毒多の戯れ言

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zoom RSS 「ダブスタ批判」を蹴り飛ばせ、笑

<<   作成日時 : 2018/02/09 16:00   >>

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青カン支援なんて、なんとなく昔を思い出してエントリーしてしまったから「ダブスタ」なんてのを思い出してしまった。
今ではネットで議論なんかになると「ダブスタ」といって批判するやつなんかを見るんだけど、ボクが最初に「ダブスタ」と批判されたのはかれこれ20年以上前のリアル市民運動でのこと。
と、話しに入る前に「ダブスタ」って何だ?という話しになるのだけど、略さずにいうとダブルスタンダードって英語で、日本語でいうと二律規範とか二重基準とかいわれる、らしい。
個人が2つの異なる規範(基準)を使い分けるということで、矛盾を良としない常識から批判されることになる。イソップ童話(?)でいうとこのコウモリだな。こっちでは動物といってみたり、あっちでは鳥といってみたり、その時々都合によって使わいわけるだけならまだしも、なにか主張などしようものなら「ダブスタ」だと批判されるわけ。
まあ普通の「大人」はそんな批判しない。でも訳知り顔で他者を論破したいヤツは恥ずかしげもなく言ってくるんだよな、笑。

昔ボクが言われたのは青カン支援(ホームレス支援)の頃。
そのころ在宅の普通の生活から青カン現場に何かをしにやってくる「支援」というのと、青カンと同じ目線でいる組合含め「当該」というのに分かれていた。「当該」にしてみれば苦しみや辛さも肌感覚として共有していて、おまえら支援とは違うんだ。オマエラ支援は金だけだしときゃいいんだ、とまで言われて喧嘩になる。笑
もう少し解りやすくいうと、青カンは「この社会システムから捨てられ」て現状のように人権も生活基礎も奪われて生きている。支援ときた日には「この社会システムに上手いこと乗じて生活している」くせに、此処へ来て何をやってるんだ?ということ。
生活というなかで社会システムを肯定しながら、支援では社会システムを否定しているだろう。誰かの犠牲のうえに成り立つシステムで犠牲者を足で踏みながら、手で犠牲者を救うふりをする。それは矛盾してませんか?そういうのをダブスタっていうんだぜ、って言うわけだ。
若かったオレは悔しさを滲ませ言い返すことができなかった。
今なら一言で片付けることができるんだけど、、、「お前もな」とね、笑。
上のロジックでいけば、現状の社会システムを利用してない奴しか他者批判ができないわけだが、利用を1mmたりともしていないヤツなど一人もいない。
とはいえ、「お前もな」と言ってみたところで、何の意味もない。この批判野郎と同様につまらないことだ。そんなくだらない「言葉尻」に付き合う必要はない。

そうしたくらだらない論議をしようとしまいと、この社会システムの歪みがなくなることはないだろう。青カンがなくなれば他の犠牲者が生まれるだけだ。現実の犠牲者のうち青カンになることを拒み自殺するやつなんざ3万といる。
そうだな自殺を食い止める支援も、上と同じロジックで社会システムに乗って生活してるヤツが脱落して自殺するやつに手を差し伸べる、って、、ダブスタだろって言うやつもいるかもしれない。

繰り返すが批判のためのロジックなんてつまらないものだ。
でもね、それでもやっぱり自分はダブスタなんだ、という自覚は大切だと思うのさ。
ボクは、たまたま今のこの社会システムに乗って生活することができていて、そのシステムは誰かの犠牲の上になりたっていて、犠牲になったものは青カンになるか、青カンを拒み自殺するか。
実際に社会システムは犠牲をなんとか不可視化しようとするが、たまたま見えてしまった者はなんとかしなければと思う。ダブスタ批判を気にして見えた事自体を無視するヤツも多数いるし、気づかないフリをするやつも多い。でも、見えてしまった以上、何かをしなければと思うヤツも少なからずいる。たとえ自分の生活を棚にあげようが、矛盾だろうがダブスタだろうがね。

で、青カン支援をする自殺者防止支援をする、、となる。、でもそれではダメだろうね。
支援をしてどうするの? 元のままの誰かの犠牲を強いる社会に戻そうとするのか?、じゃ戻ってどうなる。再び犠牲者として弾かれるか、個別上手くいったとして、ところ天のように別の犠牲者を押し出すか?

