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zoom RSS 映画「むかしMattoな町があった」に心乱されて

<<   作成日時 : 2018/02/12 15:57   >>

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観終わりました。いい映画です。
なんだろうこの感じ。心が揺さぶられる。
精神病院の改革をおこなったイタリア人医師フランコ・バザーリアのドキュメント風のドラマ。
ボクが子どもの頃だから40年以上前かな? 母親が言う「キチガイ病院」という言葉がずっと残っていた。青カン支援時代、アル中の青カンが福祉にかかると必ずおくられたW病院。軟禁、拘束と薬漬けの病院。
1960年代に厚生省の通達
「精神病院は、地価の安い辺鄙なところに建てるのも自由です。精神科医でない医師でも精神病院の院長になれます。そこで働く医師の数は他科の三分の一、看護者は三分の二でもかまいません。もしそれを守れなくても罰しません。みなさん、医療金融公庫の低利融資をつかって精神病院をじゃんじゃん建てましょう」(精神病院はいらない7pより)
という触れ込みでじゃんじゃん建った精神病院では「精神病院は牧畜業者」(故武見太郎日本医師会会長)の言葉のもと精神疾患の人々を食い物にした(同7pより引用)
映画で具体的な拷問が映像化されている。
何重もの鉄格子での監禁、拘束、薬漬け、電気ショック、水タオルによる窒息、檻etc……。
これを解放し、病院を解体したのがバザーリアとその弟子たちで闘争と葛藤の生涯が克明に描かれている。

治療施設ではなく、たんなる収容所ということが描かれている。
じゃあ誰が収容されるのか?
それはワタシである。
いや、場合によってはワタシが収容されていてもおかしくない、という息苦しさを感じる。社会にとって邪魔ものが権力によって収容されるのだから。家族によって邪魔なものが家族という権力によって送られる。親という権力によって送られる。地域によって送られる。戦争で正気を狂わされたものが送られる。
正気であろうと普通であろうと運が悪ければ送られる。
老婆は厄介払いされた。姨捨山のように。
送られたが最期、狂人として再生される。
施設が人間性を剥奪し狂人をつくるのである。
医者も看護婦も狂っていく。
映画「es」で、囚人と看守のロールプレイが本物の看守をと囚人をつくったように。
逆らう者はとことん虐待される。
映画「カッコーの巣の上で」でロボトミーがあったように。
医会や学会は「村」をつくり精神病医での利権と伝統を守る。原発のように。
脱出不能の収容施設である。
精神病院のシステムによって人間性を奪われ脱出不能な不可逆的に組み込まれる、、、

正直にボクに精神病院のリアリティはない。
だから精神病院の改革もよく分からない。
映画から学んだが、だからといって精神病院の改革を!!と叫ぶことができない。上滑りだから。
でも、この映画はボクを揺さぶる。
はたしてこの構図は、精神病院だけのことか?
ここにも、あそこにも、同じ構図の「囲い込み」がごろごろしているのではないか?
目に見えない壁なんか網のように存在する。
見える、見えいない壁に拘らず、囲って見えなくして収監しておく、危険と世間を煽ってアンタッチャブルとする。
マスコミもここぞとばかりに煽る。
いや、ローカルな収容所じゃない。
この社会システムそのものが、、、、とは言わないが、、、
多数が狂人のシステムでは少数の正気なやつが狂人だろう。
きっとボクを揺さぶるのはそういうことの気がする。

「先生、本当のことを言ってくれ。苦悩が人をマットにするのか、マットであることが苦悩なのか」映画のなかの戦争トラウマで15年拘束されつづけたボリスの台詞です。
先生であるバザーリアは「僕も解らないんだよ」と答える。
確かに解らない。
でも、苦悩を感じるのは人間だということは解る。
苦悩を誤魔化し、苦悩をないものにすることは人間性を自ら削っている気がする。

「僕も解らない」といった精神科医のバザーリアは「僕も含めて精神病について何もわかっていないんだよ」・・・こういうふうに自らを「さらけ出す」事ができる人だから、偉業をやることができたのだろう。システムが解体されていき、人間性が取り戻されていく。また心が揺さぶられる。

