毒多の戯れ言

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zoom RSS 「よるのばけもの」(by住野よる)からの真の自己、偽りの自己

<<   作成日時 : 2018/02/20 17:20   >>

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 住野よるの「君の膵臓を食べたい」を読んで面白いといったツレアイが買ってきた本を読み終えた。ツレアイは「君の膵臓」ほど感動しなかったようだが、ボクには「君の膵臓」よりずっと秀作だと感じる。上手いなぁ〜と。
 というもの、なんともタイムリーに「真の自己」と「偽りの自己」を物語として表現していて、物語として表現できるのが羨ましいわけだ。流石、作家さん。
 以下ネタバレだから、ちょっぴり注意、、、、
 舞台は中学校のあるクラス、、、の、露骨ないじめ。
 一人のいじめられっ子の女子だけが真の自己で居続けて、他クラスメイトは偽りの自己で、偽りが剥がれないように注意しながらいじめ続ける。なぜなら偽りが剥がれ真の自己が姿を表すことは、体制である偽りからの同調圧力を決壊させ、いじめられる側となるから。
 昼の教室。真の自己で生き続けるいじめられっ子女子は、偽りがスタンダードな住民からは敵でしかない。スケープゴートよろしく、いじめが偽りの正義を強化する。女子は真の自己で在り続けるが疎外され、生きにくい世界でしかない。
 夜の教室。女子がひとり。誰もいない教室では恐れることなく真の自己でいられる。そんな教室にばけもの外見になった男子は訪れた。真の自己ゆえに外見に騙されない女子は、ばけもの男子とほんとの話しをする。人間としての昼の男子は、虐める側からはみ出し標的にされないようにしている。そんな昼の偽りの自己に気づきかけている男子はやがていじめられっ子女子に心を許していく。
 女子は男子に「昼の男子と夜のばけものとどっちが本当の姿」と問う。
 答えに詰まる男子、そして男子は、、、最後は流石にネタバレは遠慮しよう。

 学校のクラスという逃げ場のない狭い空間で真の自己のままいることの危うさを上手く物語にしている。「偽りの自己」集団のほうが圧倒的な勢いで「真の自己」を潰しにかかる。「偽り」の正当化のほうが消費カロリーがいるのだ。全力で潰しにかからなければ「偽りの正義」はまかり通らない。だって偽りなんだもん。
 真の自己は純粋でありばいいわけで消費カロリーが少なくて済む。ありのままでいいということはそういうこと。ただ、それが許されればの話しである。「偽りの正義」の刃にかかればとことんまで消耗させられ、もともと耐性の少ない真の自己が削りとられていく。読む者が読めば、別に学校のクラスだけでなく、中学生という子どもの世界だけでなく、それが社会だ、と勘づくはず。
 小学、中学……のいじめが固定化されたのが社会なのだから。
 それでも真の自己として生きている大人も多い。学校の教室のように逃げ場のない閉鎖空間として圧倒的な偽りの強要ではなく、保健の先生がいうように「もう少し自由」なのかもしれない。とはいえ「偽りの自己」集団が偽りと気づかないまま、「正義」を押し付けてくる。まあ問題はない。閉鎖空間ではない距離をおけばいいのだから。職場なら辞めてしまえばいいし、育児ママ公園ならいかなければいい。きっと「真の自己」そうろうの変人がいるはずだ。外見がばけものだろうと、見抜く目をもてば問題ないさ。
 で、距離を置くだけでいいのだろうか?

