毒多の戯れ言

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zoom RSS 映画「ビューティフル・マインド」鑑賞からの統合失調症というやつ

<<   作成日時 : 2018/03/09 10:54   >>

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 これも「いいよ」と推薦されてお借りしたDVD。なにやらパッケージに「全世界から絶賛された2001年度最高傑作」とか「アカデミー賞4部門」と書いてあるので、一般多数から評判がいい映画なのだろうね。で、オマエはどうなんだ、と聞かれれば、よかったです、と答えます。ただ「ビューティフル・マインド」というタイトルがまったくピンと来ないのだから、映画の意図とちがうところで「よかったです」と感じているのかもしれない。
 ネタバレエントリーですのでお気をつけて。
 まず映画を基本的に信用するとして、「統合失調症」というのはこういう風な世界を生きているんだと、可視化して観せてくれる。他の一般多数が見えないものが見える。見えてしまう。それが人物であったり、数式であったり。実際に天才数学者の半生をベースに描かれていて、一般多数が見えたり感じたりできないものを見ることから画期的な「理論」を導きだしノーベル賞まで受賞している。ただ一方で一般多数がみえていない人物が実在するかのように見えて、対峙して自分だけの物語を紡ぎ出す。その物語がゆえに他者の社会生活に危害を及ぼすことがあるので社会問題になる。
 特に学者としての実在の同僚や結婚した女性は実在の女性で、物語と現実の狭間がなくなる「統合失調症」から実害をうけることになる。
 で、「治療」させられることになるのだが、治療やクスリにより「幻覚の人物」や「紡ぎ出された物語」がみえなくなると、みえていた数式の向こうの世界観もみえなくなる、と描かれる。つまり普通の一般多数と同じような凡才になるわけだ。クスリを飲むのを止めると元の妄想が戻ってくる。つまりいろいろなものが見えてきて、物語が綴られるわけだ。でも本人にとってはその物語が現実であり、見えていない一般多数のほうが「おかしい」んだけど。

 なんかさ、子どもの頃って誰もが実在しないいろいろなものが本当に見えている、ってのを思い出すよ。それとか、あたまに浮かぶ物語と現実の狭間がなくて物語が現実って感じってのも想像つく。かすかな記憶かもしれないが、あ、それ解る、って感じ。そんな幻覚や物語が成長するにしたがって見えなくなっていくらしい。それが大人になることなんだってさ。大人になるってことは「折り合い」がついたりして社会人になるってことらしい。まるでクスリを飲まされ「統合失調症」から「普通」になったかのように。
 でも、誰もがもっていただろう子どものときの才能を失うことなく持ち続ける人がいるよね。アーティストっていわれている人や哲学する人なんかもそうかもしれない。ちょっと我がつよいって言われたり、社会性がないって思われる人もそんな感じの人かもしれない。
 でもね、じゃあ逆に普通の「社会性」ってなにかと言われれば、これはこれで一般多数がきめた物語、つまり「国家」とか「貨幣」とかetc、実在しない物語にのっかって共同幻想を見ているだけで、根本的には「統合失調症」の個人的な幻想となにもかわらない。
 いや、他者が捏造った物語に乗って共同幻想をみるか、個の子どもっぽいピュアな物語を大切にするかみたいな言い方をすればずっと後者のほうが好ましく感じるし、何かを「発見」することができるのはやはり後者のような気がするわけだ。まあ実際は「妄想」により「統合失調症」本人に不安があり恐怖に怯えているわけだから単純に後者のほうがいいなんて言えないのだけど。
 残念ながらボク自身は前者のように「成長」してしまったのだけど、たまに浮かぶ「物語」を失わずに見つめていたい、もしかしたらそこになにかしら発見があるかもしれない、と感じさせる映画だった、、という意味で「いい映画だったよ」とこたえよう、笑。