最後にこの映画を紹介してくれた友人に心から感謝します。ありがとう。

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コメント(31件)

内 容 ニックネーム/日時
ご鑑賞された映画がご自身が所有されているDVDでしたら、お貸し願いたいのですが。よろしくお願いします。
コスモスラブ
2018/02/14 07:52
おはようございます。了解です\(^o^)/
毒多
2018/02/14 08:54
「むかしMattoな町があった」、まだ見てないのだけれど、YouTubeで、しょこっと見ましたが、あの感じで長い映画だったら厳しいですね。ブログを読ませてもらってから、ずっと色々考えていました。
 私も一度はいやがる息子を病棟へ連れていこうかと考えたことがる母ですから。でも出来なかった。その時医者に「普通、親だったら真剣に子どもの将来考えたら、連れてこれるだろう」とか、「それでも母親か、普通の親はそんなことしない」とか言われて、「普通」って何?とかなり悩みました。今はあれで良かったんだって心から思えるけれど。
 
 精神を煩ったり生涯があったりする人で、周りに対して凶暴になる人は収容され、大人しめの人は引きこもりや監禁する。それで他の人たちはこれで平穏これでよかったって思うのだろうか。収容した人たちをなぜ拷問するのかなど、理解できないです。

>「先生、本当のことを言ってくれ。苦悩が人をマットにするのか、マットであることが苦悩なのか」

苦悩の原因はマットじゃないし、マットが苦悩を作るわけでもないんじゃないかなって、原因は他にあるのではないかなと、今の息子を見てて、また自分の心の変化の事などから感じてるだけですが。






 
冬穂
2018/02/14 18:22
つづきです。

>「僕も含めて精神病について何もわかっていないんだよ」

精神科は、ほぼ問診だけだし、医師の経験と感覚で診断すると聞いています。その医師も様々ですしね。
でも医師の共通点は、ほぼ皆、患者さんの社会復帰、自立などを目指しています。その為に症状を和らげる薬を処方してくれます。薬を拒否する人はやっかいな患者扱いされることもしばしばです。復帰してハッピーになれる社会だったらいいのですが。

もしかして、ひとりひとりが幸せに生きると言う事と社会が平穏に営まれて行く事が同時進行することはないのかな。平穏なことが幸せってわけでもないけれど。

まずは、「むかしMattoな町があった」を観なくては!
冬穂
2018/02/14 18:23
冬穂さん、おはようございます。

youtubeのほうは観ていませんが、おそらくかなりハードな拷問シーンがピックアップされて訴えられていると想像します。(ちょっと今更観る気になれませんので、確認はしませんが、、^^;)
本編の方では、割に早めにバザーリアの改革場面になり、なんとなく希望をもって観ることができますので、ご安心ください。とはいえ、そこからがまた裡なるあれやこれやに訴えかけてきて、実はそちらのほうが本当の意味でヘビーなのですが、、orz

それにしても「経験」があるのですね。そういう境遇・心境というのもまた希です。変わられた今と、当時の自己を冷静に俯瞰して思索できるのはそうした「経験」があるからだと思います。誰にでもできることではなく、真にそれができるのは冬穂さんご自身しかできない。とてもお聞きしたいところですが、ちょっと赤裸々な想像もしますので、コメ欄とは別のところで、、、笑。
毒多
2018/02/15 08:50
「普通」というのは、造られた社会システムに適合するように教育された多数のことだと思います。「普通はそうでしょ?」は、その多数が仲間とするか否かの同調圧力でしょう。本音の自分を殺して社会規範に合わせた自己になりなさい。我儘言ってはだめですよ。社会維持のために働きましょう。というものですね。そうじゃない、と自分の正直になると、、どうなるか「悩む」か「拒絶する」か「開き直る」か、普通からはマットとみられる。つまり、「普通」が純粋な自己を悩ませ、マットとレッテルを貼る、のかもしれません。
天才と呼ばれるアーティストは社会や普通など気にせず、社会性は破綻し、日常生活さえ気にせず「マット」だった人が多かったと聞きます。「純粋な自己」のみに忠実だったのかもしれません。普通に教育されあがいているボクには、想像もつかない世界ですが、^^。