 よるのばけもののように、偽りの自己に悩んでいる男子がいて、いじめられっ子女子がしたように解放してあげることが住みやすい世界をつくる気はするね。そこまで踏み込んで読めるから「よるのばけもの」はいい本だと感じる。偽りで固まった世界に風穴をあける。
 おそらく「悩む人」の多くの根本は、真の自己と偽りの自己の狭間で悩んでいるのだろう。表面的な理由はいくらでもある。しかし根本を掘り下げればそんなももの。真の自己で生きるものが増えれば、真の自己で生きる者にとっては住みやすい世界が開かれる。
 もっとも、真の自己をとりもどすのも、また自己の裡の対話でしかないのだが。よるのばけもの、のように、ね。
 

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「偽りの自己を理解しようとする目的以外に、本当の自己という観念を定型化してもあまり意味はない」というのは、毒多さんが先の記事で引いた学者の言葉ですが、当記事から感じるのは、この逆説であるような気がします。

というのも、本来的には意味がないもの、意味をなし得ないものに、意味を内包せしめるような外形(キャラクター)を与えて、あたかも意味があるもののように感じさせるのが小説や映画といった虚構の役割だと言えるから。

「ばけもの」がどういった造型になっているのは、当記事からは窺い知れません。それを明かすことは虚構の構造そのもの明かすこと、つまりネタバレなんだということでしょう。
そのネタが本来存在し得ない「ばけもの」という設定になっている(設定にならざるをえない)という事実が示唆するのは、やはり、「真の自己」という言葉(シニフィアン)はあっても、その内容の表す内容(シニフィエ)は、本来的に有り得ない、ということになるのだろうと思います。
愚慫
2018/02/21 12:50
いじめをする生徒が「偽りの自己」を生きているという設定は、説得力があるという以前に、社会常識によって定型化されているという感じがします。社会が無批判に提示する善悪(正義)の観念と真偽の観念とが無批判に並列されている。だったら、「偽の自己」などといわず「悪しき自己」と言えばいいのではないのか? とイジワルなことを思ったりします。

善悪は、それが虚構であったとしても、いえ虚構であるからこそ、社会秩序を維持する上で必要なものです。比してここで言われている真偽は社会の要請とは直接無関係、とはいえ、間接的には逆接的・反比例的に交わっている言っていいと思います。そのように入りくんだ関係にある善悪と真偽とが、作者の「ばけもの」の造型によって焦点を結ぶことになっているのか? 「偽りの自己」から解放するという「善」が、社会的な必要性(正義)から反している、それゆえに「真の善」となっている――という構造になっているように毒多さんの読解からは読めるように思うのですが、そうだとすると「真の善」は虚構としてしか有り得ないという話なってしまいそうで....。
愚慫
2018/02/21 13:05
正直にいって、ばけものの「造形」に意味を持たせるまでの「読み」はしていませんでした^^;
流石に抜書き引用するのは気が引けますが、形態は「犬夜叉」で最初に登場したようなムカデの妖怪を想起させます。ただ、「亜人」のような黒い粒子でできていて変形自由だとか空を飛べるだとか、火を吐けるとか、思い通りにやれることがやれるみたいな、、、ということ作者が意味を持たせて描いているとするともう少し読み込む余地がありそうです(当分再読しませんが、、笑)。アマゾンの素人書評では、「ばけもの」に変身する必然性はない、と言い切る人がいましたが、ボクはそうは思わなかったところをみると、何かしら意味を感じていたに違いありません。
「本来あり得ない」という描写ではあります。
(とりあえず真偽をつかいますが)真の自己と偽りの自己を行き来する少年の姿として描かれています。
真の自己であるいじめられっ子女子は人間のままであり、いじめ側の偽りの自己集団も人間であり、人間とばけものを行き来する少年は偽りの自己を捨て真の自己だけを選択した少年は人間に戻りました。(めちゃネタバレだな^^;、コメ欄だからいいか)
毒多
2018/02/21 15:25
と、散々「真の自己」という言い方を運用しましたが、やはり社会が存在している以上「ない」となるでしょうか。「偽り」が在る、からの「真の」となるかな。なんとなく、ピダハンや、生活破綻していた天才芸術家たちには「真の自己」で生きていると言いたくなる自分がいます。と、こういうことを言ってしまうから、はっきりと矛盾が露呈しますね^^;