結局、支援するとか助けるとかいう意識での関わりでは駄目なんだろうな。
この駄目システムを肯定したまま、弾かれた犠牲者を元に戻すってのじゃ何も変わらない。
ボクらの自覚は、いまだに駄目システムに頼っている弱い人間がボクらなんだ、という自覚すべきであり、そこから弾かれ犠牲になった者と関わりたいと思うのは、軟弱な自分をさらけ出し教えを乞うためだと意識でなければ、やはりダブスタのままだと最近思っている。
自殺を考える者、青カンになる者から教えてもらわなければならない。
運良くこの「腐ったシステム」から弾かれた者は、弾かれることができたという自覚さえあればトップランナーなんだ。ちゃんと教える義務がある。自殺なんかさせてはいけない。青カンになっても教えを授けることができるトップランナーではないのか?


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意味のない批判だってあるって何年も前から知ってた
皆さんこんばんは。今回は記事「批判は人を育てない」について思ったことを書きます。上記記事の概要はライターである筆者が以前、単に「面白くない」という批判だけで原稿をボツにされ精神的なショックから立ち直るのに数年かかったという経験から、(批難という意味での) ...続きを見る
Coffee, Cigarettes &...
2018/03/08 19:02

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内 容 ニックネーム/日時
「支援」と「当該」ですか?
詳しくはわかりませんが(なんとなく察しはつきますが)、つまらないカテゴライズをしていたんですね...(^_^;)

他人を貶めて自分の優位を確保し、その優位を自らの拠り所にしたいという心根。その方向性がシステム基準に沿うならウヨク、批判に向かうならサヨク。

そのような心根はぼくのたぶんに持ち合わせているし、毒多さんも持ち合わせていたからこそ、くだらないはずのカテゴライズに意味を見出すことができたのだろうと思います。


近代のシステムが及ぶ範囲の中で、システムにまったく依存することなしに生存している人間はいないといっていいと思います。ホームレスが日々得る糧にしてみたところで、それはシステムによって生産されるものであり、しかもそれはシステムの正当な手続きから離れた方法で得るのだから(非合法ではないせよ)、システムに依存しているといえる。むしろシステムに寄生している言う方が正確なくらいでしょう。古来の狩猟採集に似ているとはいえ。

ただ、彼らは、システムに寄生していると指摘されたところで、反論を為す人は少なかろうと想像します。どのような事情があったにせよ。その分正直だし、ダブスタの批判からは免れている。

>軟弱な自分をさらけ出し

これは軟弱な人間にできることでないだろうと思います。青カンに至った者、自殺にまで至った者も、「さらけ出し」ができたなら、そこにまでは至らなかっただろうと思うのですが。
愚慫
2018/02/10 11:17
コメありがとうです。
まあ人はカテゴライズが好きですからねぇ。100%カテゴライズから解放されている人も希じゃないですか?
これ面白いことに、「支援」「当該」と区分けしている世界へいくと、順列というか力関係が一般システムと逆転するんですね。
つまりね、当該のほうが偉いんですよww 支援の方がマイノリティで差別されるんです。これをワタシは「逆差別」と言ってました、笑。

完全にシステムの外で生きている人が皆無なのは同意です。
青カンがシステムに寄生しているのもそうでしょう。ただ、これは物質的にですね。精神的な面がシステムという領域に包括されるかどうかは解りませんが、システムの矛盾を具現化する存在という意味では、支援のほうが精神的に寄生しているといえなくもない。寄生という言葉はちょっと違うかな、依存がいいかもしれません。