現状、どう批判しようとも、この「社会システム」によって多数が生活していることは否めませんし、この「社会システム」を受け入れないことを受け入れることで天才が存在できるとは思いますが。
毒多
2018/02/15 08:50
ありがとうございます。統合失調症の主人公の映画「ビューティフル マインド」('01アカデミー賞受賞)のDVDがあります。ご興味があるようでしたら持参しますが、いかがでしょうか?
コスモスラブ
2018/02/16 06:27
おはようございます。
そうですか、それではお願いします^^
毒多
2018/02/16 08:23
早速鑑賞しました。ありがとうございます。歴史を感じています。子供のころ、精神病棟の桶狭間病院が話題になることがあり、病棟では映画の中でことが繰り広げられていたのかなと想像しています。現在でも時々、精神障害者の犯罪がセンセーショナルに報道されることがあり、それを受けて国会で障害者に対する規制が議論され、障害者団体が反対するという図式が見受けられます。障害者に対する扱いは昔より改善されていることだと思いますが、まだまだ問題があるように感じています。
コスモスラブ
2018/03/30 01:34
おはようございます。 早っ!!
長い映画をめちゃ早いですねぇ(^^)
>精神障害者の犯罪
定形発達の犯罪と比べどれぐらいの割合であるのでしょう?
そもそも「犯罪」とされることの原因が社会のほうにあることも少なくないと考えています。
障害者に対しても社会的弱者という壁も「普通」と呼ばれるもののハラスメントのような気がしてなりません。
と考えると、映画でみられたような「壁」は可視不可視にかかわらず、ここそこらに散見されるように思います^^;
毒多
2018/03/30 08:29
定型発達者は健常者のことでいいですよね。出典は定かではありませんが、障害者の犯罪と定型発達者の犯罪率はさほど変わりがなく、障害者だからと言って犯罪率が高いわけではないという認識でいます。
コスモスラブ
2018/03/30 08:58
ですよね^^
とすると、障害者として括ることの「別の意図」が見え隠れします。
しかもその意図は「普通」と言うこと言葉で、多数の思考を麻痺させる。
ということは、意識していたいと思っています\(^o^)/
毒多
2018/03/30 09:37
>電気ショック<

>「発見から70年経った今日、なぜ電気けいれん療法(ECT)が患者や多くの医師からひどい汚名を着せられているのだろうか? ECTはある意味において精神医学のペニシリンである」<

>1900年以降に精神薬理学の進歩が起こったのちも、症状の波に襲われているさなかの統合失調症とメランコリーの患者にとっては、医学は何の救いにもならなかった。家族は絶望し、カルテでは自殺のことが絶えず話題に上がった<

>精神科治療においてECTの有効性が再評価されつつある今日、身体療法のパイオニアとなった医学者たちの足跡を追い、ショック療法がなぜこれほどまで忌避されてきたのか、その悲運の歴史を紐解く<
『〈電気ショック〉の時代――ニューロモデュレーションの系譜 』(みすず書房/2018年2月刊行)

同書は高額なので実は読んでいません。あくまでこういう知見が提示されているという事実の指摘に留めます。
精神疾患罹患者の解放療法については既に1935年刊行の『ドグラ・マグラ』に描かれており、作品の中で患者への拘禁並びに非道な待遇に対する非難も盛り込まれています。
他方、長年精神病院に勤務していた家人によれば、患者の「自傷を防ぐ」ために拘禁が必要とされる面があるとのことです。もちろん、病人捨て場というか入院させた後はそれきりで死後も遺体の引き取りにすら来ない家族も多いと言っていましたが。

上記コメントは、毒多さんの思索を批判・否定するものでは全くありません。あくまで事実に関する幾らかの指摘です。ルール破りご容赦。
拝み釦
2018/04/07 14:41
おはようございます。

なるほど「電気ショック」のイメージの是正ですね。
批判・否定とは思いませんのでご安心ください。
ワタシは知らないことでご教授ありがとうございます。
この映画の後に観た「ビューティフル・マインド」ではECT(これも初耳)らしい治療が行われていて、幻視幻覚に「翻弄」させられる患者である主人公は「普通」の生活に一旦戻る様子が描かれていますので、そういう治療は効用があることはなんとなく知りました。
表題の映画においては素人目にも治療とはみえず「虐待の道具」のひとつ、としか思えないよう描写されていますので、このようなエントリーになりました。

