毒多の戯れ言

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<<   作成日時 : 2017/10/31 11:07   >>

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 あ、コイツまたやっちまったな、と私が上から嘲笑う。
 コイツがやっちまった理由がわかっていて、やっちまったことをちょっぴり認めたくなくてささやかにブルーズなことも、私は知っている。
 
 そのときコイツは物語を綴っていた。
 もちろん物語が虚構であることは識っているのだが、物語を綴るときはその世界にのめり込むのである。
 そうでなければ虚構だけにあまりに虚しいから。
 そんなときのコイツは隙きだらけだ。
 もともと虚構であることに色付けをしてもしきれない。
 その隙きを突かれて慌てふためいた。
 慌てふためいて狼狽えた。
 そんな自分を晒してブルーズになったわけだ。

 コイツの物語は、多数であるNT(とある基準での定型発達者)がつくった歪んだ社会は、ET(とある同基準での発達障害者)が歪みを暴きぶち壊すことができる(かもしれない)。という物語。
 多数に属するNTには無理なことを、そこでハラスメントをうけ苦しむETだからそこできる(のではないか)。という物語。

 そんな物語に、そもそもNTとETに違いがあるのか?というコイツの物語以前の根本的な疑問が入った。
 その疑問はホントのことだった。
 違いは、、ない、のだ。
 それをコイツは識っていながら隠匿していた。
 隠匿した上で物語を綴っていたわけだ。
 そもそも隠匿でさえない、だって虚構なんだもの。
 物語(虚構)に没頭していたコイツは、そんなことを忘れていた。忘れなければ物語を綴ることはできない。
 忘れるほど没頭していたから狼狽えた。
 ホントのことの、指摘に。

 おそらく指摘した者も、その物語を否定しようとか中断させようとしたわけではないだろう。むしろ興味をもっていたに違いない。
 その者はその者自身の物語を綴っていて、コイツの物語をきき自らの物語の「再構築」をしようとしたのかもしれない。
 ところがコイツは自分の物語を守ろうとするあまり、つまらぬ結論で終止を謀った。コイツはそんな自分にブルーズになっているのだ。

 そんなコイツも直前に尾崎豊の物語を冷淡に見つめていた。
 これまでも多くの人の物語に物語以前の根本的な「ホント」を言って、その者にとっての物語をツマラぬと感じさせてきたにちがいない。今、コイツが感じているように。それはつまらないことだな。
 
 人は物語つまり虚構をほんとのことのように綴るようになった。
 ブッタのように悟らない限り物語を綴り続ける。
 その物語が楽しいことであろうと、苦しいことであろうと。
 ブッタいわく楽しいことも因果(縁起?輪廻?)にて苦につながるらしいが、とりあえずおいておこう。楽しければその瞬間はいいではないかww
 でも人は楽しくもない、苦しい物語さえ綴らずにはいられないのだ。
 そんな苦しい物語、虚構にがんじがらめに縛られ悩むことになっても。
 おそらくそんな悩める物語を聴いたときに、その者に物語以前の「ホント」のことを言ってはいけないのだろう。
 楽しい物語のときの興ざめではなく、苦しい物語の場合はさらに物語に埋没することになりそうだから。苦しいときこそ「ホント」のことに気づけばいいと思うのだが、他者の言葉では気づくことにできない。
 気づくことがあるとすれば、自ら物語から抜けるというメタ物語の再構築。自らの裡なる対話しかない。もし他者の苦しい物語を聴くことがあれば、その者の裡なる対話を促すため聴くことになるのだろうな。

 ところでコイツは結構、虚構だと識っていても物語を綴るのが好きなのかもしれない。私はそんなコイツが嫌いじゃないぞ、むしろ好きかもしれない、笑

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シャボン玉とんだ 叩いて消えた 笑いあふれて愛着


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家族へむかって駆け出す すこやかな光のなかで少年


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ゆったりとまったりと 色づくまえの静けさは喜び


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内 容 ニックネーム/日時
子曰
由 誨 女知之乎
知之為知之 不知為不知 
是知也

『論語』のこの記述。
これこそ思索の基本姿勢だと思われ。

虚構を知った。
が、虚構を知ることで世界が二分しては意味がない。
それでは世界の区分線が移動しただけ。

「不知為不知」が足りない。

NT・ETの区分は虚構。
というか、プラトンが言うところの「イデア」です。

イヌにはイヌの、ネコにはネコのイデアがある。
あると言っても“実在”はしない。“実存”はするけれども。

他には、たとえば「体癖」というのもイデア。
体癖は体癖を知る者には実存しても、体癖というイデアは実在しない。実存を知り、実在のひとつひとつをつぶさに観察する。

実在の観察が「不知為不知」。
実存を知ったことで実在の実体を知らないことを知る。
これ、識る也。

ただ、言葉は残念なことに実存しか伝えられない。
NT/ETも、体癖も、その発見者以外は、まずは言葉で知る。言葉で知った者は、自ら再発見していかないといけない。「不知為不知」を為さなければならない。

そうすれば、他者の言葉でしかなかったものが自分の言葉になる。

他者の言葉をありがたがる人間は、しばしば自分の言葉を批判する。が、自分の言葉を識れば、そんなものは恐るるに値しません。
愚慫
2017/11/01 04:50
おそらく同じ言葉でも響くときと響かないときがあります。
受け取る者によって、受け取る状態によって変わる。
今回の言葉(コメント)、今の私にはけっこう響いています。
何度か読み返しています。
具体的な言葉でのレスはありませんが、
読み返していることだけお伝えします。
毒多
2017/11/02 08:54

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