軟弱な自分を「さらけ出す」ことができたなら自殺には至らなかったは同意します。精神的な問題ですからね。青カンは物質的な側面もありますから至るかもしれません。ただ、至ったにしろそこから「さらけ出せる」かどうかの方が重要な気がしています。
自殺未遂から「さらけ出す」ことができた、青カンから「さらけ出す」ことができた、これ結構強いんじゃないかとワタシは思いたいんです。
毒多
2018/02/10 16:55
>システムの矛盾を具現化する存在という意味

その意味において、青カンたちは天皇と同じ役割を果たしているといっていいのかもしれませんね。「天皇機関説」ならぬ「青カン機関説」ww 

また「○○機関」に当てはまるのは青カンだけではありません。「辺野古住民」とかでもOKでしょう...って、ここだけだとまるでウヨクみたいだ(苦笑)


「さらけ出す」ことの強さということでは、「自殺の少ない町」を想い起こします。また、こんな記事もあります。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48137

記事の対象がかの「グーグル」と青カンとはまるで正反対ですが、「さらけ出す」ということにおいては何やら共通点があるような気がして面白いです。
愚慫
2018/02/11 13:55
「機関的」なものはたくさんありそうですね、笑。

>「さらけ出し」ことの強さ=「自殺の少ない町」
はい、同じことを考えていました。
まさに、「海部町」は実践している気がします。ほんとに!!

さらには、またまた面白いリンクありがとうございます。
「さらけ出す」グループが、効率や結果を上げているという記事ですね。
青カンは基本的に「さらけ出せないん」です。
システムのなかで失敗したことは「恥」ですからね。
支援し始めた当初、「他者の恥」は聞いてはいけない、ということを言われました。結局、共にシステムを肯定しているに過ぎません。
ボクらの時代になって、ガンガン話すぞとなり、仲良くなると「さらけ出す」青カンがでてくるんですね。
こうなってからが面白い、、、もちろん運動的にですがね、笑

実はボクは今、とあるグループにいるんですが、「さらけ出す人」「さらけ出さない人」真っ二つですね。ニヤニヤ。
リアルでいろいろ面白いです。
毒多
2018/02/11 16:16
少し戻ってシステムとスタンダードの話ですが。

システムから弾かれる者が出てきたり、ダブスタ云々などといった議論が湧き出てきたりするのは、詰まるところは、システムの使い勝手の問題だろうと思います。

毒多さんはMacユーザーだと聞いた覚えがありますが、現在はともかく、かつてはMacは使い勝手の良さが「売り」になっていましたよね? 直観的な使い方で、なんとかなるのがMac。一方で、Windowsは機能の多様性において勝るが、使いこなしにはある程度の「勉強」が必要、といったような比較が為されていた。

現代は、Macに限らずコンピュータやスマホ、それから自動車といった工業製品、もっと大規模な建築や都市設計も、人間に使い勝手のよい使い勝手のよいユニバーサルデザインを追求していくのが大きな流れになっています。

その流れを推し進めているのが、あらゆるものの価値を貨幣換算することで計測可能となる利潤を追求する資本主義という「システム」です。あるいは、人間個人個人に独立した人格があると見なし、その人格に人権という絶対価値を置くことによって基礎付けがなされる民主主義という「システム」。

(続く)
愚慫
2018/02/12 10:34
(続き)

資本主義というシステムのパフォーマンスの高さは、いうまでもないでしょう。人類史上のあらゆるシステムのなかで資本主義のパフォーマンスの高さは抜きん出ているし、そのパフォーマンスの高さにさらにブラッシュアップが掛けられている。資本主義はそのパフォーマンスで地球の環境を「開発」し、経済を「成長」させ、どのシステムよりもはるかに多くの人々を「救済」した。一部に青カンのような取り残しがあったにせよ、そのような問題は言ってみれば些事、あるいはコンピュータのシステムに準えるなら小さなバグで、システムの改良を積み重ねていけばいずれは改善されていく――たとえばベーシックインカムのような手法で――と考えられなくはないし、パフォーマンス至上主義者はそのように確信しているはずです。