ただこの映画の主題は、多数からすると変わった少数を囲い込めばいいのか? もしくは治療により「普通」(多数)に近づければいいのか? ということだと観ましたので、「映画の主題」としては、虐待ではなくETCという治療が在る、ということと違うベクトルなのかもしれません。
「ビューティフル・マインド」のほうでは、ETCにより「普通」に戻ったことにより別の精神障害がでて、結局は幻視・幻覚とつきあいながら、周囲も理解をしめし、生活することになり、前者の映画の主題と同じ構図であると観ます。
いずれにしろ、実際には、精神障害(と呼ばれる)者が自由な行動する状況に対応する周囲も非常に困難であることは想像に容易いので、単純に「周囲が理解すればいい」ということにはならないことは解っているつもりです。

拝み釦さんが「ECTの間違ったイメージ」に関心を持ち訂正したい、ということは純粋に受け止めます。

別ですが、「ルール」に関してはワタシの関知しない、拝み釦さんの独自のものなので、いちいち断ったり謝罪したりしなくて結構です。かえって気分が悪くなるものです。
毒多
2018/04/09 08:43
乗り掛かった舟なので、補足します。
『ビューティフル・マインド』は16年前の公開時に観たきり、『むかしMattoの町があった』は未見という前提で描きますね。

ECTに関しては『ビューティフル・マインド』だけでなく『レクイエム・フォー・ドリーム』他の映画でも一種の拷問具のように描かれているので、マジョリティがマジョリティの一方的都合でマイノリティを暴力的に“矯める”というイメージを補強する判り易い小道具的存在として使われてきたのでしょう。

精神疾患治療の歴史についてきちんとした知識を持っていないのですが、精神疾患の治療とは何か、「誰のための」治療であるかというのは短絡的に纏められるものではないと考えています。恐らく最初期の精神疾患治療は所謂エクソシズムのような形で登場したのでしょうが、そもそもエクソシズムはマジョリティがマイノリティの状態をマジョリティに強制的に適合させるために生まれたのかというと、私には断言できません。当人が悪魔に憑りつかれたという実感を持たねば、少なくとも何かの影響を受けて自らが苦しいという実感を持たねばそもそもエクソシストには頼らないのではないかと、現代のヴァティカンでエクソシストに救いを求める人たちの姿を見ていてそう思います。確か年間50万人くらいがエクソシズムに頼ることを希望するらしいですよ、ドキュメンタリーによると。

精神科病院を廃止した進んだイタリアで、悪魔祓いに救いを求める人たちが引きも切らない。ここは考えどころです。
拝み釦
2018/04/09 11:53
承前。
『ビューティフル・マインド』については、現実のナッシュの生涯と異なった映画的改変が加えられており、その翻案は恐らく作品に映画的な醍醐味を与えるためのものなので、例えば幻覚の演出一つとってもナッシュ自身の体感と観客が受け取るものには相応の違いがあるでしょう。統合失調症患者の幻覚体験に纏わる体感をそのまま描写することは現実問題として非常に困難でしょうからそこについては止むを得ない部分もあると思います。ただ、物語上のどんでん返し機能・ミスリーディング描写として幻覚が使われていることが果たして良いことなのかどうかは疑問が生じるところです。もちろん映画は他人の実人生の複製ではないんである程度面白ければそれで良しという考えもありです。

他方、統合失調症については幻覚それ自体が問題というよりは、幻覚は統合が失調した苦しみに対処するための脳の「落としどころ」というか、耐え難いほど先鋭化した不安に帳尻を合わせるためにアウトプットされているものらしく、幻覚が生じるから苦しいのではなく、まず苦しみや不安がありそれに対して不完全な統合が与えられた状態が幻覚症状のようです。