「真偽」と「善悪」の関係ですね。これはボク自身混同しているかもしれません。あらためて考えてみるとマジでややこしい。
「いじめの教室」を想像しています。
「真偽」は個人的なもので、真であれば善いと感じますが、偽であっても悪ではないでしょう。価値観も個別それぞれです。「善悪」は社会的な関係ですかね?
偽が集まって社会的影響を個人に向かうとき「悪」を感じます。偽である個々が社会規律として真の自己を抹消して偽としている。真の自己を全員が発揮すると社会が破綻する。となると真の自己が「悪」となってしまう、ですね。ただね、真の自己というか素の自己というか規律を特に教育されなくても、純粋であれば社会に対しても「善」のような気はするのですよ。これを性善説というのかな?
むしろ「〜べき」的な過度な社会性を押し付けられるとき、偽りの自己はつくられ、……偽は造られていくものであると思います。社会全体がその偽りの自己の集団になり素の個人の余地を奪うことを「悪」としたい自分がいます。
毒多
2018/02/21 15:25
生まれながらにして個別の在り方はグラデーションを持っているとします。全く素である0%から50%のグレーとしましょうか。そこまではいいとして、生後、社会教育によりグラデーションの延長が付加していく50%から100%真っ黒と。その時々の自己が何%か俯瞰でき可変できればいいと思います。ただね100%に近くなると俯瞰するどころか一方通行になって固定化されていく。それがスタンダードになると息苦しい、と感じる、、、、、、、長い割には説明になっていないかもね。
当分、「真偽」「善悪」のあれやこれやでエントリーしてみます。
毒多
2018/02/21 15:26



一晩かんがえた追記、笑

あかん、あきまへんは。
やはり普遍的な「真の自己」るする合理的説明はできません。
虚構であり物語です。
社会のなかのある事象について、感性が嫌悪するものにつき、事象を引き起こす他者にたいして「偽りの自己」が働いている、とし、そうでないものに「真の自己」である、というカテゴライズをして私が物語を創っているにすぎません。
そういえば以前も同じようなことがありました。
どうもワタシはそういう物語を創ることが好きに違いありません。

ほぼすべての者が社会のなかで育っていくにあたり、個別身体から発する成長の欲求(インナーチャイルド)とそれを矯正する社会からの抑圧(教育・忖度・空気・常識・風習etc)の狭間でどれだけバランスが取れているか、自己のグラデーションが把握できているか、のことを「真」「偽り」と命名していただけです。もちろん人間として二項には分けることができません。
ある事象(exいじめ、DV、共依存etc)に対する、その時々の態度の区分けに過ぎませんでした。

毒多
2018/02/22 08:57
>「真」「偽」と命名していただけ

この命名は実態に即したものではないのかもしれないけれど、とはいえ、命名しないことには言語的に把握できないし、言語的に把握できなければ思考(≠思索)もできなければ他人に伝達することもできません。

そうした意味において「命名」はあくまで「仮」のもの。仏教の用語では「虚仮」と言ったりしますが、「仮」や「虚仮」の自覚が、毒多さんが感じているものなのではないかと思ったりします。
愚慫
2018/02/22 10:18
おはようございます。

言葉とは難しいものです。今回は前出の「本」にあったものが、ワタシにとってはかなりインパクトがあり、というより「お気に入り」で、他のいろいろもそれによって理解し表現しようとしました。が、
>実体にあわない
のではどうしょうもないですねorz

指摘がなければ、当分このマイブームで暴走していたでしょう^^

個人的には「インパクト」があった、のは、やはり面白く楽しいことであり、それにより他も理解しようとしたことも楽しかったという事実は、他の誰にも伝わらなくてもワタシは心地よく受け止めています。またそれが実体に合わないことを解するのもまた楽し
……です。

それと言葉の選択に無茶があったかもしれませんが、考えている内容自体はワタシにはさほど見当違いという自覚はありません。
「善悪」のほうが伝わり易いかったかもしれませんが、「善悪」となると、またその前提になる理解が難しいなぁ、、とあらためて考えています。
毒多
2018/02/23 09:41

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