そして、パフォーマンス至上主義者は、さらに「システム」のパフォーマンスを向上させるために、システムを構成する「部品」にもブラッシュアップを掛けなければならないと考える。あるいは、よい「素材」を用いなければならないと考える。

「部品」とはいうまでもなく人間であり、そのブラッシュアップは「教育」です。「素材」の選別は、人間の遺伝的な素養ということでしょう。だれかが言ってはいけないと大声で言っていたように。

このような「ブラッシュアップ」によって進行しているのが、システムの使い勝手の悪化。人間のための「システム」の筈が、どんどん使い勝手が悪くなって使う者を選別し始める。「システム」が人間の「スタンダード」になって、人間が「システム」に沿って人間の選別を始めることになる。「ダブスタという批判」もまた、システム基準のひとつの亜種に過ぎません。

(続く)
愚慫
2018/02/12 10:43
人間基準で考えるなら、システムは道具に過ぎないのだから、どんなふうにシステムを使おうが自由だということになります。自らはシステムの維持には参加しないで一方的におこぼれに預かるという青カン的システム利用方法も、人間基準なら大いにありだと思います。

システムの高パフォーマンス化が加速する一方で、明らかになりつつあるのは、「システム基準」は人間を幸せにしない、という事実だろうと思います。人間がしあわせになれるとしたら、それはやはり「人間基準」において、という至極もっともな事実が改めて明らかになってきているだけ。

人間基準でデザインするということは、つまりユニバーサルデザインです。システムをユニバーサルデザインする。方々でその試みは手探りで始まっていますね。毒多さんの「手探り」も、そういう方向性なのだろうと思っています。
愚慫
2018/02/12 10:58
そして、その方向性からすれば、「使い勝手の悪さ」こそがデザインの焦点になるわけです。使い勝手の悪さを感じている当事者から意見を聞いて、改良点を可視化していく。

そのように観るなら、自身へのダブスタの自覚は、「反省するべき焦点」から「そこをテコとして転回していく支点」になります。

人間基準というのは、こういうことなんだろうと思います。
愚慫
2018/02/12 11:06
愚慫さん

解りやすい解説ありがとうございます。
概ね同意します。
人間基準のためのシステムだったのが、システム基準の人間になってしまい、さらにシステムが暴走して人間が置いてけぼりされているように感じています。AIとかね。

システムの運命である合理性追求はレミングの群れのように進み些細なバグだった青カンが多様な形で排出される気がしますね。単に家のある青カン、単に福祉に食わしてもらっているだけの青カン……。人間性の喪失、、なんてね、はっきりいってこのあたりは自己責任でいいんですがww
なんでもかんでもシステムのせいにすんじゃねぇ〜ての。まずオノレがシステムを超越しろっての、っていうのがダブスタの自覚に繋がるのかもしれません。

ということで、もう一つひっかかったのが「ユニバーサルデザイン」。単にぼくが無知で引っかかっているだけかもしれませんが、なんとなくしゃらくせー、もっとドロドロでいいんとちゃう、与えられる便利なものばかりに頼るんじゃねぇ〜、と感じてしまうんですね。もうこのあたりはロジックとか理性とかではないんですが、、ちゅうか福祉現場から総スカンだ、爆。
毒多
2018/02/12 13:23
人間基準を追い求めていくと、ドロドロで剣呑な世界になる、というのがぼくの持論ですけれど、ご存知にように。

まあ、「ユニバーサルデザイン」という言葉に引っかかるのはわからなくはありません。ユニバーサルデザインというのは、「誰にでも優しい」というイメージがある。優しくないシステムが、優しさを「演出」するための方法がユニバーサルデザインだという一面があるわけです。でも、「演出」にとらわれていてはシステムを超えることはできません。

便利なものを使いたい者は使えばよい。でも、優しいから、便利だからいって、使わなければならないわけではない。システムがユニバーサルにデザインされていないとぼくが感じるのは、依存を強要してくるところ。人間基準の、つまり人間のワガママなリステム利用には、システムは優しくない。もっとも、それは秩序維持と関連してくるわけですから、悩ましい問題を孕まざるをえない。
愚慫
2018/02/13 09:36
>依存を強要してくること