個人的に時折差し入れをしたり話しかけているホームレスの方がいます。その人は恐らく統合失調です。明らかな監視妄想を持っています。周囲の人間に陥れられて全てを奪われたと信じていて、こちらはどこまでが真実であるか判りません。話す度に自分について語る内容が違っているのですが、多分虚言でなくその時その時の本人にとっての事実を語っているのでしょう。
拝み釦
2018/04/09 12:29
承前。
前述のホームレスさんは、自分と他者(世間の人たち)との境を無くして欲しい、と語る一方で、福祉を頼り生活再建することは強硬に拒否します。監視妄想があるので、福祉事務所や警察官は監視者側なんですね。その辺でたむろしている人もみんな「監視者」です。
本人は苦しいし不安なんです。その苦しみや不安が何に由来するのかは当人には説明できない。私は監視妄想ですよ、とは言いません。言った瞬間に私も「監視者」の一人になるのは解っていますからね。それがホームレスさんの住んでいる世界なのですから。

苦しくて不安な世界です。

本人はマジョリティの暮らしに戻りたいんです。会う度に「何でこうなったのか全然解らない」と繰り返します。

冒頭の話に戻ります。
精神疾患の治療とは何なのか、誰のための治療なのか。
社会の要請なのか。精神疾患を持つ当事者の要請なのか。
私には良く解りません。毒多さんには毒多さんの視点があり、それはそれで良いと思います。ECTの話もですが、別に毒多さんの視点を「訂正」したいわけではありません。

ただ、ホームレスさんと私の視ている世界が違うように、毒多さんの視ている世界と私のそれもだいぶ異なっているのは確かです。
拝み釦
2018/04/09 12:45
拝み釦さん、再コメありがとうございます。
かなり思索をくすぐるコメです。

>個々、視点が違う
その通りだと思います。思ううえに、これは忘れられがちになり、日本人であればこう思うのが普通だ、人間であれば、、、というふうに共通という前提であると確認もなし設定される。そして齟齬がおきることはしょっちゅうです。

結局「統合失調症」「ホームレス」などと個々の状況を一つにまとめることはできないということだと思っています。

「統合失調症」という括りもかなり幅があるものだろうと思います。本人の症状も異なり、本人がどうなりたいのか、まで含めると他者による関与の形はひとつには決まらない、となるのだと考えます。
ホームレスでもしかり、ですね。
定形発達ホームレス、統合失調症ホームレスの視点が違うどころか、性差、世代、生育、環境etc、各ホームレス違って当然です。
毒多
2018/04/09 14:24
「ホームレス」だと、ワタシにはリアリティがあります。「どうしてこうなったか解らない」という言葉はよく聞きましたが、ではどうしたいか?は人それぞれでした。
たまたま支援があったところに造られたコミュニティで楽しそうに生活している人もいれば、一人がいいという人もあり、「普通」に戻りたいという人もいました。(「普通」から追放されて、その「普通」に戻りたいのか?、ということは何度か書きましたが……)
マジョリティの暮らしに戻りたい、と、本人が言っていても実際に戻れたらどうなるかは解りません。(実際に戻ると孤独に耐えられずホームレスコミュニティに戻る人が多かったです)もちろんワタシが想像して、判断することでもありませんが、本人さえ解らないことは多々あると思います。もちろん、その時点で本人が言うことを否定することは絶対にしませんが。

「むかしMattoな町があった」という映画は、精神障害者という括りに他者の価値観で囲い込むことの是非という視点で描かれているため、いったんその「他社による囲い込み」を止めたら、どうなるか? を描いた映画です。
周辺住民の反応から、家族の反応、学会・医会の反応、それでなによりも患者(とされている)人々、個々の反応や状況を描いた映画でもあります。患者(略)のなかには、むしろ束縛がないことを不安がる人も登場しました。
毒多
2018/04/09 14:25
では、今「普通」のなかにいる人が苦しくもなく、不安もないかといえば、そうでもありませんね。「普通」だって「普通」などと括ることはできません。マジョリティは実はマジョリティではないですね。
「統合失調症」の個人の苦しみ不安、「ホームレス」の個人の苦しみ不安、「普通」とされる個人の苦しみ不安を、他者が比較することはできない。まあ「普通」のなかでは比較して我慢を強いられることが多々ありますが、、、、それが教育でしょう。
でも、本来なら皆視点がちがう。バラバラが集まった社会はバラバラでしかあり得ない。バラバラでは社会としてなりたたないから、「普通」を教育した。比較と我慢を強いた。いつしか社会人とは同じ視線でみる、が前提となり、前提に添えないものに線引をしマイノリティがうまれた。
もともとバラバラであるという前提が隠匿された、「むかしMattoな町があった」という映画につながっていきます。
もともとバラバラであったのだから、そこを忘れないうえでの社会も造ることができるのではないか?と考えてしまします。