 ああそうか、わかった!?
 天才的な理論を発見できる「統合失調症」で社会性のない夫を支えた妻のマインドが「ビューティフル」と言いたいわけだなww。なんか「ビューティフル」ってのこそ他者が賞賛する妄想のようにみえて、しかも「天才的な理論の発見」という紐付きだから「ビューティフル」といっているようで、じゃあなんの発見もできない「変わり者」に寄り添っている人が「ビューティフル」と言われるかといえば、世間一般は、、、だから違和感を感じるのだが、、、まあどうでもいいけどww

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コメント(16件)

内 容 ニックネーム/日時
「変わり者」に寄り添っている人は、変わり者でしかないでしょうねぇ...、社会的な評価では。

いつも自分のところへ引っ張っていってしまって恐縮ですが...。「変わり者」に寄り添う変わり者が〈ふつう〉である社会or世界。才能なんて、もちろん関係なし。そういった社会では、「変わり者」が変わり者の個性に従って他人に危害(迷惑)をかける剣呑な社会になると想像するのですが、そういった社会こそ、ぼくが考える「理想の社会」なんです。

「変わり者」が変わり者と寄り添う。これは小さな〈折り合い〉です。小さな〈折り合い〉がふつうにあたりまえにあって、小さな〈折り合い〉同士が折り合いを重ねながら織りなされていく大きな社会。

この社会像はモデルがあって、なんのことはない、自然の生態系こそがそのモデルです。自然の中で生命たちは、自分が折り合える存在と各々個性的に〈折り合い〉を重ねて、それが全体として大きな〈折り合い〉になっている。

〈折り合い〉の中身は協働的なものもあれば、敵対的なのもあります。喰うことも喰われることもまた〈折り合い〉の一形態。

これは残酷なのではありません。おのおの命がけですが、でも生き生きと生きている剣呑な世界です。〈いのち〉はやっぱり、命がけでないと耀ききれない部分があるのも事実ですからね。
愚慫
2018/03/09 13:32
おはようございます。
コメありがとうございます。
言われていることは解るんですが、やはりここのとこのすれ違いは「折り合い」という語感ですね^^
どうも愚慫さんの「折り合い」の語感だと、すべてに「折り合い」が存在するようにボクは受け取れます。
仰るようによくよく観察すれば、そう言えなくもないような「折り合い」もつけそうですが、ボクの今の語感では「折り合いがつけれない」という状況があるうえでの「折り合い」が今のところの語感です。
「折り合いのつけれない」人として釈迦やイエスやソクラテスや……もっとずっと身近にはエイティピカルの一部の人も想定しています。そして99の折り合いがつく人も1つの折り合いがつかずに、そこに拘りたいならそれは素敵なことだ、と感じています。
この世のほとんどの人が釈迦やイエスのようであれば剣呑どころか社会が成り立たなくなるようの気もしますので、ああいった類の人はほんのたまに出没する、でいいとは思いますが、普通の一般多数のなかに釈迦やイエス的な「折り合いがつかない」部分があってもただ蓋をしているだけなんじゃないの、という物語を綴っています。

こちらも頂いたコメのレスになっていなく、自分のとこへ引き戻そうとしているだけですが、「折り合い」がつかないのはきっと面白いことなのでしょう、笑。
毒多
2018/03/10 09:02
>99の折り合いがつく人も1つの折り合いがつかずに、そこに拘りたいならそれは素敵なことだ

はい、そこには同感です (^o^)
「折り合い」の語感ですれ違うというのにも。

もっとも、言葉はもともと「すれ違う」ものだろうと思うし、だからこそ対話が必要なのだろうと思います。で、対話は「折り合い」の意志の現れだ、と。

ひとつ、問いを投げを。

毒多さんに100のうちの1の「折り合い」がつかないもの(こと)があるとします。愚慫にも、同じく100の1の折り合いのつかなさがあるとする。そして、互いの「1」は、それぞれ別個のものだとします。

だとすると、互いに接点はないわけですから、両者は「折り合い」がつかない、と言わざるを得ません。では、対話も不可能なのか?