まさにこれです。ホントこれです。よく言ってくださいましたm(_ _)m
すべてにおいて「こうあるべき」を強要する強迫観念。
これはシステムだけじゃなく、例えばシステムの矛盾に抗う「支援」もそうだし、「福祉現場」もそうなんです。
もう修了しましたが、ここのとこ「初任者研修」という介護のお勉強wwをしていたのですが、得も言われぬ「気持ち悪さ」を感じていました。もちろんユニバーサルデザインという言葉も実際もでてきましたが、やはり「気持ち悪い」んです。
ある程度必要だと思うんですが、なんちゅうかなぁ、「いいことです」の囚われ感というか、説明する笑顔が気持ち悪いというか、差別どころか区別をなくそうという揺り戻し感というか、区別を認める、でなく、それこそ区別を不可視化しようとする、、、とは言い過ぎか、、、だんだん説明が分けわからなくなっていくなぁ、orz
仰るよう、ユニバーサルデザインそのものではなく、運用する人間の問題なんですがね。
「気持ち悪さ」の対比は「人生フルーツ」の爽やかさです。

まあ、何をするにしても他者のことを「これだけ考えて」、他者のために「してあげている」という深層心理は自ら「さらけ出して」「いぶり出して」、自己の裡で対峙、対話させたほうがいいですね。
毒多
2018/02/13 10:59
システムの押し付けがましさを批判すると、その批判はシステムに関してだけなものではないと批判が出てくることになります。「さらけ出す」ことの大きな効用を生んでいるという海辺町にしてみたところで、プライバシーが少なさから窮屈さを感じる向きも少なくないと想像します。

「他者のため」という【善意】はシステム特有のものではない、という批判。でも、ぼくはこの批判は当たらないと思っています。この【善意】こそがシステム的な社会現象の起源だと思う。

たとえば「当該」がその役割を担うのは、当人がその役割を担いたいからでしょう。自身の中にある「思い」や「情」が行動の〈核〉であるはず。その〈核〉に従っているなら、ダブスタ批判なんてもの余分なが派生することはないはず。

余分なものを生じせしめるのは「頑張った」という執着です。「頑張り」を「自身のため」へと回収しきれない「余分な」と部分が執着となって【善意】へ変化します。

【善意】なきシステムは、その振る舞いがシステマチックなものであったとしても、その場かぎりのもの。一期一会なもの。たとえ繰り返し同様の現象が現れるように見えたとしても、その場かぎりのものでしかない。

いくど春が巡ってくるとしても、それは暦に従ったシステマチックなもののように見えたとしても、「同じ春」がありえないように、同じ現象はありえません。同じ現象が存在しない世界では、カテゴライズが成立したとしてもただの便法に過ぎないし、便法に過ぎないものの上に批判の基盤が成立する余地ももありません。
愚慫
2018/02/13 12:54
ボクの前コメントでは書いている自分の言葉に興奮して突っ走りましたね、笑。
かなりわかりにくくなっているので、自分のためにちょっと整理します。

まず人間は社会的な存在である以上、何らかのシステムがなければ生存しえない。
現状のシステムも機能していて、多くの人間が生存することができている。
という前提で、それでもこのシステムには闇があり欠陥がある。
闇、欠陥により青カン、自殺者を含め犠牲者がでている。
犠牲者がシステムの構造として自らを犠牲者と主張するなら、それはこのシステムに内包される。
支援も単に犠牲者に反映させ闇や欠陥をいいあてるだけなら、それもまたこのシステムにインクルードされる。
個別人間が、システムに左右されない本当の自己をもって生きるなら、システムを道具として使えるなら、システムも変わっていく。かな、笑。

いま、「共依存の倫理」という本を読んでいて(学者さんの書かれた論文なので、なかなか読み進まない)、病的共依存かどうかは、自己の喪失されているかどうかに線引される、と書かれていました。じゃあ「自己」とはなんだ、という難解な部分で、本にも書いてはあるんですが、まだ自分のものとして理解されていません。いませんが、〈核〉と表現されたものを想起させます。
「真の自己」に対する「偽の自己」が、他者のための支援であり、犠牲者と自覚する自己、のようなイメージを持ちました。
それが「病的」な共依存。となるような気がします。
闇、欠陥をもつシステムとは「病的」共依存を前提とした社会、、、まだ、解りませんが、メモとして、、、
毒多
2018/02/13 16:44
おはようございます。

「自己」とはなんなんだ?