と、こんなとこが拝み釦さんのコメントで考えたワタシの視点です。
もちろん、拝み釦さん同様この視点を他者に強要するものではありません。
でもね、視点の共感者がいるのはちょっとうれしいものなのです。

毒多
2018/04/09 14:25
>精神障害者という括りに他者の価値観で囲い込むことの是非という視点<

>バラバラでは社会としてなりたたないから、「普通」を教育した。比較と我慢を強いた。いつしか社会人とは同じ視線でみる、が前提となり、前提に添えないものに線引をし<

こういったところが、毒多さんの直感(肌感覚)に整合性のある視点・社会観なのでしょう。それはそれとして成立するものだと私は思います。

以下もまた私の記憶からの蔵出しで申し訳ない。昔付き合っていた女性の所謂元彼が統合失調症で、調子の良い時は部屋で一緒に暴れたりしていたそうですが、症状が出ると彼女の首を絞めて殺しかけたこともあり、我に返ると今度は自傷を始めてしまうとの由。彼女の前に交際していた女性を顔が変形するくらい殴打したこともあったようで、結局は家族に依頼された病院職員に拉致されて精神病院に強制的に入れられてしまったと聞きました。当人の意志を無視した措置入院ですね。

私は措置入院や患者の拘束を手放しで是認しているわけではありません。価値観や線引き、措定された「普通」といった社会⇔個の関係性の枠で、統合失調という症状(特性と換言しても構いません)をどこまで捉え切れるのかという視点の話だと思ってください。

症状を持つ当人が向き合えない・制御できないものと他者がどう向き合うべきでしょうか。これは社会(規範)⇔個に対する視点の問題というより、個別具体の関係性に関わる事柄です。当事者の病識の有無も影響します。当人に苦しみがあって他害・自傷が顕れるのは自明です。しかし病識がなければ自分の状態を自覚できません。まあ病識があれば統合状態を制御できる、というわけでもないのでどうにもならないんですけど…。
拝み釦
2018/04/09 17:47
承前。
エクソシズムについてコメントで触れましたが、ヴァティカン公認のエクソシストは現代の精神医学も学んでいます。彼らに言わせると、所謂「悪魔憑き」の大半は精神疾患らしいです。悪魔憑きと認定されるには幾つかの(オカルト的なものも含む)条件を満たさないといけないんですね。

現代科学(精神医学)を基軸に置いた規範が支配するマジョリティの社会があり、そこでは例えば精神科病院が廃止されています。
平行して、悪魔が跋扈し人間の精神・肉体を乗っ取るという異質な世界観が共有される社会が重層的にあり、表の現代科学から零れてしまった無数の人たちがそちらに流入しています。

何故そうなるのかといえば、恐らく精神疾患について解っている事柄が少ないからでしょう。当人にも他者にも解らない。患者に内面が存在するのかすら解らなかったから医療機関での虐待が頻々と起きていたということだと思います。
デュビュッフェがアール・ブリュットという概念を提唱して精神疾患者の創作を芸術として採り上げたのが1940年代。それに遡ること20年ばかり前に医学的に患者の芸術制作に着目した書物が出ていたようですが、芸術とは言うまでもなく内面によって意匠されるものと見做されるわけで、患者による芸術が発見→評価される以前の時代が如何なるものであったか推して知るべしです。社会規範が正常⇔異常を線引きするのとはまた次元の異なる問題ではないかと考えます。
拝み釦
2018/04/09 18:21
拝み釦さん、再レスありがとう。