毒多さんは、どう考えますか?
愚慫
2018/03/10 16:41
観てくれてありがとうございます。主人公の心がビューティフルと思っていますが、奥様の心がビューティフルという見方もあるのですね。
コスモスラブ
2018/03/11 08:28
コスモスラブさん、コメありがとうございます。
またDVDの紹介とお貸し頂きありがとうございました。
興味深い映画でした^^
ただ、タイトルについては全く解りません^^;
奥さんの心がビューティフルというのも、もしかしたらタイトルをつけた人はそういう意図があるのかな?とふと思っただけで、ボク自身はそうは思いません。
主人公の心がビューティフルという考えは全然浮かびませんでした。
もしよければ、主人公のどういう心がビューティフルなのかご教授いただけますか?(^^)
毒多
2018/03/12 09:47
愚慫さん、ども^^
「問い」は抽象的すぎてよく解りません。が、「折り合い」で共通で体験したリアルな出来事を思い出したのでそれについて少しを振り返ります。
「お水」のことです。
当時、「お水のこと」に「絶対に折り合えない」派と「折り合えばいいじゃない」派に分かれたとワタシは思っていますが、当時ワタシはある時期から「絶対に折り合えない」派ことを嫌悪感をもってみつめていた気がします。とすると、「一つの折り合いのつかないことに拘りたいならそれは素敵なこと」と書いたことと矛盾しますね^^;
ただね、もう一度思い出すと「絶対折り合えない」ことそのことに嫌悪感をもっていたかというとすではなく、「折り合えない」そのこと自体は認めていました。とすると「折り合えない」ことには「折り合って」いた^^
もし「折り合い」をひとつ上の次元でのことを差すならば、人は「折り合い」をつけて生きているに同意します。
で、ひとつの「折り合いがつかない」が素晴らしいというのも、この俯瞰でのことになるでしょう。

俯瞰できなければどうなるか、は当時が物語っていますね。「折り合えない」が「固執」になり対話不能、断絶となる。「断絶という折り合い」という言い回しが出来るのかもしれませんが、ワタシはそれが素晴らしとはまったく思いません。
毒多
2018/03/12 10:13
毒多さんのいう「俯瞰」について思い起こすのは、

知之為知之
不知為不知
是知也

何度も取り上げて恐縮ですが、論語です。

「知」は「折り合い」に置き換えても、文の構造はそのまま成り立つように思えます。つまり〈知〉と〈折り合い〉は同様の性質を持っている。

毒多さんの言う「折り合いがつかない(100のうちの)1」とは、論語でいえば「不知為不知」に相当するでしょう。「為す」ことは「素敵」だと孔子さんも同意するだろうと思います。弁証法を唱えたヘーゲルさんも。

「知」と「不知」とを際立たせることでより「上位の知」を得るという〈知〉。
テーゼとアンチテーゼを定立させてジンテーゼを得るというアウフヘーベン。
「折り合う意志」と「折り合わない意志」を共に認め俯瞰することで生まれる〈折り合い〉。
愚慫
2018/03/12 11:34
私も主人公の心のどこがビューティフルなのかはわかりません。統合失調症が心、精神の問題であり、映画のタイトルに心、マインドという言葉を使いたかったんだと思います。マインドを修飾する言葉としてビューティフルが興行的に選択されたような気がします。
コスモスラブ
2018/03/12 18:05
愚慫さん、おはようございます。
より解りやすくなりました。
もっとも「言葉」による理解ですがねww
でもね、これ多くの場面で出くわすと思うんです。また「お水」よろしく出くわしていたと思うんですね。
一旦ひっかかる言葉が出現して整理されるのはボクにはよいのかな、と思っています。

ひとつ気をつけなければならないと感じたことは、「社会では折り合いが必要」のなかでのボク自身の立ち位置の想定はアンチテーゼ側なんです。だからテーゼ(社会一般、常識、道徳、空気etc)に対して反発があり「妥協」「迎合」etcは出来ない、となったわけなんですが、ボクがテーゼ側の不(無)知にたったときに、不知の知と為すことができるかどうか、、、この時こそ試されるときだと思っています。
毒多
2018/03/13 09:32
コスモスラブさん、再レスありがとうございます。
前のコメントで