難しいですね、この質問。
でも、ちょっと考えてみるならば、この質問が難しいということが、人間というものの難しさを表しているともいえる。

「自己」でも、「自分」でも、「私」でもいいけれど、これらの言葉が指し示すものは、本来、誰にも明白なもののはずです。ところが、言葉で示そうとすると、とたんに難しいもののように感じてしまう。「自己」という言葉から引き出されるイメージはあっても、それは明確に言葉にするのが難しい。

「自己」とは感覚主体です。外部からの入力に対して某かの応答をする主体が「自己」。その反応にはある程度の規則性は認められるものの、かなり大きなブレもあって、厳密な規則性を見出すのは困難。ところが言語化された人間は、その困難を自らに課そうとする。「自己」を規範へ投影して「合理化」しようとする。社会への適応の為の手段として。

社会適応のために、何らかの規範もしくは虚構に投影された自己イメージ。これが「偽の自己」というものだろうと思います。
愚慫
2018/02/14 05:35
おはようございます。

「自己」とは? はい難解です^^

とりあえず、
>「自己」を規範へ投影して「合理化」しようとする。社会への適応の為の手段として。
>社会適応のために、何らかの規範もしくは虚構に投影された自己イメージ。これが「偽の自己」というものだろうと思います。

なるほど、こういうことでしょうね。これを念頭において、件の本の当該部分を再読すると、理解できるような気がします、笑。

ボクは漠然と、人間は自然の生物であり、社会的生物である、、、とすると、自然の部分が「真の自己」、社会的生物が「偽の自己」と捉えていました。ちょっと本のその部分を精読して、学者さんのいいたいことを明確に把握したい気持ちになっています^^

ちょっと離れますが、noteのほうでは「成功」とか「成功のノウハウ」みたいなことが散見され、ボクは感覚として白んで違和感を感じていまいたが、それは、おそらく「偽の自己」としての「成功」と感じていたのでしょう。「真の自己」に成功という言葉は似つかわしくないと感じます。
毒多
2018/02/14 08:53
「真の自己」などといったものは存在しない、いえ、「実存」しないのだろうと思います。「自己」という言葉によって惹起されてくるイメージは、言葉によって惹起するがゆえに、構造上、なんらかの虚構の反映にならざるを得ないのでしょう。

「成功している自分」、その逆に「失敗している自分」も、所詮は「偽りの自分」でしかない。では、それはつまらないことなのかというと、そう断言するのもまた違うと思うんです。

共依存は病的だと診断されるけれど、その診断基準がどこにあるかというと、これまた社会適応の可否にあるわけです。社会適応を妨げる共依存は病的だとされる。でも、社会適応そのものが「偽りの自己」でしかないわけですから、そこから「真の自己」イメージを導き出そうとしても、果たしてうまくいくのかどうか? 
愚慫
2018/02/14 09:40
愚慫さん

「真の自己」「偽りの自己」とボクのほうから言い出したのですが、先のコメントでも書きましたが、途中読みの本からですので、ちょっとフライイングでした。なので、ここでの追記は控えます。共依存との関わりで、ちゃんと把握してから改めてエントリーします。
とはいえ、「虚構」といえば、それはそうだ、としか言いようがありませんがね、^^;

「成功」についても「ツマラぬ」と断ずるまではいっていません、笑。「白んだ違和感」と微妙なイメージをもっています。とはいえ、まあ「ツマラぬ」に近いのかもしれませんが、いずれにしろ、私的な感情です、爆!!
毒多
2018/02/14 13:30

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