>統合失調という症状(特性と換言しても構いません)をどこまで捉え切れるのかという視点の話

紹介していただきました元彼女さんとその元彼さんの話のようなことが多いことは想像つきますし、他には養老さんがどれかの本で個性(特性)で、精神病対の部屋の壁に大便を塗りたくるという話を聞き、それを個性とし同居できるかと問われれば、線引するワタシがいます。
それどころか、リアルにはワタシ自身の実父はアル中のうえに認知症でなにかしでかし、処理する度に「いいから、もうシネよ」と呟くのがワタシの本性で、おそらくそうした自己の側面との対話から実害のないところで「綺麗事」を言い、言い訳をしているだけかもしれません。
ただ「綺麗事」を綺麗事だとして、排除はしたくないという思いは残っているし、残していたいという思いはあります。
毒多
2018/04/10 09:04
>精神疾患について解っている事柄が少ない

そうらしいですね。どこかで観たか読んだかしました。エクソシズムやキツネ憑きを科学以前とは笑うことはできませんね。
解らないことのうえにワタシには、さらに知識がありませんので、精神疾患そのものを語ることはできません。ただどうしても社会規範上異質というだけの視点はもてません。
むしろ、マジョリティ規範によって排除してはならないという思いが贔屓目にみている可能性は高いです。
仰るように芸術に秀でた人が多かったり、「ビューティフル・マインド」のモデルの人は実際になんとか理論を発見したり、冒険を恐れぬサイコパスが未開のなにかを開拓したり、とかいう話は飛びつきたくなります。
かならずしも「別次元」でもないという思いに繋がります。

ただ、仰る

>社会規範が正常⇔異常を線引きするのとはまた次元の異なる問題ではないかと考えます。

を否定はしきれないことは、上のほうに書いた通りです。
毒多
2018/04/10 09:04
>「綺麗事」<

私は毒多さんの仰っていることが綺麗事だとは全く思っていないですし「シネ」と吐き出してしまうことについても至極当然だと思います。
毒多さんの思索パターンとして整合性志向があるのでしょう。それが毒多さんの個性なのですからそれで良いと思います。
私の世界観は不整合が基本なのでそこが違うだけです。

因みにサルの群でも、身体に障碍を負った個体は集団に受け容れられ易く、精神疾患の個体は排斥されやすいそうです。身体の障碍は機能の制限に留まりますが、精神疾患はプロトコルの変質が起きて相互理解が困難になるのでしょうね。

毒多さんから弄便の話が出たので、こちらのURLを貼っておきます。精神科医のブログです。知見の宝庫です。
https://ameblo.jp/kyupin/entry-11397232287.html

社会規範側から弄便を考えると、現代社会は人糞(糞尿)を生活環境から切り離すかたちを選んだことでより便への忌避感が増しています。とはいえ私の父の子ども時代くらいまでは下肥(人糞)を備蓄して施肥に使っており、親族が肥溜めに嵌って命を落としています。当時に比べれば現代の人糞への嫌悪には多分に社会規範が強く入っているでしょう。
拝み釦
2018/04/10 23:24
承前。
では精神科は、弄便を止めさせるために治療をしているでしょうか。そうとも言えるかも知れませんが、そうでないとも言えます。弄便を行うような患者は他の患者と喧嘩したり、自分の爪を剥ぐといった行動も起こすのであって、それらは本人の愉しみでも遊びでもないでしょう。ある行動を止められないことと、ある行動を望んですることは当たり前ですが異なります。
当事者の脳の働きをケアすることで止められないことを抑制させ、心身の負担を減らすという役割も治療にはあるのではないですかね。病識のない患者がそれ(止められないことの抑制)を主体的に望んでいるのかという同意形成の問題も関わりますから簡単に答えは出せませんが。

ところで、前述のブログエントリには
>今回の人は、生涯退院できないレベルにある<
>彼の場合、「開放病棟のように守られていない環境」では速やかに悪化してしまう。だから実際には、退院どころか開放病棟すら無理である<
という一節があります。
映画『むかしMattoの町があった』の中ではこういう患者さんはどう描かれているのかに興味があります。こういった患者さんは精神科病院が/閉鎖病棟や薬漬けの医療制度が/統合失調症患者を排除する社会が作ってしまうのですという視点も当然あるでしょう。
私はそういう視点を否定はしませんが、そちらに身を置くこともしません。件のブログを書いている医師からはきっと異なった風景が見えていると思います。
私はどうかと言えば、患者の側で精神科に身を預けたこともなければ医師として患者に向かい合ったこともないですからね。解らないことはやはり、解らないです。
拝み釦
2018/04/10 23:52
>拝み釦さん