>主人公の心がビューティフルと思っていますが、

とありましたので、ボクの解らなかったことを感じとっておられたら知りたいという気持ちでご質問させていただきました^^

ただ、主人公は幻覚の3人をクスリで消滅させることをやめ、幻覚の3人の存在をみながらスルーすることで「折り合った」。奥さんは自分には実際に分けの分からない「統合失調症」を解かろうとして寄り添い「折り合った」と言えるような気がしてきました。
二人とも自分のなかの現実(テーゼ)に対して、否定を投げかけられた(アンチテーゼ)。「否定されたこと」を最初は否定して自分の感覚を優先させ他者の感覚を遮断しましたが、徐々に「折り合って」いく。そのプロセスである心の動きは「ビューティフル」といえるのかな、と考えはじめました。「ビューティフル・マインド」と名付けられたことに折り合っていこうかな、なんてね、笑。
毒多
2018/03/13 09:32
面倒だろうと思いますが、もう少しだけおつきあいを。少し「お水」の構図を振り返ってみたいと思います。ぼくにとっても、あれは(今となっては)(考えるための)良い経験だったと思うので。

あの折の論理派の主張は、現在のぼくたちの言葉でいうなら【正当化】でした。科学という客観的な記述体系は個別的な経験より普遍的なものである。ゆえに、科学の前では個別的にしか為されない〈折り合い〉など無意味であると。個別的な〈折り合い〉についての無意味の主張を、ぼく(「たち」と言っていいと思いますが)、(当時はそういう表現は使いませんでしたけれど)【正当化】だとして批判をしたいたわけです。

では、「社会では折り合いが必要」というときの「折り合い」とはなにか。客観的、あるいは立場的には抗うことができないものと為す「折り合い」なのか。だとすると、これは「妥協」であり「迎合」であり、行き過ぎれば「忖度」でしょう。【正当化】の前に膝を屈することは、現在騒動になっている政治の実例を見てもわかるように【絶望】への道です。この道を行くと、自分だけは【絶望】に陥らず逃げ切ることが出来ることが「成功」であり「幸福」だということになってしまう。

【正当化】に隷属するような【折り合い】はしない。こうした態度を貫くことができるなら、〈折り合い〉は自然に為すことができる。現に大人が【正当化】を振りかざすことのない教育の場では、子どもたちは、互いに個性をぶつけあって剣呑になりながらも、自然に〈折り合い〉を重ねていきます。
愚慫
2018/03/13 13:34
愚慫さん、おはようございます。
面倒なのはお互いさまです、笑
おそらく愚慫さんのコメの繰り返しになると思いますが、ボクはボクなりの自分の言葉で、これも繰り返しなるかもしれませんが、発しておきます。

「お水」に関しては論理派が自らの「正当化」を自らに留めれば正当性が保たれた。もしくは誠心誠意〈折り合おう〉としたなら、事態は変わっていたと思います。現実は自らの正当性を頑なに主張し他者に強要し従わせようとした、ここに【正当性】になり【折り合い】となり、ボクにとっては嫌悪感を持たせたと思います。
【正当性】【折り合い】は権力が強要してくるものと通じると思うのですが、論理派も権力に抗うゆるやかな繋がりだったブロガー(とボクは思っている)が権力のそれと同じ構造でもって【折り合い】を強要してきた、、、、この違和感です。
というと、科学は権力と同じじゃない、だって我々は科学的な「普遍的な正しさ」なんだから〜、となり泥沼化していくのだろうけどね、笑。
毒多
2018/03/14 09:07
今回の最初の「折り合い」という言葉に対するすれ違いも、解ってきました。
ボクのなかの「折り合い」という語感は、まさに「お水」の論理派や社会(国家権力)が自らの「正しさ」を強要してくる、妥協しろといってくる、迎合しないと損だという、そんな響きでした。だから「折り合いなんてつけられない」となる。
対して、愚慫さんの「折り合い」に対する語感は、子どもたちが損得ぬきで分かり合っていくように、差異を認め合ううえで双方が昇華していくようなイメージをもっていた。
今、こうした語感の違いを俯瞰できるところまでくることができました。ボクがかなりしつこく「折り合い」という言葉をとりあげ、愚慫さんがかなりしつこく反発してくれたからだろうね。感謝。

