乗ってレスしてみます。
【怨】を引き出すのは、上手くいけば「効用」はあります。
【怨】とは琴線でありオノレの裡の深層に「隠蔽」された、観たくない部分でしょう。
つまり究極的に自己でそこに対峙しなければ、根本的な解放はされない。
かといって、他者が安易な言葉でそ琴線に触れさせるのはよくない。というか、よくない結果になることが多い。より強固な隠蔽、蓋になることがほとんどだから。
ただ、自らが自らの琴線に気づき自ら琴線を緩めていくのは「剣呑」にはなりにくい。傾聴が目指すのはそこなのかもしれません。
たいして「対話」は、「剣呑」を覚悟して対峙できるもの同士の行為かもしれません。

>「対話」が阻害されてシステマティックに事態が進行する世界を「残酷」

これがそのまま古倉恵子の残酷なのでしょう。
自らシステマティックに埋没しようとする古倉恵子ということですね。(ワタシはまだ、クラッシクのテーゼの疑問は持ち続けますが、笑)

2と3だということは予想していました。
自身のなかに「霊」がいて、それが実在のものとは別、というのは面白い哲学ですよね。
結局、心の中は「霊」だらけで自己と他者(の霊)の境界がなくなっていく。「対話」における「裡なる対話」とはそうしたものかもしれませんね。
「傾聴」における「裡なる対話」は自己Aと自己Bのようなイメージをもっていますので、そこは違うのかもしれない。
(あくまでワタシの今の納得の仕方ですが)
毒多
2018/03/26 13:14
>つまり究極的に自己でそこに対峙しなければ、根本的な解放はされない。

そうだと思います。で、これがなかなか大変なわけです。ここが大変だと思うから、「剣呑」と言いたくなるわけで。

>自己と他者(の霊)の境界がなくなっていく

〈対話〉というものの効果は、裡に存在する〔霊〕の精度を上げていくことなんだろうと思っています。〔霊〕はあくまでコピーです。しかも、〔霊〕を抱える人間が自身の都合でデフォルメすることもできる。デフォルメして、そのデフォルメされた〔霊〕のほうに実物を近づけようとするのが【ハラスメント】というものでしょう。

〔霊〕に実物を近づけようとするのとは反対に、〔霊〕を実物に近づけていこうとするのが〈対話〉。〔霊〕の精度を上げるためには〈自己対話〉の精度も上がっていかないといけない...、そういうイメージです。
愚慫
2018/03/26 16:37
おはようございます。さて、

>究極的に自己と対峙……大変だから「剣呑」

まあ、確かに「w」ぐらいで感情が先走るのですから大変でしよう。
でも、この「感情からの反抗心」は大切だと思っています。自らがモラハラの被害者(星の王子さま)にならないために。

>〔霊〕はあくまでコピーです
>〔霊〕の精度を上げる

愚慫さんのなかに毒多霊がいるように、毒多のなかにも愚慫霊がいる。それぞれが「反映」であって実体とは違う。
ときに>これいい本ですかw、のように齟齬がおきる。

1.さて、「精度をあげる」とは、この齟齬がおきないよう、霊と実体うを極力近づけるということでしょうか?

2.それとも自己が願うような精度に「霊」を近づけるよう、実体に教えることでしょうか?

2.後者でいいと思うのです。ただし、自己の願いが強い場合、非対称の場合、実体にその気がない場合は一方通行になりハラスメントとなるでしょう。
双方にそれぞれの相手霊がいます。双方の裡の相手霊への願いが噛み合い止揚する場合のみ〈対話〉がなりたつと言える。
ワタシの〈対話〉のイメージはこんな感じになりました。

以下は、ワタシの「傾聴」についての個人的なメモを綴ろうと思いましたが、長くなったのでエントリーしときます。
毒多
2018/03/27 09:45
こちらにもTBを。

https://note.mu/gushou/n/n723470d69e3e
愚慫
2018/03/28 13:27

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「コンビニ人間」村田沙耶香 @折り合い 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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