(毒多は)整合性志向がある
(拝み釦さん)の世界観は不整合が基本

おもしろいです^^
前の方のコメントで人間はそれぞれバラバラというとこでは一致したと思っているのですが、その先ですね。
ワタシにはやはり、社会としてまとまっていくのがよい、という感覚があるのかもしれません。
ただ、解って頂けると思うのですが、例えば現状の社会が、規範や線引に合うように人間を教育して社会としてをまとめる、としていることに反発があり、バラバラ・不整合を認め維持したままで社会がまとまっていけばいいのではないか?、いささか無理目な整合志向だと自覚しています。(ここから、例えば弄便、殺害、自傷はどうすんだ?という矛盾にすぐにぶち当たるわけですが、、^^;)
オール・オア・ナッシングではなく、なんとなくそうした志向を好ましく思っているのと、不整合が基本であるのと、どう違うのか、と考えました。
不整合が基本とは、「社会としてまとまる」というベクトルが無い、ということでしょうか?
毒多
2018/04/11 10:08
ご紹介のブログは興味深く読みました(更新もみたいのでブックマークもしました)。現実に精神疾患と対峙している方なので、「解らない」ワタシとは違う視点をもっているだろうことの想像は、安易です。
映画「むかしMatto〜」は、開放され不安を感じる人も、犯罪(殺傷)を起こす人も描かれていますが、基本的にそれまでの固定観念を打破したいという映画のなので、それでも、やっていけるという描かれ方がされています。
現在のリアル現場の人がみたら眉をひそめるかもしれませんが、やはり、「個々それぞれ」にとってベストの居場所があるとするのが、いいのでしょう。
もし、そこに他者の「価値観」によって、ベストの居場所が歪められているとするのら、修正すべきなのだろう、と整合志向者としては考えますが、では他者のベストの居場所を脅かす存在であればどう整合させるのか、、、繰り返しになりますね。

整合志向者がいま浮かんだ考えですが、(自己)統合失調者は(自己)統合したがっているのは、社会以前の「自然」なのかもしれない、とふと思いました、メモとして。
毒多
2018/04/11 10:08
>毒多さん

詳述ありがとうございます。『精神病院はいらない!:イタリア・バザーリア改革を達成させた愛弟子3人の証言』に『むかしMattoの町があった』のdvdが付属しているようなので、書籍とdvdは入手したいです。

不整合というのは、喩えが適切か判りませんが以下のようなことです。学生時代、数人で集まって雑談していたところ、一人が『自分は仔猫が余りに可愛くてどうしようもないので……殺したくなる』と言ったんですよ。で、私含め一同はああそうだよねえと首肯しました。話はそこで終わったのでそれ以上の掘り下げはなかったものの、何故いとけない愛くるしい存在を殺したくなるのか(勿論、実際に小動物に手をかけるような者は一同の中に一人もいません)、人間の精神の中にはそういう相反する感受性が両義的に存在すると思うのです。故に不整合。

安吾の『夜長姫と耳男』にも「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」という一節があります。
このような感受性について整合的な説明は不可能ではありません。ただし、説明が可能であることと、その説明が事象の実相を捉えているか否かはまるで別の問題です。私は自分の感受性に整合性のある説明を求める態度を基本的に取らないということです。
拝み釦
2018/04/12 00:40
拝み釦さん

ワタシも本「精神病院はいらない」入手、“付録”のDVDを観ました。本のほうはまだ読んでいません^^;

不整合につき理解しました。
動的平衡を思い浮かべましたが、ちょっと違うかな?
感受性もバランスを取ろうとしているのだろうか?
・・・ワタシはこんな風に説明(整合)を考えてしまう性質なんだな〜、と再確認。
毒多
2018/04/12 09:13
世界観が不整合なのか?
それとも言語が不整合なのか?
愚慫
2018/04/12 11:26

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映画「むかしMattoな町があった」に心乱されて 毒多の戯れ言/BIGLOBEウェブリブログ
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