「お水」にかんしては双方に〈折り合い〉にもっていけなかった能力不足があるんだろう、と今は思います。
毒多
2018/03/14 09:07
追記
「折り合う」とは、「お互い」にお互いの裡におちて納得した、ということで「折り合うことができた」ということだと思う、この「お互いに納得」が〈折り合う〉ということなんだろう。片方だけの場合は「折らせる」「折らされる」となり、「合う」とはならない、とすると「折り“合う”」という言葉は、愚慫さんの語感のほうが本来的な意味に近いのでしょう。
ボクは「折り合う」を「折らされる」と感じたのは、そうした経験や意識のなせることで、とっさにそう感じたボクの今の感性を、それはそれで面白いと感じています。
毒多
2018/03/14 10:15
今の感性・今の感覚は大切だと思います。それがたとえ経過していくべきものであったとしても。

元の感覚を知っているというのは、その時は辛かったり苦しかったりすることが多いけれども、経過をしてしまえば宝だと思います。すがりつけば〈折り合い〉を拒否してすがりつけば桎梏ですけれど。

話を映画の方へ戻したいと思います。

主人公は天才数学者という設定ですよね。彼は独特な感覚で〔世界〕を眺めていて、だからこそ新しい言語(数学)を創造することができた。でも、その独特は社会には迷惑で一旦は矯正されたが、妻が寄り添って主人公は彼の独特を再び手に入れた、といった話(ですよね?)。

〈折り合い〉を「ビューティフル・マインド」だとすると、それは主人公と妻の〔間〕になるのだと思います。ところが、それが作品になると、〈折り合う〉ふたりと鑑賞する私達の間にも〔間〕が生まれて、そこにいろいろな要素が入り込んでくる。毒多さんが「他者が賞賛する妄想のようにみえる」というのも、〔間〕があるからでしょう。

人と人との〔間〕は相互関係です。意思を通わすことができる動物とでも、そう。人間はしかし、さらにその上に、意思を通わすことができないはずの対象とも〔間〕をもつことができて、さまざまに思いを抱くことができます。

意思なきものとの〔間〕は鏡のようなものだろうと思います。自分の姿がそこへ映り込む。ものの特性によって偏光されるけれど、元の像は自分の姿でしょう。『ビューティフル・マインド』に映る自分の姿。あるいは『科学』に映る自分の姿。

偏光された自分の姿は、その人が見たい願望のような気がします。ビューティフルを見たい人は『ビューティフル・マインド』に観る。正義を見たい人は『科学』の中にそれを観る。権力に観る人も、貨幣に観る人も、9条に観る人もいるでしょう。
愚慫
2018/03/14 13:16
愚慫さん

今の感性は、今瞬時の感性ではなく積み上げられてきたものです。
経過していくものではあるけれど、「この年齢」まで積み上げられたものは既に「意識」のベースになっていると思っています。
そのベースが「社会のなかの折り合い」を「自我を折らされる」「折れてなお合わせさせられる」と受け止めた、という事実を今、ワタシは深く受け止めています。けっしてそのベースに固執するという意味ではありません。俯瞰できるぐらい能力は身につけています。

ストーリーの粗筋は仰るとおりです。
また、監督が名付けた「ビューティフル・マインド」は、社会一般のなかでは生きづらい夫と支えた妻の関係と、その関係を温め合い推し進めた双方の心ということだろうと想像します。
また、対象にむけて感じるのは、その対象を通した(映し出される)自分の姿というのも同意です。

映画をはじめ「表現」が対象の場合、監督(作者)が伝えたいものがあるのでしょうが、往々にして視聴者と監督の間にズレが生じますね。
今回の場合は、ワタシが感じたのは「ビューティフル・マインド」ではなかった。それは映画に映し出された自分の姿だとすると、自己のなかの関心の対象がみえますね、笑。・・・ビューティフルという言葉への違和感がボクの裡にあるのかもしれません、爆!!
毒多
2018/03/15 13:15

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